礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

伝説のレスラー、ズビスコによる「史上最大級の騙し討ち」

2012-10-31 05:43:45 | 日記

◎伝説のレスラー、ズビスコによる「史上最大級の騙し討ち」

 スタニスラウス・ズビスコ(一八七八~一九六七)は、廿軒家(nijikkenya)さんのブログによれば、「プロレス史上最重要人物の一人」である。
 以下、この「伝説のレスラー」について、インターネットから得られた情報を整理しながら紹介させていただきたい。
 スタニスラウス・ズビスコ、本名スタニスラウ・シガニエヴィクツは、一八七八年にポーランドで生まれた。父はオーストリア政府の役人であったという。
 ポーランド出身の大レスラー、ララディスラウス・ウオルター・ピトラシンスキーを慕って、プロレス界にはいったとされている。一九〇六年、パリでおこなわれた世界選手権トーナメントで優勝。一九一〇年に渡米、NWA(全米レスリング同盟)の三代目ヘビー級チャンピオンであったフランク・ゴッチに挑戦して敗れる。ちなみに、NWAヘビー級チャンピオンであることは、事実上の世界チャンピオンであることを意味していた。
 第一次世界大戦後、財産を失って二度目の渡米。一九二一年六月二五日、NWA八代目ヘビー級チャンピオンであったエド・ルイスを破り、九代目のチャンピオンとなるが、翌年の一九二二年三月二二日、ルイスにチャンピオンを奪回される。
 一九二五年四月一五日、一一代チャンピオンのウェイン・マンを破って、二度目の王座につく(一二代)。しかし、同年五月三〇日、ジョー・ステッカーに敗れて王座を譲る。
 その後、世界を渡り歩く。一九二六年、インドのラホールで(今日ではパキスタンのラホール)、コブラツイストの元祖と言われる伝説のインド人レスラー、グレート・ガマと闘って敗れる。この試合は、炎天下、大地の上でおこなわれ、二〇万人が観戦したという。なお、この両者は、一九一三年に、ロンドンで闘い、引き分けたことがあるとされる。
 一九五〇年、映画『街の野獣』に、老レスラー役で出演。一九六七年、アメリカ・ミズーリ州の農場にて死去。
 廿軒家さんによれば、一九二五年四月一五日に、ウェイン・マンを破った試合は、「史上最大級の騙し討ち」として語り継がれているという。
 この当時のズビスコは、エド・ルイスらに「仲間入り」を説得されて、ルイスの引き立て役に回っていた。ウェイン・マンは、全くレスリング経験のない元フットボール選手だったが、ルイス(一〇代)は、あえてマン(一一代)に王座を譲り渡し、マンを「カリスマ性に溢れた新たなドル箱選手」にしようとしていたという。
 一九二五年四月一五日のマン対ズビスコ戦は、筋書きからすれば、ズビスコがマンに花を持たせることになっていたはずである。しかし、試合中、ズビスコはマンをメッタ打ちにしてフォール勝ちを収めた。「史上最大級の騙し討ち」と呼ばれる所以である。
 以下の一節は、廿軒家さんのブログからの引用である。

 ズビスコの騙し討ちはプロレス界に長期に及ぶ影響を与え、その後のプロモーターは潜在的な騙し討ちの危険性に上手く対処できる実力派レスラーに王座を握らせることを教訓とした。1930年代から1960年代にかけてプロモーターがルー・テーズを世界王者として重宝したのはこのためである。

 プロレスの世界には、つねに「騙し討ち」という危険性が潜在している。おそらく力道山は、そうしたプロレスの内情をよく知っていたはずである。だからこそ、木村政彦を「騙し討ち」で破ることもできたのである。一方、力道山に比べてプロレス経験が浅かった木村政彦は、そうした内情を十分に把握できていなかったのではあるまいか。そのことが、両者の明暗を分ける結果となったのではないだろうか。
 それにしても、「騙し討ち」で知られたズビスコが出演している『街の野獣』が日本で公開された年の暮に、力道山による木村政彦に対する「騙し討ち」があったとは! 

今日の名言 2012・10・31

◎いまさら弁解も何もしない、まさしく僕の負けだ

 力道山との試合の直後、木村政彦が語った言葉。1954年12月23日付の日刊スポーツに載っているという。『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の著者・増田俊也さんは、同書の582ページで、「あれはただのプロレスのブック〔台本〕破りでしかない。騙し打ちであった」と述べた。そう述べた上で、増田さんはあえて、「木村政彦は、あの日、負けたのだ」と書いた。なぜか。「いまさら弁解も何もしない、まさしく僕の負けだ」という木村の言葉を重く受けとめたからである。

*Unknownさんのご指摘により、誤記を訂正しました(2015・6・15)。

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映画『街の野獣』を鑑賞する(付・「伝説のレスラー」ズビスコ)

2012-10-30 05:55:05 | 日記

◎映画『街の野獣』を鑑賞する

 先々週から先週にかけて、雑誌『真相』第七八号(一九五五年二月一日)に載っていた「プロレスの焦点 力道=木村戦の内幕」という記事を紹介した。
 この記事の最後のほうに、次のような一節があった。

 去年〔一九五四〕の夏ごろ、外国のプロ・レス映画「街の野獣」が上映された。この筋書は二人の主人公(ともにプロ・レス選手)が、死闘を展開する。そのうしろでは、興行師が巧みに両方をウソで固めて操っている。ついに一方は他方を殺してしまう。そして殺したあと、自分が興行師からだまされていたことが判り、興行師は殺されてしまうのである。

 この記事を紹介した時点では、まだ、この『街の野獣』という映画を見ていなかったし、その映画のことも、よく知らなかった。しかし、少し調べてみたところ、これは見てみる価値がありそうだという気がしてきて、DVDを入手した。
 原題は、“Night And The City”、20世紀フォックスの一九五〇年の映画で、日本公開は、一九五四年(昭和二九)である。監督はジュールス・ダッシン、主演はリチャード・ウィドマークである。
 早速、鑑賞してみたが、稀に見る傑作であった。脚本・撮影・音楽・演技、すべてがすばらしい。インターネット情報によれば、ジュールス・ダッシン監督の出世作『裸の町』(一九四八)は、黒澤明監督の『野良犬』(一九四九)に影響を与えたという。
 私はまだ『裸の町』を見たことがないが、『野良犬』は何回か見たことがある。そして、『野良犬』と『街の野獣』との間には、色々な点で共通点があるような気がした。黒澤明監督が、ジュールス・ダッシン監督の『裸の町』の影響を受けたというのは、ありうることだと思う。
 黒澤作品を高く評価する映画ファンは、間違いなく、ダッシン監督の『街の野獣』に惚れこむことだろう。私は黒澤監督の『酔いどれ天使』(一九四八)や『野良犬』を高く評価しているが、これらと『街の野獣』とを比較した場合、『街の野獣』のほうに軍配を上げざるをえない。そのくらい『街の野獣』は、完成度が高く、迫力があり、また深く考えさせられるものがある。
 まだ、この映画を見ていない人のために、「ネタバレ」は避けるが、雑誌『真相』の記事にあったこの映画の紹介は、必ずしも正確ではない。主人公は、「プロ・レス選手」ではなく、興行師のハリー(リチャード・ウィドマーク)である。組織も資金もないのに、プロレス興行を企てようとしたハリーは、もう一歩で、大きな興行が実現するというところで、予期せぬアクシデントに見舞われ、そのために闇の世界の人々から追われる身となる。
 舞台はロンドンである。ストーリーはかなり込み入っており、登場人物も多彩。しかし、映画は速いテンポで進む。この映画を「プロレス映画」と呼ぶことには、やや抵抗があるが、もちろん間違いではない。二人のレスラーがリング上で死闘を繰り広げるシーンがある。これが、恐ろしいほどの迫力である。なぜなら、それは「試合」ではなく、突然二人が「死闘」を開始してしまったという設定だから。いや、これ以上の説明は控えなくてはならない。
 いずれにせよ、この映画が日本で公開された年の暮に、力道山と木村義雄による「真剣勝負」があったというわけである。何という偶然だろうか。

今日の名言 2012・10・30

◎伝説のレスラー、ズビスコの貴重な映像

 インターネット上でみつけた映画『街の野獣』(1950)についてのコメント(プロレスシーンの解説が中心)の一部。相当のプロレス通とお見受けした。この映画には、本物のレスラー(「伝説のレスラー」と呼ばれているらしい)、スタニスラウス・ズビスコが出演している(この人の存在感は圧倒的。また実に演技がうまい)。

 

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『支那人の見た日本人』(1937)は、なぜ発禁になったのか

2012-10-29 05:49:40 | 日記

◎『支那人の見た日本人』(1937)は、なぜ発禁になったのか

 昨日のコラムで、信濃憂人訳編『支那人の見た日本人』(一九三七)が、発禁処分になっていたことを指摘した。
『国立国会図書館所蔵 発禁図書目録―1945年以前―』(国立国会図書館、一九八〇)の四二ページには、次のようにある。

支那人の見た日本人 信濃憂人(魚返善雄)訳編
 青年書房 昭和12.11 258p 19cm
 安 昭12.11.14     特500‐891イ

支那人の見た日本人 信濃憂人(魚返善雄)訳編
 青年書房 昭和14.11 258p 19cm
 安 昭14.11.23    302.1‐Sh59ウイ

支那人の見た日本人 信濃憂人(魚返善雄)訳編
 青年書房 昭和16.2 362p 19cm
 安 昭16.4.16     302.1‐Sh59ウ

 すなわち、同じ本が前後三回にわたって発禁処分を受けているのである。しかし、この目録のメモ程度の記述だけでは、詳しい事情はわからない。
 とりあえず、小田切秀雄・福岡井吉編著『昭和書籍雑誌新聞発禁年表 下』(明治文献資料刊行会、一九八一)を開いてみると、昭和一二年(一九三七)一一月の項に、同月一四日の日付で、「安 暴力行為を示唆煽動 七五頁削除」とあった。
 手元の『支那人の見た日本人』を見てみると、驚いたことに、七五および七六ページに相当する一枚分が、切り取られていた。おそらく書肆は、発禁の理由になった箇所を切り取ることを約束し、当局から販売頒布の許可を得たのであろう。
 切り取られているとなると、よけいその部分が読みたくなる。そこで、同書初版(特501‐891イ)を国会図書館で閲覧してみたが(近代デジタルライブラリーでの閲覧)、これまた驚いたことに、七五ページが「白ページ」になっていた。七六ページのほうは、もとのままであった。おそらく書肆は、発禁処分を受けたあと、七五ページを「白ページ」にした一本を作成し、帝国図書館に納本したのではないだろうか。
 なお、この七五ページというのは、兪鴻謨「日本の男と女」(原題・日本的男与女)の一部にあたる。
 次に、『発禁年表』の昭和一四年(一九三九)一一月の項を調べてみたが、『発禁図書目録』の「安 昭14.11.23」に相当する記述が、見あたらなかった。
『発禁年表』昭和一六年(一九四一)四月の項には、同月一四日の日付で、「風 八七―九四頁削除」とあった。この「風」というのは、「風俗壊乱」という意味である。
 この「八七―九四頁」というのは、鏡心「玉之井」の全ページに相当する。これは、私娼街「玉の井」の探訪記なので、「風俗壊乱」が問われる可能性はあったということになろう。『発禁図書目録』に「安 昭16.4.16」とあるのは、「風 昭16.4.16」の誤記ではないのだろうか。
 七五ページを白ページにした帝国図書館蔵の同書初版には、もちろん、「玉之井」の全ページが健在であった。したがって、この「風 昭16.4.16」の処分によって、新たに閲覧禁止の措置が採られたものと推定される。同書初版には、「特500‐891イ」という請求記号が付されているが、この「特500」というのは、帝国図書館が旧蔵した発禁図書を示すという(『発禁図書目録』、「凡例」による)。
『国立国会図書館所蔵 発禁図書目録』と『昭和書籍雑誌新聞発禁年表』との間には、記述に若干の食い違いがあること、かつての出版検閲の実態を正確に把握するには、資料操作能力、基礎知識、注意力、推理能力等が必要であることなどが、確認できた。機会を改め、さらに調査を続行したい。
 ここで順序としては、安寧秩序妨害を問われた兪鴻謨「日本の男と女」、あるいは、風俗壊乱を問われた鏡心「玉之井」を紹介すべきであり、そうする予定でいる。しかし、同じ話題を連続して扱うと、どうも飽きられる傾向があるので(アクセスが漸減する傾向があるので)、これらの紹介は少し日数を置いてから。

今日の名言 2012・10・29

◎我々日本の男子は女房に対してはコレですよ!

 兪鴻謨「日本の男と女」より。兪鴻謨らが海水浴に訪れた宿屋の若主人は、こう言いながら、その新妻を殴って見せたという。『支那人の見た日本人』七三ページより。このあとの七五ページには、「暴力行為を示唆煽動」する記述があったらしい。上記コラム参照。

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国会図書館所蔵「発禁図書」の来歴(付・日中のナショナリズム)

2012-10-28 05:49:12 | 日記

◎国会図書館所蔵「発禁図書」の来歴

 一九八〇年(昭和五五)に国立国会図書館が発行した『国立国会図書館所蔵 発禁図書目録―1945年以前―』という冊子がある。「はしがき」で一ページ、「凡例」で一ページ、そのあと、アイウエオ順に書名を並べた本文が一二四ページ分、「著者名索引」が二七ページ分、奥付で一ページ。ただこれだけのシンプルな本であるが、見ていて飽きることがない。
 この目録が作られた目的等については、「はしがき」で、収集整理部長の林修氏が次のように述べている。ここに全文を紹介させていただくことにする。

 この目録は、昭和51年以来数次にわたって、米国議会図書館から返還されてきた接収発禁図書と、当館が受けついでいる帝国図書館旧蔵のものとを合せて、当館が現在所蔵している発禁図書2,186点の全容を明らかにするとともに、その閲読利用の便をはかるために編さんしたものである。
 これらの図書は、いずれも特殊な来歴を背負っているので、その経緯等をここに書きとどめておきたい。
 このたび返還完了をみた発禁図書は、米軍が日本占領直後に旧内務省から接収し、その後、米国議会図書館に保管されていたものである。その返還を求める声は昭和46年〔一九七一〕ごろから本格化し、国会の場でもこれがとりあげられ、やがて日米両国政府間の外交交渉が始められた。当館は折衝の基礎的資料として、当面返還を求める図書のリストを作成し、これを外務省に提出した。その後いくたの曲折を経たが、最大の難関は、わが国が講和条約〔サンフランシスコ平和条約〕によってかかる物件の返還請求権を放棄していること、加えて、すでに米国議会図書館の蔵書に正式に編入されていたことであった。従って、返還されるにせよ、それは図書ではなくマイクロフィルムによる公算が当初は大であった。しかし最終的には、原本の返還が実現をみるに至った。これは、米国議会図書館の格別の好意に負うところが大きい。返還は昭和51年〔一九七六〕7月から6回にわたって行われ、昭和53年12月に完了した。総数1,062点を数える。
 一方、国立国会図書館支部上野図書館の前身である帝国図書館も、発禁図書の一部を所蔵していた。戦前は、旧出版法(明治26・4)にもとづき、出版物は出版の三日前までに、内務省に二部提出することを義務づけられ、検閲の結果、発売頒布の禁止処分に付された図書は、内務省が保管してきた。しかし昭和12年〔一九三七〕に至って、発禁図書の分散管理を目的として、その副本を帝国図書館が保管することとなり、内務省は従前保管してきた発禁図書の副本を移管し、以降も移管が続けられて敗戦を迎えた。帝国図書館が移管をうけたものを、内務省警保局が刊行した「禁止単行本目録」や「出版警察報」と照合してみると、相当数の欠落を見出すことができる。なお、内務省保管書庫は関東大震災〔一九二三年九月〕により焼失したので、当館が現在所蔵する発禁図書はすべて大正12年〔一九二三〕秋以降発禁処分を受けた図書である。
 かつての出版検閲の苛烈〈カレツ〉さは、出版・言論の自由を亨受している当代の想像をはるかに超えるものであった。戦後、発禁図書に関する調査研究もすすみ、多くの書誌類も刊行されているが、発禁図書そのものを図書館という公共の場において自由に閲覧できることの意義を改めてかみしめてみたい。この目録が、出版物の検閲に関心をよせられる人々に少しでも役立つことを希う〈ネガウ〉ものである。

 総数が、二一八六点で、うち米国議会図書館から返却されたものが一〇六二点ということは、残りの一一二四点が、一九三七年(昭和一二)以降、帝国図書館に移管されてきた「副本」ということになるのであろうが、即断は控えなければならない。
 今日、国会図書館が所蔵している「発禁本」の来歴は、この短い文章では、とても語り切れないものがあったはずである。このあたりの経緯を、詳しく紹介している文章があれば(一冊の本になりそうな気がする)、ぜひ読んでみたいものである。
 ところで、この発禁本目録には、一昨日および昨日のコラムで紹介した信濃憂人訳編『支那人の見た日本人』(一九三七)も載っている。目録には、「安 昭12.11.23」とあるので、処分理由は、「安寧秩序妨害」であったことがわかる。【この話、続く】

今日の名言 2012・10・28

◎両国民はナショナリズムに操作されやすい。

 EIU(エコノミスト・インテリジェンス・ユニット)のチーフエコノミストのロビン・ビューさんの言葉。「両国」とは、日中両国のこと。「反日教育の結果、多くの中国人が日本に好ましい感情を抱いていないのは事実だが、日本も過去100年の歴史をきちんと教えているとは言い難い」。本日の日本経済新聞「日中問題 世界はこう見る」欄より。

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郭沫若の「日本人の支那人に対する態度」を読む(付・石原流レトリック)

2012-10-27 05:24:46 | 日記

◎郭沫若の「日本人の支那人に対する態度」を読む 

 昨日は、信濃憂人(魚返善雄)訳編『支那人の見た日本人』(青年書房、一九三七)から、傅仲濤という人の「日本民族の二三の特性」(原題・日本民族的二三特性)という文章を紹介した。
 本日は、同書の冒頭に置かれている、郭沫若〈カク・マツジャク〉の「日本人の支那人に対する態度」(原題・関于日本人対于中国人的態度)という文章を紹介しよう。出典は、陶亢徳編『日本管窺』(宇宙風社、一九三六)と思われが、この本が初出かどうかは確認していない。
 それほど長い文章ではないが、その前半部分を紹介する。

 日本人は「中国」のことを「支那」と称する。本来「支那」といふのには何等〈ナンラ〉悪い意味はなく、これはもと「秦」の字の晋が変化したのだと言ふ人も居る。しかし、これが日本人の口から出る場合には、欧州人が猶太〈ユダヤ〉人をデュー〔Jew〕と呼ぶのよりももつと下等になる。この態度が最も露骨に現れてゐるのは、彼等が国際関係を表示する文字の慣例だ。例へば、中国と日本とを併記する様な場合には「日支」と称するのが例になつてゐるが、これはもともと「内では魯、外では中夏」式のやり方で、恰も〈アタカモ〉支那人が「中日」と称する如く、謂はばお互様であり、土地が変れば呼び方も変るといふわけである。然るに〈シカルニ〉、この本国に対する場合の慣例は別として、その外にも大いに差別が有るのである。「支那」は其他の一個又は一個以上の国家と並列される場合にも常に下位に置かれてゐる。「英支」「仏支」「独支」「米支」「白支」「伊支」「露支」の如きその例である。甚しきに至つては暹羅〈シャム〉と並列する場合の「暹支〈センシ〉」、フイリツピンと並列する場合の「菲支〈ヒシ〉」、朝鮮と並列する場合の「鮮支」、近年はまた満洲と並列して「満支」と称し、これに日本を加へて「日満支」と称するなど、彼の『春秋』に於て蛮夷を盟約国の最下位に列したのと一様で、支那は常に最も劣等の地位に置かれてゐるのである。かういふ現象は、多少注意して日本の新聞紙を見ればすぐ解る。就中〈ナカンズク〉感心させられるのは、それが画一的に行はれてゐることだ。これらの表現法に関しては、もともと国法とか文法とかの規定が有るわけのものではないが、幾千の新聞幾万の記者が皆申し合はせた様にかういふ表示法を取つてゐるのであるから、かうした所からでも彼等の国是は窺はれるのである。

 主張は明白である。「支那」という言葉自体に悪い意味はないが、その言葉が日本人の口から出るときには差別がある、と郭沫若は言う。また、日本人の「支那」に対する評価は、シャム(タイの古名)、フィリピン、朝鮮、満洲以下だという指摘も鋭いところを衝いている。
 今日でも、中国のことを「シナ」と呼んでいる識者、中国のことは「シナ」と呼ぶべきだと主張している論者がいる。そうした識者、論者が中国に対して差別感情を抱いているのか否かはしばらく措く。しかし、戦前・戦中においては、この支那=シナという言葉に、中国に対する差別感情が含まれていた。今日の日本人は、少なくともこの事実だけは、認識しておく必要があるだろう。
 ちなみに、郭沫若(一八九二~一九七八)は、中華民国、中華人民共和国の政治家・文学者・歴史家である。一九一四年(大正三)に来日し、一九一六年(大正五)に日本人の佐藤をとみと結婚した。一九二三年(大正一二)、九州帝国大学医科大学を卒業して、中国に帰るが、一九二八(昭和三)年に日本に亡命。日中戦争が始まった一九三七年(昭和一二)に、妻子を残して中国に帰り、国民党に参加した。

今日の名言 2012・10・27

◎今の自民党はそんなに評価できない

 石原慎太郎東京都知事の言葉。今月25日の「国政復帰」記者会見の席上での発言。本日の東京新聞「こちら特報部」欄は、石原流レトリックを詳細に分析していて興味深い(構成は、佐藤圭・中山洋子)。同欄によれば、政治アナリストの伊藤惇夫氏は、石原氏の「今の自民党はそんなに評価できない」などの言葉について、自民党と決別するとは言っていないことに注目している。

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