礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小野武夫は、なぜ『農村研究講話』に柳田國男の文章を引用したのか

2012-09-30 05:30:46 | 日記

◎小野武夫は、なぜ『農村研究講話』に柳田國男の文章を引用したのか

 農政学者・小野武夫の『農村研究講話』(改造社、一九二五)という本については、これまで何度か言及してきた。
 この本は、全二二二ページで、どちらかというと薄い本である。しかも、一四一ページ以下は、「付録」とされているので、本文は一四〇ページに過ぎない。しかも、本文一四〇ページのうち四二ページ分は、柳田國男の文章をそのまま引用しているという妙な本である。
 一応、目次を紹介しておこう。
 
 緒言
 第一章 基礎的研究の必要及び其綱領
 第二章 農村問題とは何ぞや
  第一項 農村問題の意義
  第二項 農村問題の要素
  第三項 農村問題の焦点
 第三章 村落の研究
  第一項 村落調査の必要
  第二項 村落調査の方法及び実践
   イ 調査要綱の製作心得
   ロ ソンプソン氏の村落研究心得
   ハ 柳田氏の実験と感想
第三項 村落疲弊の実否及び其の評定法
第四章 農家経済の研究(第一項~第三項)
 第五章 小作問題の研究(第一項・第二項)
 第六章 農村問題の参考書(第一項・第二項)
 結言
 付録
  其一 村落調査様式(郷土会考案)
  其二 維新以前の農家経済調査様式
  其三 農家経済現状調査様式
  其四 小作慣行調査様式
  其五 小作問題聴取り調査様式

 小野が引用している柳田の文章というのは、雑誌『都会及農村』の一九一八年一一月号から一九一九年二月号まで、柳田が四回に亘って連載した「村を観んとする人の為に」である。その文章の冒頭に、「我々の内郷行きは学問上先づ失敗でありました」とあることは、すでに紹介した。それにしても、なぜ小野は、四二ページ分も使って柳田の文章を引いたのだろうか。
 小野は、柳田の文章を引用した理由を、次のように説明している。
―日本における斯学〔この学問〕の開拓者の実験談を聞くと云ふことは読者に取りての大なる期待であり、又其研究的慾求を充たす上での方便ともなりませう。―
 微妙な言い方である。小野は、この柳田の実験談が学問的に貴重だということは一言も言っていない。一方、柳田自身は、この村落調査が「失敗」だったことを認めている。だとすれば、ここで小野が言おうとしたのは、柳田の実験談=失敗談をよく検討し、なぜこの実験が失敗に終わったのかを学べということではないのか。そのために長々と、柳田のその文章を引用したのではないだろうか。
 この見方は、必ずしも「邪推」とは言えないと考える。というのは、小野が同書の「結言」において、以下のようなことを述べているからである。

 今より七八年前に英国の農村評論家たる「ロバートソン・スコット」と云ふ人が日本に来て、各地の農村を巡廻し、其観察記を故郷の雑誌に寄稿したことがありましたが、其の一節に斯ふ云ふ〈コウイウ〉ことを言つて居ります。『是迄で〈コレマデ〉英国の農村を巡廻して農民生活を記述したものは沢山あるが、彼等の筆にするものは徒らに〈イタズラ〉統計を羅列するか又は感情の披瀝〈ヒレキ〉たるに過ぎない。其れと同じ様に、今、日本の農村問題に対する刊行物を手にして見れば、此国に於ても亦農村問題の所謂「権威者」や都会の気まぐれ研究家や理想家達は英国に於けると同じことを繰返して居る。ように思はれる、是れでは、農村の人々が農村問題に関する著作物に敬意を払はぬことに不思議は無い』(原文巻頭掲載)、右は一外人の観察ではあるが言ふべきことを言ひ得て居るように思ひます。実際一と頃〈ヒトコロ〉英国に於て農村問題が喧しかつた〈ヤカマシカッタ〉際には所謂Rural problem〔農村の問題〕に関する著作が雨後の筍の如く刊行されて読者は之が取捨に苦む〈クルシム〉程でありましたが、何れの本を披いて〈ヒライテ〉見ても同じ様なることばかり書かれて在るのを見て厭かされた〈アカサレタ〉ことがあります。其れと同じ徴候が今日本の農村問題の論壇に萌して〈キザシテ〉居るのではないでしようか、【以下略】

 小野は、イギリスの農村評論家ロバートソン・スコット(Robertson Scott)の見解に賛同している。つまり、このイギリス人の口を借りて、日本の農村問題の権威者や都会の気まぐれ研究家を批判しているのである。
 では、ここで、小野が意識した「日本の農村問題の権威者や都会の気まぐれ研究家」とは、具体的に誰のことを指すのか。もちろん、それについて断定することは避けなければならないが、少なくともその候補者のひとりに、柳田國男が入ることは間違いない。おそらく小野は、このように書けば、読者が柳田國男のことを思い浮かべるであろうことを意識して、この文章を書いているに違いない。
 小野は、「結言」でこのようなことを書き、しかも本文では、柳田の失敗談を長々と引用した。すなわち、この『農村研究講話』という本は、かなり辛辣な柳田批判をおこなっている本だと言わざるをえない。なお小野は、同書の冒頭で、ロバートソン・スコットの言葉を、わざわざ原文で紹介していることを付記しておきたい。

今日の名言 2012・9・30

◎君が受け取る愛は君がもたらす愛とイコールになる

 ビートルズの「ジ・エンド」の歌詞の一部。本日の東京新聞の一面トップは、なぜかビートルズの歌詞の紹介(藤浪繁雄執筆)。見出しは「ビートルズは教えてくれる」。

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柳田國男、内郷村でイチコや御師のことを聞き取る

2012-09-29 05:52:34 | 日記

◎柳田國男、内郷村でイチコや御師のことを聞き取る

 柳田國男は、雑誌『土俗と伝説』の第二号(一九一八年九月)に、「津久井の山村より」という文章を寄せている。冒頭に、「内郷村へ来てから、今日で三日になる」とあるので、一九一八年(大正七)八月一七日に書き、すぐに投稿したものと考えられる。
 とりあえず、その前半部分を引用してみよう。

○津久井の山村より 内郷村へ来てから、今日で三日になるが、まだいくらも御報告申すやうな事がない。此村で、オソウテンサマと云ふは、台所の一隅、高所に在る小さき神棚、他地方の荒神〈コウジン〉さまのやうである。此郡根小屋村〈ネゴヤムラ〉に住むイチコといふ者が、毎年暮に、人を近郷に廻らせて配布する絵札を、此に貼つて置く。鳥居の前に、仕丁〈シテイ〉が馬を曳く所で、御乗込ミとて、其馬の首が内に向ふ様に貼りつけるを、よいとして居る、此イチコは、頼まれて近村の祭に来り、神楽〈カグラ〉・湯立〈ユダチ〉を勤むる家筋である。口寄せもするか否かは確かで無いが、外法箱〈ゲホウバコ〉をかかへ、地獄のたよりをお聞きなされぬか、と言つて奨めてあるく住所不定の口寄せイチコとは、全く別の者である。根小屋のイチコは、同時に又「エビス大黒」の札をも配らせる。「エビス大黒」は二組は受けぬものだといひ、又仮令〈タトイ〉土でくのエビス大黒でも、既に在る家では此御札はことわつて受けぬ。此村では、以前は助郷〈スケゴウ〉の伝馬〈テンマ〉を出し、又駄賃づけの馬も、若干飼つて居たが、今でば、殆〈ホトンド〉牛ばかり飼ふやうになつて居る。それにも拘らず、昔の馬神信仰が、形ばかり残つて居るので、此他に又単に、飾馬だけを版絵にした、津島の絵札がある。今でも、毎年尾張の津島から、鬚〈ヒゲ〉の長い御師〈オシ〉が巡つて来て、此札を置いて行くのを、牛舎の戸に、又は牛馬なき家の入口にも、貼つて置く。此御師が贋物〈ニセモノ〉でない証拠は、今でも此社に参詣の村民が、御師の家を宿坊にして居ることである。此外に、武州御獄〔ママ〕・此国阿夫利山〈アフリヤマ〉からも札を配る。伊勢と富士とは、昔は来て、今は来なくなつた。伊勢の御師は、萬金丹売〈マンキンタンウリ〉となつて、今でも毎年来る。
 此外に、オヒジリと調つて、色々の物を背に負つた者が、今も高野〈コウヤ〉から来る。子供は、此をヤトウカと呼び、怖い者にして居る。婦女月水除(グワツスヰヨケ)の御札、其他不浄よけの守りなどといふものを配り、随分よく人を騙す〈ダマス〉もの、と評判せられて居る。【後略】

 ここでの柳田の関心は、イチコ・御師などの民間信仰である。おそらく調査開始と同時に、村民に対し、これらについての聞き取りを試みたのであろう。
 イチコというのは、イタコあるいは巫女〈ミコ〉とも呼ばれ、神に仕えて神託を告げる女子をいう。柳田は、雑誌『郷土研究』に、十二回にわたって「巫女考」〈フジョコウ〉という論文を連載している(一九一三年三月~一九一四年二月)。内郷村においても、やはり、このあたりのことが気になったのであろう。
 御師というのは、特定の寺社に所属して、参詣人の参拝・宿泊の案内をする者をいう。一般的には〈オシ〉と読むが、伊勢神宮の場合は〈オンシ〉と読むらしい。
 この村に、相模の大山阿夫利〈オオヤマアフリ〉神社や武蔵の御嶽山〈ミタケサン〉の御師が来るのは不思議でないが、尾張の津島神社から御師が来ているとか、村民が津島神社まで参詣に行っているというのは意外だった。

今日の名言 2012・9・29

◎時折、先生の夢を見ます

 歌人・福島泰樹さんの言葉。本日の東京新聞「追憶の風景」欄より。福島さんは、小学生の時の恩師・福田義男先生に、新著と手紙とを送った。「坂本小学校でお世話になりました六年二組の福島であります。幼童も六十六歳になりました。時折、先生の夢を見ます」。しかし、宛先不明で送り返されてきたという。福島さんが語る福田先生の思い出は、読者の胸を打つ。

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正覚寺の山田亮因師、内郷村村落調査を回想する

2012-09-28 04:45:38 | 日記

◎正覚寺の山田亮因師、内郷村村落調査を回想する

 またまた、内郷村の話である。
 松本三喜夫氏の『柳田国男と民俗の旅』(吉川弘文館、一九九二)には、「内郷村への旅」という章があるが(初出は一九九〇)、同章の末尾には、松本氏が、正覚寺の前住職・山田亮因師におこなったインタビューの記録「相州内郷村余聞」が収められている。インタビューの日付は、一九八九年(平成元)一一月一八日だという。
 このなかで山田師は、郷土会の村落調査があった大正期の村の食糧事情についても語っている。なかなか貴重な証言なので、引用させていただこう。一部、すでに紹介している部分もあるが、重複を厭わず引用する。

松本 柳田らの調査のとき、十日間泊まっているんですが、その時の食料はどうしていたのでしょう。
山田 食料はね、私はあまり細かくは知らないが、ただ〔長谷川〕久さんという人が来て、この辺であぶらあげを買ったりしてね、豆腐とか里芋とかあるもので料理をやっていたということは記憶にあるね。あの頃、物売りも来ないし、買うこともできないし、南瓜など畑で取れたもので、本成りであろうと末成りであろうと、味に構わず取って食べてね。十人が十人、十日間ここに泊り通したということはない訳で、ちょっこら明日帰るという人もあり、帰ると何か持ってくるんで、そういう意味での食料の持込はあって、ビールみたいな物を持ってきて、おいしい菓子を持ってくる、キャラメルを持ってくる、机の上にはそういうおいしいものがのっている。それをみんな出ていった後、子供だから失敬したこともあり、怒られたこともあるね。珍しいキャラメルなんて食べられないですよ、キャラメルが転がっているんですよ。
松本 夜はどんな様子でしたか。
山田 夜は遅くまで調べ物をしていたりしていたね、そりゃ遅いです、ながながと。ランプのしたで遅くまでやっていたね。
松本 泊まっていたときの寝具はどうされたのですか。
山田 寝具は借りたと思うね。家にもそんなに泊めるほどはないんでね、二人や三人分くらいだね。普通の家でも布団〈フトン〉はそんなに持っていないね、大きい旧家とか、宿屋でした、そういう家にあった布団を借りてきたと思うね。
松本 お食事の世話とかはお寺さんの方で全部世話をなさっていたんですか、だれか人を雇って世話をお願いしたんですか。
山田 それは今ここに書いてある(『石老の礎』の中のご自分の文章を指す)長谷川久さんという、この人は長谷川〔一郎〕先生の在所〔住所〕のすぐそばの、増原の人で、この人がうちの勝手の炊事場を使って、炊事場というけど狭いんで、台所は広いからその台所に釜を追加して、三升とか五升とか炊くんで。子供の頃のことでよくわからないけどね。母のいうのは、長谷川さんが寺を宿泊場所として頼みに来られたけど、父も病気で大変だからということで、一度はお断りしたんですがね。そう、リョーマチでね。自分の連れ合いの世話をしなければならないし、皆さんのお勝手まではどうもということで、世話はできないからお断りしたんだが、長谷川先生はなにいうとる、しょっちゅう旨いものを食うとるんだからそんな心配はいらんとか、寝るといっても夏のことだから、何かにくるまって眠るんだろうから、そう心配しないで泊めるだけ泊めてくれということで、泊めることになったらしいんですね。実際にどうであったかは、親じゃなけりぁ分からんがね、わしは遊びに行っていたからね。
松本 柳田は長谷川に、村の人に迷惑をかけてはいかんとか、食べ物は全部自分で持っていくとかいっていますが、それは実際とはちょっと違うんですか。
山田 うん、ちょっと違うね。持ってきていたかもしれんがね、ちょっとは。
松本 柳田の俳句「山寺や葱と南瓜の十日間」が、何か新聞記者に洩れ、村の人に大目玉を食ったとか聞いているんですが。
山田 それはよく知らないがね。こころあるというか、この土地に育った成人の人たちからみれば、あんまり稗飯はうまくないし、宣伝するほどじゃあないしということかも。新聞は、私の母のいうことには、当時の『日々新聞』か、『貿易新聞』だか、何か今でいえば天声人語のああいうところに出たらしいね。『東京日々』に、『神奈川新聞』なら当然神奈川のことだから出ても差し支えないが、それはあんまり葱とか南瓜とかで十日間過ごしたというんじゃ、この村では稗でも食べているらしいとみられては、何で。
松本 当時の食料はどんなものでしたか。
山田 いやいやお米なんて、私ら檀家〈ダンカ〉へいくと、まず割飯〈ワリメシ〉、麦飯と麦の多いこと。それから粟〈アワ〉の多いこと、粟飯なんていうと米の白いのが、ポツポツとした程度で、温ったかいうちに食べないと固くなりまずいこと。それから麦飯はね、ただの割飯もあるし、まる飯もあるしね、まる飯の方がまあいい方で米なんか全然関係なしで、麦ばっかりのめしをバクといい、麦飯〈バクハン〉というね。まる飯はそのかわりすぐにはやわっこく炊き上がらないから、まあ夜業〈ヤギョウ〉の仕事でもしながら、火を燃やしながら、グツグツと煮る。いろりを囲んで仕事をする者は仕事をする。夜が深ける〈フケル〉にしたがって炊ける訳で、そして朝になると水分を吸って膨れ上がっていて、朝また温めて食べる。そういう時代だから勝手〔台所〕をする者は、砂糖、塩、こういうものは買ってこなければ、この土地からは採れないからね。それを買うことでさえ骨の折れることでした。小さい頃だから覚えがないが、久さんという人がそういうものを買ってきていたんで、久さんにはお手伝いを頼んだんだから当然、お金を出していたと私の考えではそう思うね。考え方によると長谷川一郎さんがそれだけの接待をしていたか知らないがね。

 こうした食糧事情の中で、柳田國男ら調査団の一行は、正覚寺に滞在していたのである。受け入れ側は、おそらく調査団に対しては白米を提供していたと思うが、一般農民の水準からすれば、これがとんでもない贅沢であったことは間違いない。柳田らには、「麩や南瓜の十日間」などの不満を述べることは許されなかったのである。
 ちなみに、この「麩」は、おそらく「この土地からは採れない」ものであり、「それを買うことでさえ骨の折れる」ものだったのではないだろうか。おそらく柳田には、「麩」が贅沢品だという感覚はなかったであろう。
 山田亮因師の証言によれば、大正期における内郷村の主食は「麦飯」が一般的だったと見てよいだろう。山田師が、「この村では稗でも食べているらしいとみられては」と言っている意味は、麦を食べているにもかかわらず、稗を食べていると思われては心外だ、と解釈すべきであろう。
 なお、山田師のいう「割飯」、「まる飯」とは、文脈から考えて、それぞれ「挽き割り麦で炊いた飯」、「丸麦で炊いた飯」の意味であろう。

今日の名言 2012・9・28

◎私の知る限り、勝てる監督はみんな腹黒かった

 野球評論家・豊田泰光さんの言葉。昨27日の日本経済新聞「チェンジアップ」欄より。豊田さんによれば、野球の監督というのは、相手ベンチを疑心暗鬼にさせるような「すごみ」がなくてはならないという。豊田さんが、そうした「すごみ」のある監督として挙げているのが、落合博満前中日監督で、逆に「いい人」(「すごみ」がない監督)として挙げているのが和田豊阪神監督である。

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中村春二の「かながきひろめかい」と春日政治の「かながき論文」

2012-09-27 05:59:24 | 日記

◎中村春二の「かながきひろめかい」と春日政治の「かながき論文」

 一昨日、春日政治博士の「手だて と 目あて」という文章を紹介した。その初出については未確認だったが、昨日、国会図書館に出向き、中村春二編の『かながきのすすめ』(成蹊学園出版部、一九二二)を閲覧してきた(デジタル資料なので、モニター上での閲覧)。
 驚いたことに、この『かながきのすすめ』は、全編「かながき」で書かれた本であった。本のタイトルも、正しくは『かながきの すすめ』であった(わかち書きされている)。
 同書は、「かながき ひろめかい」のメンバーによって執筆されているが、春日博士の文章は、一点のみ。文章のタイトルは「てだて と めあて」で、署名は「かすが まさじ」とあった。
『かながきの すすめ』の本文は、タテ組みで、活字は、やや横に長い扁平のもので、しかも、その字体は見たことのない独得のものであった。おそらく、この会のために、新しく鋳造された活字であろう。
 春日論文の冒頭、および末尾を引用してみよう。
―とくがわじだいの がくしゃ やなぎさわきえんの 「うんびゅーざっし」と ゆー ほんに、つぎの よーな はなしが ある。―
―つまり ぶんしょーの ことばわ はなしことば、もんじわ をんを しめす もんじ、しかも それを はつをん どーりに かかなくてわ ならない。―
 こんな感じである。「やなぎさわきえん」は柳沢淇園、「うんびゅーざっし」は雲萍雑志のことである(雲萍雑志の読みは、一般的には〈ウンピョウザッシ〉のようである)。
 奥付によれば、『かながきの すすめ』は、東京市外池袋の成蹊学園出版部から、「大正十一年十二月」に発行されている。
 巻末には、「かながき ひろめかいの しごと」というページがあり、会の要綱が紹介されている。「かながき ひろめかい」の事務局は、成蹊学園の中に置かれていたことなどがわかる。会の役員についても定められているが、当時、誰がどういう役職にあったかについての記載はない。
 さらにそのあとには、「かながきの しるべ」というページがあり、同会の「かながき」の方式について、簡潔な説明がおこなわれている。もちろん、「かながき ひろめかいの しごと」も、「かながきの しるべ」も、全部ひらがなで書かれている。
 この会の中心人物は、成蹊学園の創立者として知られる中村春二だったと思われる。中村春二と「かながき ひろめかい」の関わりについては、このあと、もう少し調べてみようと思っている。
 とりあえず『朝日日本歴史人物事典』の「中村春二」の項(執筆・稲垣友美)を引用しておく。ただし、ここでは、「かながき ひろめかい」についての言及はない。

中村春二【なかむら・はるじ】
生年:明治一〇・三・三一(一八七七)
没年:大正一三・二・二一(一九二四)
明治大正期の教育者。歌人中村秋香〈アキカ〉と母清子の次男として東京に生まれ、早くから詩歌や絵を学ぶ。東京帝大国文科を卒業し、曹洞宗第一中学林等で教鞭をとる。明治三九(一九〇六)年に友人今村繁三の協力で学生塾(翌年、成蹊園と命名。現、成蹊学園)を創設。すぐに岩崎小弥太〈コヤタ〉も援助者となる。やがて私学の必要を痛感し、四四年に家塾風な実務学校を、続いて中学校、小学校、専門学校、女学校を順に開設していく。独得な東洋的理念と方法をうちたて、師弟の「心の触れ合い」による「真剣な気分」の育成を教育精神とした。個性教育、人物教育を掲げて鍛練主義、実力主義、作業主義、少人数主義を採り、不言実行の「真」教育を目ざす。特に心操の法「凝念」〈ギョウネン〉と「心の力」の朗唱は注目を集める。日ごろ「教え子はこれ神なりと思え、ゆめおろそかに扱うべからず」と戒めていた。〈著作〉『教育一夕話』『導く人の為めに』『かながきのすすめ』〈参考文献〉小林一郎編『中村春二選集』、中村浩著『人間中村春二伝』 

 なお、タカハラ・タケヨシ氏の『土着の学問の発想』(東洋経済新報社、一九七三)によれば、攻玉社の創立者である近藤真琴(一八三一~一八八六)は、その晩年に『ちしつがく うひまなび』(一八八六)という「かな書き教科書」を刊行しているという。『土着の学問の発想』の一二一ページには、その版面が影印によって紹介されている。ひらがなによるタテ書き、分かち書きなど、中村春二編『かながきのすすめ』と酷似しているという印象を受ける。中村春二は、この近藤の教科書のことを、よく知っていたのではないだろうか。
 ただし、近藤の教科賞と中村の『かながきのすすめ』とでは、使われている「ひらがな」が違う。近藤の教科書で使われている「ひらがな」活字は、ごくありふれたものであり、また、いわゆる「変体がな」も使用されている。一方、中村の『かながきのすすめ』の「ひらがな」活字は、きわめて特殊な字体で、近藤教科書以上に古風な字体という印象を与える。しかし、「変体がな」は使っていない。

今日の名言 2012・9・27

◎ようを べんずるには かなでよい

 近藤真琴の言葉。攻玉社の創立者として知られる近藤真琴は、1885年(明治18)1月、神田錦町学習院で開かれた「かなの会」の大会で、このように演説したという。タカハラ・タケヨシ『土着の学問の発想』111ページによる。

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戦中の保育書に見る「出征軍人ごっこ」(付・諏訪根自子さん死去)

2012-09-26 05:35:26 | 日記

◎戦中の保育書に見る「出征軍人ごっこ」

 先週、神田の古書展で松石治子『幼稚園・託児所 自由遊び』(大日本出版社峯文荘、一九四〇)という本を入手した。幼児の「自由遊び」についての解説書である。
全一〇章のうち、「九 ごつこ遊びの誘導」の中に、「出征軍人ごつこ」の誘導の例が載っていたので、紹介してみよう。かな遣い等は、今日風に改めた。

 出征軍人ごっこ
 一、端緒 日支事変が勃発して日毎に出征軍人が町から送り出され、幼児も小旗を手に母親とそれを見送る事が多くなって、いつとはなしに出征軍人の勇ましい姿に憧れを持つようになった。
 そしてその歓送の有様が深く深く脳裡に刻まれたものと見え事変が起って〔一九三七年七月七日〕一ケ月もするとこの出征軍人ごっこが行われてきた。
 二、過程 数名の年長組の男児が「先生、旗を下さい」と言ってきた。「何をするのか」と聞いて見ると「兵隊さんが戦争に行くところをする」と答える。多分兵隊ごっこであろうと旗を渡すと、一人が「僕が出征軍人だ」と言い出した。「僕は在郷軍人だ」「僕は青年団だ」と言ってそれぞれ役割が定まった。出征軍人はまず自分の帽子を被ってきた。そして上履袋〈ウワバキブクロ〉をさげてきて「奉公袋」だと言い、そして先頭に立って歩き出した。他の数名は小旗を振ってこの後に続いた。そして「天に代りて不義を撃つ」と調子を揃えて歌って歩いた。他の大勢の幼児ばこの数名の遊びを見て愉快そうに笑った。「僕も入れて」と列に加わる者もどんどんできる。列は段々に長くなる。
 三、誘導 まずピアノで軍歌を弾いて調子を合せた。幼児の足並が揃って立派な行進の形となる。しかし国旗を持たない幼児が物足りなそうであったからちょうど旗行列の時に用いた小旗があったのでそれをあたえる。これでも不足なので旗作りをする事になった。ここで、保育室にヒゴ竹と紙とを用意して自由に作らせる。
一方出征軍人の行進は相変わらずピアノに合せて活発に動いているが少し歩調が乱れてきそうになる。これを潮時にます停止させて音楽隊を作ってみる。太鼓、ラッパ、鉦〈ハチ〉、手風琴〔アコーディオン〕、タンバリン等を適当な幼児に持たせる、それから遊具としてあたえていた戦闘帽を出して男児に被せる。
 幼児は楽隊を先頭にして次に戦闘帽の男児が並んだ、女児は愛国婦人会と国防婦人会とに分れて並んだ。リーダー格の男児の命令によって隊伍を整えて行進した。列に加わるものは全部小国旗を手にした。
 次に神社だと言って床上積木で家を作りその前に整列した。出征軍人になった幼児を正面の高い段へ乗せて、君が代を合唱した。そして出征軍人が挨拶をする。青年団や在郷軍人の代表だと言って次々に出ては出征軍人にお辞儀をする。女児も婦人会代表だといって出てはお辞儀をする。これが一通り済むと再び軍歌の合唱に入り、列を整えて行進する。今度は駅だと言って椅子や積木で汽車とホームとを作って、ここでお見送りをする。特に汽車には窓を明けてここから首を出して旗を振る事がどんなにうれしい事か分らない様子であった。駅長になった幼児が笛を吹くと一斉に「萬歳」を絶叫する。見て居る保姆〈ホボ〉も心からこれに和してこの遊びは仲々つきようとしない。
(指導注意)
一、出征軍人になる幼児を順次に交代させる。
二、楽隊になる幼児も交代させる。
三、ピアノに調子を合せる事を指導する。
四、行進の列の正しいように注意する。
五、国旗の製作をする。
六、在郷軍人や青年団等の腕章作りをする。
七、婦人会の襷〈タスキ〉を紙で作るかまたは保姆が布で作って与える。
八、出征軍人その他の挨拶等を指導する。
九、歓送用の幟〈ノボリ〉等を作って幼児に持たせる。
(保育項目への連関)
出征軍人遊び、観察、談話、唱歌、遊戯、手技
一、「観察」(出征軍人の写真および絵画)
二、「談話」(保姆の見聞でもよいしまた出征を加味したお話でもよい)
三、「唱歌」(僕の出征、兄さんの出征等)
四、「遊戯」(前述の唱歌の振付)
五、「手技」(国旗、勲章、軍帽、奉公袋作り)

「出征軍人ごっこ」の項は、以上が全文である。
 二三、わかりにくい言葉が出てくるが、このでは、「奉公袋」について説明しておこう。奉公袋というのは、陸軍に入営する際、または戦地に赴く際に必需品を入れていった布製の袋で、中には、軍隊手牒、勲章、記章、適任証書、軍隊における特業教育に関する証書、召集、点呼令状のほか、貯金通帳などを入れたという。インターネット上で、何点か、実物の写真を見ることができるが、カーキ色をしており、表面に「奉公袋」の三文字、稲妻型の模様、および氏名欄が捺染されている。
 なお、『自由遊び』の著者の肩書は、帝都教育会教員保姆伝習所講師である。この帝都教育会教員保姆伝習所というのは、おそらく、一八八八年創立の東京府教育会附属保姆講習所の後身であろう(だとすれば、今日の「竹早教員保育士養成所」の前身)。

今日の名言 2012・9・26

◎論より実力

 バイオリニスト諏訪根自子〈スワ・ネジコ〉さんを評した言葉。戸板康二『いろはかるた随筆』が紹介している「スターいろは歌留多」(1952)より。この歌留多の初出は、雑誌『映画と演芸』(朝日新聞社)の「昭和二七年の号」で、作者は矢野目源一だとされる。7月21日の当コラム参照。ちなみに、「論より実力」の「論」とは、彼女が戦中に、ナチスドイツとの「友好」に関わったことについての議論という意味であろう。といつ天才的バイオリニストと言われた諏訪根自子さんは、本年3月6日、92歳で亡くなっていたという(昨25日の日本経済新聞夕刊による)。

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