礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

石田梅岩、商人に「道義感」を課す

2013-11-30 03:28:25 | 日記

◎石田梅岩、商人に「道義感」を課す

 昨日の続きである。石川謙は、その著『心学精粋』の中で、石田梅岩を「商人道の提唱者」と位置づけている。同書で石川は、梅岩が説いた「士道」および「農業道」について解説した上で、さらに梅岩が問いた「商人道」について、次のように解説している。

商人道 梅岩は二十三歳から四十五歳に至る廿三箇年間を、商家に身を置いて商売のことにたづさはつてゐた。彼の経験がこの方面に於いて豊富であつたこととは、固より〈モトヨリ〉其の所である。彼の門人は、少数の武士を除いて多くは商人であつたもののやうであつた。商人道について最も多く関説するところがあつたのは自然の数である。それのみではない、彼の商売に従事してゐた宝永より享保中期に至る間にあつては、所謂米経済から貨幣経済に至る過渡的混乱の大渦が捲起され〈マキオコサレ〉、それが段々貨幣本位に纏り〈マトマリ〉かけつつあつたのである。従つて商人台頭の最も目覚ましい時代であつた。然も他方では、封建社会組織の完成期であつて、士農工商の身分の観念が別けても昂まり来つた〈タカマリキタッタ〉時であつた。新興の商人勢力に対して、憎悪と恐怖との念から結果した武家方の弾圧が日一日と激甚となつた。重農抑商の声は政策の上からも感情の上からも、雄叫びの如くに揚げられて来た。梅岩はこの間に立つて、商人に対して堂々不退転の地位を与へると共に、之に対して厳粛なる道義感を課したものである。
「商人皆農工トナラバ、財宝ヲ通ハス者ナクシテ、万民ノ難儀トナラン。士農工商ハ天下ノ治マル相〈たすけ〉トナル。四民カケテハ助ケナカルベシ。」(都鄙問答、二之巻、或学者商人ノ学問ヲ譏ル〈そしる〉ノ段)
 かくの如く天下に商人なかるべからずとした。既に商人のある以上、商売によつて利を営むのは当然である。

 石田梅岩の「商人道」の紹介は、まだ終わっていないが、明日は、話を「安重根」に戻す。

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石田梅岩の「商人道」について

2013-11-29 04:42:09 | 日記

◎石田梅岩の「商人道」について

 先日、某古書店の「二冊で百円」の棚で、文部省教学局編纂の『心学精粋』(日本精神叢書九、内閣印刷局、一九三〇)を入手した。文庫版で本文一二〇ページの貧弱な本だが、執筆者は、石門心学〈セキモンシンガク〉の研究においては第一人者の石川謙〈ケン〉である。
 この「日本精神叢書」であるが、執筆者とテーマによっては、明らかに「神憑って」しまっているものがある。しかし、この『心学精粋』については、そういうことはない。石田梅岩〈バイガン〉の『都鄙問答〈トヒモンドウ〉』を引きながら、まさに石門心学のエッセンスを紹介している好著である。
 特に感心したのは、石田梅岩の思想の本質を「家職道」として捉え、特に石田梅岩を「商人道の提唱者」と位置づけているところにある。同書の末尾に近い一一〇ページにおいて、石川謙は、次のように言う。

家職道定立の論拠 世に梅岩ほど家職道を力説し詳説したものは、数多くはあるまい。彼以前に山鹿素行があつて武士道を鼓吹し、彼以後に二宮尊徳、大原幽学が出でて農業道を力説した。これは比較して梅岩を以て商人道の提唱者と見ることも、必ずしも当を失したものと貶し去ることは出来ぬ。誠に梅岩は、商人道に関して所説最も詳細を極め、力説優れて光彩を放つた。が、それよりも我等の指摘したいのは、家職道のありて存する所以の原理を明にし、斯の道の重要性を主張し、且自ら多く家職道を具体的に語つたことである。【以下略】

 江戸時代においては、「商業」は卑しい職業とされ、「商人」の社会的地位が低かった。そうした中で、梅岩が、「商人道」も、「士道」や「農業道」とならぶ、立派な「家職道」であると主張したのは、まさに画期的なことであった。
 かの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の著者マックス・ウェーバーにならって言えば、日本における資本主義のエートスを、最初に「思想」として表現したのは、石田梅岩だったのではないだろうか。【この話、続く】

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水野吉太郎弁護士、安重根を幕末の志士と比べる

2013-11-28 06:15:16 | 日記

◎水野吉太郎弁護士、安重根を幕末の志士と比べる

 安重根事件の公判において、被告安重根らの弁護にあたったのは、水野吉太郎〈ミズノ・キチタロウ〉、鎌田正治(読み不詳)の両弁護士であった。
 今、ウィキペディア「水野吉太郎」の項を見ると、次のようにある。

 1874年(明治7年)12月、高知県香美郡富家村に生まれる。1899年(明治32年)に和仏法律学校法律科を卒業し、判事検事登用試験及び弁護士試験に合格する。/1900年(明治33年)に高知県で弁護士を開業するも、北海道に移住する。しかし、北海道での新聞事業の失敗、材木商との争いなどで、大連に渡る。/1909年の伊藤博文暗殺事件では、安重根の主任弁護士を務めた。水野は安に敬意を払っており、彼の行動を明治維新の志士と比べるという奇抜な弁論を展開した。【以下略】

 では、水野は、この事件の公判で、実際、どんな風な弁護をおこなったのか。
 水野の弁護の模様は、先日来、紹介している『安重根事件公判速記録』の四日目のところに記録されている。その一部を紹介してみよう。原文には句読点がないが、今回は、引用者の責任で、句読点を施してみた。句読点、〈読み〉、〔語注〕以外は、原文のままである。

日本維新前の刺客
弁護人は思います。国歩艱難の場合に、意見の衡突や誤解などから、要賂の人に対して刺客の起つた〈タッタ〉例は誠に沢山であります。日本の維新前、鎖国の夢の未だ醒めざる当時の有様は、韓国今日の現状と大分似て居ます。堺事件や生麦事件等もありましたけれども、特に此の事件と最も似寄りて考へられますには、桜田門外に水戸の浪士が大老伊井掃部頭〈カモンノカミ〉を刺した事件であります。伊井大老は、世界の大勢から見まして鎖国攘夷は到底不可能であつて、開国進取の外に途がないと云ふ事を察し、猛然俗論を排斥しまして、諸外国と通商条約を締結せむとしたのであります。浪士等は、外国の圧迫によりて通商をするは、神州の面目に関すると云ふ一片の感情から、世界の大勢をも弁へず、漫りに〈ミダリニ〉尊王攘夷の論を唱へて、一代の偉人を桜田門外に斃した〈タオシタ〉のであります。当時に於きましては、天下に世界の大勢を詳か〈ツマビラカ〉にするものがありませなんだ故に、一世を挙げて浪士等に同情をしたのは勿論でありますが、時世の進歩致しました今日と相成〈アイナリ〉ましても、彼の〈カノ〉浪士等〈ラ〉が世界の大勢に暗くして、一代の偉人を斃し、甚だしく大事を誤まりし事は認めて居りまするけれども、彼等が一身を捨てて君国の為めに酬ゆる〈ムクイル〉と云ふ赤誠から、敢て此の事を推行〔ママ〕したと云ふ所謂報国の丹心に対しては、多大の同情を以て居るのでは有ませんか。特に之等〈コレラ〉の人々の謡つた詩歌は、今も尚人口に膾炙〈カイシャ〉して後に伝はり、其意気は確かに国民の手本ともなるべきものと認められて居ると信じます。此等の浪士を本件の被告に比較すれば如何〈イカガ〉でありましよふ。無智の結果大事を誤まりし事は同様でありまする。けれども日本の当時の所謂尊王攘夷党なるものは、通商を為すは国威を傷ける面目に関すると云ふ単純なる感情論でありまして、未だ国家存亡の大事件ではありませぬ。翻て〈ヒルガエッテ〉韓国の現状は如何に〈イカニ〉と云へば、外交軍事より司法の諸権に至る迄、皆之を日本に委ねざるを得ないのみならず、大皇帝は位を退かれ、皇太子は日本に遊ばれて居るのではあります。被告の誤解の如く、若し〈モシ〉日本が韓国扶植〔援助〕の誠意なしとすれば、其の国家の事は、汲々乎〈キュウキュウコ〉として危ういのではありませぬか。被告は実に国家存亡の秋〈トキ〉であると信じたのであります。同じく事を誤つたと致しましても事態の上から考へまして、遥かに被告に同情すべき点があるのではありませぬか。更に之を両者の意気の上から考へますると、万世一系の聖天子を奉戴せる日本臣民と李朝、僅かに三百年、而かも〈シカモ〉東人西人互に相殺し、官吏は競ふて苛税を誅求し、収賄凌辱至るざる処なしとも云ふべき韓国臣民とは、其国是の軽重は同日に語る事は出来ないのであります。如此〈カクノゴトキ〉韓国臣民として居ります被告が、其報国の赤心に於て、日本の志士に譲らざるものがあると致しますれば、亦同情のの傾注を吝む〈オシム〉事は出来ない次第と考へます。

 ウィキペディアは、以上のような水野弁護士の弁論に対し、「彼〔安重根〕の行動を明治維新の志士と比べるという奇抜な弁論を展開した」とコメントしたわけだが、「奇抜な」という形容は当たらないのではないか。明治維新から、まだ半世紀も経っていなかった当時、この事件、あるいは安重根らの行動を、水野弁護士のように受けとめた日本人は少なくなかったと思う。ただ、この法廷で、このように発言することは、かなりの勇気が必要だったろう。ここはせめて、「大胆な」と形容してほしかったところである。
 なお、引用文中、「相殺し」の読みは、文脈から考えて、たぶん〈アイコロシ〉であろう。

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『安重根事件公判速記録』の由来

2013-11-27 05:51:10 | 日記

◎『安重根事件公判速記録』の由来

 昨日のコラムで、『安重根事件公判速記録』第二版(一九一〇年五月一三日)の「緒言」を紹介した。
 これによって、『安重根事件公判速記録』という文献の由来がかなり明らかになった。満洲日日新聞社は、安重根事件の公判に速記記者を派遣し、四日間の公判の模様を、その都度、同紙紙上に掲載した。その後、読者の要望に応えて、これを「一巻の冊子」にまとめた。この際、判官、検察官、および弁護士の校閲を経たという。これが同速記録の初版で、発行部数は八〇〇〇部だったという。
 しかしこれが、一〇日もしないうちに売り切れた。そこで、さらに再版を出した。その際、再度、判官、検察官、および弁護士の校閲を経て、誤植等を訂正したもようである。再版の部数は五〇〇〇部。
 なお、再版の緒言に「故公の二龍山上吊訪」という言葉がでてくる。二龍山は、日露戦争の激戦地のひとつで、旅順にある。吊訪〈チョウホウ〉の「吊」は「弔」に同じ。
 今月二三日のコラム「安重根が挙げた伊藤博文暗殺の理由15か条」、二五日のコラム「満洲日日新聞社編『安重根事件公判速記録』緒言」、および昨日のコラム「『安重根事件公判速記録』再版における「緒言」」は、比較的にアクセスが多かった。しかし、本当に読んでいただきたかったのは二四日のコラム「安重根の過激な発言で旅順での公判は傍聴禁止」だった。こちらも、お読みいただければ幸いである。

*アクセスランキング歴代30位(2013・11・27現在)

1位 本年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか(鈴木貫太郎)    
2位 本年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』(1946) 
3位 本年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード            
4位 本年8月1日  麻生財務相のいう「ナチス憲法」とは何か         
5位 本年2月27日 覚醒して苦しむ理性(矢内原忠雄の「平和国家論」を読む)  
6位 本年9月14日 なぜ森永太一郎は、落とした手帳にこだわったのか     
7位 昨年7月2日  中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)    
8位 本年2月14日 ナチス侵攻直前におけるポーランド内の反ユダヤ主義運動  
9位 本年7月21日 記事の更新なし                     
10位 本年6月23日 小野武夫博士の学的出発点(永小作慣行の調査)      
11位 本年10月7日 福住正兄の日本語論と文章論(『二宮翁夜話』より) 
12位 本年4月30日 このままでは自壊作用を起こして滅亡する(鈴木貫太郎)  
13位 本年10月2日 福沢諭吉、内村鑑三に反発し「銭」より「名誉」を説く  
14位 本年11月23日 安重根が挙げた伊藤博文暗殺の理由15か条      
15位 本年7月5日  年間、二体ぐらい、起き上がってゆくのがある      
16位 本年10月26日 『ことわざの話』抜刷本(1930)と柳田國男の神経 
17位 本年10月22日 岩波文庫「読書子に寄す」を当初の形に復元する     
18位 本年6月29日 西郷四郎が講道館入門した経緯についての通説と異説   
19位 本年11月7日 「小野武夫先生の思い出」入交好脩           
20位 本年7月29日 西部邁氏の不文憲法支持論(1995)への疑問     
21位 本年9月3日  統制経済は共産主義の緩和か(高田保馬の統制経済観)  
22位 本年9月23日 「成果主義」が消滅した(?)2005年        
23位 本年11月5日 正常に戻った大川周明を中津村に訪ねる         
24位 本年7月26日 世にいう「本願ぼこり」と吉本の「関係の絶対性」    
25位 本年9月24日 西田幾多郎と夜間動物園                
26位 本年8月24日 「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭された免田栄さん   
27位 本年9月30日 内村鑑三の「日本道徳の欠陥」(1897)を読む    
28位 本年11月26日 『安重根事件公判速記録』再版における「緒言」
29位 本年7月30日 過激派にして保守派の西部邁氏にとっての伝統とは    
30位 本年11月19日 衣笠貞之助・溝口健二両監督が「松井須磨子」で競作  

31位 本年11月25日 満洲日日新聞社編『安重根事件公判速記録』緒言

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『安重根事件公判速記録』再版における「緒言」

2013-11-26 05:14:39 | 日記

◎『安重根事件公判速記録』再版における「緒言」

 昨日のコラムで、満洲日日新聞社が編集・発行した『安重根事件公判速記録』(一九一〇年三月二八日)の緒言を紹介した。
 この速記録は、従来、なかなか閲覧が難しかったが、一昨年(二〇一一)、龍溪書舎から、「韓国併合史研究資料96」として復刻版が刊行されたのは朗報であった。本日図書館で、その復刻版を手に取ってみると、これは、一九一〇年(明治四三)五月一三日発行の「再版」を底本としたものであった。
 この「再版」では、初版における誤植が訂正されているほか、「緒言」に記述の追加がおこなわれ、三ページだったものが四ページに増えている。
 以下、参考までに、再版における「緒言」を紹介しておく。改行は原文の通り。太字になっている部分は、初版と異なっている箇所、または、初版に追加された記述であることを示す。この再版「緒言」についてのコメントは次回。

緒 言
明治四十二年十月廿六日午前九時伊藤公一行は哈爾賓駅に到着したり
是より曩伊藤公爵は韓国の事粗定まりたるを以て韓国統監の職を辞し
て枢密院の閑職に就きしが国家は伊藤公を一日も閑地に置く能はず幾
何もなくして満洲視察の途に上ることゝなれり此行政治的意味の有無
に関しては茲に叙述の限りに非ず斯くて月の十八日には在満官民の盛
大なる歓迎の裏に大連に上陸越えて廿日旅順に至り日露戦蹟を弔ひ
沿線巡視に向へるものなり乃ち伊藤公は車中に於て露国大蔵大臣ココ
フツオフ氏と二十分に渉る会見をなし尋で客車を下り露国儀仗兵一個
中隊を閲兵しつゝ邦人の一団に近づき更に数歩を引返さんとする一刹
那突如として躍り出でたる一韓人あり矢庭に公爵目蒐けて拳銃を放射
せるが銃丸三発は公爵の腹部に命中せり斯くて重傷を負へる公爵は直
ちに客車中に運ばれ随従せる小山医師始め露国医師も応急手当を施し
皮下注射を施したるも其効なく間もなく不帰の客となられしぞ悲しき
此騒動の際兇漢の放てる弾丸は猶随員森秘書官田中満鉄理事及川上哈
爾賓総領事を負傷せしめ兇漢は直ちに露国官憲の為めに逮捕せられた
り伊藤公の遺骸は十時四十分大連に向つて南下し廿八日午前十一時三
十分軍艦秋津洲に乗じて十一月一日横須賀に到着同日東京に入れり此
報一度公にせらるゝや四千万同胞の悲嘆は勿論世界の驚愕する処とな
り各国よりの弔電引も切らず至尊は特に国葬を仰せ出され四日葬儀は
悲雨蕭々の裏に執行せられたり会葬者四十万前古未曾有と称せらる以
て公の遺徳を見るべし
一面日本官憲は連累捜査に全力を尽し兇行翌日には関東都督府法院溝
淵検察官は急遽哈爾賓に出張し韓国よりは明石少将来満し都督府佐藤
警視総長平石法院長等と協議画策最も勉めたり此の結果として連累嫌
疑七名を得正犯者安重根と共に三日旅順に護送同地監獄に収容せしが
中四名は審理の結果放免となり禹連俊曹道先劉東夏の三名を公判に附
することゝなれり翌四十三年二月七日より四日間旅順地方法院にて
判あり其結果重根は三月二十六日午前十時死刑を執行せられたり
右の公判は実に世界の注目を惹きたる所にして判官の訊問被告の陳述
検察官の諭告並に弁護士の弁論は独り中外衆庶の聞かんと欲する所な
るのみならず又遠く後世に遺すべき史料なるを以て吾社は公判中特に
速記記者を法院に派して裁判の顛末を厳密に速記し之を満洲日日新聞
紙上に掲げたりしが江湖の希望に依り更に纏めて一巻の冊子と為し特
に判官検察官及び弁護士の校閲を経之を公刊せり
然るに初版八千部は出版後旬日を出でずして売切と為り而も大方の注
文は底止する所を知らざる状況なるを以て更に改版して前記諸士の再
閲を経故公の二龍山上吊訪の際並に哈爾賓遭難五分前に撮影したる肖
像を加へ茲に五千部を刊行することゝ為れり蓋し此書や其実質に於て
は一公判筆記録に過ぎずと雖も日清、日露の二大戦役は是に依りて一
種の結論に達せるものと云ふべく幸に之を忠誠なる国民の書斎に薦め
併せて天下後世に伝へ得るは吾社の私かに光栄する所なり
 明治四十三年五月  満洲日日新聞社

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