礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『古事記伝』は本居宣長の功績を表彰した記念塔

2023-04-30 01:02:08 | コラムと名言

◎『古事記伝』は本居宣長の功績を表彰した記念塔

 三浦藤作の『古典の再検討 古事記と日本書紀』(日本経国社、一九四七)を紹介している。
 本日は、その八回目で、第二章第四節の〔四〕のところを紹介する。ただし、ここは、かなり長いので、一部のみの紹介ということになろう。

「古事記」の註釈書 「古事記」の註釈書は、その数が甚だ多く、悉くこれを列挙し解説すれば浩瀚〈コウカン〉な一巻となるであらう。井上頼圀〈ヨリクニ〉の「古事記考」に出づるものの外、その後の出版だけでも少からぬ数に上つてゐる。註釈書のうちには、刊本となつたものもあり、写本のままに遺れるものもある。内容の上から観れば、「古事記」の全体に亘れる通釈もあり、上巻神代の巻だけの解辟もあり、特殊の事項のみを説明し考證したものもある。また形式の上から観れば、分節して一節毎〈ゴト〉に字句を解し大意を述べた講義風のものもあり、頭註を施しただけのものもある。その他「古事記」を中心として古代を研究したもの、「古事記」の内容から取材して、全くこれを書き改め、大衆の読物並に少年の読物としたものもあり、その種類が非常に雜多である。
【中略】
〔古事記伝〕「古事記」の註釈書中、最も著名なものは、本居宣長〈モトオリ・ノリナガ〉の「古事記伝」である。これに匹敵する詳細な「古事記」の解釈は、前にも後にもない。前にも述べたとほり、本居宣長は、伊勢国松坂の人、古今を通ずる最大の国学者として、今なほ無条件に崇拝してゐる者が少くないほど、名声の高い人物であるから、ここにその経歴や業績を喋々する必要もなからう。多くの著書のうちでも、この「古事記伝」は、畢生〈ヒッセイ〉の大著であつた。宣長といへば、誰もみな「古事記伝」を連想する。「古事記伝」は宣長の功績を表彰した記念塔ともいふべきものであつた。
【中略】
 ……一般人のうちには、「古事記伝」にどんなことが書いてあるか、少しも知らず、ただ三十五年かかつて完成した古書と聞いて、その著者の努力に敬服し本居宣長を非常に偉い学者の如く偶像視してゐる者が多からう。学問の分野が広くなり、重要な研究部門が甚だ増加してゐる今日、こんな古本の精読は、一般人に何の意義もなければ価値もなく、多数の人々が無益な読書に時間を空費してゐたならば、人類の進歩に必要な新知識を収得することが出来ず、世界文化の落伍者となるのは、火を睹る〈ミル〉よりも明らかである。しかし、今、厳正な批判的態度をもつて、この「古事記伝」を通読する者があつたら、同意し難く承認し難いことが、書中に甚だ多いことを感ずるであらう。江戸時代に於ても、富士谷御杖〈フジタニ・ミツエ〉は「古事記燈」を著はし、橘守部〈タチバナ・モリベ〉は「難古事記伝」を著はして、異論を発表した。国学者の異論は烏の雌雄を争ふの類に過ぎないとして、しばらく不問に附する。今日では他の方面から重大な意味を含んだ異論の矢を放たなければならなくなつた。本居宣長は峻烈に漢意〈カラゴコロ〉を排して古語を解釈し、皇国の道を明らかにすることを、学問の大宗〈タイソウ〉とした。漢学心酔の学界に大きな衝撃を与へた文化運動として、無意義なことではなかつた。学問に対する独自の見解を立て、「古事記伝」の大著を完成した見識と努力とは、敬服し讃仰〈サンギョウ〉せざるを得ない。しかし、その結論として世に提唱したものは何であつたか。神話を歴史に結びつけて、日本の国を神の国とし、万国に類なき国と誇示せる偏狭な国粋主義ではなかつたか。一之巻の「直毘霊〈ナオビノミタマ〉」のはじめに、「皇大御国は、掛まも可畏き神御祖天照大御神の、御生坐【みあれませ】る大御国にして、萬〈ヨロズ〉ノ国に勝れたる所由〈ユエン〉は、先ヅこゝにいちじるし。国といふ国は、此ノ大御神の大御徳かゞふらぬ国ない。」といつてゐる。これを冷静に反読して見ると、如何にも気ちがひじみた神秘思想だといふ感が湧いて来る。天照大御神といふのは神話の中に伝へられてゐる神の名である。神話と歴史とは性格を異にしてゐる。神話の内容を歴史上の事実と認めることは絶対に出来ない。それは拙著「日本古代史」中に概論したとほりである。約千年も甲から乙へ、乙から丙へと転写せられ、正体さへも既に朦朧としてゐる「古事記」・「日本書紀」等の古本に、たまたま天照大御神といふ神の話が出てゐるからとて、それを歴史上の事実と認めることは出来ない。第一にその神話を伝へた古典に絶対の信頼をおき難く、第二に神話は歴史上の事実にあらずといふ二重の障壁を飛び越して、「天照大御神の御生坐る大御国」といひ、これを万国にすぐれたる国と断定したのみならず、国といふ国にこの大御神の御徳を蒙らぬ国はないといつてゐる。これほど論理の通らぬ独断論はない。気ちがひじみた神秘思想といふより外はないであらう。【以下、次回】

 文中、拙著「日本古代史」とあるのは、原文のまま。三浦藤作には、『科学的検討 日本古代史観』という著書があるので、あるいは、それを指すか。ただし、その本が出たのは、『古典の再検討 古事記と日本書紀』よりも後である。『古事記と日本書紀』は、一九四七年六月一五日発行、『日本古代史観』は、同年一二月一五日発行である。発行所は、ともに日本経国社。

*このブログの人気記事 2023・4・30(8位の八月革命説は久しぶり)

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古今を問わず蔵書は散逸し滅亡しやすい

2023-04-29 01:15:30 | コラムと名言

◎古今を問わず蔵書は散逸し滅亡しやすい

 三浦藤作の『古典の再検討 古事記と日本書紀』(日本経国社、一九四七)を紹介している。
 本日は、その七回目で、第二章第四節の〔一〕のところを紹介する。

   第四節 「古事記」の伝承
古典の伝承 太安萬侶が元明天皇(第四十三代)の和銅五年即ち紀元一三七二年(西暦七一二年)の正月二十八日に上進した「古事記」が、版本となつて世に現はれたのは、後光明天皇(第百十代)の寛永二十一年(改元正保元年)即ち紀元二三〇四年(西暦一六四四年)であつたから、その間に九百三十二年の歳月を経てゐる。刊行上梓されない書物が、千年に近い長い歳月の間、どうして伝はつて来たのであらうか。ここで古典の伝承といふことを考へて見なければならない。
 支那は文字の国といはれてゐるだけに、文書を印刷する技術も比較的古くから進んでゐたやうである。日本ではいつ頃から書物の印刷刊行がはじまつたか、通説によれば、奈良時代、淳仁天皇(第四十七代)の天平宝字八年(紀元一四二四年、西暦七六四年)に一百万塔を作り、その中に蔵めた〈オサメタ〉陀羅尼〈ダラニ〉が最古の印刷遺物といはれてゐる。平安時代には経文摺写〈キョウモンショウシャ〉が行はれた。鎌倉時代に入つてやや進歩し、法然上人の「撰択集〈センチャクシュウ〉」や正平版の「論語」などの印書が現はれ、室町幕府の頃に至つて、所謂五山版の経文・詩文集・語録等、種々の典籍が刊行せられた。地方では周防〈スオウ〉の大内義隆が、夙に〈ツトニ〉明及び朝鮮に托し国産料紙により経書を印刷した。それが今なほ伝はれる山口本または大内本である。後陽成天皇(第百七代)の天正十八年(西暦一五九〇年)六月に渡来した耶蘇会の印度地方長パードレ・アレッサンドロ・バリニヤニは、最初に渡来したサビエルの前蹤〈ゼンショウ〉を履み、布教の方便として宗教書を翻訳頒布する目的で印刷機と活字とを持つて来たといひ、天正十九年(西暦一五九一年)の加津佐〈カヅサ〉刊「サントスの御作業のうち抜書」が、オツクスフオードのボドレイ文庫の所蔵本中に在り、アーネスト・サトウの「日本耶蘇会刊行書志」の巻頭に覆刻掲載してゐる。しかし、これは外来の宣教師によつて行はれた出版事業の例である。後陽成〈ゴヨウゼイ〉天皇の慶長四年(西暦一五九九年)には、「日本書紀」神代巻二巻の活字刊行が成り、これを慶長勅版と称してゐる。また徳川家康は文教の復興に意を注ぎ、全国の遺書を蒐集して、五山の僧侶に書写せしめ、新に活字を鋳造し、足利学校所蔵「孔子家語〈コウシケゴ〉」・「貞観政要〈ジョウガンセイヨウ〉」・「群書治要」等を刊行せしめた。この時の活字は、文禄征韓の役に朝鮮から伝へたもの、木製と銅製と二種類あつたといふ。これらの事実は記録によつて伝へられ、また刊本も現存してゐる。最古の刊本が何であつたかは判然とわからないが、慶長以後に至り書物刊行の事業が漸く進んで来たことは明らかである。日本の出版はその起原があまり遠くない。
 印刷の技術が開けず、刊行の出来ない時代には、「古事記」のみに限らず、すべての書物がみな写本であつた。一巻の著書が出来上ると、二部なり三部なり必要に応じて副本を作つておいたであらうし、またその書物の内容に関心をもち借覧し筆写して私蔵した者もあつたであらう。その写本をまた他の者が複写するといふやうに、良書は写本が次第に増加したのであつた。しかし、一冊の書物を筆写するには、少からぬ時日を費やし、容易ならぬ労苦を要する。増加したといつても、写本の数は多寡〈タカ〉が知れてゐる。版本に比すれば、如何に部数の少い限定版にも及ばないことは明らかである。古今を問はず、蔵書は散逸し滅亡しやすい性質を有してゐる。火災・水難その他の天災地変や戦争等によつて、夥しい文書が滅びて行く例は、現前の事実として常に目撃するところである。大正十二年〔一九二三〕の大震災では、内務省に於て約百万冊、東京帝国大学に於て約七十万冊、大蔵省に於て約六十万冊、通信省に於て約四十五万冊、文部省に於て約十一万冊の図書が烏有に帰した。私設の文庫や市中の書肆〈ショシ〉等で焼失したものを合算したならば、驚くべき莫大の数に達したであらう。今次の戦禍は、震災の如き突発的の変事と異なり、予め書物の疎開といふことが問題となつてゐたものの、連日連夜の空襲が数ケ月つづき、全国の主要都市大部分が被害を受けたから、文献の喪失も数量を挙げることの出来ないほど絶大なものであつたにちがひない。現代の如く書物の発行部数が多く、保存の設備が整ひ、文献の重要性が認識せられてゐる時代でも、書物の散逸は免れ難く、明治年間に出た名著中、昭和の今日、既に殆ど姿を消し、稀覯本〈キコウボン〉となつてゐるものがある。書物の数が少く、保存する設備も欠けてゐた古代に、一そう甚しい喪失の危険性が伴つてゐたことは、これを察するに難くない。僅〈ワズカ〉に数部か数十部の写本が何百年も喪失せずに伝はつたのは、奇蹟に等しい幸運といつてよからう。
 文字を誤りなく筆写することの困難は、経験ある者の常に痛感するところである。転写の間には、誤字や脱字を生じやすい。原本から筆写した写本を更に他の者が筆写し、その写本をまた別人が筆写するといふやうに、転写が行はれて行く間に若干の誤脱が加はり、少しづつ辞句の異なつた写本が幾種も出来上り、そのうちに原本が喪失して、この写本のみが残ることが多かつた。そればかりでなく、昔の写本は、巻子本〈カンスボン〉といつて、今日の書物と異なり、長い巻物になつてゐたので、多くの歳月を経る間に紙をつぎ合はせた糊が粘りけを失ひ、離れ難れになつたのを、後の人が手入れをして、つぎなほす時に、順序をちがへて錯簡〈サッカン〉を生ずるといふやうなこともあつた。それらの事情により、一字一句もちがはない同じ写本が幾種も残るといふことは殆どない。二種残れば二種ともに、三種残れば三種ともに、みな異本である。原本が既に喪失してしまつて、転写した異本が残つた場合には、これらの写本を原本に照らし合はせて見ることが出来ないから、何れが正しいか、その判定が困難になり、校合といふことの必要を生じ、また異論も現はれて来る。すべての古典は、みなかうした過程を経て後世に伝はつたものである。最も貴重な文献と認められてゐる古典も、最初の原本が残り、それを底本として刊行したものは少く、転々として複写せられ、何百年も後に成れる写本を上梓したものが多い。転写本が原本と全然相違してゐるわけもあるまいが、全然同じものでないことは、異本の残存によつて明らかである。この伝承の過程を顧みても、古典の性質について、一つの明断を下すことが出来る。古典は朧気〈オボロゲ〉に古代の事実を推察する資料としてのみ価値を有する。金科玉条として尊重するほど信頼の出来るものではないといふことである。

*このブログの人気記事 2023・4・29(なぜか9位に山本有三)

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稗田阿礼の役目は「訓み方」の誦習だった

2023-04-28 00:08:18 | コラムと名言

◎稗田阿礼の役目は「訓み方」の誦習だった

 三浦藤作の『古典の再検討 古事記と日本書紀』(日本経国社、一九四七)を紹介している。
 本日は、その六回目で、第二章第三節の〔二〕のところを紹介する。

「古事記」の撰録法 「古事記」は口述による古伝の筆録である。従つて、その内容を如何なる方針により如何に整理するかといふ問題はなかつたであらう。ただ誦習者が語る言葉のとほりに、文字をもつて書き表はすことには、撰録者の苦心があつたにちがひない。安萬侶の序に、
《謹みて詔旨に随ひ、子細に採り墌ひ〈ヒロイ〉ぬ。然るに、上古の時は、言意幷に〈ナラビニ〉朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於ては即ち難し。已に〈スデニ〉訓に因りて述ぶれば、詞心に逮ばず〈オヨバズ〉。全く音を以て連ぬれば、事の趣旨に長し。是を以て、今或は一句の中に、音訓を交へ用ひ、或は一事の内に、全く訓を以て録せり。即ち辞理の見え叵【がた】きは、注を以て明らかにし、意況の解し易きは更に注せず。亦姓の日下【くさか】に玖沙河と謂ひ、名の帯【たらし】の字に多羅斯と謂ふ。此の如きの類は、本に随つて改めず。》
 とその苦心が述べてあるのは、如何にももつともの事と思はれる。しかし、苦心といつても程度の問題である。口伝を筆録するだけの仕事ではないか。仮名文字のやうな国字があつたら、何等の労苦も要せず、子どもでも出来る仕事である。当時はさうした国字がなかつたので、国語を表はすのに漢字の音訓を用ゐなければならなかつた。そこに多少の工夫をこらず苦心があつたといふだけに過ぎない。例へば「クラゲ」といふ物の名称はあつたが、それをあらはす文字がなかつたので、漢字の音を藉りて来て、「久羅下」と書いた。そんな事は、どれだけの難事でもなければ、また手柄でもなからう。漢字が日本に入つてから、何百年といふ長い歳月を経た後のことである。帰化人の数も少くはなかつた。漢文がかなり普及してゐたことは、想像するに難くない。国字がなく、漢字が普及すれば、漢字の音訓を藉りて国語を記すことは、自然の要求として一般に行はれてゐたものと、常識によつても考へられる。「クラゲ」に「久羅下」の文字を当てるやうなことが、安萬侶の新発見ではないであらう。「古事記」の文章を安萬侶の創造と見るのは没常識である。稗田阿礼が誦習したといふその誦習の意味を、訓み方の諳誦とすれば、それには別に文字によつて記した書類が出来てゐたにちがひない。安萬侶の序中にも、「日下」を「玖沙河」といひ、「帯」を「多羅斯」といひ、これらの類は本に随つて改めないと、それを暗示するやうなことが出てゐる。このところの記述も瞹眛としてゐて、意味の徹底しない点があるが、とにかく当時既に国語に漢字を当てること、漢字を国訓で読むことが盛んに行はれ、漢文や国訓を混じた変態的漢文で書いた文書が、いくらも在してゐたことは、甚だ明白である。天武天皇の時に出来上つた古伝が、文書にになつてゐない道理はない。それが普通の漢文で書いてあつたので、歳月を経る間に、おのづから国訓で読むことが困難になる。そこで記憶力の強い稗田阿礼が訓み方の誦習といふ役目を承はつたのであらう。普通の漢文で書いた原本があつたとすれば、それを参考にして、阿礼の口述を筆録するのであるから、仕事は尚ほ一さう容易になる。漢字の音訓を用ゐて国語を記すことも、既に久しく行はれてゐたとすれば、別に大して骨の折れることとも思はれない。「古事記」の撰録を大事業の如くにいひ、太安萬侶を大学者の如くにいふのは、古典を過大視する病弊のある国学者の買ひ被り〈カイカブリ〉か、故意の誇張張宣伝に過ぎなからう。「古事記」の撰録は、四ケ月で完成した。安萬侶は特に勤勉な学者であつたかも知れない。正体の判明しない昔の人物であるから、何とでも解釈はつく。しかし、緩慢に仕事をして多くの歳月を空費し、業績を誇大に吹聴するのは、昔も今も変りなき日本の御用学者の常態である。悠暢な古代の御用学者が四ケ月で完成したといふ事実によつて、「古事記」の撰録の如きは何程の労苦をも要しない極めて容易な事業だといふ常識上の推定が、よく證明せられてゐる。
 要するに、「古事記」の撰録には、国語を漢字によつて表現するといふ工夫に、若干の苦心があつたであらう。それは決して苦心といふほどの苦心とも思はれず、外に撰録の方法として考へられることはない。内容は口伝によれる古事の筆録である。歴史の編修法の如き問題は全然ない。

 三浦藤作は、ここで、「稗田阿礼が誦習したといふその誦習の意味を、訓み方の諳誦とすれば、それには別に文字によつて記した書類が出来てゐたにちがひない」と述べている。これは、ユニークな指摘だと思う。
 三浦のこの指摘は、「古事記」以前に、「普通の漢文」で書かれた古伝や、「漢文や国訓を混じた変態的漢文」で書かれた各種の文書が存在していたとする捉え方が前提になっている。おそらく、この捉え方は正しい。ただし、残念ながら、ここには「挙証」がない。それがあれば、説得力があったと思う。

*このブログの人気記事 2023・4・28(9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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「古事記」には幾種かの原本があったに違いない

2023-04-27 00:03:20 | コラムと名言

◎「古事記」には幾種かの原本があったに違いない

 三浦藤作の『古典の再検討 古事記と日本書紀』(日本経国社、一九四七)を紹介している。
 本日は、その五回目で、第二章第三節の〔一〕のところを紹介する。

   第三節「古事記」の資料及び撰録法
「古事記」の資料 「古事記」の資料即ち「古事記」編纂の原本になった文献は、何であつたか。この問題は、既に前述の撰録事情により、ほぼ明らかになつてゐるが、なほ一度再検して見よう。「古事記」は太安萬侶〈オオノヤスマロ〉が稗田阿礼〈ヒエダノアレ〉の誦習〈ショウシュウ〉してゐた古伝を撰録したものである。安萬侶が自ら多方面の資料を蒐めて編纂したものではない。安萬侶は当時の碩学〈セキガク〉であつたかと思はれる。古伝にも通じてゐたであらうし、種々の記録をも渉猟〈ショウリョウ〉してゐたであらう。他の文書を参考して若干の取捨を加へたかとも考へられるが、大体に於て、勅命の趣旨に従ひ、阿礼の口述をそのまま文字に移したことに疑ひはない。阿礼の誦習してゐた古伝、詳しくいへば、帝皇の日継〈ヒツギ〉及び先代の旧辞は、天武天皇の聖旨によつて成れるものである。阿礼は天皇の詔〈ミコトノリ〉によつてただこれを誦習したに過ぎない。阿礼がその古伝の撰修に関係してゐないことは明白である。天武天皇が如何なる資料を原本として、如何なる人に編纂を命じたまうたかといふことは、明らかになつてゐない。前に引用した太安萬侶の序(三三頁参照)によれば、天武天皇が諸家に私蔵する帝紀や本辞の正実に違ひ〈タガイ〉虚偽を加へてゐることを聞こしめされ、今その失を改めずんば、幾年もたたぬうちに正しい事実が滅びてしまふのを遺憾とせられ、邦家の経緯、王化の鴻基〈コウキ〉たるこの帝紀を撰録し、旧辞を討覈〈トウカク〉して、偽を削り実を定め、これを後世に伝へようと思ふと仰せられたといふ意味のことがあつて、その次に、記憶力の強い稗田阿礼といふ舎人〈トネリ〉に、それを誦み習はしめられたといふことが記してあるだけである。「帝紀を撰録、旧辞を討覈し、偽を削り実を定め」とあるから幾種かの原本があつたにちがひないが、如何なる記録によつたものかわからない。しかのみならず、安萬侶の序は、そこのところの叙述が甚だ不徹底で、誦習の意味さへも判明せず、今日まで解釈上の異説を生じたくらゐである。頭脳の明晰な学者なら、もう少し条理正しく書けさうなものだと思はれる。この序より外に典拠とするものがないから、「古事記」の原本となつた文献は、ただ天武天皇の頃に存在した古記録といふより外に、何等の考證も出来ないといふことに帰する。

*このブログの人気記事 2023・4・27(8位に10年前のものが入っています)

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三浦藤作『古事記と日本書紀』(1947)の目次

2023-04-26 02:16:00 | コラムと名言

◎三浦藤作『古事記と日本書紀』(1947)の目次

 三浦藤作の『古典の再検討 古事記と日本書紀』(日本経国社、一九四七)を紹介している。
 本日は、その四回目。ここで、同書の「目次」を紹介しておきたい。

     目  次
序                            一
第一章 時勢の急転回と古典の再検討            七
 第一節 新日本の建設と古典               七
  一 深き反省を要する問題               七
  二 古典再検討の必要                一〇
 第二節 古典としての「古事記」と「日本書紀」     一三
  一 古典の性質と過重の弊              一三
  二 不当なる神典の名称               一六
第二章 「古事記」解説                 二一
 第一節 「古事記」の書名               二一
  一 書名とその意味                 二一
  二 書名の訓み方                  二一
 第二節 「古事記」の撰録及び撰録者          二六
  一 文字と記録                   二七
  二 修史の沿革                   三〇
  三 「古事記」の撰録                三三
  四 「古事記」の撰録者               三七
 第三節 「古事記」の資料及び撰録法          四〇
  一 「古事記」の資料                四〇
  二 「古事記」の撰録法               四二
 第四節 「古事記」の伝承               四四
  一 古典の伝承                   四四 
  二 「古事記」の写本                四八 
  三 「古事記」の版本                五七
  四 「古事記」の注釈書               六九
 第五節 「古事記」の文体及び訓み方          九〇
  一 「古事記」の文体                九一
  二 「古事記」の訓み方               九四
  三 「古事記」の文例及び訓み方の例         九六 
 第六節 「古事記」の内容               九七
  一 「古事記」の序文                九七
  二 「古事記」全三巻の内容            一〇九 
第三章 「日本書紀」解説               一一四
 第一節 「日本書紀」の書名             一一四
  一 書名とその意味                一一四
  二 書名の訓み方                 一一六
 第二節 「日本書紀」の編修及び編修者        一一七  
  一 勅撰修史事業と「日本書紀」          一一七
  二 「日本書紀」の編修                一一九
  三 「日本書紀」の編修者               一二二
  四 六国史の撰修                 一二五
 第三節 「日本書紀」の資料及び編修法        一二六
  一 「日本書紀」の資料              一二六
  二 「日本書紀」の編修法             一二九
 第四節 「日本書紀」の伝承             一三二
  一 「日本書紀」の写本              一三二
  二 「日本書紀」の版本              一三六
  三 「日本書紀」の注釈書             一四一
 第五節 「日本書紀」の文体と訓み方         一五九
  一 「日本書紀」の文体              一五九
  二 「日本書紀」の訓み方             一六〇
 第六節 「日本書紀」の内容             一六一
  一 「日本書紀」の内容の特色           一六一
  二 「日本書紀」全三十巻の内容          一六三
第四章 「古事記」及び「日本書紀」の価値       一六五
 第一節 「古事記」と「日本書紀」の比較       一六五
  一 「古事記」と「日本書紀」の異同        一六五  
  二 「古事記」と「日本書紀」の優劣        一七〇
 第二節 歴史としての価値              一七五
  一 価値観と歴史観                一七五
  二 神話・伝説及び史実と文学歴史         一七八
 第三節 文学としての価値              一八一
  一 文学観                    一八一
  二 神話・伝説及び史実と文学           一八三

 明日は、これらの中から、第二章第三節の〔一〕〝「古事記」の資料〟を紹介したいと思う。

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