礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

戦争終結は抗戦意志の崩壊から

2017-08-30 03:52:44 | コラムと名言

◎戦争終結は抗戦意志の崩壊から
 
 時代が、だんだんとキナ臭くなってきた。こういう時こそ、「歴史」に学ばなければならない。
 東健一〈ヒガシ・ケンイチ〉著『防空の化学』〔科学新書37〕(河出書房)という本がある。今次大戦下の一九四二年(昭和一七)九月に初版が出た本で、いま私が手にしているのは、一九四三年(昭和一八)八月に出た「二版」である。
 これを読むと、今次大戦においては、可燃性木造家屋の集合である日本の都市が、敵航空機による「空襲」に対処できなくなった段階で、日本の敗戦は決定的となったということがよくわかる。 

 第 一 章 焼 夷 弾
   Ⅰ. 序 説
 左府〔藤原頼長〕則、「合戦の趣はからひ申せ」との給ひければ、畏而、「為朝〔源為朝〕久しく鎮西に居住仕て、九国の者ども従へ候に付て、大小の合戦数をしらず、中にも折角の合戦廿余ケ度なり。或は敵にかこまれて強陣を破り、あるひは城を責て敵をほろぼすにも、みな利をうる事夜討にしく〔如く〕事侍らず。然れば只今高松殿に押よせ、三方に火をかけ、一方にてささへ候はんに、火をのがれん者は矢をまぬかるべからず。矢をおそれむ者は火をのがるべからず。主上の御方心にくくも覚候はず。(中略)未天の明ざらむ前に勝負を決せむ条、何の疑か候べき」と、憚る所もなく申たり。
 以上は保元〈ホウゲン〉物語*、新院軍評定の一節である。鎮西八郎為朝の火攻〈ヒゼメ〉の献策は左大臣頼長の容る〈イルル〉ところとならず、却つて官軍によつて味方の本拠を焼かれ、
 即院の御所へ猛火おびただしく吹かけたれば、院中の上﨟〈ジョウロウ〉女房、女童〈オンナワラワ〉方角をうしなひ、呼ばはりさけんでまどひあへるに、武士も是が足手まとひにて、進退さらに自在ならず。落行〈オチユク〉人の有様は、嶺の嵐にさそはるる、冬の木葉〈コノハ〉にことならず。
 *岸谷誠一氏校訂 保元物語(岩彼文庫)に拠る。
 かくて勝敗は一挙にして決したのであつた。若しも保元物語の記述が真相を語つて居るとすれば、勝敗の岐路はまさしく焼夷戦法の採用如何にあり、物語を飾る鎮西八郎為朝の勇戦奮闘は単に局部的の勝利を齎らした〈モタラシタ〉に過ぎなかつたのである。
 歴史上戦争に火を応用した例は甚だ多いが、近代航空機の発達と共に焼夷爆弾として都市の攻撃に利用されたのは、第一次大戦の独軍英都空襲に始まる。その当時は使用した焼夷弾の数も少く、ツエツペリン飛行船が英本土に落した数は約2000個に過ぎなかつた。然るに今次大戦に於ては、昨年〔一九四一〕4月に独空軍が英国攻撃に用ひた焼夷弾は800,000個に達したと云ふ*。英都は消防用大型ポンプ3000台を備へ且つ高射砲2400門を以て防禦して居るにも拘らず、同年1月22日のロンドン空襲に際しては1200個所に火災を生じたと云ふ。元来欧洲大都市には不燃性建築物が多く、焼夷弾の効果は比較的に尠い筈であるが、現時に於ける焼夷弾の流行はその戦術的価値の増大を物語るものであらう。
 *難波〔三十四〕中佐、現時局下の防空、(昭和16)講談社〔大日本雄弁会講談社〕に拠る。
 一面焼夷弾の流行は航空機の発達に伴ふ近代戦の特徴を端的に示すものである。或る軍人は近代戦の要素を分類して前線の兵士、軍需生産力及び一般民衆の三種とした*。焼夷弾の使用は後の二要素の破壊を目的としたものである。
 又焼夷弾による大火災の発生は敵国市民の精神を動揺せしむるに有効である。由来火災によつて住居を失つた民衆間には流言が発生し易いと云はれ、また不平不満、当局に対する反抗の情に駆られ易いと云はれる。いづれも戦時下に於ては甚だ危険な事態であると云はねばならぬ。戦争の終結が抗戦意志の崩壊に基くことは古今の鉄則で、一時的にせよ、敵にこのやうな危険な精神の動揺を齎らし得る手段は戦争遂行上甚だ有効と考へられるのである**。
 焼夷弾の攻撃に対して特に注意を要することは、我国の都市が総て可燃性木造家屋の集団より成る事実である。内田祥三博士の統計***によれば、世界第一の大火は我国の大正12年〔一九二三〕関東大震災による東京の火災であるが、第三の大火も同震災による横浜の火災、第五も亦昭和9年〔一九三四〕の函館の大火であつて、我国は大火の世界記録の第一、第三、第五を持つのである。一方出火度数を調査すると、東京市の統計は3450人につき年1回であつて、これを外国の都市に比較すると甚だ少く、欧洲の諸都市の3分の1、アメリカの17分の1に過ぎない。従つて、日本人は欧米諸国の人々に比して著しく火の用心がよいにも拘らず、木造家屋の特質上一旦出火すると、延焼して大火になる確率が甚だ大きいのである。
 * Major Endres :“Giftgas Krieg,”1928, Zürich.
 **Dr. Leonhardt :“Der chemische Krieg, Luftschutz und Gasschutz” 1938, Frankfurt am Main.
 ***防空事情 (昭和15)11月号に拠る。【以下、次回】

今日の名言 2017・8・30

◎火災によって住居を失った民衆間には流言が発生し易い

 東健一著『防空の化学』(河出書房、1942)に出てくる言葉。東健一オリジナルの言葉ではないようだ。上記コラム参照。

*『防空の化学』の紹介の途中ですが、都合により、明日から数日間、ブログをお休みいたします。

 
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帝国憲法を全体的に改正する必要はない(佐々木惣一)

2017-08-29 04:12:25 | コラムと名言

◎帝国憲法を全体的に改正する必要はない(佐々木惣一)

 磯崎辰五郎著『統治行為説批判』(有斐閣、一九六五)から、〝佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について〟という論文(初出は、新教育懇話会叢書第八集『佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について』新教育懇話会、一九六一)を紹介している。本日は、その三回目。

  二 佐々木博士憲法案の内容
 考 査 の 構 成
 さて佐々木〔惣一〕先生がどういうようなものを奉答されたか、そのお仕事としてどういうものが出来ておるか、このことを見て行きたいと存じます。
 天皇に捧呈されました奉答書は一括して「帝国憲法改正の必要」という題になっておりますが、先ず、帝国憲法を改正する必要があるかないかを考査する必要について論じ、これを考査する必要があるとし、そこで考査を進めると改正の必要がある、しかしそれは全体的改正ではなく、部分的改正を以て足ると断じ、然らば具体的にどの条文がどういうように改正されるか、また新たに加えるべきものはどういう条文かについて、検討整頓し、それから今お手許にお配りしてある「現憲法と憲法案の対比」というものが出て来るのであります。勿論、現憲法というのはその当時の憲法、即ち帝国憲法でありまして、「憲法案」というのは佐々木先生の改正案ですね。そういうように両方を見較べてよく分るようにし、それから最後に「理由書」、何故そういうように改正するのかという理由を遂条的に説明したものを付けられてあります。
「理由書」というのは、近頃はあまりありませんけれども、わが国でも民法が最初に出来た時には「民法理由書」というものがつくられておりました。重要な法案には理由書を付けるべきだと先生はお考えになり、帝国憲法改正という事は極めて重要なことであるから是非それを付けておかないといけない。というので「理由書」を付けておられる。そして、備考として、憲法を改正した場合にこれとの関連において必要となってくる法令の要綱を、(その一)法律「憲法事項審議会法」要綱、(その二)法律「特議院法」要綱、といったように五つばかり掲げてあります。以上が「帝国憲法改正の必要」の内容の一瞥〈イチベツ〉であります。わずかに一月位の間に先生独力でこのような体系的な大仕事をなさったのでありますから、全く驚くほかありません。以下これについて若干申し述べて参ることに致します。
 考 査 の 主 旨
 先ず、先生は、憲法改正という事が一体可能かどうかということを考察されます。帝国憲法は御承知の通り、「下磨の大典」といわれていたので、改正ということは出来ないのではないかという意見も勿論あった訳ですが、しかし不磨の大典というのは容易に改正してはいけないという趣旨であって、絶対に改正してはいけないということではない。それ故にこそ、帝国憲法にも七十三条に改正に関する規定をちゃんと設けておる、憲法の改正は許されておる、ということを明かにし、然る後、憲法改正はそのように理論的に可能なのであるが、今度その帝国憲法を改正するの実際的必要があるかどうかという問題に及び、それはやはり改正する必要があると結論づけておられます。何故改正する必要があるかといえば、兎に角〈トニカク〉敗戦になって国家が立ち直らなければならぬ、国家再建にふるい立たなくてはならぬ、そのためには帝国憲法の理念だけでは不十分な所がある。またこれから我が国が平和的に世界使命を達成して行くためにも、憲法を改正する必要がある。そういうことを非常に緻密に論じられております。
 次にどういう方向への改正が必要なのか。それについては先ず国体及び政体は改正する必要はない。先生は固くそういうふうに考えられた訳であります。万世一系の天皇がわが国に於いてま統治権を総攬〈ソウラン〉せられるということは、これはわが国の歴史始まってからのことであって国民にもその信念が滲透〈シントウ〉しておることであるから、それを憲法を改正するからといって動かす必要はない。それは単に国内的な面から見てそうであるのみならず、世界的使命を達成するという方面から見てもその必要はない。何故かと言うと、各々の国が世界的使命を達成するには、その国々の独自性、特殊的な性格を持ったまま寄与すればそれでよいのであって、みんな一律に、同じような体制でなければならないというものではない。それぞれの国がそれぞれの特色を持ちながら協力してこそ世界人類の平和に貢献することが出来るのであるから、この点から言っても何も日本の国体を変える必要はない。こういうように言っておられます。先生は、後に貴族院議員として今の日本国憲法が帝国議会で審議された時種々参画されましたが、その最後のですね、いよいよ貴族族に於いてこの憲法改正案に賛成するか否かの表決の時、皆さん御承知の様に、先生は反対演説をされた只一人の人であります。その反対の理由の中にも、この点を力説されております。この事はその当時の議事録に載っておりますし、この「憲法改正断想」という先生の書物の中にもそれが再録されておりますが、天皇が我国に於いて如何に必要であるかという事を、項を分けて詳しく説かれて、そういう根本のところが変わるという事に自分は賛成出来ない。帝国憲法改正案の個々の規定について見れば随分進んだ規定もあるし、立派な規定もあるけれども、しかし、一番根本の所でどうも自分は賛成しかねる、と貴族院の壇上から反対演説をされておるのであります。この御考えは先生の憲法改正の考査の時から一貫せられておる訳ですね。
 また天皇が統治権を行わせられる場合に憲法に則って〈ノットッテ〉なさらねばならない、ということ、即ち立憲政体も変更する必要はない。しかしこの政体については、政体自身を変える必要はないが、しかしながら国民の意志によって政治が行われるという体制を一段と徹底させる必要がある。帝国憲法に於けるそれの不徹底から、とかく独断的な政治が行われた訳だから、そういう事のくり返されないよう政治上の民意主義を徹底させる必要がある。そうするためには国民の個々の行動上の自由というもの、即ち職業の自由とか学問の自由とかいうものを一層広く認め、しっかり保障する必要がある。そういう見地から条文的にも、或は新しい条文を付け加えたり、在来の条文に改正を加えたりしておられます。
 先生は憲法の改正については、内容だけでなく、その形式のことも十分考慮しなければならないとされ、次の諸点に触れておられます。まず、帝国憲法の全体的改正は避け、部分的改正にとどめるべきである。なる程、改正の必要は今日非常にあるけれども、しかし全体的に改正するという程の必要はない。また明治天皇が臣下の者と力を合わせてあれだけ御苦心なさって作られた帝国憲法を、全体的に改正するのは適当でないし、もし全体的にこれを改正するというような事になると、国民が憲法を尊重するという信念が薄くなるのではないか、それが心配される、といわれて部分的改正を主張されます。
 それからはやはり憲法の改正の形式に関連することでありますが、アメリカあたりでは、憲法を改正する時には「憲法増補」というものを作り、前の憲法はそのままにしておいて「憲法増補」をこれにくっ付ける。次に改正すると、次の「憲法増補」が出来る。こういうように憲法がある意味では幾つも出来るという形になります。こういうのはどうも適当と思われない。帝国憲法の改正はそうしないで、帝国憲法の条文そのものを加除してあくまでも帝国憲法という法典にすべきであって、別の帝国憲法増補というようにはしない方がよい。
 またなるベく帝国憲法を重んずるという事から、章の順序とか章の題名とかも、改めなくてもよいところはできるだけそのままにしておくべきだ。しかし、新たに設けるという場合はやむを得ない。更に、条文を新しく如える時には、今頃の法律を皆さん御覧になると分りますけれども、第何条というのがありますね、その次にその第何条の二、第何条の三というようにして新たな条文を如える事が多いのです。しかしそういうのは憲法としては適当でない。だから新しい条文は第何条として適当なところへ挿入し、従来のを順にくりさげる、というような事にまで細い〈コマカイ〉注意を払っておられます。
 一寸申し忘れましたが、憲法改正につきましては、最初は幣原〔喜重郎〕首相や亡くなられた美濃部達吉博士などは、改正しなくてよい、解釈、逋用によって事足りる、と大いに論じておられたのでありますが、これに対して佐々木先生はそうじゃない。解釈、運用に委ねられるということになると、とかく悪く解釈し、悪く運用される、そういう事によって今日の敗戦を来たしたのではないか。だから解釈、連用というだけでは足らないのであって、やはり正しく解釈されるように、正しく運用されるように憲法の規定それ自身を改正しておくべきだ。こういうように言われて改正の必要を認められました。この点なども、先生の事態認識の的確さがよくあらわれていると思います。
 考 査 の 詳 細
 もう時間もあまりありませんが、少し改正内容の細い点について二、三申し上げて終りたいと思います。
 一つこの「対比表」(巻末添付)を御覧頂きましょう。先程申しましたように、国体は変えないというのであります|から、天皇に関する規定の所では大きく変わった所は少ない。しかしながら政治上の民意主義を徹底せしめるという線に沿った改正はかなりなされております。【この間、約七ページ分を略】
 要するに先生の案によりますと、国体とか政体をそのままにしておくという根本の所は、今のいわゆる進歩的文化人から見ると「何だ保守的ではないか」と思うかも知れませんが、しかしその当時には国体を変えようなどと考えたのは共産党に属する人々だけで、その他個人乃至団体から出された改正案で国体を一変しようというのは一つもなかった訳ですから、その点に於いては佐々木先生が特に保守的でも何でもなかったのです。而もそれ以外の点では非常に多くの新しい、そして進んだ規定が考案せられており、その点では全くユニークな憲法案であったことは、上述したところで御承知いただけたかと存じます。

  結 言
 以上不十分でありますが、佐々木先生の憲法改正の考査についての御話を終ることに致します。ただ、私が本日この御話を致すことは予め佐々木先生に申し上げてあり、またこれ(「現憲法と憲法案の対比」)をプリントすることについても御許しを得てありますことをつけ加えておきます。どうも長時間しゃべりまして、甚だ御退屈であったことでしょうが、お許しを願います。(拍手)

 磯崎辰五郎の論文〝佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について〟には、このあとに、「附録 現憲法ト憲法案ノ対比」というものがある。続いて、これを紹介したいと考えているが、とりあえず、明日は話題を変える。

*このブログの人気記事 2017・8・29(10位にかなり珍しいものが入っています)

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内大臣府は1945年11月24日に廃止

2017-08-28 03:57:15 | コラムと名言

◎内大臣府は1945年11月24日に廃止

 磯崎辰五郎著『統治行為説批判』(有斐閣、一九六五)から、〝佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について〟という論文(初出は、新教育懇話会叢書第八集『佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について』新教育懇話会、一九六一)を紹介している。本日は、その二回目。

 佐々木博士の考査着手
 佐々木〔惣一〕先生はそれから一たん京都に帰り、色々な準備をされて〔一九四五年〕十月の二十一日に再度東上、箱根宮の下の「奈良屋旅館」というのに泊られて、その仕事をなさることになったのであります。爾来、先生は非常に熱心に研究され、着々とこの考査の仕事を進めていかれるのでありますが、勿論これは近衛〔文麿〕公と共同の建前〈タテマエ〉になっておりますので、近衛公もしばしば箱根に来られ、佐々木先生と共同研究、打ち合せをされました。ここで一寸〈チョット〉申し上げておきたいのは、その当時、近衛公などが内大臣府で憲法改正の考査を始めるということが新聞などで公けにされた時に、政府側、これは幣原〔喜重郎〕内閣で、御承知の通り松本烝治国務大臣が憲法関係を担当されたのでありますが、その松本国務大臣とか、東大の法学部の教授だった宮沢俊義氏などから、憲法改正のことは内大臣府がやるべきではなく、政府がやるべきものだ、という意見が公にされておりました。佐々木先生はそれに対して、十月二十一日付毎日新聞に、「内大臣府と憲法改正の考査」と題した一文を発表されましたが、それは、帝国憲法には国務大臣は天皇を輔弼〈ホヒツ〉するとあり、内大臣府官制には内大臣は天皇を輔弼するとあり、どちらも天皇を輔弼することになってはいるけれども、しかしながら両者の間には性質上の差異がある。即ち政府の輔弼は、天皇が国務として或る行為を現実に行わせられるべきか、行わせられるべきでないかという事を進言する。内大臣府の輔弼というのは、常時輔弼といって天皇が、国務に関すると否とを問わず、御行動をお取りになられる際の御判断の参考のために意見を上ることである。だから憲法の改正に関して、天皇が現実の行為を行われることについて輔弼することは勿論政府でなければ出来ない。けれども天皇が憲法の改正の問題について御行動されるときの御判断の御参考までに、勅命を受けて内大臣府においてこれを考査し意見を上るということは、内大臣府の当然の職責であって憲法違反でも何でもない、それをそうでないように言うのは、二つの輔弼の性格を混同しておるからだ、という見解を公けにされました。
 ところで、内大臣府の仕事に刺戟〈シゲキ〉されたか、政府の方でもやはり松本国務大臣を中心にして、「憲法問題調査委員会」というものを作り、その総会又は委員会がぼつぼつ始まるようになりました。佐々木先生にもこの憲法問題調査委員会の顧問の一人になってくれるよう政府から依頼があったそうです。しかし先生は、内大臣がやっておる仕事を政府が憲法違反だというような態度を改めないのに、自分がそれを引き受ける訳にはいかぬ、というので、はっきりお断わりになっているのであります。
 考査の打切と佐々木博士の奉答
 それはともかく、こちらの箱根の方ではだんだんと仕事を進めておられたのでありますが、十一月二十日に近衛公が見えまして、「いよいよ内大臣府はこの二十四日に廃止になることに決まった」という報告がなされました。これは、内大臣府が現に憲法改正の考査を始めておるにもかかわらず、それが何時〈イツ〉済むかというような事について何の相談もせずに、一方的に内大臣府を二十四日に廃止してしまうと、こう決まってしまったのでありますから、ある意味に於いては内大臣府の仕事を打ち切らす魂胆だというようにも受け取られます。
 この報告をお聞きになった時に、佐々木先生は非常に憤慨なさった一幕もあるのでありますが、やがてその感情を押えられて、近衛公と話し合って、近衛公は要綱的な簡単な奉答をする、佐々木先生は兎に角〈トニカク〉或る一つのまとまった文書になったものを急いでこしらえて奉答するということになり、それでまず二十二日に近衛公はその要綱的な奉答をされ、次いで翌二十三日に佐々木先生は大急ぎでまとめた文書を以て奉答されたのであります。二十日までは割合にゆっくりとやって来られました。大体十二月一ぱいにこの仕事を終ればよいと考えておられた様ですが、右に述べ.た通り十一月二十日になって、急にその二十四日に内大臣府廃止というのですから、二十三日中に何んとしてでも奉答しなくてはならないことになりまして、これからその両日間の佐々木先生のお働きというものは全く驚歎のほかありませんでした。夜を日に次いで先生のぺンは走りつづけたのであります。
 われわれは、―われわれと言いますのは京大の大石義雄教授、現在は京大ですが、その時は東淀川高工の校長をしておられましたその大石教授と、それから私とでありますが、われわれ二人が清書する訳ですけれども、二人の清書の方が追いつきかねる有様でした。これはやはり常日頃〈ツネヒゴロ〉十分に研究を積み、蓄えるところが非常に多くなければこういうふうにうまくはいかないだろうと、改めて先生の学識というか蘊蓄〈ウンチク〉というか、そういうものの深さをしみじみと感じ入った次第であります。それで、佐々木先生の奉答が二十三日にやっと間に合いまして、それから二十四日に佐々木先生は宮内庁で天皇陛下に御進講申し上げました。
 このようにして一応大任を果された。尤も細かに言いますと、なお後に述べますが、理由書というものがどうしても間に合わなかったものですから、それは後から差し出すという事になり、御進講を済ませた後二、三日かかってこの理由書を書き上げ、それでいよいよ先生が任を果されて京都へお帰りになったのが十一月二十八日。こういうことになっております。
 ここで一寸余計な事ですけれども、佐々木先生がその当時作られた俳句の二、三を御紹介しておきましょう。
 まず「箱根山居」と題して、「寒冷の秋にこもりて任重し」。奉答書を捧呈した時の句は「山を出て御所へいそぐ日小春なる」。それから御進講を終えた時のほっとしたお感じですが「さがり来て漸く感ず寒さかな」。御進講を済ませての帰りに先生は明治神宮へお参りされました。その時「明治神宮参拝」と題しまして、「から風や社頭に祈る老一人」の句があります。なお二十八日にいよいよ先生が京都に帰られるというその前日の夜に、宿のお上さんの頼みにより記念帳に書かれましたのは、「皇国新興道如何、按法在此老書生」という文字でした。
 それはともあれ、政府の方の憲法の調査も、総会とか委員会がぼつぼつと開かれておりましたが遅々として進まず、いわゆる松本四原則の発表とかいろいろな経緯がありまして、漸く翌年(二十一年)の三月六日になって、政府の憲法草案要綱が出て、初めて帝国憲法をどういうふうに変えるかという具体的な政府側の構想が明かになった訳であります。【以下、次回】

 この箇所を読むと、近衛文麿、佐々木惣一による「憲法改定」の作業を補佐したのが、大石義雄と磯崎辰五郎の両名であったことがわかる。
 礒崎によれば、「われわれ」の役割は、佐々木博士の文章を清書するというものだったという。しかし、これは過度に控え目な言い回しと言うべきであろう。実際のところは、両名とも、佐々木博士に協力する形で、「憲法改定」の作業に深く関与したと理解するのが自然である。

 
 
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佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」(1945)

2017-08-27 01:52:12 | コラムと名言

◎佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」(1945)

 今月二三日のコラム「佐々木惣一は老顔を赤くして激怒した」では、花見達二著『大転秘録――昭和戦後秘記』(妙義出版株式会社、一九五七)から、「佐々木博士大いに怒る」の節を紹介した。
 同節には、次のような部分があった。

 やっと佐々木〔惣一〕を鎮めた近衛〔文麿〕は、佐々木を内大臣府御用掛に推した。やがて箱根の奈良屋別館に近衛、佐々木、それに佐々木の門弟磯崎辰五郎(現大阪大学教授)が助手となり、十一月末までかかって改正草案の作成に従事した。

 磯崎辰五郎(一八九八~一九九〇)は、憲法学者・行政法学者で、花見達二の言うように、佐々木惣一の門弟であって、師の「改正草案」作成に協力した。戦後、大阪大学法学部の創設に関わり、また学部長としても活躍したという。
 今、机上に、磯崎辰五郎著『統治行為説批判』(有斐閣、一九六五)という本がある。「いわゆる統治行為を肯定する学説の批判」(初出一九五九)」、「統治行為説批判」(初出一九六三)などの論文を集めた論集である。
 その論集の最後に、〝佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について〟という史料的価値に富む論文が置かれている。初出は、新教育懇話会叢書第八集(新教育懇話会、一九六一)の『佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について』である。
 本日は、この論文を紹介してみよう。  

 佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について

   緒 言
 磯崎であります。一月の講演は大体京大の下程〔勇吉〕先生にお願いする予定であったようでしたが、先生の御都合がお悪いので、私に「何かやらないか」という御交渉がありましたが、私はどうも適当な講演の題を持ち合せませんでして、お断わりに上っていろいろ話しておりましたところ「佐々木先生の憲法改正のお仕事などもひとつ話して頂いたら」、こういうようなお話でございましたので、お引受けしたのであります。内大臣府で帝国憲法の改正の考査をしたということは、世間に割合よく知られておりますけれども、それならどういうような内容がそこに盛られておったかということについては、実はあまり知られておりません。というのは、これは後からも触れますが、天皇の御判断の御参考までに奉答申し上げたのであって、ある意味では内々のことでありましたし、また奉答された考査の結果を公表することにつき、佐々木先生は宮内庁にまで御許可を願い出てこれを得ておられたのでありますが、ついに公表せられずに今日に至っておるのでありますから、一般の人には考査の内容が知られていないのが当り前でございます。そこで私は、そういう改正の考査にたずさわれる経過であるとか、それの方針であるとか、それの内容であるとか、というようなことを簡単にお話し申し上げようと存じます。

  一 佐々木博士憲法考査の経緯
 マッカーサーの憲法改正示唆
 先ず、どういういきさつから内大臣府が憲法改正の考査をすることになったか――このことは実際は一番肝心なことでありますが、しかしそのことは必ずしもはっきりと致さないのであります。亡くなられた近衛〔文麿〕公がマッカーサーと会見した際に、マッカーサーが憲法改正のことを示唆したので、近衛公が内大臣の木戸〔幸一〕侯と話し合って天皇に申し上げ、それで始まったということでありますが、近術公とマッカーサーとの間の会談がどの程度の内容のものであったかということは、どうも私共にはつっ込んで知る由もないのであります。しかし、近衛公が木戸〔幸一〕内大臣と相談をしまして、いよいよ帝国憲法の改正のことを考査しようということになったときに、近衛公は自分一人では十分にやれない、誰かにその協力を求める必要がある、佐々木惣一博士にこの際ひとつ起って頂こうと考えられたことは間違いありません。佐々木惣一先生は、実は近衛公が京大法学部の学生であった時の恩師の一人です。内大臣の木戸侯もやはり京大法学部の卒業生であります。昭和二十年〔一九四五〕十月九日に近衛公は、秘書の細川護貞という人を京都の佐々木先生の所に遣わしまして、先生に協力を懇請されたのであります。佐々木先生は事が重大でありますから、容易に起とうとなさいませんでしたが、とにかく一度東京へ行って近衛公に会って見てほしいということでしたので、十月十二日に上京されました。そこで近衛公や木戸侯から再三「是非ひとつ」というお願いがあったものと見え佐々木先生もことわり切れずにお引受になりまして、十三日に内大臣府御用掛をおうせ付けられました。これより先十一日に近衛公は内大臣府御用掛になっております。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・8・27(3位に珍しいものが入っています)

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アマゾンの広告に出てくるメグロの車種は?

2017-08-26 03:00:39 | コラムと名言

◎アマゾンの広告に出てくるメグロの車種は?

 ここしばらく(二〇一七年の八月中旬および下旬)、ヤフー・ジャパンを開くと、その右上に、「バイク」をテーマにした、アマゾンの広告動画があらわれる状態が続いている(本日も見た)。

 ――バイクでツーリング中の若者が、母親からのメールを見て、祖母の家に立ち寄る。祖母は一人暮らし、高齢で、やや足をひきずっている。
 古びた物置に入る若者。そこに、ホコリをかぶった古いバイクが一台。フロントフェンダーの風切りに「MEGURO」とある。ガソリンタンクのエンブレムも、「メグロ」特有の大きなもの(金属製で七宝が施されていた)のようだ。太いエキゾーストパイプが、エンジン前方から右下に向かって伸びているが、この画像だけでは、このバイクが単気筒か二気筒なのかわからない。
 部屋に戻った若者は、若いころの祖父母の写真に目を止める。二人はメグロの前に立っている。ツーリングに行ったときの写真だろうか。写真のバイクには、やはり、「MEGURO」という風切りが付いている。物置にあったメグロだ。
 その写真を見たあと、台所に立つ祖母を見つめる若者。何かひらめいた若者は、スマホを取り出し、アマゾンに何かを注文する。
 そして翌日。祖母の家に宅配業者が荷物を届けにくる。何かと思いながら、荷物を受け取る祖母。ハコを開いて、驚く祖母。
 場面変わって、田舎の一本道を疾走する二人乗りのバイク。運転しているのは例の若者だが、その後部座席に座っているのは、何と、その祖母である。祖母は、大きな星のついた白いヘルメットをかぶっている(これが荷物の中味だったというワケ)。孫にしがみつき、うれしそうな表情を見せる祖母。

 なかなか良い広告である。広告動画というよりは、良くできた短編映画の趣がある。
 この広告が作られたキッカケを、推定してみた。どこかの田舎で、スタッフのひとりが、ひとりのおばあさんに出会い、昔のバイクの写真を見せてもらう。今や懐かし、「メグロ」である。聞けば、そのバイクは、まだ物置に眠っているという。見せてもらうと、たしかに、写真のメグロである。
 スタッフは、これは広告の材料になると確信する。こうして出来たのが、この動画ではなかったのか。
 ひとつ気になったのは、このメグロの車種である。ヘッドライトの左右に、楕円形のウィンカーが付いているところからみて、最も後期のメグロであろう。一九六〇年代前半に作られたものか。
 このメグロの車種が、すぐにおわかりなったマニアの方も、少なくないことと思う。お教えいただければ嬉しい。また、アマゾンのスタッフの方々には、差支えのない範囲で、「情報の開示」をお願いできれば幸いである。

*このブログの人気記事 2017・8・26(6・8位にかなり珍しいものが入っています)

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