礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

書斎の柳田先生は、白い足袋に草履だった(戸板康二)

2023-10-31 04:43:03 | コラムと名言

◎書斎の柳田先生は、白い足袋に草履だった(戸板康二)

 作家の戸板康二(1915~1993)に、『わが交友記』(三月書房、1980)というエッセイ集がある。名著だと思う。
「わが先人」と「わが交友」の二部からなり、「わが先人」の冒頭に置かれているのは、「柳田國男」というエッセイである。本日は、これを紹介してみよう。

  柳田國男

 昭和十五年〔1940〕の春に、成城の柳田國男先生の書斎にはいる機会を持った。
 そのころ勤めていた明治製菓の宣伝誌「スヰート」のために、原稿をお願いしに行ったのである。この碩学【せきがく】が一日の大部分をすごしている場所を見た経験は、鮮烈である。
 俗に万巻の書というが、ざっと二十畳ほどの部屋の三方に本棚があって、床の中央に一段高い台が置かれていた。その台の書卓の前に先生は腰かけ、しずかに煙草を吸いながら、ぼくの話を聴いて下さった。
 袴【はかま】を着け、白い足袋に、スリッパでなく、草履だった。その姿はキリッと、何ともいえない大人【グラン・メートル】の風格であった。
 神田や本郷の古書店に行けば、先生の書斎に数倍する書物がならんでいるにちがいないが、成城という町にあって野鳥の声の聞こえる柳田家の本は、いつでも索引できる主人の知識と直結している点で、一冊一冊 が、意味を持ち、相互に関連しあっている感じがある。書架のすべてが、 充電していた。
 そのひとつの証拠として、「小豆の話」という論文をいただいた御礼 に、宣伝部長の内田誠さんと先生を訪ねた日、食物誌を書こうとしていた内田さんが、玉子売りについて質問した時、「それは七部集にありますよ。大川では舟で売りに来るんです」といいながら、本棚の或る所から、スーッと一冊活字本を引き出す呼吸の、名人の至芸に似たみごとさを見ている。ぼくの本棚にも七部集はあるし、それが置いてある所にすぐ行けはするが、あのおびただしい書物の密林を背景にした、柳田先生のそういう挙止は、いま思い出しても、遠い日に見た名舞台のようである。
 柳田先生は、多くの弟子に、民俗学のいろいろな分野を、それぞれの向きに応じて、研究させたと思われる。逆にいえば門下生の専攻したすべてを総合した学問を身に体していたのだから、超人的だったというほかない。「君にはこの仕事がいい」とすすめる時の先生には、弟子が興奮せずにいられないふんい気があったのではないだろうか。
 内田さんが「日本の食物について調べております」といった時、先生は莞爾として、「それこそ、あなたのような人に、してもらわなければならないことだ。本朝食鑑をまず、読むといい」といった。内田さんは感激して、帰りに車を神田に走らせ、一誠堂で日本古典全集を早速購入していた。
 柳田先生をはじめて見たのは、日本民俗学大会が行われた昭和十一年〔1936〕の夏で、全国から集まった学者が、自分の住んでいる町や村に伝わっている習惯について報告する時の座長としてである。ひとつの報告があると、「それに似たことが、まったく別の土地にある」と、ただちに挙げられる。それも県、郡、村まで、正確に、スラスラ出て来るのだ。どういう頭なのだろうと思った。年譜を見ると、この年、先生、数えで六十二歳である。
 同じころ、先生の連続講義を、丸ビルの一室で聴講した。「一つ目小僧」の話で、神社の山門の矢大臣が片目であることだの、鎌倉権五郎景政が目を射られたことだの、そういう例が挙げられて行って、日本にも昔、片目をつぶしたイケニエ(先生はヒューマン・サクリファイスという表現をまじえた)があったのではないかという結論に持って行く。
 ひとつの引例に、何ともたくみな話術があり、うまい講釈を聴いているような陶酔があった。いつもそうなのかどうか知らないが、キメ手になる重要な例をひとつだけ大切に残しておいて、そういうところで、「ことがまだあります」と最後に提出する時に、先生はじつにうれしそうな笑顔を、見せるのだった。突飛な連想だが、欧米の名探偵が、事件の謎を絵解きする時の様子が、その講義と似ているような気がしないでもなかった。
 笑顔で思い出したが、ぼくが慶応で師事した折口〔信夫〕先生が、或る時、こんなことをいった。「演芸画報で、羽左衛門(十五代目)の権九郎の写真を見ていたら、柳田先生そっくりだ。いい顔なんだね、二人とも」
 ただし、この権九郎は、与三郎なんかとちがって、「黒手組助六」に登場、不忍池【しのばずのいけ】にはまって失笑される三枚目の番頭の役だから、柳田先生に伝えるわけには行かない雑談だが、折口先生のこういう直感は、するどかった。
 折口先生と戦争中、町を歩いていると、煙草屋の前で行列がある。時間をきめて、売り出していたのだ。そういう時、「あんたもおならび」と自分が先に、行列の尾につく。そんな行動を好まない人が、煙草だけは、貪欲に買おうとした。折口先生は煙草を吸う人ではない。買い溜めて、成城の柳田先生に届けるのであった。
 昭和十六年〔1941〕に、柳田先生をひとりで訪ねた。その時三つのことがあった。
 玄関をあけてくれた女性が、ぼくの学生の時、書斎の本を自由に読ませてくれた父の友人の家を手伝っていたひとだった。奇遇におどろいた。よくよく本に縁のあったひとだと思う。
 先生が最近出た本をあげようかといわれた時、だまっていればいいの に、「それは買わせていただきました」といって、署名本をいただき損った。第一、持っていても、折角そういわれたのなら、黙って頂戴すべきであろう。失礼をしたともいえる。
 先生の書斎にいると、来客があり、緊急の用事らしい。ぼくは部屋の隅の椅子に移って、待っていた。紹介されたから名前を覚えている。長岡隆一郎さんだった。
 「それは朝日も困っているだろう」。深刻な顔で、先生がうなずいている声が聞こえた。のちに考えたのだが、ゾルゲ事件について、柳田先生に知らせに来た客にちがいなかった。

 柳田國男、折口信夫両碩学に関する貴重な証言である。
 文中、「署名本をいただき損った」とあるが、戸板康二が、このとき、「最近出た本」を受け取ったとしても、署名はなかったであろう。柳田国男は、自著を贈るとき、署名をしない主義だったと聞いたことがある。

*このブログの人気記事 2023・10・31(9・10位に、なぜか伊藤博文)

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追悼・石崎晴己さん

2023-10-30 00:46:06 | コラムと名言

◎追悼・石崎晴己さん

 10月28日の東京新聞を見て驚いた。フランス文学研究者で、青山学院大学名誉教授の石崎晴己さんが、22日に亡くなられたと報じていた。
 石崎晴己さんと面識はなかったが、2020年のおわりごろから、足掛け四年にわたり、手紙やメールを通じてのおつきあいがあった。
 9月23日にも、メールをいただいていた。そこには、『続 ある少年H』の書評が週刊文春に掲載されたとあって、その書評のファイルが添付されていた(週刊文春2023年9月28日号、鹿島茂氏の「私の読書日記」)。
『続 ある少年H――わが「失楽園」』(吉田書店、2023年8月15日)は、『ある少年H――わが「失われた時を求めて」』(吉田書店、2019年6月1日)の続編にあたる。私は両編とも精読させていただき、アマゾンにレビューを投稿した(署名はkoishikawa)。
 本日は、追悼の意味を込めて、『ある少年H』(前編)のレビューを再掲する。

人はなぜ、失われた時を求めるのか
2020年12月7日に日本でレビュー済み
 著者の石崎晴己氏はサルトルの研究、ピエール・ブルデュー、エマニュエル・トッドなどの翻訳で知られるフランス文学研究者である。
 この本は、その石崎氏の自伝的回想である。興味深く、楽しい本である。読んでいて飽きることがない。特に私は、三章「性に目覚める頃」の「女性性器への適正な関心」のところが面白かった。
 ところで、なぜ氏は、このような本を書いたのだろうか。プルーストの『失われた時を求めて』や、サルトルの自伝的著作に触発されたのかもしれない。だとすれば、この本は、フランス文学研究者である著者だからこそ着想しえた(実際に書きえた)自伝的回想と捉えてよかろう。
 しかし著者は、たとえ、フランス文学研究者という道を選択しなかったとしても、似たような自伝的回想を世に問うたのではないか、と私は感じ取った。
 本書を読むと、氏には、その人生行路において、さまざまな選択肢があったようだ。家業であった鋳物工場の経営者になるという道もありえたであろう。得意の話術を活かし、落語家になるという道もあったかもしれない。天性の演技力を活かし、役者の道を選ぶこともできたろう。結果的には、フランス文学研究者となり、功成り名遂げられたわけだが、それでもなお、氏は、その人生行路において、何度となく直面した「選択肢」について振り返ることをやめない。いわば、「失われた時を求め」続けているのである。
 本書を読み終えて私は、オーソン・ウェルズの映画『市民ケーン』(1941)を想起せざるを得なかった。主人公のケーンは、屈指の富豪となって、世界中から貴重な財宝を集め続けた。しかし、ケーンにとっては、それらの財宝のすべてよりも、貴重なものがあった。それは、幼少時の思い出の詰まった、ひとつのアイテムであった(そこには、バラのつぼみが描かれている)。映画を観ている観客は、最後の最後で、そのことに気づき、アッと息を飲む。そういう凝った映画である。
 この『ある少年H』という本は、実に楽しい本だが、ただ楽しいだけの本ではない。読み進めている間は、気づかなかったが、これは実に凝った本である。同時に、人生について深く考えさせてくれる作品である。

 レビューで、映画『市民ケーン』に触れたのは、石崎さんが、たいへんな映画通であることを存じあげていたからである。
 ところで、その石崎さんの人生にとって、「バラのつぼみ」に相当する対象は、何だったのだろうか。この謎は、『続 ある少年H』を読むと、おのずから解けることになっている。

*このブログの人気記事 2023・10・30(8・9位は久しぶり、10位に極めて珍しいものが)

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真崎大将には磯部に対する負い目があった(原秀男)

2023-10-29 00:36:14 | コラムと名言

◎真崎大将には磯部に対する負い目があった(原秀男)

 原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)の「八 対決」の章を紹介している。本日は、同章の「異様な姿で磯部は現れた」の節の後半を紹介する。

 予審官は磯部証人に、「一月二十八日に真崎邸を訪れたのは何の用件で行ったのか」と尋ね、 録事が筆記する。以下、予審調書を引用する。
【一行アキ】
〈答 私共は昨年末頃から決行の意向を有したるを以て、軍首脳部の方の意向を打診する為行ったのであります。其の理由として、私共が決行するに付ては今度の如く兵を連れて行くことを軍首脳部の方はお知りになって居たと思いますが、兵を使うことに付ては私個人の問題でないから、軍首脳部の方の判然とした態度を知り度く思った為訪問したのであります。
 問 夫れで、真崎大将に如何なることを話したか。
 答 統帥権干犯に付て決死的な努力をしたい、相沢公判も本日から開かれることになったのであるから、閣下に於かれても御努力願い度いと云うことを申上げますと、閣下は初め私が訪ねたとき「云って呉れるな」と云われましたので之は私が非常な決心で行ったのを見て……其の様に云われたと思いました。私が前の様に申上げますと閣下は「俺もやるんだ」と云われました。それから、私は金が欲しいと云いますと、何程入る〔要る〕かと云われたので千円位欲しいと答えました処、夫れ位ならば何とかなるであろうと云われましたが、私は如何なる考えか千円出来ねば五百円でもよいと云いました。すると閣下は君は森伝を知って居るかと云われましたので、私は、余りよくは知らぬが知っては居ります、将軍は森氏を御信用の様ですが、私は考えが違いますと云いますと、俺は貧乏して居るので金がないから物でも売って作ってやろうと云われました。夫れから、森の方へ電話を懸けて見様〈ミヨウ〉と云われた様に思いますが、此の点は確かでありませんが、きっと作ってやると云われました。 〉
【一行アキ】
 たった今真崎大将が「『天地神明に誓ってない』『俺も決死的努力をする』と言った事実はない」、「家のものを売っても金を準備すると言ったことはない」、「森伝の名をこちらから言い出したことはない」と陳述したことを、磯部は「全部あった」と真崎大将の面前で明確に証言したのである。
 終わったところで、予審官は今度は真崎大将のほうを向いて、「磯部の陳述したことに対して如何に考えて居るか」と質問した。真崎大将は、
「私の記憶と相違しております。前に申上げた通りであります」
 と答えた。
 続いて予審官は、調書に被告人と証人に署名捺印をさせるために、録事がその場で筆記した予審廷の冒頭からのやりとりの記録(調書)を読み聞かせた。磯部はこの時、自分の証言を真っ向から否定する真崎大将の陳述内容を読んで聞かせられたわけである。その心中は、煮えくり返ったに違いない。しかも、磯部は対決の五日前に死刑の利決言い渡しを受けたばかりである。死んでも死に切れぬという思いが磯部を貫いたに違いない。
 予審廷は、わずか六畳ほどの狭い部屋である。真崎大将は、磯部が手を伸ばせば届くような近くに座っている。おそらく磯部はこの時、真崎に向かってつかみかからんばかりに叫んだであろう。
「閣下は大臣告示で私どもの行動を認めたではありませんか。あれをしっかり言うて貰えばいいんです」
 とでも。
 これに対して真崎大将は、「徐々に磯部を落ち着けた」と書いている。「落ち着け、落ち着け」といった発言があったのかもしれない。しかしこれは不自然である。一方は陸軍大将であり、磯部は免官となった大尉にすぎない。もし、自らの証言が真実であれば、磯部に向かって「嘘を言うな」と一喝すればよい。なぜ真崎大将は臆したような態度をとったのだろうか。大将の心中には、磯部に対する負い目があったと疑われてもやむをえない。
 後に真崎大将は、第六回公判でこの予審での「対決」について尋問され、
「私は怒鳴りつければよかったのだが、相沢中佐(あるいは磯部の言い誤りか)に同情していたので、怒鳴らなかった」
 と陳述している(この対決の七日前の七月三日は、相沢〔三郎〕中佐の死刑執行の日であり、対決のわずか五日前の七月五日は磯部に死刑の言い渡しがあり、刑務所では死刑囚のために面会を許可し始めていた)。
 加藤録事が筆記した調書を朗読したあと、予審官から「今読んだ調書に相違がなければ署名押印しなさい」と言われ、二人が署名する。
 藤井予審官は「本日の取調べはこれで終わる。帰ってよろしい」と言う。
 磯部を連れ出すのは看守の任務である。予審官であれ検察官であれ、法務官が囚人を連れ出すことは絶対にない。藤井法務官は大佐相当の高官、看守は下士官最下位の伍長待遇である。真崎大将が書いているように、藤井法務官が壇の上から降りてきて、真崎大将に喰ってかかる磯部を引きはなし、「君は国士だからそんなに昂奮しないように」と室外に連れ出したとすれば、藤并予審官は伍長待遇の看守がやるべきことをやり、看守は任務を放棄してこれを見ていたことになる。
 むしろ、
「真崎の言葉を聞いたか。お前たちが担いでいたのは、こういう人だったのだ」
 という思いで、元一等主計の磯部の肩を叩いて部屋を出ていった、と考えるのが自然ではないだろうか。
 調書には、真崎の答につづいて「被告真崎甚三郎」と「証人磯部浅一」がならんで自署、拇印をしている。つづいて、「右読聞けたるところ相違なき旨申立て署名拇印したり」と記載して、「陸軍録事 加藤七兵衛」と「予審官 藤井喜一」が自署押印している。調書の枚数は十四枚である。

 原秀男『二・二六事件軍法会議』の紹介は、ここまでとする。明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2023・10・29(8・10位に極めて珍しいものが入っています)

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磯部浅一は異様な姿で真崎大将の前に現れた

2023-10-28 00:01:10 | コラムと名言

◎磯部浅一は異様な姿で真崎大将の前に現れた

 原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)の「八 対決」の章を紹介している。
 本日は、同章の「異様な姿で磯部は現れた」の節を紹介する。やや長いので、前後二回に分けて紹介したい。

異様な姿で磯部は現れた
 問題の七月十日の予審詞書は、被告人真崎大将に対する尋問調書であり、磯部は証人としてこの予審廷に出廷している。真崎と磯部は予審官の尋問に答えるだけである。
 予審廷には、まず真崎大将が出廷し、予審官から磯部浅一の調書を読み聞けされ、これに対する意見があるかどうか問われている。磯部の調書の内容は、これまでに紹介してきた通りである。
 これに対して、真崎大将は言う。
 一月二十八日、磯部が来たときの会話について。
【一行アキ】
〈統帥権干犯問題に付き『決死的努力をする』と云ったのに対して『俺もやる』と云った様なことはありません。
 金の問題に付ても私が家のものを売っても準備すると云った様なことは全然ありません。
 問 (磯部は)翌日か翌々日頃被告をよく知って居るものから金五百円貰ったということであるが如何。
 答 私は判りません。
 問 一月二十八日、磯部が金の話をしたとき、森伝〈モリ・ツトウ〉を知って居るかと被告から言い出したということであるが如何。
 答 判りません。 〉
【一行アキ】
 真崎大将はここでも磯部の証言を、「そんなことはありません」「判りません」と全面否定したのである。この陳述内容は、録事がそばで筆記している。
 予審調書には次に、「予審官は磯部を入廷させた」との記載がある。
 それまで磯部は、看守に監視されて別室で待機させられていたはずである。看守に背後から「出廷。前へ進め。右、左」と号令をかけられながら歩行し、予審廷に入る。
 被告人が将校の場合は監房の外へ出るときは、必ず前庇〈マエビサシ〉のない灰色の戦闘帽のような帽子をかぶる。この帽子には、目のところに二つの穴があいているベールのような布を垂らしている。実に異様な姿である。そのような格好で、磯部は真崎の目の前に現れた。
 前掲の真崎手記によると、磯部は真崎に向かって「しばらくでした」と挨拶をすると、狂ったように興奮して「彼等の術中に落ちました」と言った、とある。真畸も「直ちに頷けるものがあった」と書いているところを見ると、「彼等の術中」とは統制派の陰媒という意味であろうか。
 ところが、このやりとりについては、調書には何もない。予審官は、予審官の問に対する二人の陳述を正確に記録して裁判の資料にすればよいからである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2023・10・28(8・10位に極めて珍しいものが入っています)

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磯部浅一、真崎大将と予審廷で対決

2023-10-27 02:22:51 | コラムと名言

◎磯部浅一、真崎大将と予審廷で対決

 原秀男の『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)を読んでいて、最も興味深かったのは、「八 対決」の章だった。
 同章は、〝「青年将校は私を買いかぶっているのです」〟「国士になれ」、「異様な姿で磯部は現れた」の三節からなるが、今回は、あとの二節を紹介したい。本日、紹介するのは、「国士になれ」の節の全文である。

国士になれ
 実は、真崎〔甚三郎〕大将と青年将校との対決は、一度だけ現実のものとなった。蹶起の中心人物であった磯部浅一が証人として真崎大将の予審の場で対決したのだ。昭和十一年〔1936〕七月十日のことだった。
 この「対决」については、磯部、真崎双方が、証言を残している。ところが、二人の証言は真っ向から対立している。
 戦後、真崎大将は次のように書いている。
【一行アキ】
〈昭和十一年七月十日、磯部と私は対決せしめらるることとなり、私は先に入廷し、磯部を待って居たが、間もなく磯部も大いにやつれて入り来り、私にしばらくでしたと一礼するや狂気の如く昂奮して、直ちに「彼等の術中に落ちました」と言うた。私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、術中とは何かと問い返したれば、沢田法務官(注・藤井法務官の誤り)は壇上より下り来りて「其れは問題外なる故触れて下さるな」と私には言い、磯部には「君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に」と肩を撫でて室外に連れ出し、これだけで対決を終った。何のことか分らぬ。私は不思議でたまらなかった〉(「暗黒裁判二・二六事件」「特集文藝春秋」昭和三十二年四月号)
【一行アキ】
 一方、戦後になって、仙台で発見された磯部の遺書には、次のように書かれている。
【一行アキ】
〈真崎とは七月十日に対决した。真崎は余に国士になれと云いて暗に金銭関係等のバクロを封ぜんとする様子であった。余は国士になるを欲しない。如何に極悪非道と思われてもいいから主義を貫徹したいのだ。だから真崎の言は馬鹿らしくきこえた、余は真崎に云った、大臣告示も戒厳軍隊に入りたる事もすべてをウヤムヤにしたのは誰だ、閣下はその間の事情を知っている筈だから純真なる青年将校の為に告示発表当時、戒厳軍編入当時の真相を明かにして下さい。これによって同志は救われるのです。閣下は逃げを張ってはいけない、青年将校は閣下を唯一のたよりにしているのだ。故に軍内部の事情を青年将校の為めにバクロして下さいと願って簡短に引きあげさせられた。
予審官たる藤井は余の論鋒をおそれてオロオロしていた、余等を死刑にしたのは藤井等だからおそるるのもムリはない〉(河野司編『二・二六事件』)
【一行アキ】
 だが私は、長い間納得がいかなかった。二・二六事件の軍法会議がいかに特殊な法廷であったとしても、二人が書き残したような予審廷の取調べがあるはずはない。予審廷は、被告人と証人に口喧嘩をさせて、どちらが正しいかを判定する場ではない。藤井〔喜一〕法務官はその後、日本最後の陸軍省法務局長として軍司法部の頂点に立った人である。こんな不思議なことをするはずがないと思ったのだ。
はたして、二人の対決場面は本当にあったのだろうか。
 対決の場面を記録してあるはずの予審調書は、これまで誰も見ることがなかった。予審を担当した藤井法務官は、何も語らず、何も書き残していない。
 その記録は、東京地検の記録の中にあった。はたしてあの二人の描く「対決」場面はいったいどういう状況で起こり得たのだろうか。予審廷を再現しながら、調書を読んでみよう。

 文中、「被告人と証人に口喧嘩をさせて」とあるが、この場合、真崎甚三郎大将が被告(反乱幇助の容疑)で、磯部浅一が証人である。磯部は、この予審の五日前に(同年7月5日)、死刑の宣告を受けていた。

*このブログの人気記事 2023・10・27(9位になぜかアスファルト・ジャングル)

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