礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

広津和郎と宇野浩二、そろって仙台高裁へ(1953)

2015-09-30 02:34:19 | コラムと名言

◎広津和郎と宇野浩二、そろって仙台高裁へ(1953)

 昨日の続きである。宇野浩二の文章「納得ゆかぬ『松川事件』」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。出典は、『中央公論』一九五八年緊急増刊(同年一一月)「松川事件特別号」である。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のようにある。

 さて、私は、かういふ事を知つてからは、この誰かがやつた(といふより)敢行したにちがひない「列車顛覆」のために、極悪の災難に遭つた人たちが気の毒で気の毒でたまらない気がしたので、その時分、一と月の間に何度か遇ふ広津に、その事をときどき話した。
 すると、広津は、もとより、かういふ事には人なみ以上に(私などとは比較にならないほど)関心をもつ人であり、あの『真実は壁を透して』なども読んでゐたので、私の云つた話に殆んどことごとく同感した。さうして、それからは、広津と逢ふたびに、しばしば「松川事件」の話が出た。(「一審は、無罪を信じきってゐた被告たちが魂【たま】げて悲歎にくれるほどひどいものであつたが、‥‥こんどは、‥‥二十人のうちで誰か一人が無罪になれば、みな無罪になる、といふやうな‥‥」と、(まだいろいろな『カラクリ』がある事を知らなかつたので、)いふやうな問答をした。)
 さて、四月の初め頃であつたか、『週刊サンケイ』の催しで開かれて、広津と私が招かれた時、その座談会がをはつた頃、広津が、『週刊サンケイ』の編輯者の吉岡達夫と、部屋の片隅の方で、〔一九五三年〕五月七日に仙台の高等裁判所で、「松川事件」の何回目かの弁護士の弁論があるさうだから、それを聞きに、‥‥といふやうな話をしてゐたのが聞こえたので、私は、「弁護士の弁論も聞きたいし、裁判所も一ぺん見たいから、僕も一しよに行きたいな、」と云つた。
 さうして、私は、五月の七日【なぬか】の午後、広津たちと一しよに、仙台の高等裁判所で、「松川事件」の第何回目かの公判を、傍聴した。さて、私は、法廷の後【うしろ】の廊下をあるいてゐる間も、ききに引いた亀井〔勝一郎〕の文章の中の、新聞の大きな活字に出てゐた「虚偽をも事実化してしまふ」記事を、一般の多くの読者その他とおなじやうに、信じさせられてゐた上に、二十人の被告のうちで、一ばん先きに虚偽の自白をさせられたと云ふ『赤間』という少年の名が妙に悪い人の名のやうに何か気味のわるい感じがしたので、この法廷の中はさぞ陰惨な空気に充ち満ち、被告たちも定めし暗い陰気な顔をしてゐるであらう、と想像したのであつた。
 ところが、法廷にはひり、傍聴席についてみると、法廷には重苦しい空気などは殆んどなく、傍聴席の細長い腰掛けから三列ほど前に、おなじ細長い腰かけに腰をかけてゐる被告たちも、暗い影などは殆ど見られず、かへつて顔などは明かるい感じがした。
 この光景は、私には、まつたく意外であつた。
 きて、その傍聴席について暫くしてから、私は、それらの被告たちの挙動や顔つきを見てゐるうちに、「これは、違ふ、‥‥この人たちは、あの新聞に仰仰しく伝へられたやうな事は、やりさうにないし、やれさうにない」と思つた。
 これから、簡単に書くと、私は、この裁判を傍聴してから、「松川事件」のことを出来るだけくはしく調べて、これを随筆風な小説のやうな形で書きたい、と考へた。さうして、広津は、おなじ事を、『真実は訴へる』といふ題で、私のやうな物語風ではなく、あくまで理論的に書くことにした。さうして、私のは『文芸春秋』に載せることにし、広津の評論は『中央公論』に出すことになつた。さうして、私が、関心をもちながらも、その後、この事件について、二つの文章を書いただけであるのに、広津は、比【たぐ】ひ稀【まれ】な情熱をもつて、周知のとほり、それを『中央公論』に四年も書きつづけたのである。
 後記―この文章は、私が文筆生活をはじめてから、「初めて」と云つてよいほど、一日半ぐらゐの時間で書かされた。それから、.私が、編輯者のすすめもあつたが、かつて書いた『世にも不思議な物語』と『当て事と褌』の中に述べた事をこの文章に使はねばならなかつた事は、実にイヤでたまらなかつた。――この事だけは書いておく。

 昨日も述べたように、この裁判の不当性に気づいたのは、広津和郎よりは、宇野浩二のほうが先だったと思われるフシがある。しかし、『週刊サンケイ』の座談会の時点では、すでに、広津のほうが、事件に対する関心が強く、事件への理解も進んでいる状態になっていたようだ。だからこそ編輯者の吉岡達夫は、座談会のあと、広津ひとりをつかまえ、仙台に傍聴にゆく相談を始めたのであろう。
 見ていた宇野としては、面白くない。話に割り込み、「僕も一しよに行きたいな」と言った。――おそらく、こんなところだったのであろう。
 ところで、上記の宇野の文章であるが、あまり良い文章とはおもえない。どちらかというと悪文である。いかにも宇野らしく、神経が張りつめられた文章だが、神経がゆきとどいた文章とはほど遠い。
 文中、「この誰かがやつた(といふより)敢行したにちがひない」とある部分は、「この誰かがやつた(といふより敢行した)にちがひない」とすべきだったと思う。また、カッコに中に、さらにカッコがあるところがあるが、これも感心しない。推敲の余裕がなかったことを物語っている。
 このことは、宇野も気にしていたらしく、「後記」に、「一日半ぐらゐの時間で書かされた」などと弁解している。こういうところも、いかにも宇野浩二らしい。 

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松川事件と宇野浩二

2015-09-29 07:24:42 | コラムと名言

◎松川事件と宇野浩二

 松川事件に関わった文学者として、誰でもが思い浮かべるのは、広津和郎〈ヒロツ・カズオ〉の名前である。しかし、もうひとり忘れてならないのは、「小説の鬼」宇野浩二である。宇野浩二は広津和郎と親しかった。このふたりは、ほぼ同時に、松川事件に関心を持ちはじめた。つまり、その裁判の不当性に気づいた。この裁判の不当性に気づいたのは、どちらかと言えば、宇野のほうが先だった、宇野が先に気づき、それを広津に説いた、と思われるフシがある。
 このふたりは、『週刊サンケイ』の記者・吉岡達夫に誘われ、一九五三年(昭和二八)五月七日に、わざわざ仙台まで行って、仙台高裁でおこなわれていた控訴審を傍聴している。広津和郎が、本格的にこの事件に取り組むようになったのは、この傍聴がキッカケであった。
 本日は、宇野浩二の文章「納得ゆかぬ『松川事件』」を、紹介してみたい。出典は、『中央公論』一九五八年緊急増刊(同年一一月)「松川事件特別号」である。

 納得ゆかぬ「松川事件」  宇野浩二 (作家)
 私がはじめて「松川事件」といふものに関心を持つたのは、昭和二十八年の一月の初め頃に、『世界』の二月号に出た『松川事件をめぐつて』といふ記事を読んだ時からであつた。それには、「その頃から三年あまり前(昭和二十四年の八月十七日)の午前三時すぎに、東北本線の、青森発のぼり上野ゆきの旅客列車が、金谷川と松川の間(松川駅にいくらか近い方)で、脱線して、顛覆した事件がおこつた、その当時は、三鷹事件、下山事件、その他とともに、大方の人びとを聳動〈ショウドウ〉し、世間でもかなり大騒ぎをしたけれど、今日では、この事件は多くの人びとに殆んど忘れられてゐる、が、一部の人たちは、この事件のその後の成り行きを注目し、この事件の重大な意味を知つて、この事件を痛ましい目をもつて見まもり、この事件が国際的にもな政治的な意味が絡んで広大な反響がまきおこつてゐるのに、大ていの人は、この事件がおこつてから一と月あるひは一と月半あるいは二月も後【のち】に共産主義者を中心とする国鉄労働者組合員と芝浦労働者組合員を十人づつ(都合二十人)を検挙し、第一審の判決によつて、五人の被告が死刑を宣せられ、十五人の被告が重罪として生涯の長い年月を獄中に過ごさねばならなくなつた、――といふ事をはつきり記憶してゐる人は案外少ないのではないかと思はれる、」といふ意味のことが書かれてあつた。
『松川事件をめぐつて』の中のここのところを読んで、私は、自分も亦、「はつきり記憶して」ゐない者の一人である、と気がつくとともに、好奇心もいくらかてつだつて、おなじ『世界』に出てゐた海野普吉の『松川事件から受けた教訓』を読み、それから四五日ほど後、『真実は壁を透して』を読んで、まづ、「はてな、‥‥これは、をかしいな、」と感じ、それから、これは、もし本当とすれば、世にも悲しく恐るべき事件である、と思ったのである。
 さうして、私は、この松川事件の二十人の被疑者の手記がまとめられてある『真実は壁を透して』を読んでから、あの奇妙な顛覆事件があったと報ぜられた時分に、あるひは、それから後に、東京の幾つかの大新聞と称せられてゐる新聞に、松川事件で起訴された人たちは、どうもあの列車の顛覆を、共謀して、企てたらしい、と、実【まこと】しやかに書き立てたのを読んでも、どうしても信じられなかつた。さうして、あの実しやかに書かれた事を、一般の人が、(私もその一人、)信じたにちがひないと考へて、めつたに腹をたてたことのない私も、殆んどあらゆる『新聞』に対して、大いに腹をたてた。(「‥‥新聞といふものはおそろしいものである。大きな活字によるくりかへしは、虚偽をも事実化してしまふ。新聞に書かれないどれほどの多くの秘密があるか。その真実を知ること今日【こんにち】ほど困難なことはない。」と、さすがに、亀井勝一郎は、『現代の悪夢』といふ文章の中で、その頃の新聞について、巧みに、述べてゐる。)【以下、次回】

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宇野浩二、永井荷風の作品と文章を論評する

2015-09-28 05:25:04 | コラムと名言

◎宇野浩二、永井荷風の作品と文章を論評する

 高校生のころ、岩波文庫で『苦の世界』を読み、その後、一時期、宇野浩二に心酔した。宇野浩二は、みずから「小説の鬼」と称していただけあって、「文章」にうるさかった。いくつか、文章を論じた本も発表している。私は、宇野浩二の文章論を読んで感心したことはないが、宇野の文章そのものには、いつも感心している。かなり、宇野の文体の影響を受けているような気もする。
 さて、本日は、宇野浩二が、その文章論を集めた『文章往来』(中央公論社、一九四一)という本から、「永井荷風」というエッセイを紹介したい。初出などは不明。
 かなり長い文章(二九七~三一二ページ)なので、紹介するのは、その一部(三〇四~三〇七ページ)。
 永井荷風のことを、素直には評価していない。しかし、荷風という作家とその作品を、それまで強く意識してきたことが、ありありとわかる。

『雨瀟瀟』は、発表された当時、(大正十年)久しぶりの小説であつたばかりでなく、『腕くらべ』や『おかめ笹』とまつたく傾向の違つた小説であつたから、一部の人々から非常に賞讃され、私も感心して読んだ覚えがあるが、その頃の荷風の心境小論としては勝れた作品であるかも知れないけれど、結局、荷風独得の散文詩であると思ふ。しかし、いづれにしても、この小説は、この小説を一つの転機として、荷風が、潤一郎と反対に、その後、老境などの域にはひらなかつた境の作品として、重要な位置を占めるものであらう。しかし、『雨瀟瀟』の初めの方にかういふ所がある。
《その頃のことと云つたとて、いつも単調なわが身の上、(‥‥)唯その頃までわたしは数年の間さして心にも溜めず成りゆきの侭送つて来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であらう。此れから先わたしの身にはもうさして面白いものもない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇つて風もなく雨にもならず暮れて行くやうにわたしの一生は終つて行くのであらう。‥‥》
『ちぢらし髪』も、『かし間の女』も、『やどり蟹』、(昭和二年)を書き、少しおいて、『あぢさゐ』、(昭和六年)『つゆのあとさき』、(昭和六年)それからまた時をおいて、『ひかげの花』(昭和九年)、『濹東綺譚』(昭和十一年)その他の小説を、荷風の、小島政二郎〈マサジロウ〉の言葉を借りると、「歌はなくなつた、写実小説」を私は買ふのである。
 しかし、実をいふと、『ちぢらし髪』も、『かし間の女』も、『やどり蟹』も、発表当時は、みな読んだが、どれも好きになれなかつた。三篇とも、『ちぢらし髪』は女学生あがり、『かし間の女』は或る媒介所に出入りする女、『ちぢらし髪』にも、『かし間の女』にも、主役の女と脇役の女とが出て来る、共に関東の震災直後の頃で、出て来る女たちは、その境遇はちがひ、相手にするいろいろな階級のさまざまの職業の年は、十六七歳から六十歳までの男であるが、申し合はしたやうに、種類、傾向、肌合ひ、その他は、少しづつ違ふだけで、色好みで、無智で、現実的で、無節操で、従つて、夢と空想は絶対に持つてゐないところが共通してゐる。尤も、これは、この種の小説の代表作、『つゆのあとさき』、『ひかげの花』の女主人公も殆ど同じであるが。ところで、右の三篇は、作者も女主人公と殆ど全く同じ気もちと態度で書いてゐるかと思へるほど、色気といふものが殆どない。つまり、私が好きになれなかつたのは、あまりに夢がなさ過ぎたのと、といつて、フロオベルの或る小説に見られる芸術的な冷静といふやうなものがなかつたからである。その上、作著にすぐれた写実の腕があるので、常識的な意味で、目を蔽ひたくなり耳を塞ぎたくなるやうな場面や会話に実感が出過ぎるからである。つまり、この小説の作者、荷風が、『小説作法』の中に書いてゐる「読む者をして編中の人物風景ありありと目に見るやうな思ひをなさしめる」実演をしてゐるやうに思はれるからである。
 そこで、『ちぢらし髪』か、『かし間の女』か、どちらかの中から引きたいのであるが、それは遠慮して、その代り、一種の名作『ひかげの花』の初めの方から、あまり当たり触りのないところを、適宜に引いてみよう。
《『ちよいと、今日は晦日【みそか】だつたわね。後であんた郵便局まで行つてきてくれない。』とまだ夜具の中で新聞を見てゐる男の方へ見かへつたのは年のころ三十も大分越したと見える女で、細帯もしめず洗ひざらしの浴衣の前も引きはだけたまま、鏡台の前に立膝して寝乱れ髪を束ねてゐる。》
 又また文学の一年生の講義をするやうであるが、右の一節は、念を入れて読むと、普通にいふ色気は幾分あるのであるが、文章は、枯淡といふか、実に色気のない文章である。一と口にいふと、『ひかげの花』は、生きも張りもない男女の生きも張りもない生活を、生きも張りもないやうな文章で書かれた小説で、しかも、誰にも真似の出来ない小説である。この小説がどうして、すぐれた小説であるか、見方によつては、この小説が、荷風のあらゆる小説の中で、一二の作品であり、少なくとも、五本の指の中にはひる作品であることを委しく書くのは、大変な寄り路になるし、この文章には必要がないから割愛する。そこで、一と口にいふと、『ひかげの花』は、小説としては、実に素気〈ソッケ〉ない小説であり、人間になぞらへると、実に素気ない人間である。
 ところが、『ひかげの花』を、新進気鋭の批評家の中村光夫は、「『腕くらべ』の色恋は綺麗事である。『つゆのあとさき』の君江は都会風景の花やかな焦点に過ぎない。しかし『ひかげの花』に至つては荷風の女は完全に人間の肉体を具へた〈ソナエタ〉。しかもその肉体は残酷なまでにいやらしいのである。」と書き、正宗白鳥は「荷風もここ(『ひかげの花』)まで到達した」と褒めてゐる。
 これで見ると、批評界の老若の名家が『ひかげの花』を荷風の作品の中で(『濹東綺譚』の出ない頃、)最高の小説であると称してゐる訳である。その上、『ひかげの花』を掲載した雑誌の編輯者の話によると、『ひかげの花』の出た号は増刷した。これは稀有〈ケウ〉の事であるといふ。つまり、『ひかげの花』は黒人【くろうと】にも素人にも受けたといふ事になる。これを聞いて、私は、不思議な気がした。しかし、すぐ当然であるとも思つた。【後略】

*このブログの人気記事 2015・9・28

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木戸幸一内大臣の共産主義容認発言(1945年3月)

2015-09-27 07:49:32 | コラムと名言

◎木戸幸一内大臣の共産主義容認発言(1945年3月)

 先日来、紹介している大屋久寿雄の『終戦の前夜』(時事通信社、一九四五年一二月)という本(パンフレット)だが、これは、なかなか興味深い本だと思う。
 第一に、終戦直後に発行されている。いわゆる「和平工作」(終戦工作)について解説した本は数多いが、この本は、時期が非常に早く、その意味で注目されてよい。
 第二に、著者の大屋久寿雄(一九〇九~一九五一)は、本書刊行時、時事通信社内信部長の要職にあった。終戦直前には、日本放送協会の海外局編成部長の要職にあったという(『終戦の前夜』二九ページ)。いずれにしても、敗戦前後に、国家中枢にかかわる情報に接していたはずで、その証言には、聞くに値するものがあると思う。大屋と同盟通信社(戦後、共同通信社と時事通信社に分かれる)との関わりについては、今のところ、よくわからない。
 第三に、ここで述べられている「和平工作」(終戦工作)は、「対ソ工作」が中心である。実際に、戦中における「和平工作」は、「対ソ工作」が中心であった。このことは、戦争末期、ソ連の宣戦布告を受けるまで、そのソ連に対して、「終戦」の斡旋を頼み続けていたという一事を見るだけで明白である。この本の著者は、日本の終戦工作の失敗の原因を、対ソ工作の失敗に求めている。終戦工作の中心を対ソ工作においたこと自体が失敗だったという視点から、この本を書いている。そういう意味においても、この本は、もっと注目されてよい。
 ところで、この間、私は、戦中の「対ソ工作」に関する論文を、いくつか読んでみた。非常に勉強になったが、大屋久寿雄の『終戦の前夜』を引いている論文が、ひとつもなかったのは、残念であった。
 なお、今回、読んだ論文のひとつに、鈴木多聞氏の「鈴木貫太郎内閣と対ソ外交」(『国際関係論研究』第二六号、二〇〇七年三月)ある。これは実に興味深い論文であった。
 特に驚いたのは、「五、ソ連との軍事同盟論」にある、以下のような記述であった。

五、ソ連との軍事同盟論
 日本の対ソ外交の基本方針は、ソ連の参戦防止と好意的和平仲介の依頼にあった。だが、このような日本側に都合の良い話にソ連が乗るとは考えられにくい。日本の対ソ外交の努力は、ソ連をいかにして英米から引き離し、日本側に引きつけるかにあった。日本側が最も期待していた展開は、米ソ対立が顕在化することであった。
 昭和二〇(一九四五)年二月二日の最高戦争指導会議において、重光葵外相は、「如何ナル事アルモ『ソ』連ニ基地ヲ与フルカ如キハ不可ニシテ斯クノ如キ事ニヨリ『ソ』連ヲ釣リ得ルト考フルハ誤ナリ」と反対意見を述べている。ソ連に軍事基地を提供するといった対ソ提携論が存在したのであろう。ソ連に仲介を依頼した場合、ある程度の容共政策は仕方のないことであった。木戸内大臣は、三月三日、友人の宗像久敬に対し、「共産主義ト云フガ、今日ハソレホド恐ロシイモノテハナイソ、世界中ガ皆共産主義テハナイカ、欧州モ然リ、支那モ然リ、残ルハ米国位ノモノテハナイカ」と語り、宗像を驚かせている。その驚きぶりは、帰宅した宗像が「今日本ガ率直二米ト和シ(時期ハ別トシテ)民主主義ヲ容レ皇室及国体ヲ擁護スルヤ、ソビエツトト手ヲニキリ共産主義テユクヘキカ之ハ大ナル問題ナリ」と記していることからも窺える。【以下略】

 天皇の側近中の側近である木戸幸一内大臣が、共産主義を容認する発言をしていたとは!? 権力中枢(軍部に限らない)における、こういう雰囲気が、当時の終戦工作、対ソ外交を支えていたのであろう。
 鈴木論文のこの箇所を読んで、はじめて私は、いわゆる「近衛上奏文」の意味するところが理解できたような気がした。近衛上奏文については、機会を改めて。

*このブログの人気記事 2015・9・27

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小磯内閣の外交「秘策」、すべて不調に終わる

2015-09-26 04:38:27 | コラムと名言

◎小磯内閣の外交「秘策」、すべて不調に終わる

 青木茂雄さんのケルロイター論「その3」が、到着しないので、今月二三日に続いて、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介する。本日は、「小磯内閣の対ソ工作」より。

 小磯内閣の対ソ工作
 かうして、第一回の対ソ積極工作は何ら得るところなく、むしろ帝国外交責任者の不明不敏を暴露するに止つたのごとき結果に終つたが、一方これとは別に、しかし時間的には並行して、帝国独自の利害上の立場から開始された漁業条約改訂に関する対ソ交渉では、北樺太の全利権放棄といふ高価な代償を払ふことにより、昭和十九年〔一九四四〕三月末日をもつて日・ソ協定の成立を見、中立条約の再確認を得て一応の成功を収め得た形であつた。
 だが、戦局は太平洋においても、欧洲においても依然として、そして甚しく悪かつた。欧洲においては昭和十九年月開始された米・英軍の北仏〔北フランス〕上陸作戦は遂に本格的な第二戦線の結成に成功して、ドイツ軍はじりじりと敗退を続けた。太平洋ではサイパン島の失陥は遂に同年七月十八日東条内閣の退陣を余儀なくせしめ、続いて小磯・米内協力内閣の出現となつたが、事ここに至つてはもはや戦局の絶対的破綻を国民の前に隠蔽し尽すことは不可能になつてゐたのである。
 加ふるに七月二十日にはヒトラー暗殺未遂事件が勃発して、ドイツの内部崩壊近きのあるかの如き印象を与へた。また同月二十九日には泰〔タイ〕にも政変が勃発して、独裁者ピブン首相の政権が崩壊し、ここにも不安動揺の兆歴然たるものが看られた。
 日本国内では漸く「帝国外交は一体何をしてゐるのだ」「何とか手がありさうなものだ」「日・ゾ中立条約は何のために結ばれたのだ」等の声が、声なき声として呟かれはじめたのであつた。
 かかる情勢下に、依然外相として小磯内閣にも留任した重光葵氏の手によつて、第二回の対ソ積極工作が企てられたのはこの年の九月であつた。
 もつとも、この時は、小磯〔国昭〕内閣に国務相兼情報局総裁として入閣した緒方竹虎〈オガタ・タケトラ〉などの主張により、対ソ工作と同時に対重慶工作もまた小磯内閣の重要な対外政策の一つとしてとりあげられることとなりこの方は主として緒方国務相が担当したが、重光外相は南京政府の汪精衛〔汪兆銘〕氏―一当時宿痾〈シュクア〉手術のため名古屋大病院に入院中で重態であつた――との義理もあり、また帝国政府数年来の対支政策の経緯からいつても、今更重慶に対して何らかの積極工作を、しかも政府自身の手で行ふことには同意しかねる立場にあつたので、対重慶工作には反対の態度を内々示してゐた。従つて、小磯内閣の対外政策はここに、二つの糸がそれぞれ異つた手に引かかる結果となつたのである。
 重光外相は、外交界の大先輩、元首相広田弘毅氏の出馬を促し、これを特使としてモスクワに派遣しようと考へた。かくすることによつて去る三月成立の日・ソ協定により、一応礎石らしいものを据ゑ得たかに思はれた日・ソ関係の友好性を更に一層確実ならしめ、もつて、予想される欧州政・戦局の大変動に対処するとともに、少くとも太平洋における帝国の戦争遂行を現在以上に困難ならしむるごとき事態の発生を未然に防止しようと欲したのであつた。しかし、このときは広田氏は成算なしとして敢へて起たうとしなかつた。
 一方、緒方国務相を中心とする対重慶工作は、いはゆる繆斌〈ミョウ・ヒン〉工作となつて進展しつつあつた。支那事変の当初北支新民会運動の理論的指導者として活躍し、その後南京・上海地区にあつた繆斌氏は曽て緒方氏とも面識の間柄であつたが、彼は重慶側に対日和平の意志ありと称して自ら「穏密なる重慶代表」との触れ込みで東京に至り、緒方氏をはじめ政府要路とも会見して種々画策奔走するところがあつた。またこの間退役陸軍大将宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉氏も勧むる人あつて重慶工作に一肌ぬがんものと自ら渡支したりしたが、これは直接には政府との間に何の関係もない動きであつた。
 しかしこれらの対重慶工作は、いづれも重光外相を初め駐華大使谷正之〈タニ・マサユキ〉氏等の強硬な反対に会ったほか、繆斌氏自身の提案内容にも些か曖昧の点があつたりした結果、結局何らの具体的結実を見ることなしに潰え去つたのであつた。
 ここにおいて小磯首相は自ら第三の策を立てた。それは久原房之助〈クハラ・フサノスケ〉氏をソヴェトに、近衛文麿公をスイスに派遣せんとする案であつた。久原氏はかねて政界のダーク・ホースといはれ、二・二六事件以来一切表面だつた動きからは身を引いてゐたが、依然として政界の一部には隠然たる勢力を残してをり、加ふるに、事業関係を通じてソ連との間に多少の因縁を持つてゐた。小磯首相はこれをモスクワに派して日・ソ友好関係の確立に当らせようとする一方、かねて親米・英派と目されてゐた近衛公をスイスに派して対米・英和平の打診を行はしめんとする計画を立てたのであつた。
しかし、この小磯案はこれまた重光外相の反対するところとなつて何ら具体化することなく、そのまま立消えとなつた。
 そして、二十年〔一九四五〕二月には硫黄島が、三月には沖縄が相次いで敵手に陥り、加ふるにわが本土に対する敵の空襲は日毎にその郷土を増し、太平洋戦局の山はいまや全く見えたといつてもよいところまで来てしまつたのである。かくて四月早々小磯内閣は挂冠〈カイカン〉し、後継内閣首班には、全く世人の意表を衝いて、鈴木貫太郎海軍大将が就任した。
 以上を要するに、東条内閣にせよ、小磯内閣にせよ、決して手を打たなかつたのではない。またやむくもに強気一点張りで、何ら戦局の現実を見ることなく世界の動きをも無視して徹底抗戦の一本調子で来たものでもない。彼らは彼らなりに相当の苦心を払つて、外交的にも手を打たうとしたのであつた。
 ただ、彼らの手は国民の耳目から完全に切り離されたところで、或る場合には官僚にすら秘められたままで、極く一部の人々の手により恰も〈アタカモ〉陰謀でもあるかの如くにして打たれんとしただけである。国民に対しては、どこまでも強気一本の「戦局理解」を強ひつつ、何事も教へずまた論じさせず、ただひたむきな絶望的戦争努力にこれを駆り立て、その裏面では政府と軍の最高首脳者の、そのまた極く一部だけが、あれかこれかと日夜寝もやらぬくらゐに心魂を傾け、「国を憂ひ、民を想うて」秘策を練つてゐたのである。
われわれ国民としては、勿論これらの人々の真心を寸毫も疑つてはゐない。またそれらの苦心をむげに非難してもならないであらう。だが、「国民的支持のない外交はもはや絶対に通用しない」ところまで、今日の世界、少くとも曽ての日・独・伊三国を除いた他の世界の大部分は来てゐたのだといふことを、これらの人々にいはねばならないし、今後政府の当路たるべき人々に聞いておいてもらはねばならないと思ふのである。
何者か「大物」を送れば、その人物の個人的力量と手腕とで「白も或ひは黒になるかも知れない」といふやうな大時代的な、恰かもビスマークかラスプーチン時代のやうな古ぼけた、陰謀臭い考へ方は今後の日本外交からは完全に一掃されなければならない。【後略】

 この文章を読んで、非常に複雑な気持ちになった。特に、下線部のあたりである。
 戦中の最高指導部が、国民に対しては「徹底抗戦」を強調しながら、みずからは、外交上の「秘策」に腐心していた事実があばかれていたからである。
 しかも、その「秘策」は、ことごとく、実を結ばなかった。おそらくそれは、「対ソ外交」にこだわりすぎていたことに原因がある。このことは、必ずしも「軍部」の責任ではない。むしろ、「外交」の責任が大きかったのではないだろうか。
 私は、このパンフレットを、そのように読んだ。

今日の名言 2015・9・26

◎真理は間違いから逆算される

 本日のNHK「あの人に会いたい」に、早くも鶴見俊輔(1922~2015)が登場した。口調に独特の説得力がある。表現に即興的と思われるレトリックがある。

*このブログの人気記事 2015・9・26

 

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