礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ヤミを禁止すると失業者が表面に出るので困る

2017-05-31 03:19:54 | コラムと名言

◎ヤミを禁止すると失業者が表面に出るので困る

 昨日の続きである。昨日は、『失業対策と公共事業』(東洋経済新報社、一九四八)所収、北岡寿逸の講演記録「完全雇用と公共事業」から、第五節「我国現在の失業者」を紹介した。本日は、同講演記録の最後にある「質疑応答」を紹介してみたい。
 回答しているのは、もちろん、講師の北岡寿逸である(当時、経済安定本部第四部長)。

 質 疑 応 答
【問】日本で一番余つている資源として労力がありながら、生産が起らないのは、結局生活が安定しない、つまり賃金の問題と関連すると思いますが、その辺の解決策について‥‥。
【答】具体的にいうと、炭坑などは可成り〈カナリ〉賃金はいいのです。あすこでは住宅は、東京では十坪平均ですが、炭坑は十二坪平均で、五百円から八百円位の家賃をとらなければ引合はない家を只で貸す。米は鉱夫全体平均六合、探炭夫は七合で、その他に一合おやつとして出しますから一日八合、それから約束だけですからまだ何ともいえませんが、野菜を一日に百匁〈モンメ〉、魚五十匁、石鹸月五個、作業衣年に一着、ゴム足袋〔地下足袋〕年に八足等を出して、賃金は平均一日百十円です。これ位優遇しても人が集らない。
【問】それはどういうわけですか。
【答】ヤミ商売をしていれば、楽をして収入があるので、炭坑などへ行かない。従来は炭坑のような重労働に対しては、農業労働者が来たのですが、今日農村が割合にいいので、農村から来ない。都市は苦しいが、都市の人間はああいう労働に耐えませんから来ない。
【問】労働力は余つているのだが、重労働方面の労働力が足りない、こういう風に思いますが‥‥。
【答】そうです。そういう方面に労働が行くならば、他の労働も自ら〈オノズカラ〉需要が起りますね。
【問】これは急速に解決できない問題と思いますが、結局産業が平均的に発達しなければ、完全雇傭ということはできない、こういう結論になりませんか。
【答】とにかく現在不足の方面に人が転業すればいいのですが、なかなか転業しない。やはり本当に困つていないからですね。そこで政府はヤミの撲滅に努力しておりますか、それは今のところ悪い結果を来している。政府の意志は、本当に統制を強化してヤミを撲滅すれば、炭坑にも労働者が行くわけだというのです。
【問】労働能率が上らないというのは、労働意欲の低下という外に電力制限とか、坑木が無いとか、地下足袋が無いとか、そういうことがあると思いますが。
【答】勿論です。大部分の理由は設備が悪いためです。しかしそれが人間の意志で克服できる部面を見るならば、やはり労働者の努力が足りない、本当に労働者が奮起すればできるということです。炭坑は昔はこれは悪いことですが十時間乃至十二時間働いた。現場で八時間三交代をして二十四時間人が動いていた。現場で八時間働くためには、往復にじかんがかかるから、結局十二時間労働ということになる。ところが今日は現場四時間で、昔の半分です。設備が悪い上に運転するのが半分ですから、ずつと減るわけです。そこで、単に産業とか、経済とかいう点からならば、昔通り働けば石炭の出炭は二、三割殖える。そうすればセメント業も起るし、鉄鋼業も起るし、そして設備がよくなりますから、日本の産業は持ち直す。日本の産業を持ち直すテコはやはり労働意欲の昂揚です。
【問】最悪の場合は、労務配置が戦時中の如く強制的に行われることは予想されませんか。
【答】今日は一般的に労働が余つているのでありますから、戦時中と逆な労働配置ですね。「働かざる者は食うべからず」という原則を実行すれば、仕方がないから炭坑に行くでしよう。今はヤミが失業救済をやつている。その他に政府が行つている失業者救済は十五万人位ですが、それを止めればその人間はどこかで働く。それからヤミを抑えると炭坑にでも行くことになる。そうすれば現場の労働不足は起らない。戦時中の如き労働配置を行う必要はないし、真実に失業のある場合の労働配置は労働時間を短縮するとか、女、子供をやめさせるとか、という労働配置をする必要があるが、現在の日本はその必要はない。
【問】失業が潜在から顕在化して公共事業に吸収されるというプ口セスにおいて、要するに真面目な仕事をする人間は損である。顕在化した場合に現在就職している人間が失業して、それをヤミの生活の方に追込むということが当然考えられるのではありませんか。
【答】現在のようにヤミ商売をやつて隠れているということが許されなくなると、失業者が世の表面に出て来るから、非常に困る。困るが、近き将来そうならざるを得ない情勢にあると思う。これを普通の事業よりも公共事業に吸収する。公共事業は無限にあるのですから、吸収の道はあります。現在の如く潜在化するよりも、顕在化して、ヤミを止めて正業に従事した方が、国民経済からいえばいい。
【問】それは現在就業している人間に対する対策であつて、潜在している者に対する対策にはならないとおもいますが‥‥。
【答】潜在している者に対しても公共事業を起して、その方に吸収すればいい。顕在失業者に対しても、潜在失業者に対しても同じことです。

 この「質疑応答」によって、「失業」をめぐる当時の情況、そうした情況に対する北岡寿逸の考え方などが、よくわかる。
 ヤミ商売について、北岡は、「今はヤミが失業救済をやつている」と言明しており、さらに、「ヤミ商売をやつて隠れているということが許されなくなると、失業者が世の表面に出て来るから、非常に困る」とホンネを語っている。当時の情況においては、ヤミ商売という不法行為を容認する以外ないという立場だったようだ。
 質問の中に、「最悪の場合は、労務配置が戦時中の如く強制的に行われることは予想されませんか」というものがあった。この質問者は、戦時中にあったような強制的な労務配置を予想(ないし期待)していたのであろう。この質問に対して北岡は、「戦時中と逆な労働配置」を考えていると述べ、強制的な労務配置の可能性を明確に否定している。
 その一方で北岡は、「真実に失業のある場合」には、労働時間を短縮する、女性労働者・年少労働者を引き揚げるなどの労働配置の必要がある旨を、述べている。北岡は、ここで、ナチ政権が採用した失業対策を意識していたはずである。
 北岡は、国家主導の失業対策、国家主導の労働配置はおこなわないと言明したが、そうした失業対策や労働配置の必要性そのものを否定しているわけではない。また北岡は、回答の中で、「日本の産業を持ち直すテコはやはり労働意欲の昂揚です」とか、さまざまな悪条件は「労働者が奮起すれば」克服できるといったことを強調している。
 やはり、戦時中における統制主義、精神主義を、戦後においても、そのまま維持していた学者ないし官僚だったと言えるだろう。

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500万人の失業者がいて労働不足だった敗戦直後

2017-05-30 06:25:03 | コラムと名言

◎500万人の失業者がいて労働不足だった敗戦直後

 今月二五日のブログで、戦後のヤミ屋について、多少、言及した。そのとき、戦後のヤミ商売は、失業者を吸収する役割を果たしていたという指摘をしている文章を読んだことを思い出した。探してみたところ、意外に簡単に見つかった。『失業対策と公共事業』(東洋経済新報社、一九四八)という本にある、北岡寿逸〈ジュイツ〉の「完全雇用と公共事業」という文章であった。
 この本は、東洋経済講座叢書の「第二十一輯」にあたっており、計四人の専門家がおこなった講演の記録が収録されている。北岡寿逸の「完全雇用と公共事業」は、その最後に収録されているもので、講演がおこなわれたのは、一九四七年(昭和二二)四月二一日、講師の北岡寿逸(一八九四~一九八九)は、なかなか話題の多い人物だが、この当時の肩書は、経済安定本部第四部長。
 北岡の講演記録「完全雇用と公共事業」は、全十二節および「質議応答」から成っているが、本日は、その第五節「我国現在の失業者」を紹介してみる。

 五、我 国 現 在 の 失 業 者
 さて、次に現在の我国〈ワガクニ〉における失業問題並に〈ナラビニ〉これに対する公共事業についてお話ししたいと思いますが、まず問題は一体現在我国に失業者があるかどうかということであります。これについては、いろいろの説があつて、失業者を多く見る場合には、我国には現在十万以上の失業者があるといいます。即ち、終戦以来、工場労務者の動員解除、或は国内及び海外軍隊からの復員者、海外からの引揚者〈ヒキアゲシャ〉等の合計が約千三百二十万になつております。その内幾許〈イクバク〉が本当に就業した者であるか、厚生省は当初はそのうち約六百万人が就業し、七百万人余が失業者であろうと推定を下したことがある。しかしその六百万人が就業するであろうということは、生産状態が戦前に復するといことを前提にしてです。ところが戦後の状況を見ると、我国の生産状態は戦前に復すどころか、生産の萎微〈イビ〉沈滞が甚しいことは、統計の示す通りであります。即ち主要産業についていえば、平均戦前の三〇%前後で、洵に〈マコトニ〉驚くべき生産の低下といわざるを得ない。若し労働者の使用量が生産に比例するものであると考えるならば、先程いつた千三百万人の復員、動員解除、海外引揚者等が新たに職を得るどころか、その他に生産低下のために、解雇される者が続出して、失業者はそれよりも更に多いということもいい得る。ところが、実際の統計を見ると、失業者はそれ程多くない。実際に推定しても、一番多く見積るのが五百万といつておりますが、その根拠は昭和二十一年〔一九五六〕四月二十六日の人口統計によれば、一日も働かない者が百五十九万、一日以上七日以下しか働かない者が九十六万五千で、その後海外から引揚げて来た復員軍人、一般引揚民の中で職を求める者が約百五十万位、全体で四百万余の失業ということになつている。統計の漏れも考えれば、まづ五百万人と見るのが多い見方であります。
 ところが、他面から見ると、我国には殆ど失業がないともいえる。という第一の根拠は、先程挙げた職業紹介所の統計を見ると、終戦以来何れの時期を見ても、求職よりも求人の方が遥に多い。たとえば、製材業の求職は求人の十分の一位、炭坑では四万人位欲しいが、職業紹介所に殆ど求職がない。鉦〈カネ〉と太鼓で探してやつと人を得ている状況であります。紡績においても、労働不足であります。更に工場等で労働者の給源〈キュウゲン〉として一番大切な国民学校の卒業生の内、求職は求人に対して、大体三分の一位しかいない。本年は小学校が延びるせいもありましようが、卒業生中就業希望者は一割足らずという状況で、各事業場では人を集めるのに困つております。
 しかし以上は主として肉体労働であつて、知識階級引揚者、高年齢者についていうならば、いかなる点からいつても失業者が多い。これはあまり表面に統計的に現われておりませんが、相当の数に上ることは確かであります。
 成程現在職業紹介所、工場、鉱山等から見ると、労働者は不足であります。それはいろいろな事情により工場や鉱山に行つても、そこの労働に耐え得ないとか、生活の安定を得られないとかからで、本当に生活の安定する仕事を提供するならば、労働の希望者は相当多くある筈であります。
 私共が一番怪んでいるのは、失業救済のために公共事業を起しても、労働不足のために仕事ができないという皮肉な現象であります。それは公共事業に人が要るから来いといつても、そこに住む家が無い。また相当の賃金を払つても、家族を連れて行つたのでは、今日の物価では飯が食えない。現在の所にそのままいるなら、たとえば千円なら千円の年収でどうにか一家が口を糊する〈ノリスル〉ことができる。他所〈ヨソ〉へ行つて千円貰つたのでは飯が食えない。したがつて仕事があつでもそこへ行かないで、やはり元の所にいるという状態であります。
 前述の如く現在我国の産業は、戦前の三分の一操業率でありますが、これに対して労働者は大体戦前の九割前後の者が働いている。即ち一人当りの生産は戦前の大体三分の一に近いのであります。そのことはいろいろの仕事についていうことができるが、たとえば、国鉄労働者にしても能率は非常に低く、列車の運転日数は昭和六、七年〔一九三一、一九三二〕頃と同様で、従業員はその時代の三倍いる。石炭業においても、戦前の順調な時代には、十五万人の労働者が、三千万瓲〈トン〉以上の石炭を出していたが、現在は四十万人近く労働者がいても二千五百万瓲も出ない。一人当りの採炭は三分の一以下に下つており、その他大きな工場においても、大体一人当りの生産は、戦前の三分の一見当であります。
 なおその他に現在失業が表面に現われないものにいわゆるヤミ商売といふものがある。これが一体どの位あるかということは、統計には現われておりませんが、私は非常に多いものと見ていいと思う。というのは、第一に現在我国における正当な価格とヤミ価格との差が非常に大きいということであります。第二にヤミに従事する労働者の労働能率は非常に低いという事実であります。具体的にいうと、紙一連の公定価格は先達つて〈センダッテ〉まで七十円であつた。山から木を伐り出してから紙に作り上げる迄の一切の費用を七十円で賄わなければならない。労働者一日の賃金を三十五円と考えて、生産費を賃金のみと考えても一連七十円では、一連の紙の製造に二人の労働者を使へばもう一ぱいである。ところがこの紙を横に流せば千五百円に売れるのであつて、そこに千四百三十円の開きがある。紙一連を作るために二人しか使えないが、横に流せば二十倍の人間が従事してもペイできる。即ちヤミの過程において、正常の生産過程の二十倍の労働者の収容能力を持つておるということがいえると思います。
 また能率の方面から考えると、ヤミの人は恐しく能率が悪い。たとえば買出しに例を取れば、一つの貨物列車なら五百瓲運べる。それに従事する鉄道従業員はたつた五人でいい。五百瓲、十三万三千貫をヤミ屋がルックザックでかついでくると、二万五千人の人が要る。いかにヤミに従事する人間の能率が悪いかということはこれでも判ると思います。

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歪められた日本を本来の姿に還元すべき時代が来た

2017-05-29 01:22:12 | コラムと名言

◎歪められた日本を本来の姿に還元すべき時代が来た

 林逸郎弁護士の「血涙以つて守るべきは陛下の赤子の命なり」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)で、昨日、紹介した部分に続く部分を紹介する(二五ページの途中から二七ページの途中まで)。

  法を守るに非ずして法を生かせ
 昔三島から江戸に来てゐた孝行な息子があつた。親の急病の為め、急いで帰つて来る途中、箱根の関所にかゝつた。御承知の通り当時は手札と申しまして鑑札がなければ関所が通れない。此の孝行者は慌てた為に手札を忘れてしまつた。如何に親の死目〈シニメ〉に会ひたいからと関守〈セキモリ〉に嘆願しても頑として聴かない。仕方なく此の孝行者は、泣く泣く江戸に向かつて引返さうと致しました時、大いに怒つて之を呼付けた。不届者奴〈フトドキモノメ〉、汝は三島より参りし者にあらずや、と言つて之を三島へ落して〔逃がして〕しまつたのであります。之を私共は法を生したる〈ナシタル〉者にあらずして、法を生かしたる者なりと信ずるのであります。今日の事態は最早法律を守るとか何とか云ふ小さなことを考へてゐる時ではなく、法律を生かしますと同時に、日本全体をも生かさなければならぬ時であります。
  国民より一日早く立つた五十二名
 此の海軍の十名の青年将校は固より〈モトヨリ〉、或は佐郷屋留雄〈サゴヤ・トメオ〉君、或は血盟団の井上日召〈イノウエ・ニッショウ〉君、或は五、一五事件の民間側の諸君、神兵隊、是等の人達まで五拾二名の方が犠牲になつて居ります。而して之をば非常時に起つた事件だと云ふ人がある。是は私共と一寸〈チョット〉意見が違ふやうであります。非常などと云ふのは、政友会や民政党で来たとか来ないとか言つて議論して居りますが、是は何日の何時に来て、何日の何時に去ると云ふものではありませぬ。非常時などと云ふものは政治家が自分の政策に行詰つた時に、誤魔化しに使ふ言葉であつて、立派な日本人が使ふことばではない。是は実に卑怯未練な言葉であります。今日は非常時だといつて、又元の政党政治時代に帰りませぬ。政党、特権階級、財閥の為めに歪められて来ました日本が、日本本来の姿に還元すべき時代が来たのであります。今日までの日本と。今日以後の日本とはまるで違うのであつて、恰も〈アタカモ〉徳川幕府から天皇御親政の明治時代に変りました如く、政党政治に威圧されて来ました日本が、天皇御親政の日本の姿に帰ることであります。即ち五十二名の有志諸君が立たれましたのは、吾々より唯〈タダ〉一日早く立たれたのであります。

 箱根の関守は、手札を忘れた孝行者のために、法を枉げて関所を通過させた。実際にあった話かどうかは知らないが、一種の「美談」である。
 林逸郎は、なぜ、この「美談」を引いたのか。浜口雄幸首相を銃撃した佐郷屋留雄、血盟団の指導者・井上日召、五・一五事件の関係者ら五二名の行為は、法で裁くべきではない、と言おうとしているのである。林は、彼らの行為は、歪められた日本を、日本本来の姿に還元するためのものであったのであり、これは是認しなくてはならない、と言おうとしているのである。
 林は、文中で、彼ら五二名を「犠牲」として捉えている。彼らのテロル、彼らのクーデター未遂によって非業の死を遂げた被害者には目もくれずに、検挙された加害者のほうを「犠牲」として捉えている。弁護士とは思えないセンスだと言わざるを得ない。
 それにしても、あまりにも過激な発言である。
 念のために、国会図書館発行の『発禁図書目録 1945年以前』(一九八〇)で確認したところ、一九三三年(昭和八)九月二五日発行の林逸郎・菊地武夫の『血涙以つて守るべきは陛下の赤子の命なり 精神的更生と軍備充実』(日本講演会)は、同年一〇月一九日付で、発禁になっていた(安寧秩序妨害)。
 しかし、講演そのものは、同年九月二九日におこなわれたらしい。当時の雰囲気が垣間見える貴重な史料と言えるだろう(九月二九日におこなわれた講演の速記録が、九月二五日付で発行されているが、その事情は不明)。
「血涙以つて守るべきは陛下の赤子の命なり」という文章の紹介は、ここまでとし、明日は、いったん、話題を変える。ただし、林逸郎という人物については、近いうちに、再度、論じてみたいと思っている。

*このブログの人気記事 2017・5・29(9位にやや珍しいものが入っています)

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津田三蔵君は慧眼であった(林逸郎)

2017-05-28 02:19:55 | コラムと名言

◎津田三蔵君は慧眼であった(林逸郎)

 昨日の続きである。林逸郎弁護士の「血涙以つて守るべきは陛下の赤子の命なり」という文章を紹介している。本日は、その二回目で、昨日、紹介した部分に続く部分を紹介する(二三ページの途中から二五ページの途中まで)。

  津田三蔵と小島先生
 更に又今回の事件を以て大津事件と比較して論ずる者があるやうでああります。御承知の如く此の事件は露西亜の皇太子ニコラス、アレキサンドルウヰツチが明治二十四年〔一八九一〕五月に日本に巡遊に参つて、長崎に上陸し、漸次日本を巡遊致しまして、明治天皇陛下に対し奉り、拝謁を賜るべく大津まで参りました時に、警戒に当つて居りましたる巡査津田三蔵君が之に向つて三度斬りつけたのであります。殿下は此の時顔面より鮮血淋漓たりと記録に残つて居ります。左様な重傷を負はしめた。予審の調書に依りますと、津田君は言つて居ります。彼は日本帝国に参つて皇室に礼をしないで日本を巡遊するといふことは、日本を横領するものに違ひないと考へた。斯う〈コウ〉言つたのでありますが、それより僅かに二十年にして日露戦争が始まつたことを考へる時、津田三蔵君の眼は洵に〈マコトニ〉慧眼であつたと私は考へるのであります。此の時に廟議は非常なる問題と相成り、畏くも〈カシコクモ〉明治天皇に於かせられましては、皇后陛下、皇太子殿下御同列で神戸沖の軍艦にまで御見舞になつたのでありまして、幾度かの御前会議も開かれ、津田三蔵を死刑に処さなければならぬといふことであつた。然るに此の小島先生〔児島惟謙〕が断じて応じない。若し〈モシ〉斯様な〈カヨウナ〉ことから露西亜が戦争を仕掛けて来た時には一体どうするかと山田〔顕義〕司法大臣が小島先生に申したした所、若し〈モシ〉露国が事を構へて帝国を横領に参るが如きことがありましたならば、其の時こそは私共判事を以て一隊を組織し、奮戦して斬死致さん、其の時は法律は担ぎ出さざるべしと言つて居ります。之を以て遂に津田三蔵は無期徒刑を言渡された。此の時先生は大津京都の市民に恰も凱旋将軍の如くに迎へられたと言はれて居ります。
  血涙法を守ると云ふが如きは法律を解せざるもの
 此の小島先生の行は決して法律を守つて居るのでなく、血涙以て国家の恥辱を守つたのであります。今日亦同様に、青年将校を処するに当つて、血涙法を守ると云ふが如きは、日本の法律を真に解釈すべき人の云ふ言葉ではないと思ひます。血涙以て守るべきものは 陛下の赤子の命でなければならぬと云ふことを私は痛感するのであります。即ち法律を守ると云ふことは大してむづかしいことではありませぬ。吏僚の末、小役人でも法律を守る位は出来る。併しながら法律を生かすと云ふことは中々出来ない。大丈夫のみ之を為すのであります。法律を守るべきではなくして、生かすべきものでなければならないと私は思ふのであります。

 ここで、林逸郎は、一八九一年(明治二四)の大津事件を持ち出して、五・一五事件の青年将校を擁護しようとしている。要するに、青年将校の行為を、法を以て処置するのは適当でないという主張である。
 林は、その主張の根拠として、大津事件を挙げているわけだが、その同事件に対する林の理解が正確でない。大津事件においては、法を枉げて津田三蔵を極刑(死刑)に付そうとしたのは、政府であって、大審院長であった児島惟謙は、法に従って極刑を回避しようとしたのである。
 したがって、林が、法は守るべきものでなく活かすものだという持論を根拠づけるために、ここで大津事件を持ち出したのは、適切でなかったのである。しかし林は、全くそのことに気づいていない。大津事件のことをよく知らなかったのか、あるいは、知っていて、あえてストーリーを改変してしまったのか。
 それにしても、「津田三蔵君の眼は洵に慧眼であつたと私は考へるのであります」と言っているのは、いかにも、林らしい。ここで、大津事件を持ち出したのは、実は、このことを言いたかったからかもしれない。

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林逸郎弁護士と五・一五事件肯定論

2017-05-27 05:59:42 | コラムと名言

◎林逸郎弁護士と五・一五事件肯定論

 昭和期の弁護士で、林逸郎〈ハヤシ・イツロウ〉という人物がいる。今日、ほとんど話題にのぼらないが、ことによるとこれは研究に値する人物かもしれない。
 インターネットで、「林逸郎」を検索すると、3890件がヒットした(2017・5・26)。その筆頭に、コトバンクの解説がある。
 コトバンクのうち、「20世紀日本人名事典の解説」を引用させていただく。

林 逸郎 ハヤシ イツロウ 昭和期の弁護士
生年 明治25(1892)年9月5日
没年 昭和40(1965)年2月5日
出生地 岡山県
学歴〔年〕 東京帝大法学部〔大正9年〕卒
経歴 大正9年弁護士開業。東京第二弁護士会長、昭和37年日本弁護士連合会会長を務めた。この間、戦前には軍や右翼に顔が広く、井上日召らの血盟団事件、5.15事件、神兵隊事件、大本教事件など右翼関係の大事件の弁護を担当。戦後は極東軍事裁判で橋本欣五郎を弁護し、32年にはジラード事件の主任弁護人を務めた。また東条英機以下の「殉国七士の墓」建立にも尽力した。著書に「敗者」など。

 この短い説明を読んだだけでも、かつては、かなり活躍した弁護士、あるいは、かなり政治色の強い弁護士であったことがわかる。ウィキペディアに「林逸郎」の項がないのは不思議である。
 さて、上記にの説明中に、「戦前には軍や右翼に顔が広く」という字句があるが、林逸郎は、軍や右翼に顔が広かったというよりは、自身が革新右翼的な思想の持ち主であった。
 そのことは、一九三五年(昭和一〇)四月に、昭和神聖会から、『天皇機関説撃滅』という本を出していることで明白である。
 ちなみに、同書刊行時における林逸郎の肩書は「愛国法曹連盟理事」である。また、同書の発行元の昭和神聖会は、大本教(皇道大本)の組織として知られている。
 本日は、林逸郎の「思想」を知るために、彼の文章を、少し読んでみたい。紹介するのは、「血涙以つて守るべきは陛下の赤子の命なり」という文章である。これは、一九三三年(昭和八)九月二九日に、浅草公会堂でおこなわれた講演の速記録で、同年九月に、日本講演会から刊行された(菊地武夫の講演速記録と合冊)。なお、この講演時における林逸郎の肩書は「五、一五事件海軍側弁護士」である。
 林逸郎の講演記録は、原文で、二十九ページ分あるが(一~二九ページ)、本日、紹介するのは、二一ページ初めから二三ページの途中までの部分である。


  軍 人 精 神 を 生 か せ
 軍紀と申しますれば、軍人の行動を規律致しまする軍人精神といふものと同一でなければならぬのであります。又軍人精神と云ふものはどういふものかと申しますと、軍人に与へられて居ります道徳律であります。この軍人に与へられて居ります道徳律といふことは、取りも直さず、大義名分であります。取りも直さず、忠君愛国といふことであります。軍人に与へられて居りまする軍人精神を守らんとして軍紀に触れることがありましたならば、この時に於ては何れを先にするか,軍人精神に重きを置くべきか、即ち軍紀に重きを置くべきか、と云ふことを十分に考へなければなりませぬ。日清戦役の始まります前に東郷〔平八郎〕元帥が支那の軍艦を撃破された〔高陞号事件〕。この時閣議は非常に沸騰して伊藤博文公は東郷を拉し来つて軍法会議に付さなければならぬといつたのでありますが、この時西郷従道〈サイゴウ・ツグミチ〉侯が戦は既に開かれたのである。何処を咎むべき必要ありや、彼に与へるものは恩賞のみではないかといふので廟議〈ビョウギ〉が一決したさうであります。興廃の岐れる処の斯くの如しと私は思ふのでありますが、この場合と同じやうに、行為が軍紀に触れるが如きことでございましても、それが軍人精神を生かすといふことになります場合は、私共は十分なる覚悟を以て之に処さなければならぬのであります。
  勧 進 帖 を 吟 味 せ よ
 勧進帖と申す芝居がございます。山伏に身を扮したる義経の一行が安宅の関で咎められ、遂に弁慶が義経の頭に錫杖〈シャクジョウ〉を挙げて打擲〈チョウチャク〉致すのであります。此の場合の武蔵坊弁慶は軍紀を乱す甚しき者でありませうか、更にこの時武蔵坊弁慶は偽の勧進帖をば声高らかに読上げるなども亦軍紀を乱る甚しきものであると言はなければならぬでせうか。弁慶が義経を打擲致す時には、彼の心の中には萬斛〈バンコク〉の涙が流れてゐるのであります。而して後に彼は涙を湛へて〈タタエテ〉義経に詫びて居りますが、この涙こそは軍人精神其のものであると言はなければなりませぬ。又富樫佐衛門尉〈トガシ・サエモンノジョウ〉が義経一行の山伏をば通過せしめるといふことは、軍紀を乱す甚しきものと言へませう。况して〈マシテ〉義経一行と知りつつ落した〔逃がした〕のです。去りながら、富樫佐衛門が武蔵坊弁慶の読みまする偽の勧進帖を観破しながら落した、之を私共は軍人精神の発露と申すのであります。軍紀を乱したものに対しては、厳に之を処罰しなければならぬと同時に、軍人精神を生かしたる者に対しては、大いに之を称揚しなければならぬと私は絶叫します。

 要するに、林逸郎は、軍人精神は軍紀よりも重いということを言おうとしているのである。それを言うために、東郷平八郎の高陞号砲撃や義経・弁慶の安宅の関の一件を持ち出したのである。
 では、なぜ、林は、「軍人精神は軍紀よりも重い」ということを強調したのか。それは、五・一五事件の被告を擁護するためであった。五・一五事件の被告を、法で裁いてはならぬ、彼らの行動は、昭和維新を実現しようとしたものであって、その軍人精神を否定してはならぬ。――こうして、林は、五・一五事件の被告を擁護し、五・一五事件を肯定したのである。

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