礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

読んでいただきたかったコラム、ベスト10(2013年後半)

2013-12-31 08:44:45 | 日記

◎読んでいただきたかったコラム、ベスト10(2013年後半)

 いよいよ、二〇一三年も、大晦日となりました。そこで、二〇一三年の後半で、これは読んでいただきたかったというコラム「ベスト10」を挙げてみます。

*読んでいただきたかったコラム、ベスト10(2013年後半)

1位 安重根の過激な発言で旅順での公判は傍聴禁止      11月24日
2位 「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭された免田栄さん     8月24日
3位 「日本のレクラム」を称したアカギ叢書          10月15日
3位 ラ・ボエシー「自発的隷従を排す」(16世紀)について   7月13日
4位 谷川健一さんは「封建遺制」をどう捉えたか        9月4日
5位 親鸞は「造悪」を否定していない             8月20日
6位 雑誌『ながはま』に載った尾崎光弘氏の野口英世研究     8月16日
7位 なぜ森永太一郎は、落とした手帳にこだわったのか      9月14日
8位 岩波文庫「読書子に寄す」を当初の形に復元する      10月22日
9位 『ことわざの話』抜粋本の正誤表と柳田國男のモラル    9月12日
10位 早朝のバス待合所に見る終戦直後の心象風景        9月6日
 次点 西田幾多郎と夜間動物園                  9月24日

 続いて、ブログ開設以来のアクセスランキング「ベスト20」です。第8位の「中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)」のみ、昨年のコラムですので、これを除いて以下を繰り上げますと、二〇一三年のアクセスランキング「ベスト20」となります。

*アクセスランキング歴代30位(2013・12・30現在)

1位 本年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか(鈴木貫太郎)    
2位 本年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』(1946) 
3位 本年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード            
4位 本年8月1日  麻生財務相のいう「ナチス憲法」とは何か         
5位 本年2月27日 覚醒して苦しむ理性(矢内原忠雄の「平和国家論」を読む)  
6位 本年12月9日 「失礼しちゃうワ」は昭和初期の流行語 
7位 本年9月14日 なぜ森永太一郎は、落とした手帳にこだわったのか     
8位 昨年7月2日  中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)    
9位 本年12月3日 東雲新報社編『最後の伊藤公』(1911)について
10位 本年2月14日 ナチス侵攻直前におけるポーランド内の反ユダヤ主義運動  
11位 本年7月21日 記事の更新なし                     
12位 本年6月23日 小野武夫博士の学的出発点(永小作慣行の調査)      
13位 本年10月7日 福住正兄の日本語論と文章論(『二宮翁夜話』より) 
14位 本年4月30日 このままでは自壊作用を起こして滅亡する(鈴木貫太郎)  
15位 本年12月10日 隠語の分類あるいは隠語の作り方
16位 本年12月30日 安眠島の松脂事業と鏑木徳二博士 
17位 本年10月2日 福沢諭吉、内村鑑三に反発し「銭」より「名誉」を説く  
18位 本年11月23日 安重根が挙げた伊藤博文暗殺の理由15か条      
19位 本年7月5日  年間、二体ぐらい、起き上がってゆくのがある      
20位 本年10月26日 『ことわざの話』抜刷本(1930)と柳田國男の神経
次点 本年10月22日 岩波文庫「読書子に寄す」を当初の形に復元する

本日の名言 2013・12・31

◎恥も外聞もなく対象に肉迫する

 今年9月29日に亡くなった作家の山崎豊子が、生前に語っていた言葉である。本日朝のNHKの番組「耳をすませば」より。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安眠島の松脂事業と鏑木徳二博士

2013-12-30 04:25:09 | 日記

◎安眠島の松脂事業と鏑木徳二博士

 昨日の続きである。林長三著『実験生松脂採取法』(丸山舎書店、一九四一)によれば、安眠島における松脂事業は、最初から順調だったわけではなかったようだ。
 同書から、「安眠島に於ける生松脂探取事業の由来」の項を引用してみる(ただし、前半のみ)。

 安眠島に於ける生松脂探取事業の由来
 私は斯〈カク〉の如くして安眠島林業所の経営をやることゝなつたのでありますが、併し、実は私は林業に就ては当時は全くの素人であつたのです、たゞ朝鮮に渡つて以来、南鮮の地で、普通農事や果樹園芸などを十七年間やつた経験をもつてゐたのでありますが、この果樹栽培が、樹を取扱ふ農業であると云ふことが、林業と一脈相通ずる処であり、而も『樹』を集約的に取扱ふと云ふ処に甚だ面白いものがあつたやうに思ふのであります。
 安眠島森林は、保護禁養せられし国有林であつたとは云へ、何分にも、政道弛廃せし朝鮮に於けるものでありますから、盗伐、浸墾あらゆる悪習弊害はこの森林中心に島民数百年来の生活のまでくひ入つてゐて、その影響を受けたこの森林は、林内は乱状を極め、過密の処があるかと思へば疎開乱伐のあともあり、全く当時は雑然たる存在でありました。施業案の編成に当つても、森林調査関係書類に一も信を置くべきものは無く、其上に買収直後の昭和四、五、六年と引続いての財界の不況で木材は暴落するし実に経営上多大の苦心を要したのであります。兎にも角にも創業七、八年間の苦辛〈クシン〉と云ふものは、それこそ回顧するだに言語に絶するものがありました。斯の如く安眠島の創業時代は繁劇極まるものでありましたから、その間色々やつて見たいこともありましたが、当時は中々そこまで手廻りませんでした。其の色々の内の一ツにこの生松脂採取事業もあつたのであります。
 嚢〈サキ〉にも述べし如く私は林業には全く素人でありましたが故に、生松脂採取事業に就ては、勿論なんの知識もなく、本邦に於ける斯業の沿革などもとより何の知る由もありませんでした。併し、以前に私は果樹栽培をやつた関係から、果樹に環状剥皮などの手術を施し樹液の滲出〈シンシュツ〉することなどを知り居る処からして、この松樹からも脂が出る、その脂は、松脂として工業方面に相当用途もあるらしいから、これを何んとか工夫して探取し事業化することが出来ぬものか知らん。外国ではやつてゐるらしいが我国では一向にその話を聞かぬ、これは何故か? などゝ考へるのでありました。幸ひにして其後稍々本業が軌道に乗つて来たものでありますから、漸くこの研究に着手したのであります。それが昭和十年、十一年の頃でありました。私は先づ書籍によつて松脂探取のことを知らんとしましたが、これは遂に失望に終りました。そこで私は京城に出た序〈ツイデ〉に朝鮮総督府林業試験場を訪ひ〈オトナイ〉場長鏑木博士にこのことを訊ねたのであります。そして其後も幾度か参つては私の希望をも申述べたのであります。鏑木場長は、『生松脂の採取は是非共やらねばならぬ仕事であるが、併しどうも今日まで、我国の成績は余り芳く〈カグワシク〉ない、先年朝鮮では光陵でやらせて見たのだが、これもまだ甚だ不充分である、多量に出ない。結局余り引合ふとまでは行つてゐない。……併しこのまゝ放任して置くつもりはない、近く今一度やつて見るつもりである』とのことでした。それで私は、『然らばその試験の一部を私にやらせて下さいませんか、幸ひ私方には供試木は豊富にありまするし人も居りますし、私が責任をもつて正確にやりますから』と御願ひしますと、場長は御快諾下さいました。そこで大体相談がまとまり、『それでは、明年松脂の時期になつたなら、試験場〈コチラ〉から、最初一度は誰か技手を一人安眠島に差し向けますから』とのことで、私は喜んでそれまでに充分準備をして置くことにお打合せをして帰つたのであります。【後略】

 ここに出てくる「鏑木博士」とは、林学者の鏑木徳二〈カブラギ・トクジ〉のことである。一九一〇年(明治四三)に林学博士。一九三二年(昭和七)から、朝鮮総督府林業試験場長。日立鉱山の煙害防止に取り組んだことで知られている。新田次郎の『ある町の高い煙突』は、鏑木徳二をモデルにした小説だという。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安眠島の松脂事業と麻生鉱業株式会社

2013-12-29 08:30:57 | 日記

◎安眠島の松脂事業と麻生鉱業株式会社

 年末に書棚を整理していたら、林長三著『実験生松脂採取法』(丸山舎書店、一九四一年一二月)という本が出てきた。おそらくこの本は、東京・銀座にあった書籍出版の老舗・丸山舎が最後に出した一冊だと思う。
 三〇年ほど前、特に目的もなく買った本だが、改めて読んでみると、いろいろ興味深い事実を知ることができる。本日は、そうした事実のうちのひとつ、戦中の朝鮮・安眠島でおこなわれていた松脂事業について、紹介してみよう。

 儲かる安眠島の松脂事業
 安眠島の生松脂〈ナママツヤニ〉採取は大層儲かつてゐるのであります。私は以下順を追ふてこの経営の実際を詳細に遠べて見やうと思ふのでありますが、それには先づ順序として、安眠島の概況から述べることにいたしませう。
 安眠島は、朝鮮半島の中部西海岸にある島であつて、東西幅は約二里、南北の延長は八里もあると云ふ長大な島である。殊に珍らしいのはその海岸線の屈折複雑を極めることであつて、その状は恰も〈アタカモ〉生和布〈ナマワカメ〉を見るが如く、従つて地勢は至つて小さく、山は最高百メートル位までゞ、多くは四、五十メートルの小山が無数に縦横に連なつてゐるのである。そして其の山々が美事な赤松の密林であります。
 とは云ふものゝ森林の他に耕地も相当にあります、人口も只今では約一万三千人位となり島民は農業を主業とし、傍ら〈カタワラ〉副業として森林労働に従事してゐるのであります。安眠島の総面積は約一万町歩でありますが内約三千町歩は田と畑で、残る約七千町歩が林地であります。そして其の森林の内の約五千七百町歩が私の経営してゐました安眠島林業所々属の森林であります。
 安眠島森林の往時の歴史は、文献の徴すべきものがありませぬので、今詳に〈ツマビラカニ〉これを知ることを得ませぬが、とに角古く高麗、百済の時代から国有の大森林として有名であつたのです。それが朝鮮合併の後、総督府の時代となつて、不要存林野に編入せられ民間に売却せらるることとなり、昭和二年三月麻生鉱業株式会社はこれを競売にて落札したのであります。そして私は、此の調査の時からこれに関与することゝなりまして、林業所開設以来十五年間、昭和十六年四月まで安眠島林業所長として専らこれが経営に従事したのであります。

 この本の著者・林長三は、最初から「松脂」の専門家だったわけではなく、林業の専門家でもなかったようだ。しかし、安眠島の調査には関与している。この島の赤松林を見て、これを利用して何か事業が起こせると判断した模様である。麻生鉱業株式会社に、林地の購入を勧めたのは、この林長三だったのではあるまいか。彼が所長を務めていた安眠島林業所というのも、たぶん麻生鉱業株式会社の一組織、ないしその系列会社だったと思う。
 ちなみに、当時、麻生鉱業株式会社の社長を務めていたのは、麻生太賀吉〈アソウ・タカキチ〉であった。元首相の麻生太郎氏が、この麻生太賀吉の長男であることは、よく知られている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」の英訳

2013-12-28 07:06:58 | 日記

◎「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」の英訳

 昨日、紹介した「英語辞書のはなし」というエッセイの中で、中野好夫はこう言っていた。

 ついでながら斎藤〔秀三郎〕は、昭和三年(一九二八)に『和英大辞典』も出しているが、これがまた愉快である。いかに大辞典とはいえ、辞書の中に漢詩・和歌はおろか都々逸〈ドドイツ〉の試訳まで披露しているのはこの辞書だけであろう。たとえば「三千世界」というのを開けると、「三千世界の烏を殺し、主〈ヌシ〉と朝寝がしてみたい」という志士高杉晋作つくる都々逸、同じく「通う」の項なら、「惚れて通えば千里も一里、逢わずにかえればまた千里」、ぺージもないから試訳は引かぬが、……

「ぺージもないから試訳は引かぬが」と言われて、その「試訳」が知りたくなった方もおられるであろう。
 そこで、本日は、『縮刷版斎藤和英大辞典』(日英社、一九三〇)から、当該の項目を引用しておこう。
 まず、七七五ページ、Sanzen-sekai(三千世界)の項から。

●三千世界の    Throughout the world I’d kill
  烏を殺し     The cawing morning crow,
 主と朝寝が    And sleep at morn my fill
  してみたい    With you as bed-fellow.

 続いて、四〇四ページ、Kayou(通ふ)の項から。

●惚れて通えば   Love laughs at distance,Love-
  千里も一里    A thousand miles is one to love;
 逢はずに帰れば  But when I can not see my love,
  又千里      A thousand is a thousand,Love.

 ついでに、二一七ページ、Hatsugatsuo(初鰹)の項から。

●褌を質に置いても初鰹
 The Edokko will go any length for the first bonito of the season.

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サミュエル・ジョンソンと斎藤秀三郎

2013-12-27 03:56:01 | 日記

◎サミュエル・ジョンソンと斎藤秀三郎

 年末に書棚を整理していたところ、角川書店編『辞典のはなし』(角川書店、一九六五)という本が出てきた。角川文庫と同じ体裁で、「定価四〇円」とある。ただしこれは、当時、本屋のレジの横に「無料」で置いてあったものを、もらってきたものだったと思う。
 貝塚茂樹、佐伯梅友、小川環樹といった錚々たるメンバーが、それぞれの立場から、「辞典」について執筆しているが、今でも印象に残っているのは、中野好夫が書いた「英語辞書のはなし」というエッセイである。その一部を引いてみよう。

 巨人、斎藤秀三郎
 こうして英語辞書もだんだん進歩しながら明治末になるのだが、ほぼ大正期にはいるころから飛躍的に進歩するし、また直接私自身の少年時代の思い出とも結びついてくることになる。私は大正五年(一九一六)に中学に入学しているが、そのころひろく行なわれていたのは井上十吉〈ジュウキチ〉の『井上英和大辞典』と同じく『和英大辞典』、三省堂の『模範英和辞典』、ことに後者は、明治四十四年に初版を出したものだが、それぞれ専門家に頼んで訳語の正確を期したというので、正しい実用性の点では画期的なものであった。だが、なによりも特筆しなければならないのは、やはり斎藤秀三郎〈ヒデサブロウ〉の『熟語本位英和中辞典』(大正四年)であろう。これは日本英学発達史における巨人斎藤の一生の研究を結晶させたようなもので、あくまで日本人のつくった英話辞書であるとともに、実に個性の躍如としている点で、あるいは前記ジョンソンの辞書と双壁かもしれない。
 それには一言、著者斎藤を紹介しておく必要があろう。はじめは東京工部大学というから、つまり今の東大工学部の前身に入学して化学・造船学を志したのだが、なにぶん窮屈な学生生活などにはたえられない方で、卒業直前に放校になる始末。結局もともと好きであった英語に打ち込むことになり、旧一高・東大などにも教えたが、とても官立の先生などにはおさまりきれず、東京に私立正則英語学校を創立、三十余年にわたって在野英学界に隠然として覇を唱えた。
 斎藤英文法といえば少なくとも大正中期まで天下を風靡したものだが、その学風は十九世紀自然科学の合理精神を文法研究に適用したとでもいうか、整然として組織化する点に特色があった。その点、既述の歴史主義以前の態度であるが、そのかわり明晰な合理性という点で実用性はきわめて高かった。イギリス文豪のテキストであろうと、斎藤文法に合わぬと、平気で訂正していったという伝説さえある。
 体格的にも巨人だったが、性格的にも男性的な豪放さをきわめていた。いささか眉唾〈マユツバ〉だが、斎藤作として「楽しみは背後〈ウシロ〉に柱、前に酒、両手に女、懐に酒」などという風懐まで伝えられているほどである。だから、つくる辞書まで類例のない個性にあふれている。たとえば上記『中辞典』のgoを引いて、おびただしい例文を見てゆくと、He will go all lengths-go any lengths-to accomplish his purposeとあって、「目的を遂げるためには、いかなる事をも辞せぬ」とあるまではよいが、注して「褌を質に置いても初鰹」などとくると、これはもう斎藤流である。まずこんな英和辞書は今後もぜったいに出まい。
 ついでながら斎藤は、昭和三年(一九二八)に『和英大辞典』も出しているが、これがまた愉快である。いかに大辞典とはいえ、辞書の中に漢詩・和歌はおろか都々逸〈ドドイツ〉の試訳まで披露しているのはこの辞書だけであろう。たとえば「三千世界」というのを開けると、「三千世界の烏を殺し、主〈ヌシ〉と朝寝がしてみたい」という志士高杉晋作つくる都々逸、同じく「通う」の項なら、「惚れて通えば千里も一里、逢わずにかえればまた千里」、ぺージもないから試訳は引かぬが、こんな砕けた艶っぽい文句の出てくる和英辞書は、過去現在未来おそらく斎藤をもって最初とし、また最後とするに相違ない。こうした閑談的雑文にはまことにありがたい先生である。

 ここで中野は、斎藤秀三郎の『熟語本位英和中辞典』を、かのサミュエル・ジョンソンの『英語辞典』(Dictionary of the English Language)と対比している。これは、斎藤秀三郎に対する最大のほめ言葉であろう。
 この文章を読んだ私は(当時、高校生)、『熟語本位英和中辞典』が欲しくなったが、すぐには買えなかった。すでに「新刊」の状態では出ていなかったためか、やたら古書価が高かったからである。四、五年後に、下高井戸駅前の古本屋で、比較的安いものを見つけ、ようやく入手した。岩波書店が一九三六年に発行した「新増補版」(増補は豊田實〈ミノル〉による)の第一八刷(一九六一)で、定価は九〇〇円、古書価は五〇〇円だった。これは、今でも座右において愛用している。
 いずれにしても、中野好夫の前記エッセイを読まなければ、斎藤秀三郎という人物に注目することもなかったし、『熟語本位英和中辞典』を購入することもなかっただろう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする