礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

映画評論家と映画愛好家の違い

2015-03-31 06:40:57 | コラムと名言

◎映画評論家と映画愛好家の違い

『キングコング』の話には、まだ続きがあるが、本日は、話題を転じる。ただし、映画の話であることには変わりはない。「映画評論家」の青木茂雄氏から、続稿が送られてきた。早速これを紹介してみよう。

 記憶の中の映画(5)  青木茂雄
 「映画評論家」について

 この「記憶の中の映画」連載初回の冒頭に、主宰の礫川氏から私を「映画評論家」としてご紹介戴いた。この言葉は大変に恐縮して頂いておくが、あらかじめ弁明しておくと、私は過去に数回、映画批評文を書いたことがあるだけで、当然「映画評論家」などと言えたものではない。あえて自称すれば“映画愛好家”であり、多少系統的に観賞し、作品については一家言があると自負しているので“映画研究家”ぐらいは自称しても良いと思っている。その“研究”は、製作側よりむむしろ観賞する側のことが中心であるから“映画観賞経験研究家”とでも自称できるかもしれない。
 私が過去に書いた映画批評文は、1984年頃に同人誌『ことがら』5~7号に数回連載した「映画という経験」、1997年から1999年ころに雑誌『歴史民俗学』10~15号に連載した「韓国映画評」と「回想の日本映画~黒澤明」、同じく『歴史民俗学』24号“路地裏の民俗”に「映画の昭和30年代」として、小津安二郎と成瀬巳喜男について少し書いた。また『東京都立大学附属高等学校研究紀要』19号に、「木下恵介における“泣かせ”の研究」として『二十四の瞳』について、かなり長い文章を書いた。これぐらいである(これらは全て、東京都中央区京橋にある国立近代美術館フィルムセンター図書室に寄贈しておいた)。
 本当は映画を見終わったら、その都度、何か書き残しておいた方が良いのかもしれないが、通常は、日付と作品名と監督名、それに評価◎〇無△×の五段階の評価をメモしておくだけである(メモを取る時間があったら一本でも多く観たい)。この評価は、同じ映画を再見するかどうかの目安となる。◎〇の評価があれば、再見の対象となる。そして、一カ月くらい経ったのちに、思い出して感想を二~三行で手帳にメモしておく。完全に内容を忘れてしまったものは、ただそれだけのものであるということになる。その映画とは、もう縁が切れるということになる。一カ月たっても何か憶えているものは、やはり自分にとって何か意味のある作品である。
 私の観賞する本数は、平均して一カ月約20~30本、すべて劇場でスクリーンで観たものだけをカウントしている。なぜスクリーンにこだわるのかと言えば、やはり、映画の中に込められている情報量の大きさである。映画の情報量は、例えばテレビドラマなどにくらべると格段に大きく、それだけの大きさの画面と相応の注意力を必要とすること。これが理由の第一であるが、それとともに観賞の流儀、制作者への最低限の“仁義”(リスペクト)というものもあるであろうか。また、新作・封切り作品は、原則として観ない。費用の関係と、ある程度世の評価が定まってから観たいというのが理由である。したがって、私の観賞する劇場は、殆どが、いわゆる“名画座”系統である。“名画座”で古今東西の映画を連日のように観賞できるのは、全国唯一(おそらく世界唯一)東京のみである。だから私は、生涯東京近辺を離れるつもりはない。ちなみに入場料を言うと、シニアまたは登録会員料金で、フィルムセンターは1本あたり310円、高田馬場にある早稲田松竹は2本だてて900円、池袋の文芸坐は同じく2本だてで1050円、渋谷のシネマヴェーラも2本だてで1000円。飯田橋のギンレイホールは、登録カード利用で年間10500円で、何度でも観放題。これだと、1本あたりの単価は300円以下の計算となる。こういう場所を利用しない限り、月間30本はこなせない。
 ところで、私のこれまでの生涯における観賞映画の本数であるが、正確には数えられていないが、おおよそ8000本ぐらいにはなっていると思う。現在生涯1万本をめざして、自己記録を更新中(淀川長治は三万本だったというが、これはとうてい無理)である。
 さて、表題の「映画評論家」についてである。
 「映画評論家」と“映画愛好家”との違いはどこにあるのかであるが、やや皮肉っぽく言えば、映画観賞にあたって前者は自腹を切らないもの、後者は自腹を切るもの、ということにでもなろうか。前者の観賞場所は、試写会の会場か、劇場の中の指定された特別席の中であるのに対して、後者のそれは一般席である。「映画評論家」の定席は、典型的には「キネマ旬報」誌主催で毎年一回行われる「キネ旬ベストテン」に一票投票する権利を持つ者や、さらにもっと頂点に行くと、国際映画祭の審査員を委嘱される者とかであろうか。これらは、名実ともに“公式の”「映画評論家」と言って良いだろう。
 私は、何も「映画評論家」をここで揶揄しようとしているわけでも、反「映画評論家」論を展開しようとしているわけでもない。なにごとにも、音楽でも絵画でも文学作品でも、その他諸々の人間的な活動に対しては、専門的な批評は必須であり、それを専門的に担う「批評家」ないし「評論家」に対して専門家として、それ相応の社会的処遇があるべきことも当然である。批評によって「良いもの」、「後世に残す価値のあるもの」が選び分けられるのであるから、この仕事はある意味で、一国の、一時代の文化の総体としての価値を決定していく大事な仕事の一環である。専門家による《批評》の存在しない社会、あるいはその批評が許されないか、軽んじられる社会の残す文化の総体は、凡庸であるか又は醜悪なものたらざるをえない。
 専門的な批評家の介在を抜きに行われる《批評》の代用物は、ひとつには、市場における商品価値としての評価であり、市場による選択と淘汰である。もうひとつは政治権力による強制を伴った批評と選択である。
 映画という媒体は、元来が社会的・組織的要素が強く、従って、《批評》の代用物が介在する余地が大きい。大衆性と興業性の観点から、作品としての商品価値はつねに付きまとっている。その自体は悪いものではなかったにせよ、大衆は常に良いものを選択するとは限らない。大衆は時として愚劣で醜悪なものも好んで選択する。
 であるからこそ、映画には専門的な批評家の「目利き」が必須であると考えている。私の見るところ「映画評論家」と言われ、そういう社会的位置を占めてきた者には、みなそれぞれに作品に対する「目」を持っているのであり、彼らの書いた批評文からは学ぶべき点も多い。
 そうは言っても、「映画評論家」の仕事の発注元は、多く映画製作側・興業側からであり、興業である以上、作品に対するマイナス評価ばかりを続ければ、仕事の注文もやがて途絶える。その点から言えば、我々“映画愛好家”にはタブーがない。「良い」ものには「良い」と言い、「面白い」ものには「面白い」と言い、「つまらない」ものには「つまらない」と言える。何よりも自腹を切っているのが最大の強みである。目の肥えた“映画愛好家”も、《批評》という文化的な共同事業に進んで参与すべきである。
 しかしながら、“映画愛好家”には製作側からもたらされる情報量が圧倒的に少ないことと、発表の機会が極めて少ないこと、という二つのハンディがある。後者については、これまでただ胸の中にしまっておくだけだったが、今回は、このブログを使用させて頂いている。前者に関しては、私は、あくまで観客である我々の立場に立脚することをもって最大の根拠としていくことを考えている。私ひとりだけをとってみても、《映画観賞という経験》は奥が深く謎めいている。これについては近々「経験としての映画」というシリーズを、このブログで連載開始する予定である。

*このブログの人気記事 2015・3・31

 

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キングコングは、なかなか登場しない

2015-03-30 08:26:27 | コラムと名言

◎キングコングは、なかなか登場しない

 少年時代に、『翼よ!あれが巴里の灯だ』(一九五七)を鑑賞した青木茂雄氏は、「脚本がいかに映画にとって決定的であるか」ということが、その時すでに、「良くわかった」という。さすがというべきか。
 さて、『キングコング』(一九三三)という映画についても、「脚本がいかに映画にとって決定的であるか」ということが言えると思う。ただし、私がそれに気づいたのは、五〇代も半ばに達し、DVDで、この映画を久しぶりに鑑賞してからのちである。
 港を出港した船は、目的地のスカル島を目指す。この島は、スマトラ島の西南に位置しているが、海図には載っていないという設定である。この間、数週間の航海。この数週間の長さと退屈さとを、映画は、色々な場面をつなぐことで、観客に示す。「女優」アン・ダーロウ(フェイ・レイ)と、船員ジョン・ドリスコル(ブルース・キャボット)とが、徐々に惹かれあってゆく様子を見せたり、甲板でジャガイモの皮をむく中国人コックと、「女優」とが会話(雑談)する場面を入れたり。
 いよいよ、目的地に近づいてくると、カメラ・テストがおこなわれる。そう、この航海は、スカル島において、ある「記録映画」を撮影するためのものだったのである。しかし、「女優」アン・ダーロウは、その「記録映画」の内容を知らされていない。もちろん、「キングコング」の存在も。
 薄手のコスチュームを身にまとって、船べりに立った「女優」は、いろいろな演技を要求される。これを撮影するカメラは、何と「手回し」である。「女優」が、何か得体の知れないものを目にし、恐怖にかられて絶叫するシーン。もちろん「カメラ・テスト」という設定だが、すでにアン・ダーロウも、これから起こるであろう「何か」を予感している。その「予感」は、当然、映画の観客にも伝わる。心憎い演出である。
 そうこうするうちに、ようやく、スカル島らしい島が見えてきた。髑髏の形をした山で、それとわかる。沖合に船を停泊させ、十数人が、ボートに乗って上陸を試みる。よせばよいのに、アン・ダーロウも、その中に加わっている。このことが、そのあとの悲劇を生むことになるわけであり、映画の観客も、うすうすそれを予感しているわけだが、いかんともしがたい。
 キングコングが登場するのは、まだまだあとだが、すでにこの段階で、十分こわい。青木氏の言ではないが、「脚本がいかに映画にとって決定的であるか」ということである。

*このブログの人気記事 2015・3・30

 

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なかなか出航しない、映画『キングコング』

2015-03-29 10:40:52 | コラムと名言

◎なかなか出航しない、映画『キングコング』

 昨日の文章は、拙編著『生贄と人柱の民俗学』(批評社、一九九八)の「あとがき」として書いたものを流用したのであった。もとの文章は、一九九八年四月一二日に、名古屋から東京に向かう新幹線の中で書いた。その日は、名古屋市内で、「第1回歴史民俗学研究会・全国大会」が開催された日であった。その大会が、盛況のうちに終了したことに満足しながら、車中で一気に書いたものである。
 この時点で私は、一九三三年に製作された『キングコング』を、たしか二度、見ている。一度目は、小学生のとき映画館で見たわけだが、二度目は、テレビ放映されたものを見たのだと思う。これはたしか、十代後半のことだった。
 一九九八年に、前記の文章を書きながら、何とかして、もう一度、この『キングコング』を鑑賞したいものだと思ったが、そのチャンスは、なかなかやってこなかった。DVDになっているものを買って、パソコンで見ればよいということは、もちろん、わかっていた。しかし、当時の私は、パソコンというものを持っていなかったし、その扱い方も知らなかった。
 その後、二〇〇〇年ごろ、初めて中古のノート型パソコンを購入したが、これはCDディスクすら使えない(つまり、3・5インチのフロッピーしか使えない)という代物だった。このパソコンは現存せず、型番なども控えていないが、富士通のFMVであったことは間違いない。ちなみに、そのすぐあとに買った、一九九八年製の富士通ノート型、FMV5120NU2/Wも、CD は使えなかった(これは現存)。
 こうした段階から、徐々にグレードアップさせていったわけだが、初めて自宅でDVDが再生できるようになるまでには、まず、三、四年を要したと思う。
 最初に、DVDを再生させたパソコンは、自作のタワー型で、マザーボードは、A-OpenのAX3S-Proだった。マザーボードを含め、中味はすべて中古またはジャンクで、OSのみ新品。OSは、悪名高きWindowのミレニアム版(Me)、OSのインストールだけは、知人にやってもらったが、のちには自分でもできるようになった。
 DVDを再生させるためには、さらに、そのためのソフトが必要なことがわかって、これも購入してインストール。このようにして、DVD再生の条件が整ったところで、最初に購入したDVDが、『市民ケーン』と『キングコング』であった。ともに五〇〇円。
 久しぶりに『キングコング』を見た印象だが、まず音楽がすばらしかった。音楽は、マックス・スタイナーという人が担当しているようだが、映画通でないので、コメントはできない。
 次に、船がなかなか出航しないのが意外だった。冒頭は、興行師カール・デナム、船長ほかが、船中で長々と議論を続ける場面である。少しイライラしたが、監督は、あえて観客をジラそうとしたのかもしれない。なお、映画を最後まで見ると、ここでの「議論」が、そのあとの展開の伏線になっていることがわかる。
 ちなみに、アメリカ映画には、このように、「議論の場面」が導入になっている映画が少なくないように思う。『市民ケーン』(一九四一)がそうであり、『地上最大のショー』(一九五二)がそうである。最近(?)のものでは、『スタンド・バイ・ミー』(一九八六)がそうであったと記憶する。【この話、さらに続く】

*このブログの人気記事 2015・3・29

 

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小学生時代に見た傑作『キングコング』(1933)

2015-03-28 06:45:05 | コラムと名言

◎小学生時代に見た傑作『キングコング』(1933)

 青木茂雄氏の「記憶の中の映画」シリーズを読んでいて気づいたのだが、青木氏が育ったご家庭というのは、かなり「映画」というものに理解があったと思う。また、経済的にも恵まれたものがあったのだろうと思料する。
 私は、青木氏とは同世代だが、家族と一緒に映画館を訪れた経験は、数えるほどであった。そのかわり、青木氏とは違い、小学生時代でも、「子どもだけ」で映画館に行ったことが何回かはあった。
 いずれにしても、昭和三〇年代の東京郡部に住む小学生にとって、「映画」というのは、かなりゼイタクな娯楽なのであって、それに親しむ機会と言えば、夏休み、小学校の校庭で開かれた「納涼映画会」、教師に引率されて学年単位で見にゆく「映画教室」といったものが主であり、これに、子どもたちだけでゆく場合、家族に連れられてゆく場合とが、年に一、二回、加わる程度だったと思う。
 そうして見た映画のうち、小学生ながらに最も「傑作」だと思ったのは、一九三三年に製作された『キング・コング』であった。これは、たぶん、子どもたちだけで、電車で隣町までゆき、「新映座」という映画館で見た。このとき、電車の片道料金(小人)は五円、映画館の入場料(小人)は三五円だったと記憶する。
『キング・コング』は、その当時ですでに、二〇年以上も前の映画であった。その日、なぜ、そんな古い映画が上映されていたのかは、いまだに不明である。
 画面は当然白黒で、出てくる飛行機も複葉機であった。小学生の私でも、「これは古い」と思わざるをえなかった。しかし、手に汗を握ったし、おもしろかったし、感動もした。こんな素晴しい映画を、二〇年も前に完成させていたアメリカという国に羨望した。この映画が一九三三年製作であることは、小学生の私でも、クレジットから判読できたのである。
 ストーリーは、こんな感じである。南洋の某小島には、キング・コングという巨大な怪獣が生息しており、原住民の間には、毎年一度、ひとりの娘を人身御供として、そのキングコングに差し出すという風習が残存していた。
 アメリカの興行師の一行が、その島に赴くが、原住民の酋長が、一行のうちに含まれていた美貌の女性に目をとめ、これを人身御供にしたいと言い始める。
 当時、「人身御供」などという言葉を知っていたわけではないが、映画の設定そのものには、まったく違和感がなかった。おそらく、それ以前に、「八股のオロチ」の話などの類話に親しんでいたためであろう。
 この映画の原作者が誰だったのか、彼は何をヒントにして、こういうストーリーを考え出したのか等について、かなり興味があるが、まだ調べたことはない。しかし、この映画が作られたころ、インドネシアやニューギニアの一部では、一族の娘「ハイヌヴェレ」を犠牲にすることで、栽培植物の豊作を祈る祭が、まだ実際におこなわれていたという。
 この映画が、そうした文化人類学的な知見を踏まえていたかどうかは不明だが、小学生の私にとっては、この映画は、十分なリアリティがあり、震えあがるような恐ろしさがあったのは事実である。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2015・3・28

 

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青木茂雄氏の映画評『翼よ!あれが巴里の灯だ』(1957)

2015-03-27 07:13:08 | コラムと名言

◎青木茂雄氏の映画評『翼よ!あれが巴里の灯だ』(1957)

 本日も、映画評論家・青木茂雄氏の文章の紹介である。

 記憶の中の映画(4)  青木茂雄
 映画とはアメリカ映画のことであった・3
 『翼よ!あれが巴里の灯だ』(1957年)

 小学5、6年生のころから映画の評価というものが気になるようになった。そのころ観たものに、『鹿革服〈しかがわふく〉の男』(デイビー・クロケットの話で、そのころ評判になったフェス・パーカーという俳優が主演していた。歌も流行った)、『機関車大追跡』(南北戦争の時のアトランタとチャタヌーガという二つの町をめぐる南軍と北軍との争いがテーマで、たしかこれにもフェス・パーカーが主演していた。登場する開拓時代のSLの勇姿には心を躍らせた)などがあった。この二つとも確かウォルトディズニーの企画で、子ども向けの夏休み向けの映画だったと記憶している。私はこれらを「オデオン座」で観た。 そのころ家には「スクリーン」という洋画専門の雑誌が置いてあって、私はそれを棚から引っ張り出しては拾い読みしていた。その中に「僕の採点表」という記事があり、双葉十三郎という映画評論家が書いていた。☆が20点で★が何故か(10点でなく)5点という配点だった。何点だったかは忘れたが、この二つの作品ともかなり低かったのにはがっかりした。双葉十三郎は「子供騙し」という語をよく使った。そうか、「子供騙し」か。それでは「子供騙し」でない映画とはどのようなものか。
 双葉十三郎の採点表では、満点が☆4つ、つまり80点であった(☆5つ100点もまれにあったようである)。このころの☆4つの映画として評判になっていたのが『翼よ!あれが巴里の灯だ』(1957年米、ビリー・ワイルダー監督)であった。「スクリーン」誌には、この作品についての記事が満載されていた。気になってはいたが、なかなかこの作品を観る機会は訪れず(なにしろ映画は家族同伴でなければ観てはならないという小学校からのきつい“お達し”があったから)、封切りからかなり遅れて、中学生になってから例の水戸東宝劇場で観た。そして、なるほど「子供騙し」でない映画とはこういうものか、と感心した。
『翼よ!あれがパリの灯だ』(原題は“The Spirit of St.Louis”「セントルイス魂」)は、周知のチャールズ・リンドバーグによる初の大西洋横断飛行を描いた映画だが、何より語り口のうまさ、小技の使いかたのうまさ―子供ごころにもそれはわかるのである―に感心した。
冒頭は、リンドバーグ(これもまた私のお気に入りの、あのジェームズ・スチュワートが扮する)が、飛行の前日、緊張のため一睡もできないでいるという場面から始まり、回想のエピソードをつなげていくという絶妙の語り口である。
 どうして眠れないのだ(私もどちらかと言うと寝付きの悪い方なので、この語りに共感)。 回想はまず少年時代、鉄道のレールを枕に眠ってしまい、機関車がポイントでそれ、すんでのところで事故を免れる、というエピソード。続いて、郵便飛行機の操縦士時代から、愛機“The Spirit of St.Louis”「セントルイス魂」を自主製造するまでの話。単発機で一枚翼、エンジンの性能が最大のポイントであるということを納得させる語り口。ひとつひとつのエピソードには「落ち」がつき、それを次のエピソードへとつなげていく。
 出発の日の朝。飛行場に待機している救急車が事故を予期させるが、無事離陸し、離陸した後、機内に入り込んだ一匹の蝿との「対話」。その蝿が窓の外へ逃れ、ここで本当のひとりぼっちになる。
 今度は睡魔に襲われる。すんでのところで窓にくくりつけた小さな鏡に反射した太陽の光線で目が覚める。その鏡は、出発前にある女性が彼にくれたものである。で、この女性とのエピソード。最後に、パリの飛行場での大歓声。
 この映画は、脚本がいかに映画にとって決定的であるかを教えている、少年の私にもそのことが良くわかった。
 私はこの映画を鑑賞しながら、自分自身が「子供」から脱していくのを覚えた。これが「大人の映画」というやつだ、と。
 ところで、この『翼よ!あれがパリの灯だ』は、中学生の時に一度観たきりで(その時は監督名など気にも留めなかった。ビリー・ワイルダーの名に注目するようになったのは私が中年になってからである)、その後テレビでは何度か観たが、スクリーンではまだ再見していない(と思う)。ぜひ、スクリーンで再見してみたいものだと思う。ワイルダーはこの作品にいったい何を込めたのか、そういうことを感得してみたいと思う。

*このブログの人気記事 2015・3・27

 

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