礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「ひとのみち」の御利益しらべ(1936年5月)

2014-10-31 04:34:20 | コラムと名言

◎「ひとのみち」の御利益しらべ(1936年5月)

 昨日のコラムを書いたあと、『「ひとのみち」の御利益しらべ』という本を持っていたことを思い出した。数年前に購入したまま、ほとんど読んでいなかった本である。久しぶりに手にとってみると、一九三六年(昭和一一)五月三一日の刊行であった。すなわち、「ひとのみち事件」の四か月前に出た本である。編者は富田岩夫、出版社は、東京市小石川区大塚町の大同出版社、函入り、布装、定価金一円三〇銭、特価金一円である。
 序文には、「筆者は、勿論『ひとのみち』の信者ではない」、「この書は、決して『ひとのみち』の宣伝を目的としたものではなく」などととあるが、内容は、ひとのみち教団の概略を、わかりやすく紹介したものであって、それが「邪教」ではないことを力説しているものであった。
 昨日、紹介したように、一九三六年一月、ひとのみち教団全国奉仕員連盟は、「広く世人をして本教を正しく理解せしむるに於て万遺漏なきことを期す」という趣旨の決議をおこなっていた。この決議は、同書にも引用されている。重複を厭わず、関係の部分を引用しておこう(二三~二四ページ)。

 (五)決 議
 それから、これは前に一寸〈チョット〉書いたが、筆者は現に奉仕員の講演で聴いたところの、ひとのみち教団では、社会の中傷誹謗に就いて積極的活動を開始したのだ。これに関する内容を報道したいと思ふ。
その「決議」は全国奉仕員連盟をはじめ、婦人会役員会、青年会役員会などが各々本部に開かれた会議の席上で作成したものだが、その中の一つを挙げれば、
《決 議
近時本教ノ著シキ発展ニ伴ヒ本教ニ対スル中傷讒誣ノ声頻リニ高マル。コレニヨツテ本教ヲ誤解シ絶対幸福ノ道ニ入ルノ機会ヲ失フ人勘ナカカラズ、斯クノ如キハ独リ本教ノ為ノミナラズ国家ノ深憂ト謂ハザル可カラズ、因ツテ全国奉仕員連盟ハ全員相結束シテ適宜ノ措置ヲ講ジ広ク世人ヲシテ本教ラ正シク理解セシムルニ於イテ万遺漏ナキ事テ期ス。
昭和十一年一月二十七日  扶桑教ひとのみち教団 全国奉仕員連盟》
 これは、近来「ひとのみち」に対する見当違ひの意見や、悪戯〈イタズラ〉に類する批判が新聞雑誌に発表されるため「平素従順なることし処女の如き信徒諸氏も遂に勘忍の緒を切らし」先づ東京各支部連盟の蹶起となり、次いで前記の全国奉仕員連盟の決議となり、ここに敢然本教認識徹底のため進出することになつたのだ。
 その第四回全国奉仕員連盟総会は一月二十七日、第六十六回の誕辰〈タンシン〉を迎へた教祖〈オシエオヤ〉祖霊祭後に本部広間で開会したのだ。そこにば嗣祖〈ツギオヤ〉、教長〈キョウチョウ〉、橋本、龍起両祖〈リョウソ〉をはじめとして、東京池袋支部の三角寛(大衆作家)同支部の山道襄一(代議士)同支部笠松慎太郎(専修大学講師)京都支部の松浦武雄(医学博士)東京支部の大井静雄(高輪中学校の専務理事)熊本支部の藤井熊太郎(憲兵大佐)東京牛込支部の佐藤義亮(新潮社々長)などの支部代表者諸氏が、この決議に就いて所信を発表するなど、出席者総連盟評議員二百五十余名、傍聴の奉仕員教信徒二千名に及ぶ盛会ぶりだつたのだ。

 上記のうち、教祖〈オシエオヤ〉とあるのは、御木徳一〈ミキ・トクハル〉、嗣祖〈ツギオヤ〉とあるのは、徳一の長男・徳近〈トクチカ〉、教長〈キョウチョウ〉とあるのは、徳一の次男・道正〈ミチマサ〉である。橋本とあるのは、准祖の橋本郷見〈サトミ〉、龍起〈タツキ〉とあるのは、同じく准祖の湯浅龍起である。ほかにも湯浅眞生〈マサオ〉という准祖がいるので、これと区別するために、龍起と呼んだものと思われる。なお、准祖に対しては、「橋本祖〈オヤ〉」というふうに、祖〈オヤ〉という敬称をつけて呼ぶことになっていた。
 と、このような注釈ができたのは、すべて、『「ひとのみち」の御利益しらべ』に、わかりやすい説明があったからである。
 この本の編者・富田岩夫については不詳。おそらく仮名であろう。大同出版社の代表者は、桜井均。国会図書館のデータによると、同社は、一九五〇年代まで、実用書・学習参考書を出していたが、その最初の出版物は、『「ひとのみち」の御利益しらべ』であったようである。
 いずれにしても、この本は、出版された時期からみて、「ひとのみち」という宗教を、「正しく理解せしむる」ことを目的として、ひとのみち教団自身によって企画編集されたものであろうと思料する。

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池袋支部の三角寛、牛込支部の佐藤義亮

2014-10-30 05:53:47 | コラムと名言

◎池袋支部の三角寛、牛込支部の佐藤義亮

 先日、『ひとのみち』という雑誌のバックナンバーを数冊、入手した。言うまでもなく、「扶桑教ひとのみち教団」が発行していた広報誌である。
 手にとって、まず驚いたのは、ウラ表紙が、新潮社の総合雑誌『日の出』の全面広告になっていたことである。戦前における新潮社が、「ひとのみち教団」と深く関わっていたことは知っていたが、ここまでとは思わなかった。
 入手したうちの一冊、第一二年三月号(一九三六年三月一日発行)の一四ページに、次のような記事があった。

 第四回奉仕員連盟総会
 第四回全国奉仕員連盟総会は一月二十七日午前九時半から仮本殿広間で開催された。嗣祖〈ツギオヤ〉、教長、橋本、龍起〈タツキ〉、石毛各祖〈カクオヤ〉、加藤連盟事務長、永吉事務次長列席、出席者約二百五十名、傍聴の奉仕員教信徒二千名に及ぶ盛会で、納所昇〈ノウソ・ノボル〉氏議長席に就き、永吉徳保〈ナガヨシ・トクヤス〉師事務報告を為し、次に通告順により福岡支部の内部佐武郎〈ウチベ・サブロウ〉氏、下関支部の原新太郎氏、万世橋支部の三好茂生〈シゲオ〉氏、池袋支部の三角寛〈ミスミ・カン〉氏、京郡支部の松浦武雄氏、東京支部の大井静雄氏、熊本支部の藤井熊太郎氏、池袋支部の笠松慎太郎氏、牛込支部の佐藤義亮〈ヨシスケ〉氏、池袋支部の山道襄一〈ヤマジ・ジョウイチ〉氏登壇、各々熱弁を振つて、本教団に対する世の誹謗、浮説の根絶を叫び、全奉仕員蹶起〈ケッキ〉の秋〈トキ〉正に到れるを高唱して、果敢なる認識是正運働を起すことに諸説一致した。この日満場の空気は頗る〈スコブル〉緊張して、意気沖天〈チュウテン〉の慨〈ガイ〉を示したが、その間にも極めて明朗な爆笑が伴なつて、如何にもひとのみち教団の集会の味の独特さを見せた。
 終つて左〈サ〉の決議を為し、小林長三郎〈チョウザブロウ〉氏の会計報告があつて、最後に嗣祖の発声で天皇陛下万歳の奉唱、納所議長の発声でひとのみち教団の万歳を三唱して満場拍手裡〈リ〉に閉会した。
《決 議
近時本教の著しき発展に伴ひ本教に対する中傷讒誣〈ザンブ〉の声頻り〈シキリ〉に高まる。これによつて本教を誤解し絶対幸福の道に入るの機会を失ふ人勘なからず、斯くの如きは独り本教の為のみならず国家の深憂と謂はざる可からず、因つて全国奉仕員連盟は全員相結束して適宜の処置を講じ広く世人をして本教を正しく理解せしむるに於て万〈バン〉遺漏なきことを期す。
昭和十一年一月二十七日  扶桑教ひとのみち教団全国奉仕員連盟》

 ひとのみち教団に対する弾圧、いわゆる「ひとのみち事件」が起きたのは、この年の九月のことであった。すでに、この段階で、「本教に対する中傷讒誣の声」が高まっていたことがわかる。その意味でこれは、貴重な史料と言える。
 また、文中、「池袋支部の三角寛」とあるのは、サンカ小説家として知られる三角寛である。また、「牛込支部の佐藤義亮」とあるのは、新潮社の創業者にして社長の佐藤義亮である(義亮は、〈ギリョウ〉と読むこともある)。やはり、ひとのみちと新潮社の結びつきは深かった。なお、一説によると、三角寛が「ひとのみち」に入信したのは、佐藤義亮にすすめられたからだという。

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丹波山国隊とNHK「私の秘密」

2014-10-29 05:47:26 | コラムと名言

◎丹波山国隊とNHK「私の秘密」

 昨日の補足である。仲村研『山国隊』(学生社、一九六八)の一三ページに、次のようにある。

 山国隊は時代祭に参加することをきめると、江戸から郷里に凱旋するさいにうちならした鼓笛の復習や、服装の新調に苦労した。

 間接的な表現ではあるが、山国隊が、江戸から郷里に凱旋する際、そのどこかの時点で、「鼓笛」の演奏をはじめた、あるいは鼓笛隊を結成したということらしい。ただし、著者の仲村研は、具体的なことについては述べていない。
 ここで、一昨日の補足。ブログ「北山・京の鄙の里・田舎暮らし」の主宰者は、「山国隊歌と都風流トコトンヤレ節」という記事において、「お名前は忘れたが、我が田舎から」、ある人物が、NHKの番組「私の秘密」に出演し、「私の村は維新勤王山国隊が出た村です」という秘密を披露したと書いておられる。
 この出演者というのは、『丹波山国隊史』(山国護国神社、一九六六)の著者・水口民次郎〈ミズグチ・タミジロウ〉翁ではなかったのか。仲村研『山国隊』の二七ページには、水口翁と仲村とが、『丹波山国隊史』の刊行に向けて、編集の打ち合わせをしている写真が載っている。一九六五年(昭和四〇)に撮影されたものだという。
 水口翁は、一八八三年(明治一六)生まれであるから、このとき、八〇歳を越えていたと思うが、お元気な様子である。しかも、この時点では、まだ、NHKの「私の秘密」(一九五六~一九六七)という番組を放映されていた。その番組に、山国郷を代表して出演しうる人物は、長老の水口民次郎翁を措いて、ほかにはいない。この写真が撮影された一九六五年(昭和四〇)前後に、この番組に招かれたのではないか。
 山国隊の話は、もう少し残っているが、とりあえず、明日は話題を変える。

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山国隊、「トコトンヤレ節」を歌いながら江戸へ凱旋

2014-10-28 05:17:43 | コラムと名言

◎山国隊、「トコトンヤレ節」を歌いながら江戸へ凱旋

 今月八日のコラムでは、宮内省の編修官であったという武田勝蔵が自費出版した『宮さん宮さん』(一九六九)から、次の一節を引いておいた。

 明治の夜明けを破ったものといえば、あの「錦の御旗」の下で、肩に「錦ぎれ」を着けた官軍が鼓笛隊に合せて高唱した俗にいう「トコトンヤレ節」であろう。これは官軍方の長州の品川弥次郎が作詞して、同じく同僚の村田蔵六、後の大村益次郎が節をつけたともいわれている。或る老人の話では、東征軍の進発にあたり、品川が一夜で作り、直ちに京都の絵草紙屋に頼んで急ぎ一夜で刷らせて、その店の丁稚〈デッチ〉らを連れて洛中を歌い歩いて頒ち、忽ちに市内の老若男女が口にするようになったという。明治以降の出征軍歌の前駈である。

 この文章を読むと、東征軍=官軍は、その進発の時点で鼓笛隊を組織しており、「錦の御旗」の下、肩に「錦ぎれ」を着けた兵が、その鼓笛隊に合せて前に「トコトンヤレ節」を高唱しながら進軍していったというイメージを思い浮かべがちである。しかし、そうしたイメージを支えるような史料は確認できない。
 まず、東征軍の進発の時点で、「トコトンヤレ」という歌詞を含む進軍歌が成立していたのかどうかが、ハッキリしない。それが、「トコトンヤレ節」と呼ばれていたかどうかもわからない。東征軍の進発の時点で、鼓笛隊が組織されていたということは考えにくい。進軍の際、鼓笛隊の演奏に合せて「トコトンヤレ節」を高唱したということも信じがたい。鼓笛隊といえば「山国隊」であるが、この山国隊の鼓笛隊というのは、いったい、いつ組織されたのだろうか。
 仲村研『山国隊』(学生社、一九六八)によれば、山国隊は、慶応四年(一八六八)四月、下野〈シモツケ〉の壬生城〈ミブジョウ〉をめぐる攻防に加わって苦戦したが、結局、同城は官軍の支配するところとなった。同月二三日、同城に帰営した山国隊は、そこで、酒杯をあげながら、「「威風凛々〈リンリン〉山国隊の軍〈イクサ〉の仕様を知らないか/トコトンヤレ トンヤレナ」と歌ったという(一六一ページ)。
 山国隊は、同年五月には、小田原藩への攻撃に加わった。同月二六日、小田原藩主・大久保忠礼〈タダノリ〉は謝罪降伏し、藩の重役は、「山国隊などの先鋒隊の行軍する路傍に、麻上下〈アサカミシモ〉を着用し、無刀のままででむかえ」たという(一七八ページ)。
 同年六月五日、江戸へ引きあげよという命令がはいり、凱旋の途につく。藤沢、川崎に宿陣したのち、「八日昼、品川で行軍隊形をととのえ錦旗を押し立て、トコトンヤレ節を歌いながら江戸にはい」ったという(一七九ページ)。
 実戦からの帰路であるから、このとき、「鼓笛」の演奏はなかったと思うが、著者の仲村研はこの点に触れていない。【この話、さらに続く】

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「宮さん宮さん」と丹波山国隊歌

2014-10-27 03:26:18 | コラムと名言

◎「宮さん宮さん」と丹波山国隊歌

 一昨日の二五日は、東京名物・神田古本祭りの初日だった。例によって、露天の店舗には寄らずに、古書会館へ。しかし本年は、手ごろな値段で、かつ「読みたい」と思うような本は、あまりなかった。それでも、計三冊を購入。
 そのうちの一冊は、仲村研『山国隊』(学生社、一九六八)、古書価三〇〇円。山国隊〈ヤマグニタイ〉と言えば、幕末に、丹波国桑田郡山国郷(現・京都市右京区京北〈ケイホク〉)で結成され、官軍に合流した農兵隊である。
 同書の「はしがき」で、著者の仲村研(一九三一~一九九〇)は、次のように書いている。

 毎年十月二十二日、秋の日ざしをあびて、京都の都大路〈ミヤコオオジ〉をねりあるくのは時代祭〈ジダイマツリ〉の行列である。
 そしてたくさんの観衆の前で、必らずその先頭を切るのは、例の「錦の御旗」をいただいた山国隊である。明治維新を象徴する「宮さん宮さんお馬の前に……」の、あの歌の主人公なのである。
 しかし、江戸幕府を倒すために東征した「官軍」を象徴するかのような、この丹波山国隊は武士ではない。農兵隊なのである。しかもこの農兵隊は、武士が「藩」の力を背景に、農、工、商の人たちを上から組織したような兵隊ではない。丹波(京都府の西北)の一山村、「山国」という地方の農民が自主的に組織した兵隊であった。偶然のつながりで因幡〈イナバ〉鳥取藩に付属することとなったが、あくまでも農民が中心であることに変わりはなかったのである。その証拠には、この農兵隊は、一年余の出征中の費用を自弁している。
 それではなぜ丹波山国隊が莫大な費用を自弁してでも、幕府を倒そうとし、倒幕の流れに加わらなければならなかったのだろうか。本書はその問題に答えることからはじまる。倒幕の巨大な流れに、この農兵隊はどのように参加していったのか。また一人一人の農民兵は、なにを考え、どのような行動をとったか。この興味ある問題を、農兵隊の人たちの手記からさぐりだしてみようとした。【以下略】 

 山国隊が、行軍に際して、鼓笛隊の演奏に合わせ、「宮さん宮さん」を歌ったという話を聞いたことがある。上記にある「あの歌の主人公」という表現も、そうした話を踏まえているのであろう。
 しかし、そうした「話」を確認できる史料はあるのだろうか。
 京都の時代祭は、一八九五年(明治二八)に始まったという。その行列の先頭を切るのは、第一回以来、山国隊の鼓笛隊で、これは今日でも変わっていない。今では、Uチューブというものがあり、居ながらにして、時代祭の行列を視聴することができる。しかし、鼓笛隊が演奏している曲は、「宮さん宮さん」ではない。また、行列の人々が、歌を歌っている様子もない。
『山国隊』の本文のほうにも、ザッと目を通してみた。一六一ページ、および一七九ページで、「トコトンヤレ節」に言及している。しかし、一六一ページにある歌詞は、「威風凛々〈リンリン〉山国隊の軍〈イクサ〉の仕様を知らないか/トコトンヤレ トンヤレナ」というもので、「宮さん宮さんお馬の前に……」ではない。また、同書は、山国隊の鼓笛隊が、どの時点で結成されたのについても触れていない。どう考えても説明不足である。もっとも、同書は、「トコトンヤレ節」の研究を目的としたものではないので、そうした説明不足があるからといって、この本の価値が下がるわけではない。
 同書の二五ページに、永井登著『丹波山国隊誌』(一九〇六)の写真が載っているが、あるいは、こうした本は、「宮さん宮さん」について記しているのかもしれない。水口民次郎著『丹波山国隊史』(山国護国神社、一九六六)は未見だが、これも、「宮さん宮さん」について記述している可能性がある。なお、『隊史』には、付録として、『隊誌』が復刻されているようだ。
 インターネットを検索していて、「北山・京の鄙の里・田舎暮らし」というブログに、「山国隊歌と都風流トコトンヤレ節」という記事があるのを発見した。ここで、「山国隊歌」という言葉が使われているのに注目した。少し、引用してみる。 

1.宮さん宮さんお馬の前で きらきら光るは何じゃいな
 トコトンヤレトンヤレナ
 あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか
 トコトンヤレトンヤレナ
2.威風凛々山国隊の戦〈イクサ〉の仕方を知らないか
 トコトンヤレトンヤレナ
3.雨と降り来る矢玉の中を先駆けするのじゃないかいな
 トコトンヤレトンヤ
1節は品川弥二郎作からの借歌で、2・3節が山国隊歌で、隊長の因州藩士河田左久馬〈カワタ・サクマ〉の作という事です。小生も山国隊の鼓笛隊の一員であったころこの歌を教えて貰った。NHKの「私の秘密」というテレビ番組に出演する時であった。お名前は忘れたが、我が田舎からこの番組に出演され、「私の村は維新勤王山国隊が出た村です」という秘密をレギュラー出演者が質問することによってその秘密を解明するという番組であった。で、秘密が明かされた後、我々鼓笛隊がライトアップされた大阪城の本丸から山里丸への階段を行進したあと、山国隊歌をうたうというプログラムであった。 

 ブログの主宰者は、「山国隊の鼓笛隊の一員」だったことがあるという。もちろん、維新当時の「山国隊の鼓笛隊」ではなく、時代祭等における「山国隊の鼓笛隊」のことである。その証言によって、山国隊歌は、「宮さん宮さん」のバージョンであったという推測が可能になる。
 なお、この証言のうち、「鼓笛隊がライトアップされた大阪城の本丸から山里丸への階段を行進したあと、山国隊歌をうたう」という部分は、要注意である。「行進しながら」とは書かれていない。「宮さん宮さん」は、もともと、鼓笛隊の演奏に合わせて歌う歌では「なかった」のではないか。【この話、続く】

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