礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

2013-02-22 05:47:25 | 日記

◎石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

 昨日の続きである。早瀬利之氏の『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、二〇一三年二月一七日)から、石原莞爾がジャーナリストのマーク・ゲインに対し、日本の敗因などについて語っている部分を紹介する。
 この部分は、マーク・ゲイン『ニッポン日記』(筑摩書房、一九五一)に依拠しているようだが、早瀬氏の文章は、非常によくまとまっているので、そのまま紹介する。

 翌二十六日〔一九四六年四月二六日〕、アメリカのアルトン検事とUP通信杜のカメラ記者・オクノが来た。オクノは検事とすれ違いに入ってきて写真を撮った。
 二十七日には、「シカゴ・サン」のマーク・ゲイン記者とポップ・コクレン記者がやっと石原の入院先を聞きつけて取材にくる。マーク・ゲインはソ連共産党に追い出された白系ロシア人でアメリカ市民権を持ち、日本語を話せるジャーナリストである。のちに彼は情報源として都留重人(のちの一橋大学長)と親しくなる。
 マーク・ゲインは「石原かぶれ」と言ってよい程の惚れ込みようで「マッカーサーのあとの指導者は石原莞爾だ」とさえ言っている。そのゲインが、やっと都内にいる石原を捜しあて、インタビューにきたのだ。のちに書いた『ニッポン日記』に、初めて会ったときの印象をこう書いている。
「石原に会ったのは、その病院の小さな一室だった。その部屋の窓枠は爆撃のため歪んだままだった。彼は痩せた男で、渋紙色に焼け、頭は剃ったように短く刈っていた。厳しい、滅多に瞬きもしない鋭い眼は、私たちを射貫くような光をたたえていた。彼は手をヒザにおいて、寝台の上に日本式に座っていたが、黄色い文那服の不格好な寛衣をまといながらも、彼の体躯は鋼鉄の棒のようにまっすぐだった。
 彼の背後には日本式の掛軸がかかっていた。私たちはただ二つだけ質問した。敗戦の日本は? そして彼自身は? すると彼はすぐさま鋭い確固とした口調で長々と答えた。自分の発した言葉の一つ一つに確信を持っている人の語りだった」
 昭和二十一年四月は、講和条約締結前で、まだ交戦状況下にある。他の軍人たちは自殺・自決したりして自ら「心の法廷」に決別したが、石原は連合軍最高司令官マッカーサーや米大統領トルーマン、アメリカ国民に向って堂々と反論した。それがマーク・ゲインの『ニッポン日記』に、こう書かれている、
「私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっと金を使わせたでしょう。戦線を縮少し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解決すればもっとうまくやれたと思う(中略)。日本の指導者たちがミッドウェーの敗戦の意義を埋解し、ソロモン群島の防衛線を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方していたにちがいない。山本五十六大将らは誤りを犯した。どこに根拠地を求めるかを知らなかったからだ。サイパン失陥を聞いたとき、私は敗戦を覚悟した」
「私は支那とは和平できたと思っている。われわれは東亜連盟に非常に確信を持っていた。その精神を中国民衆に浸透させることができたら、戦いを終ることはできた。東亜連盟は終始非侵略主義だった。連盟は、中国が満州国を承認さえすれば、日本軍隊は中国から撤退しうると論じた。蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたから満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国をソ連との緩衝地帯にせよ、との意見だった。勿論我々はソ連と戦う意志はなかった」
 そして石原は、東條について「無能な男」と語る。
「対中国政策に関しては、東條と私との間に別に意見の相違はなかった。なぜなら、東條という男は、およそプラン(作戦)など立てる男ではないからだ。彼は細かい事務的なことはよくできる。しかし中国政策というような大問題に関しては全く無能だった。彼は臆病者で私を逮捕するだけの勇気もなかった。東條のような男やその一派が政権を握りえたという事実が、すでに日本没落の一因でもあった」
 さらに東條に迫害され続けた東亜同盟会員とマッカーサーについても語っている。
「不幸なことは、東亜連盟は貴国の命令で解散させられた。東條も連盟を弾圧しようと試みたが連盟は朝鮮でも満州でも、また支那においても力強い勢力を維持し続けただろう。マッカーサーが東亜連盟を解散させたとき、我々は旧日本の軍国主義とアメリカの軍国主義者とは何の違いもないことを知った。東亜連盟こそ、共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった」【中略】
 最後に、「日本の敗因は何ですか」と聞かれたときは、はっきりとこう話した。
「日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ。特高警察と憲兵隊のおかげで、国民はいつも怯えていた。しかしこれらの警察力が、今除去されたということが、ただちに日本の民主化を意味するものではない。が秘密警察が破壊された以上、マッカーサーは日本人の手で追放を行わせるべきである。総司令部のやり方を見ていると、どうも信用できない人たちの情報に頼っている、というのが現状だ。新聞関係のあなた方などが総司令部が真実を知りうるように、大いに助力されることを、私はお勧めする」

 早瀬氏の『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』には、ほかにも紹介したい部分がたくさんあるが、機会を改める。また、読んでいていくつか注文させていただきたい点も出てきたが、これも機会を改める。

今日のクイズ 2013・2・22

◎1945年4月の時点で、石原莞爾が入院していた病院はどこだったでしょうか。

1 飯田橋の厚生年金病院
2 飯田橋の東京警察病院
3 飯田橋の東京逓信病院

【昨日のクイズの正解】 2 1940年に立命館出版部から発行されたが、「安寧秩序妨害」の理由で発禁処分を受けた。■「金子」様、正解です。石原莞爾の著書『世界最終戦争論』についての問題。『国会図書館所蔵発禁図書目録―1945年以前―』による。ただし、「削除版」の発行は許されたもようである。

今日の名言 2013・2・22

◎日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ

 石原莞爾の言葉。戦後、ジャーナリストのマーク・ゲインらに、こう語ったという。上記コラム参照。マーク・ゲイン『ニッポン日記』からの引用と思われるが、原本は確認していない。

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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ( 金子)
2013-02-22 22:10:08
 1だと思います。
Unknown ( 金子)
2013-02-22 22:15:43
 石原の言う民主主義なるものが具体的に如何なるものであるのかが気になりますね。もちろん、市民革命を経たヨーロッパの思想ではないとは思いますが。
 北一輝的な考えに近いと思いますが。しかし、特高と憲兵をなくしたところで日本にそのまま民主主義が実現できたでしょうか?現に今も民主主義というよりは、戦後50年間続いてきた民主社会主義が崩壊している状態だと思いますが。
Unknown ( 金子)
2013-02-22 22:22:14
 ヨーロッパの「市民」のような感覚を持つことは、今までも、そしてこれからも日本人には不可能なことだと思います。個人の前に共同体がありますから、完全に独立的な個人という考えは日本にはありませんね。
 今までの多くの評論家はヨーロッパに追いつけ追い越せとヨーロッパ流の民主主義を身につけるべきだと、入試問題などによく出てくる山崎正和さんなどという方や丸山眞男や小林秀夫もその弊に陥っていたと思います。頭の切れる北や石原など、彼らの考える民主主義とは如何なるものだったか気になります。
Unknown (ケンタン)
2013-07-02 12:02:43
死んでから評価される人の典型ですねえ、この人は
Unknown (Unknown)
2016-06-23 09:21:16
満州事変が成功したのは、石原個人の思想ですよ。
東亜連盟なるものが石原の思想です。
満州事変が成功した陰には、石原を助けた、中国人、満人たちが多数いたことです。
張作霖は、軍閥同士の権力闘争で勝手に戦争を起こしては満州の民衆に多大な被害を与えていた。
これをなんとかしようと考えたのが石原であり、彼の思想に共鳴する中国人や満人たちです。
奉天で、日露戦争で活躍した大口径砲を事変で轟かせたのは、中国人や満人たちです。
だからこそ成功したのが満州事変です。
その後の満州は、史上もっとも豊かで平和な時代だったと、今でも懐かしく言う老人達がいるのも石原の目指した王道楽土の考えが常にどこかにあったのでしょう。その後の満州の歴史は石原の思想とは異なるのが残念です。
中国共産党が、しきりに偽満州と批判するのも石原の思想の本質を知るからでしょう。
大本と日蓮宗 (kosuke)
2018-03-29 19:39:35
大本と日蓮宗が日本の戦前のかなりの期間に大きな力を持ち、その革命思想によって満州事変や数々のクーデター計画(2.26など国家の転覆を謀った事件)と密接に絡んでいると思う。
もちろん社会主義的思想を持った当時の日本陸軍の将校と宗教家との協奏であるが、どちらかといえば軍人がオルグされてその統制経済的な方向性に向かう思想的なエネルギーを貰っていたと思う。

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