礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

瀧川政次郎『法史零篇』(1943)の「序」

2018-11-29 02:26:44 | コラムと名言

◎瀧川政次郎『法史零篇』(1943)の「序」

 今月二五日から二七日にかけて、瀧川政次郎『法史零篇』(五星書林、一九四三)所収の「火と法律」という文章を紹介した。また昨二八日は、「南方圏の法系」という文章を紹介した。この『法史零篇』という本に収められている文章は、このあとも、折に触れて紹介してゆきたいと考えている。
 本日は、同書の「序」を紹介してみたい。これは、わがブログの読者諸氏に向けて、同書の概要をお知らせしたいためであるが、同時に、瀧川政次郎の簡潔にして格調の高い文体を、読者諸氏に味わっていただきたいためでもある。
 なお、改行は、あえて原文のままにしてある。

   序

 本書は、著者が最近二年間に新聞雑誌に発表した雑
文を集めたものであつて、放送の原稿も一二交つてゐ
る。新聞雑誌社から寄稿を求められたものは、主とし
て随筆であつたが、書かれたものは、随筆といへるも
のは極く僅かで、多くは研究断片とでもいふべきもの
である。本書の内容は、説苑・零篇・随筆及び紀行の三
部に分たれてゐるが、零篇こそは、本書を特色づける主
要なる内容であつて、それが茲にいはゆる研究断片で
ある。「零篇」の中で著者が取扱つた問題は、いづれも
著者の専攷する東洋法制史に関係のあるものであつて、
をの捉へられた題目の中には、随筆らしいものもある
が、運筆の間に於ける考證は、精覈〈セイカク〉を宗〈ムネ〉としたもので
あつて、博引旁證に努めたことは、著者が専門の学術
雑誌に発表した論説と、毫〈ゴウ〉も異るところがない。本書
を洪邁〈コウ・マイ〉の「容齋随筆」や、顧炎武〈コ・エンブ〉の「日知録」等と比較
することは、僭越かも知れないが、書物の性質からい
へば、本書は、現代作家の雑文集や随筆集よりも、そ
れら学者の随筆乃至雑考に近い。
 本書に収載された雑文は、主として新聞雑誌に掲載
されたものなるが故に、時局に関係のあるものも尠く
ない。「説苑」に収めたものが、多くそれであるが、紀
行に収めた「近頃の上海」なども、時局と関係の深い
ものである。説苑の「闕所考〈ケッショコウ〉」は、一見時局と関係が
ないやうに見えるが、その実は著者が現下の我が国の
時勢に憤りを発して筆を馳せた文章である。又「満洲法
制十年史の横顔」は、昨年の建国十周年祝典に当つて、
満洲新聞社が計画した建国十年史の一部として執筆さ
れたものであり、「支那兵制の沿革」は、一昨年の国兵法
施行一周年の行事として行はれた記念講演の放送であ
つて、共に当時の時局物たりしものである。零篇の中
に収めたものには、時局とかけ離れたものが多いが、
それらの諸篇の中にも、此の国の文化を向上せしめる
ことに依つて、建国の聖業を翼成したいといふ著者の
意欲は、どこかに現はれてゐる筈である。此の雑文を
一読したことが機縁となつて、東洋法制史といふ学問
に関心をもつてくれる人が、一人でも読者の中から現
るれば、著者の幸福これに過ぎたるはない。
 本書の題簽は、胆齋佐藤知恭先生の御染筆を煩した。
記して深謝の意を表する。
  康徳十年〔一九四三〕七月 
   国都新京に於て   瀧 川 政 次 郎

*都合により、明日から数日間、ブログをお休みいたします。

*このブログの人気記事 2018・11・29

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南方圏ほど法系の錯雑しているところは少ない

2018-11-28 02:16:39 | コラムと名言

◎南方圏ほど法系の錯雑しているところは少ない

 今月二五日から二七日にかけて、瀧川政次郎『法史零篇』(五星書林、一九四三)所収の「火と法律」という文章を紹介した。
 本日は、比較的に短い「南方圏の法系」という文章を紹介してみたい(五六~五八ページ)。

  南 方 圏 の 法 系

 大東亜海をめぐるインドネシヤの民族、社会、風俗、物産については、近ごろ夫々〈ソレゾレ〉の専門家によつていろいろと語られてゐる。にもかゝはらず、インドネシヤの法律の現状といふやうな問題については、殆ど語られるところがない。語られる必要がないのであらうか、将〈ハタ〉また語るべき材料がないのであらうか。
 インドネシヤは安南、カンボヂヤ、泰〈タイ〉、ビルマ、マレイ等の半島部とボルネオ、スマトラ、ジヤワ、セレベス、フイリツピン等の嶋嶼〈トウショ〉部の二部から成つてゐるが、凡そ〈オヨソ〉世界中で、此の地方ほど法系の錯雑してゐる地方は少い。即ち安南は、速く建国の初めから支那法系に属し、カンボヂヤ、泰、ビルマは大体において仏教法系である。マレイは大体回教法系の法域に属するが、英領直轄地であつた昭南島〔シンガポール〕、その他には英法が行はれてゐる。スマトラ、ボルネオ、ジヤワ等は回教法の法域であるが、バリ島には仏教が遺つてゐる。ルソン、チモール、セレベスの一部には、西班牙〈スペイン〉人の齎した〈モタラシタ〉基督教の寺院法が遺つてゐるが、ミンダナオ島には回教徒が住んでゐる。しかして蘭印の全部及びチモール島には、ロマネスク法系に属するその本国の法律が行はれ、フイリツピン全島には、ともかくも英米法系が拡がつてゐた。又南方圏のどこにでも住んでゐる華僑は、その身分法に関する限りにおいては、支那法に依つてをり、南方圏に散らばつてゐる印度人は、概ね〈オオムネ〉ヒンヅー教の法律慣習に従つて生活してゐる。
 南方圏から資源をもつてくることも必要であるが、これらの圏内に住む人民をして物心ともにその所を得せしめることも必要である。南方圏をひたすら資源を需める場所と考へるのは、英米風の考へ方である。上下交々【コモゴモ】利に征〈セイ〉せれば危い〈アヤウイ〉。何ぞ必ずしも資源のみを言はん。唯道義あるのみだ。私は印度及び南方の法系については、多く知るところがない。この方面の専門家から法律の現状に関する報告に接せんことを切望する。

*このブログの人気記事 2018・11・28(7位は極めて珍しく、9位は実に久しぶり)

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火事のとき赤い腰巻を振るのはなぜか

2018-11-27 03:52:11 | コラムと名言

◎火事のとき赤い腰巻を振るのはなぜか

 瀧川政次郎『法史零篇』(五星書林、一九四三)から、「火と法律」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
 昨日、紹介した文章のあと、改行して次のように続く。

 火は神聖なるものなるが故に、清浄そのものである。故に日本においても、蒙古に於けると同様に、火をもつてきよめるといふこともある。たゞ日本では清洌〈セイレツ〉な水がいつでもふんだんに得られるから、日本では「きよめ」、「みそぎ」といへば、殆ど水に限られたやうに考へられてゐるだけである。今日花柳界で、芸者が「やかた」を出るときに、燧石〈ヒウチイシ〉で切り火を行つてゐるが、あれは門を出て不吉不浄に会はない為めの、きよめの印り火であつて、力士が取組にあたつて土俵に塩を撒くのと同じである。塩は「浪の華」であつて、水の精である。故に塩できよめること即ち水できよめることである。同様に、火できよめるかはりに、煙できよめるといふことも可能である。法会〈ホウエ〉を営むにあたつて、導師が手にせる珠数を、くゆる香煙の上に翳して〈カザシテ〉きよめる如き、即ちそれである。
 火は清浄なるが故に不浄を嫌ふ、といふ性質を逆用して、不浄を以て清浄の火を避けようとする、科学的な考へ方のやうで科学的でない迷信が、中世の頃から流行し出した。それは、女のゆもじ〔腰巻〕を振り廻して、火事の火の手の燃えひろがるのを防ぎ止めようとする行為である。女のゆもじは不浄なものであるから、それを振り廻してさへゐれば、その方へは火の手が来ないといふ考へである。誰がそんなことを初めて考へ出したのかと思ふと、微笑ましく〈ホホエマシク〉なる。この迷信は、相当ひろく日本に拡つてゐる迷信らしい。筆者は幼時大阪で近火に遭つたとき、近所の下宿屋の二階で、女中が真赤なゆもじを一生懸命に打ち振るのを目撃した。火事のときに打ち振るゆもじは、汚れてゐるほど効果的であるとされてゐるが、いかにもそれは理由のあることである。何となれば、火は不浄を忌むからである。火事に女のゆもじを振るのは、女のゆもじにはへのこ(火の子)止まるのしやれだといふ説もあるが、それは昔の人のマジカルな物の考へ方を忘れた、近代人の誤つた解釈である。汚れたゆもじで思ひ出したが、佐賀県地方には、汚れたゆもじで、夜ともし火をめがけて室内に飛び込んでくる金ブンを捕へると、大へん有福になるといふ迷信がある。その何の故であるかを知らないが、兎も角〈トモカク〉女のゆもじに或る種の魔力のあることは認められる。これに比べると男のふもだし〔褌〕には、さういふ魔力は何一つないが、それは女の幽霊に凄味があつて、男の幽霊に凄味がないのと同じである。
 話は飛んだところへ火の子が散つたが、火を神聖なるものとして、これを穢涜する行為を罰するれ成吉思汗の法律は、一種の神法であつて、日本古法と睛犀一点相通ずるものがある。水火自然を神のあらはれと眺めて、これを敬虔な態度で取扱ふ原始人の考へ方は、極めて尊い。これを未開だとか野蛮だとかいふのは、人為則文明と観る一種の「からごころ」ではなからうか。大東亜の法理は、大東亜に共通するひろい心を基〈モト〉としなければならない。春秋以来殆ど行詰つてゐるやうな支那思想をもつて、北方アジア民族の習俗を評価してはならない。蒙古人の間に、今もなほ火を神聖視する習慣があるかどうか、私はよく知らないが、あれば保存してやつていい習慣ではないか。支那人の苦力【クリー】が、穢い〈キタナイ〉靴で煙草火を踏みにぢつてゐる光景など、私はどうしても好感が持てない。私の心の隅には、まだどこかに火を大切にした古代日本人の物の感じ方が残存してゐるらしい。煙草の吹殻だけは、足で踏まずにチヤンと灰皿の中に入れて消してもらひたい。火を粗末にすることは、決して文明人の誇りではないと思ふ。

*このブログの人気記事 2018・11・27

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線香の火を口で吹き消してはいけない理由

2018-11-26 01:30:12 | コラムと名言

◎線香の火を口で吹き消してはいけない理由

 瀧川政次郎『法史零篇』(五星書林、一九四三)から、「火と法律」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した文章のあと、改行して次のように続く。

 木花咲耶姫【このはなさくやひめ】が天津神の疑ひを受けられ、ことさらに出入口のない八尋殿【やひろどの】を造つて、それに火を放ち、我が産むところ正しく天孫の子ならば、火も亦損ふことを得ず、我が産むところ国津神【くにつかみ】の子ならば、火もて焼け失せよと誓つて、三人の子を生れたといふ記紀の伝説は、日本の昔に、火による神意裁判のあつたことを物語る神話であるが、火炎による神判が行はれるのは、火が神聖なものであるからである。火炎による神判は、後世には鉄火による神判に進化した。鉄火神判といふのは、カンカンにおこつた炭火の上に鉄棒をのせ、その赤熱するを待つて、鉄棒で原被両告の手をしごき、焼けただれた方を敗訴とするものであつて、焼火箸で手をしごくといふ荒行〈アラギョウ〉は、今でも山伏【やまぶし】の間に残つてゐる。鮪〈マグロ〉の上に焼海苔【やきのり】をのつけたものを鉄火といいふのも、その色合からきたものである。あの事件には「手を焼いた」といふのは、鉄火神判に敗訴した苦い経験をもつてゐる、といふ意味から出た言葉である。女だてらの鉄火肌といふことは、村と村との水争ひに鉄火神判を用ひたことから起つたものではないかと思ふ。江戸時代には村と村との水争ひに、各村から一人宛〈ズツ〉の代表者を出して、神前に焼火箸をしごかした。手を焼くのは、誰も困ることであるから、焼火箸をしごく役には誰もなりたくないのが人情だが、イヤ、村中のためとあれば、わちきがやらかしませうと、その役を買つて出る義侠肌の人間が、即ち鉄火な野郞なんである。
 噴火口を「おはち」といつて崇め、噴煙を御神火【ごじんか】と号しておろがむのも、火を神聖視する考へ方のあらはれであり、竈〈カマド〉の神を三宝荒神〈サンポウコウジン〉として斎き〈イツキ〉祭るのも、火が神聖であるからである。斯やう〈カヨウ〉に、火は神聖なるが故に、火には不浄なものを投げ入れてはならない。火鉢の側で爪を切ることがいけないとされてゐるのは、不浄な爪が火を穢すのを恐れるのである。爪が不浄なものと考へられてゐたことは、素盞鳴尊〈スサノウノミコト〉が天津罪【あまつつみ】国津罪を犯して高天原【たかまがはら】を追はれ給ふときに、まづ爪髮を抜き、千座置戸【ちくらおきど】を負はされて神逐【かんやら】に逐【やら】はれ給ふたことによつても知られる。火の側で爪を切つてはならぬといふ掟【おきて】は、或る地方では、夜爪〈ヨヅメ〉を切つてはならぬといふいましめになつてゐる。夜爪を切れば炉辺〈ロバタ〉に知らず知らずに爪が飛ぶから、それを警戒したものであらう。又今日でも神様にお供へするお燈明〈トウミョウ〉や、仏様にお供へする線香の火を、フツと口で吹き消したりすると叱られる。臭い息を神聖な火に吹き込むことが、不浄と考へられてゐるからである。むかしは神仏にささげる火のみならず、あらゆる火が、そのやうに取扱はれたに相違ないと思ふ。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2018・11・26

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瀧川政次郎の「火と法律」を読む

2018-11-25 05:04:51 | コラムと名言

◎瀧川政次郎の「火と法律」を読む

 久しぶりに、瀧川政次郎の『法史零篇』(五星書林、一九四三)を取り出して読んでみた。この本は、何度、読んでも面白い。文章も良い。
 同書は、瀧川政次郎が満洲にいたころ、同地の新聞や雑誌に発表した「雑文」を集めて編集した本である。発行元は、新京特別市大同区の五星書林で、発行年月日は「康徳十年九月廿五日」。発行部数は三〇〇〇部、定価は三円である。
 本日は、この本の中から、「火と法律」という文章を紹介してみたい。初出についての記載はないが、その発表が、同書発行より三年以上遡ることはないと思われる(「序」の記述から推して)。

  火 と 法 律

 近ごろ必要があつて、成吉思汗〈ジンギスカン〉の大法典というものを一寸覗いてみたが、その中に
  火又ハ灰ニ放尿スル者ハ、何人ヲ問ハズ、死刑ニ処ス。
といふ一条があり、又
 食物ノ料理セラレル火ノ上、又ハ食皿ノ上ニ、足ヲ置ク者ハ、処罰セラルべシ。
といふ意味の条文があつた。蒙古人にとつては、火は神聖なものであるから、それを涜す者は厳罰に処せられるのである。蒙古人が火を清浄なるもの、神聖なるものとしたことは、和林【カラコルム】の蒙古朝廷に使したヨーロツパの使節の記録にもあらはれてゐる。外国の使臣が蒙古汗王に謁見するためには、先づ猛火の燃えさかる間をくぐらなければならなかつたといふことが、其の使節の日記に出てゐるが、これは外国使臣は穢れた者と一応考へられるが故に、火によつて祓除〈フツジョ〉を行つたものであらうと思ふ。日本でも、王朝時代には唐、渤海の使節が入京した際には、先づハラヒを科してゐる。
 カルピニーの蒙古人の歴史にも、蒙古人の迷信として次の如く述べてゐる。
《蒙古人は正しき行為に対する法律、若しくは罪悪に対する警告を持つてゐない。それにも拘らず、彼等は彼等自らの創造、又は祖先の創造に係る罪悪と言はれるものにつき或る伝説を有つてゐる。斯る罪悪となつてゐるものを挙げてみよう。火にナイフを触れしめる事、又ナイフを用ひて鍋より肉を取出す事、これらは凡て罪惡となる。何となれば、これらは火の頭を切り落すものだと彼等は考へてゐるからである。》
カルピニーが蒙古人の迷信といつたのは、蒙古人の法律といつたのと同じ意味である。人種的偏見の強いヨーロツパ人は、自己の法律観念と違ふ法律観念を法律観念として受けとることができないで、これを迷信といつたまでのことであつて、神聖なものが火であつても、十字架であっても、迷信といへば迷信にかはりはない筈である。
 火を神聖なものとする思想は、蒙古人に特有なる思想でもなければ、拝火教徒〔ゾロアスター教徒〕に特有なる信仰でもない。凡そ地球上に住むすべての民族の曽つて有し、又その或るものは現に有する思想信仰であつて、われわれ日本人の祖先も、火を神聖なものとして敬虔な態度で取扱つたのである。【以下、次回】

 原文では、冒頭の引用「火又ハ灰ニ放尿スル者ハ、……」が、「水又ハ灰ニ放尿スル者ハ、……」となっていたが、文脈から判断し、校訂を加えた。また、原文では、「祓除」とあるところが、「拔除」となっていたが、これも文脈から判断し、校訂を加えた。

*このブログの人気記事 2018・11・25(9位に珍しいものが入っています)

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