◎鈴木貫太郎を蘇生させた夫人のセイキ術
本日も、二・二六事件の話である。幣原喜重郎の自伝『外交五十年』(読売新聞社、一九五一)の中に、「鈴木貫太郎夫妻」という文章がある。
鈴木貫太郎侍従長(元・海軍軍令部長)は、二・二六事件の際、麹町の侍従長官邸にいたところを襲撃され、瀕死の重傷を負った。その鈴木貫太郎から、幣原が聞いた話がメインである。早速、引用してみよう(二八一~二八二ページ)。
鈴木貫太郎君は二・二六事件(昭和十一年)の遭難者の一人であった。私は当日難を鎌倉に避けていたから、彼の遭難の事を知らなかった。鈴木君と私とは、彼は海軍次官、私は外務次官だった頃からの知合いで、何か問題が起ったとき、よく二人の意見が合ったので、それから非常に懇意になった。事件の後、私は東京の家〔六義園〕に帰り、彼は負傷もどうやら癒った〈ナオッタ〉ので、ブラブラ歩いて私の家へ来た。そして遭難当時の詳しい話をしてくれた。以下彼の生々しい直話〈ジキワ〉。
夜中に何だか騒々しい音がする。人がどやどや入って来る気配である。鈴木は寝床を跳ね起きて、そこへ行って見た。鉄砲を持った七、八人の兵隊と一人の指揮者が入って来た。「君らは何だ」というと、「済みませんけれども、閣下の生命を頂戴に参りました」という。鈴太は「よしッ、それなら少し待て」といって、引返して奥へ入った。
奥の室には、切味〈キレアジ〉のいい日本刀が刀架にかけてある。それを取りに行ったのだ。鈴木はどうせやられるにしても、斬れるだけ斬ってやろうと、刀を取りに行った。ところが幾ら探しても、刀架はあるが、懸けて置いた筈の刀が見えない。これは後になって判ったのだが、その刀のなかったのは、部屋に置いて埃〈ホコリ〉がつくので、奥さん〔たか夫人〕が前の晩にそれを倉の中にしまったからで、鈴木はそれを知らなかったのである。
あちこち探したが、刀はない。ぐすぐすしていて、あいつ卑怯にも裏から逃げたと思われては、一生の名折れだ。
「よしッ」と素手で出て来て、
「君らの見る通り、オレは何も手に持って居らん。やるならやれ!」
といって、立ったまま両手を拡げた。すると中隊長は中尉ぐらいだったが、「最敬札!」と号令して兵隊たちに鈴木に敬礼させた。そして続いて、「射て」と号令した。バンバンと銃声がして弾丸が頭にあたったので、鈴木はそこヘバッタリ倒れた。
そのとき、偉いのは奥さんであった。流石〈サスガ〉は武人の妻で、少し離れたうしろの方にキチンと坐って、ジッと良人〈リョウジン〉の最後を見届けていたという。射撃が終ると、一人の兵隊が倒れた鈴木の側へ寄って、脈を見ていたが、「脈があります、止め〈トドメ〉を刺しますか」と隊長にいった。隊長は、「それには及ばん」といって、倒れた鈴木に対して、また最敬札をさせた。そしてそこに鈴木夫人が端然と坐て〈スワッテ〉いるのを見ると、今度は夫人に最敬礼をしたうえ、
「奥さん、誠に済みませんでした。私は御主人に対して何の恨みもないのです。むしろ私は個人としては、御主人を尊敬しておったのです。しかしこういう事になったのは、私の力が及ばなかったからです。奥さんをこういう目にお遭わせして、本当に済みません」
と、さんざん詑びをいって、帰り際にまた鈴木と奥さんに最敬礼して引揚げて行った。後に残った奥さんは、字はどう書くか知らんが、セイキ術とかいうものを心得ていたので、血がドクドク出て来る鈴木の傷口ヘ手を当てていた。すると二、三十分で出血が少なくなった。そのうち医者が駈けつける、手術をする、それで鈴木は九死に一生を得たのであった。
ここに出てくる「中隊長」とあるのは、二・二六事件の首謀者のひとり、安藤輝三〈アンドウ・テルゾウ〉陸軍大尉(歩兵第三連隊第六中隊長)のことである。安藤大尉は、事件の一週間ほど前、侍従長官邸に鈴木を尋ね、親しく面談している。
また、たか夫人が心得ていた「セイキ術」というのは、おそらく、石井常造〈イシイ・ツネゾウ〉が始めた「生気自強療法」のことであろう。石井常造には、『生気応用家庭看護法』(生気療養研究所、一九二五)などの著作がある。
ここには触れられていないが、諸書には、トドメを刺そうとした兵士を制止したのは、たか夫人であった旨が記されている。ウィキペディア「鈴木貫太郎」にも、たか夫人が、軍刀を抜いた安藤大尉に対し、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と言い放ったとある。
前日、夫人が刀を片付けたのは、ムシの知らせとでも言うべきものであろう。もし、このとき、鈴木が日本刀を振るって抵抗していたとすれば、おそらく鈴木は銃で「蜂の巣」にされていたことであろう。刀架に刀がなかったからこそ、鈴木は命びろいしたのである。
夫人の「セイキ術」に止血の効果があったかどうかは不明だが、大量出血している鈴木に対し、冷静な態度で看護に尽したであろうことは疑いない。
いずれにしても、鈴木寛太郎の命を救ったのは、夫人の判断であり、対応であったことは間違いない。なお、ウィキペディア「鈴木貫太郎」は、たか夫人について、次のように記している。
―たか夫人は東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)の教諭であったが、東京帝国大学教授菊池大麓の推薦により、1905年(明治38年)から1915年(大正4年)まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇)、秩父宮、高松宮の養育に当たっていた。―
今日の名言 2012・11・30
◎こういう事になったのは、私の力が及ばなかったからです
二・二六事件の首謀者のひとり安藤輝三大尉が、鈴木貫太郎侍従長を襲撃した直後に、たか夫人に語ったとされる言葉。上記コラム参照。なお、安藤大尉は、最後まで決起には消極的だったという説がある。