礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鈴木貫太郎を蘇生させた夫人のセイキ術

2012-11-30 06:07:47 | 日記

◎鈴木貫太郎を蘇生させた夫人のセイキ術

 本日も、二・二六事件の話である。幣原喜重郎の自伝『外交五十年』(読売新聞社、一九五一)の中に、「鈴木貫太郎夫妻」という文章がある。
 鈴木貫太郎侍従長(元・海軍軍令部長)は、二・二六事件の際、麹町の侍従長官邸にいたところを襲撃され、瀕死の重傷を負った。その鈴木貫太郎から、幣原が聞いた話がメインである。早速、引用してみよう(二八一~二八二ページ)。

 鈴木貫太郎君は二・二六事件(昭和十一年)の遭難者の一人であった。私は当日難を鎌倉に避けていたから、彼の遭難の事を知らなかった。鈴木君と私とは、彼は海軍次官、私は外務次官だった頃からの知合いで、何か問題が起ったとき、よく二人の意見が合ったので、それから非常に懇意になった。事件の後、私は東京の家〔六義園〕に帰り、彼は負傷もどうやら癒った〈ナオッタ〉ので、ブラブラ歩いて私の家へ来た。そして遭難当時の詳しい話をしてくれた。以下彼の生々しい直話〈ジキワ〉。
 夜中に何だか騒々しい音がする。人がどやどや入って来る気配である。鈴木は寝床を跳ね起きて、そこへ行って見た。鉄砲を持った七、八人の兵隊と一人の指揮者が入って来た。「君らは何だ」というと、「済みませんけれども、閣下の生命を頂戴に参りました」という。鈴太は「よしッ、それなら少し待て」といって、引返して奥へ入った。
 奥の室には、切味〈キレアジ〉のいい日本刀が刀架にかけてある。それを取りに行ったのだ。鈴木はどうせやられるにしても、斬れるだけ斬ってやろうと、刀を取りに行った。ところが幾ら探しても、刀架はあるが、懸けて置いた筈の刀が見えない。これは後になって判ったのだが、その刀のなかったのは、部屋に置いて埃〈ホコリ〉がつくので、奥さん〔たか夫人〕が前の晩にそれを倉の中にしまったからで、鈴木はそれを知らなかったのである。
 あちこち探したが、刀はない。ぐすぐすしていて、あいつ卑怯にも裏から逃げたと思われては、一生の名折れだ。
「よしッ」と素手で出て来て、
「君らの見る通り、オレは何も手に持って居らん。やるならやれ!」
といって、立ったまま両手を拡げた。すると中隊長は中尉ぐらいだったが、「最敬札!」と号令して兵隊たちに鈴木に敬礼させた。そして続いて、「射て」と号令した。バンバンと銃声がして弾丸が頭にあたったので、鈴木はそこヘバッタリ倒れた。
 そのとき、偉いのは奥さんであった。流石〈サスガ〉は武人の妻で、少し離れたうしろの方にキチンと坐って、ジッと良人〈リョウジン〉の最後を見届けていたという。射撃が終ると、一人の兵隊が倒れた鈴木の側へ寄って、脈を見ていたが、「脈があります、止め〈トドメ〉を刺しますか」と隊長にいった。隊長は、「それには及ばん」といって、倒れた鈴木に対して、また最敬札をさせた。そしてそこに鈴木夫人が端然と坐て〈スワッテ〉いるのを見ると、今度は夫人に最敬礼をしたうえ、
「奥さん、誠に済みませんでした。私は御主人に対して何の恨みもないのです。むしろ私は個人としては、御主人を尊敬しておったのです。しかしこういう事になったのは、私の力が及ばなかったからです。奥さんをこういう目にお遭わせして、本当に済みません」
と、さんざん詑びをいって、帰り際にまた鈴木と奥さんに最敬礼して引揚げて行った。後に残った奥さんは、字はどう書くか知らんが、セイキ術とかいうものを心得ていたので、血がドクドク出て来る鈴木の傷口ヘ手を当てていた。すると二、三十分で出血が少なくなった。そのうち医者が駈けつける、手術をする、それで鈴木は九死に一生を得たのであった。

 ここに出てくる「中隊長」とあるのは、二・二六事件の首謀者のひとり、安藤輝三〈アンドウ・テルゾウ〉陸軍大尉(歩兵第三連隊第六中隊長)のことである。安藤大尉は、事件の一週間ほど前、侍従長官邸に鈴木を尋ね、親しく面談している。
 また、たか夫人が心得ていた「セイキ術」というのは、おそらく、石井常造〈イシイ・ツネゾウ〉が始めた「生気自強療法」のことであろう。石井常造には、『生気応用家庭看護法』(生気療養研究所、一九二五)などの著作がある。
 ここには触れられていないが、諸書には、トドメを刺そうとした兵士を制止したのは、たか夫人であった旨が記されている。ウィキペディア「鈴木貫太郎」にも、たか夫人が、軍刀を抜いた安藤大尉に対し、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と言い放ったとある。
 前日、夫人が刀を片付けたのは、ムシの知らせとでも言うべきものであろう。もし、このとき、鈴木が日本刀を振るって抵抗していたとすれば、おそらく鈴木は銃で「蜂の巣」にされていたことであろう。刀架に刀がなかったからこそ、鈴木は命びろいしたのである。
 夫人の「セイキ術」に止血の効果があったかどうかは不明だが、大量出血している鈴木に対し、冷静な態度で看護に尽したであろうことは疑いない。
 いずれにしても、鈴木寛太郎の命を救ったのは、夫人の判断であり、対応であったことは間違いない。なお、ウィキペディア「鈴木貫太郎」は、たか夫人について、次のように記している。
―たか夫人は東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)の教諭であったが、東京帝国大学教授菊池大麓の推薦により、1905年(明治38年)から1915年(大正4年)まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇)、秩父宮、高松宮の養育に当たっていた。―

今日の名言 2012・11・30

◎こういう事になったのは、私の力が及ばなかったからです

 二・二六事件の首謀者のひとり安藤輝三大尉が、鈴木貫太郎侍従長を襲撃した直後に、たか夫人に語ったとされる言葉。上記コラム参照。なお、安藤大尉は、最後まで決起には消極的だったという説がある。

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警察から邪険にされた幣原喜重郎

2012-11-29 05:31:06 | 日記

◎警察から邪険にされた幣原喜重郎

 昨日の続きである。二・二六事件の勃発で、幣原喜重郎が都落ちのため駒込の六義園を出るところから。

 ずっと自動車で市内を廻り廻つて行ったが、鎌倉へ行くには宮城〈キュウジョウ〉の前あたりを通らなければならない。雪はどんどん降っている。兵隊が到るところに屯ろ〈タムロ〉していて、通る人を誰何〈スイカ〉している。
 この大雪の中で、この宮城の前で、いよいよ私の最後を飾るのかと、気持ちを落ち着けていたが、幸い発見されないで、二時間もかかって鎌倉へ着いた。
 無事に鎌倉の家に着いて、ホッと一息ついているところへ、サーベルの音がして、また署長がやって来た。ここは行政区画上管轄は鎌倉署でなく、葉山署であった。葉山の署長は、
「誠に済みませんが、鎌倉市内でもどこか葉山署の管轄区域外へ行って頂きたいのです」
という。そのわけは、葉山の管轄内には宮様がたくさんおいでになる。警察の手がとでも足りない。そこへ私に来られて、どうにも繰合せがつかないというのである。私は、
「鎌倉市内といっても知った家はないが」
というと、
「海浜ホテルでも結構です」
という。海浜ホテルだとて私が泊ったら、多数の警察官がホテル内外に立番するに違いない。人出入〈ヒトデイリ〉の多い旅館内外に突然多数の警察官が立番すれば、ますます人目に立つだろう。それでは泊り客はもちろん付近が騒々しくなって、皆に迷惑をかけることになると思われたから、私は、
「あなた方は私の身体を保護するつもりでそういわれるのは誠に有りがたいが、もう保護は要りません。私自身それを放棄します。ここは私の家ですから、しばらく滞在しますが、あなた方は引取って下さい。そのため私が危害を受けても決して苦情はいいません」
といって保護を断わった。この流儀で、警察官が興津の西園寺〔公望〕公を何処かへ連れ出したらしいが、私は頑として応じなかった。そして四、五日経った。その間に、牧野伸顕〈マキノ・ノブアキ〉さんが湯河原で襲われたことを知った。しかし私のところまで、わざわざ殺しに来る者はなかった。
 それから一週間ばかり経って、私は勝手に鎌倉から東京へ帰った。それは先日急いで身支度を整えず都落ちをしたので、日常生活の必要品に不自由を来たしたためであった。するとまた駒込の署長がやって来て、
「だいぶ世の中が静かになって来ましたが、決して安心出来ません。それでもう少し落ち着くまで、御親戚なり、お友達の家なりに身を隠してくれませんか」
という注文であった。私はそれを断わって、
「何処に隠れていても、やられる時はやられる。僕はやられても仕方がないが、僕をかくまってくれた家を騒がすことになる。そんな事はさせたくないから、死ぬならここで死ぬ方が遥かに気楽だ。ここならば逃げようと思えば逃げられる。庭は何万坪もあるのだし、人の気付かんような穴みたいなものや、いろんな隠れ場所もあるから、あなた方の心配は無用に願いたい」
と頑張って、駒込の家に留まった。警察では非常に神経を病んでいた。幸いに何事もなかったが、実に不愉快な時代であった。

 これを読んで、つくづく、幣原喜重郎というのは、人がいいと感じた。彼は、葉山署長に対し、「あなた方は私の身体を保護するつもりでそういわれるのは誠に有りがたいが」などと言っているが、本気でそう思っていたのだろうか。
 要するに、羽山署長は、あなたが管轄内にいると迷惑だから、出て行ってくれと言っているだけである。この点は、本郷駒込警察署長の場合も全く同じである。相手が、国家の重臣であってもこうなのであるから、零細な庶民に対して、日ごろ、警察がどんな対応をしていたかは、推して知るべしであろう。要するに、この当時の警察というのは、みずからの保身だけを考え、国民の身体・生命・財産を守ろうという使命感は、あきれるほど稀薄だったと言っても過言ではなかろう。
 幣原は、自動車で家を出て、宮城の前まで来たとき、「いよいよ私の最後を飾るのか」と感じたと書いている。そんなことなら、家を出て鎌倉に向かうべきではなかったのである。もし出る場合でも、護衛として私服刑事に同乗してもらいたいぐらいのことは言えたし、また言うべきであった。
 なお、三菱財閥の総帥・岩崎小彌太は、二・二六事件の発生を事前に察知し、「警視庁出身の護衛二名に護られ」、本郷の本邸を出たという話がある(八月一二日のコラム参照)。当時、警察の対応に何ら期待することができなかったことを考えると、この岩崎小彌太の対処は正しかったと思う。ただ、ひとつ疑問なのは、岩崎は親戚である幣原に、なぜ察知した情報を伝えなかったのかということである。もちろんこれは、「事前に察知」という話を信じた上での疑問だが。

今日の名言 2012・11・29

◎この大雪の中で、この宮城の前で、いよいよ私の最後を飾るのか

 幣原喜重郎の言葉。2・26事件の発生当日、駒込の六義園を出て鎌倉に向かった幣原は、途中、宮城前で、死を覚悟したという。上記コラム参照。

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幣原喜重郎と2・26事件

2012-11-28 06:03:18 | 日記

◎幣原喜重郎と2・26事件

 二・二六事件(一九三六)については、このコラムでも何度か取り上げたが、本日は、幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉の二・二六事件体験を見てみよう。
 幣原喜重郎は、大正末期から昭和初年にかけての、いわゆる「幣原外交」で知られる外交官・政治家である。二・二六事件当時は、すでに政治の第一線から退いており、反乱軍の標的にされていたわけではなかったようだが、それでも、事件勃発後は、警察署からの要請により、「逃避行」をおこなったという。
幣原の自伝『外交五十年』(読売新聞社、一九五一)から少し、引用してみよう。

 それから四年、一九三六年(昭和十一年)の二月二十六日、いわゆる二・二六事件の当日、もちろん私は自分が危険に曝されて〈サラサレテ〉いるなどとは思ってもいない。駒込六義園〈リクギエン〉の一隅に仮住居〈カリズマイ〉して、春眠を貪り、朝の四時か五時ごろ、ふと目を覚ますと、ガヤガヤ人声がする。六義園の広い庭に大勢人が居る気配である。私はソッと雨戸を繰って〈クッテ〉見た。まだ暗いけれども、見ると何処〈ドコ〉から連れて来たのか、一面の警官である。そしてそこに署長がいたから、
「一たいどうしたんです」
と聞くと、署長は、
「私もよくわからんのですが、先刻電話がかかって来て、機関銃を携えた集団が襲来するという話です。それが普通の人の乱暴なら警察の力で十分なんですが、向こうは機関銃を持っているそうです。サーベルと機関銃では、どうも太刀討ちが出来ません」
という。いわゆる寝耳に水で、私は初めてこの突発事件が軍人のクーデタだということを知った。それで署長に向って、
「そうですか、それは大変だ。どうすればいいかな」
というと、
「済みませんが、ここを出て、何処か東京都外に立退いて〈タチノイテ〉頂けませんか」
と署長がいう。つまり私に都落ちをしろという注文である。そこで私は考えた。兵隊がどんどんやって来たら、この大勢の警察官は私を保護する任務を持っているのだから、これは衝突になる。そうすると可哀そうだけれどもこの警察官はほとんど皆殺しの運命に曝される、と思うと気の毒で堪らない。それで、
「なるほどサーベルと機関銃とでは喧嘩になりませんね。よろしい、それじゃ私は退却しましょう。例えば鎌倉辺ならどうです」
「至極結構構です」
という。そこで運転手を叩き起こして車の用意をさせ、私は著物〈キモノ〉を着替えて家を出ようとし。すると、署長がやって来て、
「どうか表門から出るのは止して〈ヨシテ〉下さい。もうじきやって来そうですから、直ぐぶつかります。裏門からこっそり出て下さい」
 まるで泥棒でもして逃げて行くような恰好〈カッコウ〉で不愉決だけれども、どうも警察官が私を保護するためにいうのだから、私は理屈なしに裏門から出た。

 この回想で、興味深いのは、警察署長が、重臣に対して、「済みませんが」と言って立ちのきを要請していることである。反乱軍から重臣を守るという発想が全くない。「衝突」を避けたいという「保身」の論理があるのみである。なおこの当時、六義園を管轄していたのは、本郷駒込警察署だったはずである。
 一方また、幣原のほうも、その署長の要請をやすやすと受け入れている。人がよいというのか、重臣としての自覚がないというのか。警察や重臣が、こういう発想であった以上、決起部隊によるクーデタが成功した可能性も、十分にあったとすべきであろう。
 ちなみに、この当時の六義園は、幣原にとって義父にあたる岩崎弥太郎が所有していた。そういう関係で幣原は、六義園に「仮住居」していたのであろう。【この話、続く】

今日の名言 2012・11・28

◎サーベルと機関銃では、どうも太刀討ちが出来ません

 1936年(昭和11)の2月26日の早朝、幣原喜重郎の住まいを訪れ、東京からの退去を要請した本郷駒込警察署長の言葉。上記コラム参照。

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外務省通訳養成所学生の討論と敗戦後の日本

2012-11-27 06:08:06 | 日記

◎外務省通訳養成所学生の討論と敗戦後の日本

 昨日の続きである。一九四六年初頭における外務省通訳養成所学生の討論の後半部分を紹介する。昨日と同様、引用に際し、漢字、かなづかいなどを現代風に改めている。

A Kさん。どのような強い感情が今日の日本には動いていますか。〔What strong feeling prevails in Japan today,Mr.K.?〕
K 人々の心の中には家を愛する愛と国を愛する愛とが熱烈に燃えています。
A しかしそれはむしろ利己的な愛ではないんですか、Eさん。
E さうです。それゆえ陛下〔昭和天皇〕はその愛を全人類を愛する愛〔the love of humanity〕にまで拡充すべきであるとおっしゃっています。
A 陛下は敗戦の結果、何を恐れておられますか。F君。
F 陛下は国民が失意落胆し、不安焦燥し、道徳的頽廃を来すことがないようにと憂慮しておられます。
A C君。陛下は国民の苦しみや混乱からは遠く離れて〔stand aloof〕、外からこれを眺めようとしておられるのですか。
C いいえ、陛下は我々国民とその喜びをも、その悲しみをも共同にされようとしておられます。
A では天皇陛下を我々に、我々を天皇陛下に何が結びつけているのですか。Bさん。〔What binds the Emperor to us and we to him,Mr.B.?〕
B 私たちは相互の愛と信頼と尊敬とで結び合っているのです。〔We are bound together with mutual love,trust,and respect.〕
A それではDさん、そのような愛や、信頼や、尊敬は何に基くものですか。
D それは神話でも伝説でもありません。またはそれは天皇は生ける神〔a living deity〕である、そして我々日本民族は他の諸民族に優れて、やがては全世界を支配する時が来るというようなことを確信するからでもありません。
A F君。政府は今日のこのような烈しい苦難の時代に、その責任を充分感じていると思いますか。
F はい彼らはその最善を尽してそれを取去るために夢中になっている〔it is bent on〕と思います。
A では我々国民は一体何をしなければならないのですか。Gさん。
G 私たちは互いに一致し、信頼しあい、互いにあい助けあい、広い心と、寛容と、互いに許しあう心とを培い〈ツチカイ〉あわねばなりません。
A これは元旦における天皇陛下の我々国民に下されたところの宣言でしたね。そして元旦とは決心の日〔a day for resolutions〕でしたね。ではHさん、私たちが陛下のこの詔書を読んだ後で、どのようなことをすることが陛下を最もお喜ばせ申しあげることだと思いますか。
H もし私たちが一致協力し、国家の一切の重荷と苦難とを互いの双肩に荷いあい、全世界の国々と和合一致してゆくところの国とわが国をすべく努力をするならば、陛下はそれ以上のお喜びはないと思います。
A さうです。それはいい答案だと思うね。どうか諸君も通訳としての任に就くことにおいて、そのことに対する責任を充分取ってほしく思います。

 討論というよりも、学生たちは、A(講師の熊谷政喜)の質問に対して、Aの意を汲みながら、模範的な回答をおこなっている印象を受ける。討論というよりは、集団に対する熊谷政喜の口頭試問といった感がある。Aが最後の発言の中にある、「それはいい答案だと思うね」という言葉が、何よりもよく、この「討論」の性格を表現しているように思う。
 さて、この本(『日米会話講座』第一巻第二輯)では、以上の討論の模様は、和英対訳の形で紹介されている。本では明示されていないが、この討論は英語によってなされたのかもしれない。参考までに、いくつかの箇所について、対応する英語を掲げておいた。
 その後、インターネットで調べたところ、外務省通訳養成所のついては、いろいろなことがわかってきた。また、熊谷政喜という人物についても、きわめて個性的なカトリック神父であったことなどがわかってきた。これらの話はまたいずれ。

今日の名言 2012・11・27

◎私たちは相互の愛と信頼と尊敬とで結び合っているのです

 外務省通訳養成所学生「B君」は、熊谷政喜講師の「天皇陛下を我々に、我々を天皇陛下に何が結びつけているのですか」という質問に対して、こう答えた。外務省通訳養成所編纂『日米会話講座』第一巻第二輯(日米会話講座刊行会、1946)より。

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通訳養成所学生、1946年元旦の詔書について討論する

2012-11-26 05:43:37 | 日記

◎通訳養成所学生、1946年元旦の詔書について討論する

 外務省通訳養成所編纂『日米会話講座』第一巻第二輯(日米会話講座刊行会、一九四六)によれば、同養成所は、その学生たちに、一九四六年元旦の詔書をどのように受けとめるかについて、討論をおこなわせたようである。
 本日はそれを紹介したい。まず、この本の実質的な著者である同養成所講師・熊谷政喜〈クマガイ・マサキ〉によるとおもわれる前置きがあって、そのあと討論にはいっている。なお、引用に際し、漢字、かなづかいなどを現代風に改めた。

 本詔書に関する討議
 さて我々は以上において、詔書の英訳や謹解をし、さらに本詔書の担う画期的な意義について考えてきたので、ここでは、それを我々のクラス・ルームで討議した時の記録を取上げて記してことににしよう。
 それはもちろんいうところの会話ではない。しかしこのよう問題について我々が語る場合は、普通の会話とは違って、討議の形になることは止むをえないと思う。
A 今日、我々は我々の討議の重大問題として、「詔書」を取上げる事にした。我々はこれまでこの種詔書をずいぶん長い間いただくことができなかった。諸君はこのことから、今やあらためて我々は自由な、平和な時代に生きていることの喜びを強く感じたことと思う。
 さて、この詔書の劈頭〈ヘキトウ〉において天皇は前方を見ておられるのか、または後方を見ておられるのか。Ⅰ君。
Ⅰ 彼は後方をふり返って見ています。かの明治天皇がわが国の国是〈コクゼ〉とすべくお下し遊ばされた五個条の御誓文を。
A 諸君がこの明治陛下の五個条の御誓文を読む時、諸君は一体何を印象づけられるかね。S君。
S もしこの五個条の御誓文がその書かれてあるその如く今日まで守られてきたならば、このような烈しい戦争は決してなかったであろうし、またこのような国家的苦難もなかったであろうと思います。
A その通りだと思いますね。私はこの御誓文を読んだ時に、リンカーンのゲッチスバーにおける演説を思い出しました。我々はそれと同様、この御誓文の中にはほんのわずかな
利己的なものをも発見することができない。Y君、何が陛下の心をお痛めしている原因だと思いますか。
Y 戦争による破壊と、戦争のもたらした様々な困難と、産業の停頓〈テイトン〉と、食糧の欠乏と、失業問題等が陛下の御心をお痛め申しているものと思います。
A 陛下はそれらの問題に対して悲観的になっておられますか。S君。
S いいえ、陛下はもし我々国民のすべてが一致協力し、平和的な文明を再建するために努力するならば、我々の行く手には必ず輝ける将来がある。しかもそれはただわが国のためのみならず、広く世界全般に及ぼすところの輝かしき未来であるとおっしゃっておられます。

 討論は、さらに続くが、本日はここまで。
 Aとあるのは、外務省通訳養成所講師の熊谷政喜でのことであろう。I、S、Yとあるのは学生であるが、それぞれのイニシャルに対応する学生が実在したのか否かは不明である。【この話、続く】

今日の名言 2012・11・26

◎我々のゆく手には必ず輝ける将来がある

 一九四六年元旦の詔書を読んだ外務省通訳養成所学生「S君」は、そこから、このようなメッセージを受け取った。上記コラム参照。

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