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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

美濃部達吉のタブーなき言説

2016-08-31 05:38:30 | コラムと名言

◎美濃部達吉のタブーなき言説

 昨日の続きである。昨日は、美濃部達吉の『新憲法概論』(有斐閣、一九四七年七月)の「序」を紹介したが、本日は、第一章「総論」第一節「新憲法制定の由来」の三「新憲法制定の手続」の全文を紹介する。あいかわらず、論旨は明快、文章にも無駄がない。
 かつて、この部分を読んだとき、欽定憲法から民定憲法が生み出されているという矛盾を指摘しているところや、「憲法制定の為の特別の国民会議」を設けるべきだったと指摘しているところに驚き、「さすが」と思ったものである。
 いま、改めて読み直してみると、次のような感想を持った。欽定憲法から民定憲法が生み出されているという矛盾の指摘は、間接的な形で、「帝国憲法の改正案を帝国議会の議に付する」勅書の問題性を指摘しているかのように読める。また、「憲法制定会議」を設けるべきだったという指摘は、ポツダム宣言に関する「回答書」の趣旨を尊重しようとしなかった連合軍司令部あるいは日本国政府に対する強烈な皮肉なのであろう。まさにタブーなき言説である。
 とは言いながら美濃部は、最後は、「理論上の当否は暫く差措き、実際には」と断って、新憲法成立の有効性を認めている。この人は、筋を曲げない「大学者」であったと同時に、空気の読める「政治家」でもあったのだろう。このあたりも、今回の再読で感じたことである。

 三 新憲法制定の手続
 新憲法制定の手続としては、政府は従来の憲法第七十三条が依然其の効力を保有することを前提とし、政府に於いて其の原案を作成した上、同条第一項に依り勅命を以て議案を帝国議会の議に付したのであつた。其の付議に当つては左の如き勅書が議会に下された。

 朕は国民の至高の総意に基いて、基本的人権を尊重し、国民の自由の福祉を永久に確保し、民主主義的傾向の強化に対する一切の障害を除去し、進んで戦争を抛棄して、世界永遠の平和を希求し、これにより国家再建の礎を固めるために、国民の自由に表明した意思による憲法の全面的改正を意図し、ここに帝国憲法第七十三条によつて、帝国憲法の改正案を帝国議会の議に付する。
    御 名  御 璽

 即ち改正草案の付議が憲法第七十三条に依り為されたものであることは、右の勅書に於いても明示せられて居る。
 併しながら、我がポツダム宣言受諾申入に対する連合国政府の回答書には、日本国政府の最終の形態は国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきことを要求して居り此の要求は我が国に対し絶対の拘束力を有するものであるが、憲法第七十三条の規定が果して此の要求と相両立し得べきや否やは、可なり疑はしく思はれる。国民の自由意思に依つて最終の政府の形態を決定するとは、言ふまでもなく国民か新憲法の制定者であるべきことを意味するもので、即ち将来制定せらるべき我が新憲法が必ず民定憲法であるべきことを要求して居るのである。改正草案の前文劈頭〈ヘキトウ〉に、日本国民が此の憲法を確定する旨を声明して居るのも、新憲法が此の要求に副ふ〈ソウ〉ものであることを表示せんとするものに外ならぬ。然るに従来の我が憲法は、之とは反対に明白な欽定憲法であつて、天皇が之を制定たしたまうたのであり、憲法第七十三条もの亦此の欽定憲法主義は固く之を支持して居るもので、それに依る憲法の改正は天皇が之を行はせらるるのであつて、国民が其の自由意思に依つて自ら之を為すのではない。勿論、それには議会の議決を要するのであるが、議会は唯之に協賛するのみで、自ら其の制定者であるのではなく、憲法第五条に「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」とある規定は、此の場合にも等しく適用せられ、即ち天皇が議会の協賛を以て憲法を改正したまふのである。其の欽定憲法主義は殊に二〈フタツ〉の点に於いて明瞭に現はれて居る。一〈ヒトツ〉は発案権が専ら勅命に留保せられ議会には其の発案権が無いことであり、一〈ヒトツ〉は議会の議決を以ては未だ確定せず天皇の裁可あるに依り憲法の改正が始めて成立するものであることである。新憲法が真に自由に表明せられた国民の意思に依つて決定せられたものである為には、国民の代表者たる議会が自ら発案権をも有し、又議会の議決に依り若くは〈モシクハ〉国民投票に依つて其の改正が確定するものでなければならぬ。憲法第七十三条に依り勅命を以て議案を付議し天皇の裁可を得て其の改正を行ひながら、国民が自ら之を決定したものと声明するのは真実に反するの嫌〈キライ〉を免れない。
 言ひ換ふれば、連合国政府の回答書に於ける日本政府の最終の形態が自由に表明せられた国民の意思に依つて決定せらるべきことの要求と、我が憲法第七十三条の規定とは、相両立し得ないもので、若し連合国政府の要求が我が国に対し絶対の拘束力を有するものとすれば、之と牴触〈テイショク〉する憲法第七十三条の規定は、それに依り当然其の効力を失つたものと為さねばならぬであらう。随つて正当な憲法改正の手続としては、新に「憲法改正手続法」とも称すべさ憲法七十三条に代はる単行法律を制定し、それに依つて例へば憲法制定の為の特別の国民会議の制を定め、新憲法草案の立案及び其の議決を一に〈イツニ〉此の憲法制定会議の権限たらしむるやうな方法を定むべきであつたと思はれる。
 併し我が政府は此の見解を取らず、仮令〈タトイ〉原案は政府に於いて作成し勅命を以て之を議会の議に付するとしても、議会の自由意思に依り之を議決する以上は、自由に表明せられた国民の意思に依つて之を決定したものと看做す〈ミナス〉に十分であると為し、連合軍司令部も其の侭之を承認し、議会に於いても亦異議なく之に同意したのであるから、理論上の当否は暫く差措き、実際には憲法第七十三条が依然其の効力を有することは、法律上確定的に承認せられたものと見るの外なく、此の手続を経て制定せられた新憲法は、正常の手続に依り有効に決定せられたものと解せねばならぬ。

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美濃部達吉の明晰な文章を味わう

2016-08-30 05:31:17 | コラムと名言

◎美濃部達吉の明晰な文章を味わう

 最近、美濃部達吉の『新憲法概論』(有斐閣、一九四七年七月)を取り出して、ところどころ読んでみた。結論と、それに到った過程を明確な形で提示する、明晰で無駄のない文章に恐れ入った。
 本日は、その「序」の全文を紹介してみよう(一度も改行がない)。

  

 新「日本国憲法」は、其の制定の手続から言へば、従来の「大日本帝国憲法」第七十三条に依り、憲法の条項の改正として議会の議決を経たものであるが、事実から言へば、単に憲法中の或る条項を改正したに止まる〈トドマル〉ものではなく、従来の憲法は全面的に之を廃棄し、新日本建設の基礎法としての新憲法が、全然新規に制定せられたのであつて、それは従来の憲法とは其の根柢を異にして居る。それが我が国体をも変革するものであるや否やは、議会に於ける審議に際し頻に〈シキリニ〉論争せられた所であつたが、それは「国体」といふ語の意義如何に依り解答を異にすべく、一概には論断し難い。「国体」といふ語は、明治以前から詔勅・宣命〈センミョウ〉・其の他の公文書にも屡々用ゐられて居るが一般には法律的観念を示す語としてではなく、国粋又は国風ともいふべき我が国に固有な国家の最も重要な歴史的倫理的の特質を指す意味に用ゐられて居るのが普通である。それが法律語として法律の中に用ゐられて居るのは、治安維持法が其の唯一の例で、而して〈シカシテ〉同法の意義に於いての国体は国家の統治機構即万世一系の天皇が国を統治したまふことを其の観念の要素とすることは争〈アラソイ〉を容れない所である。新憲法は従来の憲法に比し国家の統治機構を根柢より変革し、旧憲法第一条に示されて居た天皇国を統治したまふことの原則は之を除き去つたのであるから、若し〈モシ〉国体といふ語を治安維持法に用ゐて居る意義に解するならば、新憲法が我が従来の国体を変革するものであることは、言ふまでもない。併しながら国体といふ語は必ずしも常に斯かる〈カカル〉法律的な国家の統治機構を示す意義に用ゐらるるのではなく、一般通用語としては寧ろ万世一系の天皇を国家の中心として奉戴〈ホウタイ〉し一国は尚一家の如く天皇は国民を子の如くに親愛したまひ国民は天皇を父の如くに尊崇し忠誠を致すことの我が国に特有な精神的倫理的の事実を示す意義に解せられて居り、而して斯かる意義に於いては我が国体は新憲法に依りても毫も〈ゴウモ〉動かさるる所の無いものと謂はねばならぬ。併しそれは何れにしても之を法律上から見れば新憲法が国家統治機構の全部に亘り従来の憲法に対し根本的の変革を加ふるものであることは敢て詳論するまでもない。勿論新統治機構に付いての定〈サダメ〉は、新憲法のみを以ては未だ完備したものではなく、それが完備するには諸付属法令の制定を待たねばならぬのであるが、新憲法の既に公布せられた今日に於いて新憲法の取つて居る新統治機構の基本原則に付き多少の解説を試みることは、旧憲法に付き解説書を公にした著者に取り当然の責務であると信じ、取敢へずここに此の書を公にすることとした。それは「概論」の名に示す如くに、新統治機構の梗概を論じたに止まるもので、其の詳細に付いては、付属法令の整備を待つて他日〈タジツ〉更に論述する機会あらんことを期待する。

 昭和二十二年一月      美 濃 部 達 吉

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桃井銀平論文の紹介・その3

2016-08-29 04:43:42 | コラムと名言

◎桃井銀平論文の紹介・その3

 今月22日からの続きである。桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(1)」の三回目の紹介である。
 論文は、A4で一八ページに及ぶ長文だが、本日までに、約半分を紹介したことになる。

(3) 蟻川恒正と日本における<憲法的思惟>
① <教師としての思想・良心>の優位
 蟻川恒正は研究者としての出発点から、国旗国歌強制問題については強い問題意識を持ってきた。裁判や運動の現場からは一歩離れた地点からではあるが重要な論考を次々と発表してきた。彼の最初の著作『憲法的思惟』(創文社、1994)は、1943年にアメリカの小学校における国家忠誠宣誓儀礼強制を憲法違反としたバーネット判決及び首席裁判官ジャクソンの思想を近代立憲主義の立場から読み解いた名著とされている〔11〕。
 蟻川が、2011年5月末から6月にかけて相次いで下された国旗国歌関係の一連の最高裁判決の分析において重視した点の一つは「私的」なものとは区別される「公的」な思想・良心を主張した事例があったことである。一つは彼が最初の最高裁判例として分析の中心対象とした2011年5月30日最高裁第二小法廷判決(蟻川はこの判決を「不起立訴訟最高裁判決」と呼んでいる。)である。それは、不起立で懲戒処分を受けて定年後の再雇用を拒否された一人の都立高校教師を原告とするものである。そこでの原告の思想・良心とは、判決文に拠れば以下のとおりである。
「上告人は、卒業式における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否する理由について、日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人、在日中国人の生徒に対し、「日の丸」や「君が代」を卒業式に組み入れて強制することは、教師としての良心が許さないという考えを有している旨主張する。このような考えは、「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる〔12〕。」
 蟻川が「公的」な思想・良心という点で重視した今一つの事例は、彼の要約によれば以下のような思想・良心を主張したものである。
「職務命令それ自体は上記不起立訴訟最高裁判決(2011年5月30日判決-引用者注記)と同質のものであるが、自らは公私にわたり日の丸・君が代に敬意を表する行動をとることを進んで行う教諭が、自らが担任するクラスに、在日中国人の生徒・旧日本軍との戦争で敬愛する祖父を亡くしたイギリス国籍の生徒がいることから、彼らの前でいわゆる起立斉唱行為をすることは教師としての良心が許さないと考え、上記職務命令に違反していわゆる起立斉唱をしなかった場合〔13〕」
 蟻川は、教師の責務を強調したこれらの原告の思想・良心を重視する。
「この両事例におけるような不起立行為者の「真蟄な」動機は, それを有する者に対して格別の配慮をすることなく発出される職務命令の憲法19条適合性を判断するに際しても何らかの形で「較量」要素とするに値するものを含んでいると考える余地があるにもかかわらず. 上述のように, 公私の別を問う良心(後者-引用者注記)であるか, それとも, 公私を通じて貫徹される良心(前者-引用者注記)であるか, の違いに法的処遇の上での差異をもたらす可能性がある」
不起立訴訟最高裁判決(2011年5月30日判決)は思想・良心の「公私の別」に関わる論点を顧慮していない。しかし、別個の判断枠組みの採用も考えられるという。
「不起立訴訟最高裁判決とは異なる「判断枠組み」 (公教育の場においては私的良心を貫徹することではなく教師としての職業的良心にもとづく「やむを得ざる」行動をより尊重すべきであるとする思考前提に立った判断枠組み」) を自覚的に採用すれば、その「判断枠組み」のなかで上記論点に関する事実を(むしろ事柄の主要な側面にかかわるものとして) 取り込むことは充分可能であり. 場合によっては, 望ましくもありうる 。」〔14〕
 蟻川は2014年の学会報告〔15〕ではこの点についてさらに踏み込んでいる。彼によれば、一連の最高裁判決で採用された事案類型分析が思想・良心の自由に対する「間接的な制約となる面がある」事案類型となった前提には、最高裁が原告の行為のみならず主張に対しても「一般的、客観的に見る」方法論をもちいて「「私的」世界観」として一括した判断が存在しているという。最高裁は原告が行った主張の中に「「私的」世界観の保護」を求める部分があったのにつけ込んで、「間接的な制約となる側面がある事案類型」として判断して、審査基準としては緩く「事案類型をほとんど絞り込まずに憲法判断をしようとする」「総合的較量」という判断枠組みに持ちこんだのだという。このような最高裁の論理の流れを「インターセプト」するためには、「原告は、「私的」世界観の保護を求める主張をしないか、そうでなければ、するとしても、その主張と「公的」な主張とが完全に切れたものとなるような主張を自覚的に組み立てる必要がある」という。 さらに蟻川は、憲法の条文では第12条(「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」)にもとづく理論武装-「教師たる私の権利主張は「公共の福祉」のための権利主張である」とする理論武装」-が必要だとしている。〔16〕
 最高裁の「一般的、客観的に見る」という方法論は、はたして原告の主張を基本的に「「私的」世界観」の保護を求めるものに一元的に解釈してしまったのであろうか。むしろ、「「私的」世界観」の保護を求める主張の存在を認めたからこそ最高裁は迷うことなく憲法19条についての判断をしたともいえるのではないだろうか。また、教師としての「公的」思想・良心の保護に焦点を合わせることは必ずしも「総合的較量」ではない厳格な審査方法の採用の道を開くものとはいえない。職務命令による制約が「直接的制約」であっても、制約を受けた内心がそもそも厳格な審査方法採用如何が問題にはならないような内容のものだという判断もありうる。学校儀式の現場で行われていることの中で、日本の歴史と国家に批判的な個人に対して、大日本帝国と同じ国旗に正対起立して天皇賛歌の歌を歌わせること以上に明確に思想・良心の自由に対する「直接的制約」となりうるものが他にあるのであろうか。そこで厳格な審査方法が採用させることができなくて、いったい何処で採用されうるのであろうか。これは教師だけでなく儀式に参加する生徒・保護者にも共通する問題の本質である。
 蟻川の言う「「私的」世界観の保護」についての主張の分離または取り下げは、かえって(司法及び被告側の取り上げ方次第では)この訴訟を憲法19条論から離脱させて全面的に職務権限論の土俵に移行させてしまう危険性を持つものである。憲法上の人権侵害如何を明確に問題とし得る個人としての権利主張が消失してしまえば、<儀式=集団的教育活動についての考え方の問題であって、合法的手続きに従って決定された儀式の進行とそこでの個々の教師の役割には個人としての考えはさておいて組織人としてしたがうべきである>という論理による処理は、より容易になるであろう。19条の核心である個人としての思想・良心と切り離して主張された「公的」な思想・良心は、(2)で言及した最高裁判事那須弘平の補足意見の射程範囲に入るものである。 

注〔11〕 最近、彼単独の著書が2冊同時に刊行された。ひとつは上記『憲法的思惟』の再刊である。いまひとつは、日本の現実について<憲法的思惟>にもとづいて記された論文集(『尊厳と身分 憲法的思惟と「日本」という問題』)である(いずれも岩波書店から2016年5月刊行)。
注〔12〕 最高裁第二小法廷2011年5月30日、再雇用拒否処分取消請求事件。
注〔13〕 蟻川恒正「不起立訴訟最高裁判決で書く」(『法学教室』NO403、2014.4)p115
注〔14〕  同上p121。
注〔15〕 蟻川恒正「不起立訴訟と憲法一二条」(『尊厳と身分 憲法的思惟と「日本」という問題』(岩波書店2016年)初収。もとは日本公法学会編『公法研究』77号(2015年有斐閣)。学会報告は2014年10月日本公法学会第79回総会。
注〔16〕  同上『尊厳と身分』p179~183
 蟻川は、この場合の権利主張も憲法19条にもとづくものであるようだが、明確ではない。上記『尊厳と身分』所収の書き下ろし論文「「命令」と「強制」の間」では、憲法19条に依拠していることが明確だが、「公的」な主張」の主題化は姿を消している。この論文は、職務命令合憲判断を前提として懲戒処分を違憲としうる「規範命題」を提出したものである。この命題が成立するには教師という職業集団は少なくともある種の職務命令にたいしては服従が自発的意思に基づくべきであるという「社会観念」の成立という不可欠な前提が必要だという。「「命令」と「強制」の間」は2015年5月28日東京高裁判決(不起立に対する停職処分を取り消して慰謝料支払いを命じたもの)を踏まえて書かれている。

*このブログの人気記事 2016・8・29(4位にかなり珍しいものが、9位にやや珍しいものが)

 

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尾崎光弘さんによる書評三件(その3)

2016-08-28 04:30:19 | コラムと名言

◎尾崎光弘さんによる書評三件(その3)

 尾崎光弘さんによる書評三件の三回目である。本日は、『在野学の冒険』に対する書評(二〇一六年八月二三日)を紹介する。
 同書は、「在野学」に関わる諸家の論文を集めたものだが、尾崎さんは、そのブログ「尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅」で、八月二五日以降、その個々の論文についても、論評をおこなっている。今回は、とりあえず、二三日の書評を紹介する。

方法としての<自分化> 礫川全次編『在野学の冒険』(批評社 二〇一六)

 今回は三冊目、礫川全次編『在野学の冒険』(批評社 二〇一六)をとりあげます。前回独学と雑学を対照しそれぞれの特徴を列記しましたが再録すると、以下のようになります。

独学・・・概念的 本格的 最終的 全体的 本質的 明言的 専門的 客観的 普遍的
雑学・・・感覚的 初歩的 入門的 断片的 隙間的 示唆的 趣味的 主観的 個別的

 礫川氏は『雑学の冒険』の「はしがき」で、在野学という領域が独学とも雑学とも重なることを指摘しています。ならば、在野学を独学と雑学のあいだに置いてみる試みを恣意的とは言えないと思います。<独学──在野学──雑学>と並べてみることで、在野学の中間的性格が浮かび上がってくる気がするのです。たとえば、概念的と感覚的のあいだ、本格的と初歩的のあいだ、本質的と隙間的のあいだ、客観的と主観的のあいだ、・・・というふうに考えてみると、在野学の中間的性格がおぼろげに見えてくるようです。「中間的性格」とは両義的であることです。両端の雑学的性格と独学的性格を二つ兼ね備えているということです。在野学の中間的性格をもっとはっきりさせるには、この両義性を手がかりに、『在野学の冒険』のなかで「在野学とはどのような学問か」を内在的に論じている作品で確かめてみればいいはずです。ここでは、山本義隆「一六世紀文化革命」、芹沢俊介「思想としての在野学」、高岡健「柳田国男の<資質>についての断章」の三本を取り上げます。まず山本義隆氏の講演記録からと思ったのですが、これを紹介する編者・礫川氏の「はしがき」の記述のほうが断然分かりやすいので、急遽変更して引用します。

 編者が最初に、「在野学」という言葉を意識したのは、山本義隆さんの「一六世紀文化革命」という文章(『論座』二〇〇五年五月号所載)を読んだときでした。この文章は、本書に再録されていますが、オリジナル版に対し、徹底的に手を加えていただいたものです。ここで山本さんは、近代の科学というものは、十六世紀に、在野の職人が、みずからが獲得した「知」を、日頃使っている「俗語」で記録したことに始まるという指摘をされていました。たいへん重要な指摘だと思いました。/なぜ、「在野の職人」だったのでしょうか。山本さんによれば、それは、彼らこそが、自分の仕事で行き当たった諸問題を、自分の頭で、科学的に考察できたからです。たとえば、当時の医者は、手術をする、包帯を巻くといった手を汚す仕事は、理髪師あがりに外科職人にまかせていたそうです。そうした職人たちが、学術用語のラテン語ではなく、ドイツ語、フランス語、英語といった「俗語」で書き始めたのが十六世紀でした。まさにこのとき、近代の科学が誕生したわけです。/この十六世紀の職人たちの研究成果、これこそが「在野学」です。アカデミズムの世界の外に(在野に)位置する研究者による研究成果で、アカデミズムも、その価値を認めざるをえないような研究成果。ひとつには、これを在野学と呼んでよいと思います。/いま、「ひとつには」と申し上げたのは、別の意味での「在野学」というものも想定できると考えたからです。従来のアカデミズムが扱いきれない、あるいは扱おうとしてこなかった「在野」的な分野にこだわり、そうした分野で、何とか学問を成立させようと努力すること。──これもまた、「在野学」と呼んでよいのではないでしょうか。(前掲書 三~四頁)

 礫川氏は、山本義隆氏の講演記録「一六世紀文化革命」という文章から、「在野学」の定義を導いています。一つ目は、たとえば医学の世界では、文献知の段階からおりて来ようとしない「大先生」に代って、実際の治療に当たっていた「在野の職人」が、「自分の仕事で行き当たった諸問題を、自分の頭で、科学的に考察」した成果を当時学術用語だったラテン語ではなく自分たちの俗語で著したものを、「在野学」と呼んでいます。二つめは、≪従来のアカデミズムが扱いきれない、あるいは扱おうとしてこなかった「在野」的な分野にこだわり、そうした分野で、何とか学問を成立させようと努力すること≫をそう呼んでいます。在野的な研究成果とその歩み・努力をさして定義しているわけです。ですが、「在野の職人」への評価軸である「研究成果とその歩み・努力」という地平を超え、もう少し内在的に考えてみたいと思います。この職人たちが行っている仕事は、「本格的」段階にあるラテン語医学の実践的分担であり、また治療法の研究・改良だったはずです。そしてその成果を自分たちの言葉で著すことは、高次な段階から自分の領域に下りて受けとめることです。また「在野の職人」の仕事は医学的には「初歩的」段階から治療実践段階へのぼって受けとめることです。この両義性・二重性を<自分化>と呼んでみたいと思うのです。またもう少し広く捉え直して、「在野学」を「初歩的」段階と「本格的」段階のあいだをのぼりおりする方法と呼ぶことも可能です。すなわち、方法としての<自分化>です。

*このブログの人気記事 2016・8・28(7・10位に珍しいものが入っています)

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尾崎光弘さんによる書評三件(その2)

2016-08-27 05:12:25 | コラムと名言

◎尾崎光弘さんによる書評三件(その2)

 昨日の続きである。本日は、『雑学の冒険』に対する書評(二〇一六年八月二二日)を紹介する。

歴史の多様な側面が見える 礫川全次著『雑学の冒険』(批評社 二〇一六)

 前回紹介した礫川全次著『独学の冒険』は、いわゆる独学の著名人が登場し、その動機・研究歴・その成果からみて、本格的な段階としての「独学」事例集だと位置づけることができます。それゆえに私に「独学の覚悟」がありやなしや、を迫る一冊であったことを述べました。今回取り上げたいのは、二作目の『在野学の冒険』(批評社 二〇一六)ではなく、三作目の『雑学の冒険』(批評社 二〇一六)です。「独学」の本格性と比べると、「雑学」の特徴がよく見えて来るからです。まず帯に注目したい。カラーで古書の表紙が紹介されています。眼を凝らして書名を確かめ中身を知りたくなります。だいたいにおいて戦前戦後の古書の表紙は直截なものが多い気がします。
 さて、この本の中心テーマは、第三章「国会図書館にない100冊の本を紹介する」にあります。著者は、この章の原稿を『独学の冒険』に収録するつもりであったと書いていますから、著者の中では「雑学」が「独学」と関連づけられていたことがわかります。この本を一言で評すれば、歴史の多様な側面を見せてくれる点にありますが、その本体がこの第三章です。「1 私家版・非売品など(一三冊)」からはじまって、「10 独習書、参考書など(六冊)」「11 その他(九冊)」までの百冊を十一グループに分類する手際も見事なものだと思います。分類項目を見ていると、「国会図書館にない本」というのは、実は図書館側が架蔵の価値有りと認識できなかったものが少なくないのではないか。また全部が古書ですから発行年と一緒に紹介文を読むと、社会の歴史とはこんなに多様な側面をもっていること、歴史はこんな細部にも宿っていることに小さくない驚きを覚えます。私が特に注目したのは、「独習書、参考書など」にその時代の世相が如実に表れるというところです。そこには「文検のしくみ、受験生の意識や生活など貴重な史料と言える」(一七六頁)という著者の視線がなければ、国会図書館とて架蔵しないのも無理がないと思えますが、実はここが感度の働かせどころだと思い繰り返し読みました。「感度」というのは、誰も顧みない書籍にこそ大事な事実が隠されていることに気づく感性のことです。何か気づきそうなくだりに出会うことはとても楽しい瞬間なのです。残念ながら、いまのところ明確な形ではやってきませんが、アンテナは微動しています。
 このように考えると、あまり人が顧みない古書から何が見えてくるかという紹介文は実にありがたいものです。これまであまりお目にかかったことがない種類の文章です。そういう観点でいうならば、冒頭の「Q&A──なぜ、国会図書館にない本を問題にするのか」、第一章「たとえば、どんな本が国会図書館にないのか」、第二章「国会図書館にない本は、どのようにして生じたのか」などの章も、私に取っては初めて知る議論ばかりですが、分からないことと、分かるところをきちんと区別して語る文体は実に小気味いい。世の中にある「書誌学」という学問分野がこのようなものならば、大いに興味がそそられるところです。
 もう一つ、第四章「書物を愛する方々へのメッセージ」はこの本のなかでも特筆に価するのではないかと思います。「1 国会図書館にお勤めの方々へのメッセージ」、「2 公共図書館の閲覧サービスについての展望」、「3 古書業界で仕事をされている方々へのメッセージ」、「4 読書家・蔵書家・古書愛好家の方々へのメッセージ」です。該当する人間グループへのメッセージを読んでいただければ、いかに実用的で為になることが書かれているかお分かりいただけると思います。私個人についていえば、やはり「4」のメッセージ、蔵書の処分の仕方です。死んだら子供たちが処分してくれるのではないかと漠然と思ってきましたが、書物の価値がわからない場合にはどのような処分も期待することができないことを知りました。特にここで引用して心覚えにしておきたいのは、以下のことです。「4 読書家・蔵書家・古書愛好家の方々へのメッセージ」から紹介します。

 三 どうしても処分してほしくない本、家族がその価値に気づいていないであろう本などがある場合には、家族・友人・研究者・古書店主などに、その存在を知らせておきましょう。その際、「この本は国会図書館にもない」ということを強調するのも、ひとつの手です。
 四 生前に、自らの蔵書を縦横に駆使して、自分の研究を感性させ、出版、専門誌掲載などの形で、世に問いましょう。いずれは散逸する「蔵書」への感謝の形としては、これが最高の形ではないかと、私は考えます。
 五 専門的な研究などは、とても無理だという場合、せめて、ブログなどを使って、古書に関するエッセイなど発表されたらいかがでしょうか。古書にまつわる思いで、蔵書から得た珍しいネタの紹介、珍本発掘の報告など、書くことはいくらでもあるはずです。これもまた、「蔵書」への感謝の形のひとつと言えると思います。

 著者の礫川全次氏が、かつて私に語ってくれた古書に関する名言を二つ覚えています。一つは「自分の研究フィールドは古書店」という言葉です。これは以前にも紹介しました。二つは「古書は共有財産」という言葉です。私はつい最近まで自分の本は私有財産という観念が強く、つい書き込みをしながら読む癖を矯正できないままで来ました。しかし著者の「蔵書」への感謝の形、そして「古書は共有財産だよ」という言葉を揃えると、やはりまちがっていた思わざるをえません。
 さて、最初に戻って「独学」と「雑学」の対照を考えます。

 独学・・・概念的 本格的 最終的 全体的 本質的 明言的 専門的 客観的 普遍的・・・
 雑学・・・感覚的 初歩的 入門的 断片的 隙間的 示唆的 趣味的 主観的 個別的・・・ 

 今日はこんなところですが、上の独学と雑学の対照を見ながら、両者の間に「在野学」を挟んでみると、どう位置づけることができるでしょうか。思うに、在野学の中間的性格です。次回はこれを考えます。

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