礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

集団で踊りはねる男性の足首には「足結の小鈴」が

2019-02-28 04:36:41 | コラムと名言

◎集団で踊りはねる男性の足首には「足結の小鈴」が

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)を紹介している途中だが、昨日、興味深い映画を鑑賞したので、本日は、そのことについて書くことにする。
 その映画は、コンプトン・ベネットとアンドリュー・マートンが監督した『キング・ソロモン』(MGM、一九五〇)である。
 アフリカで狩猟ガイドをしているアラン・クォーターメイン(ステュワート・グレインジャー)は、エリザベス・カーティス(デボラ・カー)という婦人から、秘境カルアナへの案内を依頼される。婦人は、カルアナに赴いて行方不明になった夫を探すために、兄のジョン(リチャード・カールソン)とともに、わざわざアフリカまでやってきたのだ。
 アラン、エリザベス、ジョンの三人は、現地のポーターたちともに、カルアナ地方へ向って出発する。途中、サンボカと名乗る長身で風変わりな髪型をした黒人が、なぜか同行を希望する。困難な旅を経て、ワトシという集落に着いたときには、現地のポーターは、すべて逃げ去って、一行は、アラン、エリザベス、ジョン、サンボカの四人になっていた。サンボカは、実は、この村の王族であり、王位を回復するために戻ってきたのだった。
 ストーリーの詳しい紹介はしない。映画としてのレベルについても論じない。しかし、映画の終盤、ワトシ集落を描写している部分には、目を見張った。長身の住民たち、その独特の髪型と衣装、巨大な角を持った牛の群れ、アシのような植物で造られたと思われる住居、あるいは宮殿。――すべてが驚くほど美しい。とくに、集団で演じられる「踊り」が素晴らしかった。何という民族を被写体にしたのかは知らない。ともかく、貴重な映像であることは間違いない。
 ところで私は、この「ワトシ集落」の映像を見ながら、なぜか懐かしい思いがした。サンボカの腹部に、王位を示す蛇の彫り物を見つけた住民は、その彫り物に頭を垂れ、柏手を打っていた。アシのような植物を束ねて造られた住居は、日本のカヤ葺き屋根を連想させた。集団で踊りはねる男性の足首には、「鈴」が結びつけられていた。日本の『古事記』にも出てくる「足結(あゆい)の小鈴」である。また、集団の中心にいる人物は、頭を廻して白い長髪を振る所作、日本の歌舞伎でいう「毛振り」の所作を繰り返していた。――偶然と言えば偶然である。しかし、「懐かしい」という感情を覚えずにはいられなかった。

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貸座敷業のかたわら「大阪方言」を著した横井照秀氏

2019-02-27 00:17:44 | コラムと名言

◎貸座敷業のかたわら「大阪方言」を著した横井照秀氏

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その一四回目で、〔京都府〕、〔滋賀県〕、〔奈良県〕、および〔大阪府〕の項を紹介する。

〔京都府〕
 近畿地方は、和歌山県を除けば、一般に方言集が少ないが、殊に京都府と来ては皆無に近く、比較方言学者を久しく悩まして居た。然るに、最近「丹後木津村農事語彙」を出した井上正一氏は既に三千語を鬼集して居ると聞くから、それが完成したら、学者の渇望を医す〈イス〉事が出来るであらう。なほ、婦人科医にして、ジヤーナリズムの寵児たる太田武夫〔太田典礼〕氏が毎月の新聞雑誌に多くの論文を発表し、又自ら維誌「性科学研究」(後にユマニテ)を編輯発行する余力を以て、丹後のアクセントの研究を完成した八面六皮臂の活動ぶりは之を広く伝へるに足る。
〔滋 賀 県〕
 「近江八幡地方方言集」の著者山本小太郎氏は老医である。近江八幡の地に医を営む事四十年、今や推されて町長の職にある。この人にして、この著あるは亦愉快ではないか。「滋賀県方言集」の著者大田〔栄太郎〕氏については富山県の条に述べた。
〔奈 良 県〕
 学生時代から土俗学者として名を知られてゐた澤田四郎作氏が郷里と母とに対する思慕の情から成つた「ふるさと」は、その半分が郷里五位堂村〈ゴイドウムラ〉の方言集である。医業に従事する傍、土俗学に精励して十余年、倦まざる其の人柄をゆかしく思ふ。
 この外、奈良には、「奈良の方言」の著者新藤正雄氏、「大和龍田〈タツタ〉方言」の著者京谷康信氏がある。岸田定雄氏の名も逸してはならない。
〔大 阪 府〕
 横井照秀氏は大阪は住吉、狭斜の巷に貸座敷業を営む傍、土俗研究に深い趣味を有し、雑誌「田舎」を発行し、又「大阪方言」を著した。この職業の人にして、この著あるのを特に嬉しく思ふ。
 和泉方言の研究者には、小谷方明〈コタニ・ミチアキラ〉・南要の両氏がある。「大阪言葉についての研究」の指導者、清水範一氏には広島県の方言集もある。

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方言分布上注意すべき知多半島

2019-02-26 01:19:28 | コラムと名言

◎方言分布上注意すべき知多半島

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その一三回目で、〔愛知県〕と〔福井県〕の項を紹介する。

〔愛 知 県〕
 加賀治雄氏が雑誌「土の香」を創刊したのは昭和三年〔一九二八〕の春であつた。創刊の当時は純然たる土俗雑誌で、方言の記事は殆ど無かつたが、昭和六年〔一九三一〕頃から漸く方言が現れる様になり、八年〔一九三三〕に至つて最高潮に達した。珍しく長命の雑誌で、百号記念号を出したのは去年の事であつた。この外に「趣味叢書」を発行し、既刊の方言書は十指に上る。加賀自身にも「尾張の方言」正続二巻の著がある。
 知多半島の東岸にある河和町〈コウワチョウ〉は、今でこそ交通もよくなり、海水浴場としてかなり知られる様になつたが、十年前の河和と言へば、名古屋人でも知つてる人は稀であつた。その辺鄙な河和に、名古屋人である鈴木規夫氏が移住したのは転地療養のために外ならなかつた。河和は、穏和な気候と、明媚な風光と、新鮮な魚介とを兼ね備へた楽天地であつた。しかし、気候の穏和も、風光の明媚も、魚介の新鮮も、鈴木君の健康を回復させる力は無かつた。せいぜい、半年か一年と思つた苟且〈コウショ〉の地に、早くも十年の歳月は流れた。田舎の生活は開放的である。物珍しげに覗きに来る村の子供達の口から洩れる河和訛は、都会人としての優越感にひたる鈴木君をほほ笑ませた。しかし、三年四年と経つて、そろそろ田舎住ひが身につく頃には、鈴木君自身の口からも見事な河和なまりが出る様になつて居た。方言を集めてみようと思ひ附いたのもこの頃であつた。斯くして、拮据〈キッキョ〉数年の後、出来上つたのが「南知多方言集」である。知多半島は東西方言の境界線に近く、殊に袋の底の様な形になつて居るから、方言分布上注意すべき地点である。鈴木君がこの地を療養のために選んだのは、方言学上感謝すべき偶然であつた。
 「愛知県方言集」の編者は愛知県女子師範学校黒田鉱一氏である。同書のはしがきに「方言に手をつけてから、十年に近い年月は流れ、研究を共にした生徒は、幾たびか越立つて去つた」とある。もし、これが事実であるとすれば驚くべき事である。このはしがきの書かれた昭和八年〔一九三三〕から満十年前と言へば、大正十二年〔一九二三〕で、方言学の暗黒時代である。満五年前としても昭和三年〔一九二八〕で、やはり、先覚者たる事を失はない。
 尾張には今一人岡田稔氏がある。「尾三〈ビサン〉方言研究」といふ雑誌の発行をもくろんだ事があつたが、これは実現しなかつた。
 三河には谷亮平氏があつて、「東三河方言の調査」を豊橋二中から出して居る。
〔福 井 県〕
 福井師範学校の「福井県方言集」(昭和六年〔一九三一〕)は誰の担任であるかを知らない。師範学校の方言集としては、昭和になつて最初のものである。個人の著と違つて、師範学校のものは計画が大きく、分量も多く、その整理に長期間を要するので、たとへ昭和四五年〔一九二九、一九三〇〕に着手したとしても、それが本になつて現れるのが昭和七年〔一九三二〕以降に持越されるのは止むを得ない事である。ただこの書は比較的小著(四六判二二四頁)であつたため、一番先に出る事が出来たのだらう。
 「福井の方言」の著者徳山國三郎氏は大阪毎日新聞の京都支局長として、久しく京都に居住し、後大谷句仏〔大谷光演〕師の秘書となり、今は郷里福井に晩年を送つて居る人である。
 この外、福井県には「福井県大飯〈オオイ〉郡方言の研究」の著者松崎強造氏や、「敦賀町〈ツルガチョウ〉方言集」の著者山本計一氏がある。島崎圭一氏は早く死んだ。

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飛騨の船津町に荒垣彦兵衛といふ人があつた

2019-02-25 04:35:09 | コラムと名言

◎飛騨の船津町に荒垣彦兵衛といふ人があつた

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その一二回目で、〔富山県〕と〔岐阜県〕の項を紹介する。

〔富 山 県〕
 大田栄太郎(旧姓田村)は、東條〔操〕・柳田〔國男〕先生に次いで古い人である。その初女作「富山市近在方言集」は、昭和三年〔一九二八〕七月の序を持ち、昭和四年〔一九二九〕二月に出版されたが、その資料は大正十五年〔一九二六〕の春から暮まで、富山県下二百七十余小学校を遍歴して調べたものと、三百余個所に出して回答を求めた報告と、日頃心掛けて集めて置いたものとであると言ふ。これだけ大がかりな調査方法は今日でも珍しいが、大正十五年といふ時代を考慮に入れる時、更に一層驚かされるだらう。当時は未だ、柳田さんの方言論文は一篇も出ず、東條さんの著書も出ず、方言書の刊行されるもの、一年に僅か二冊平均といふ憐〈アワレ〉な状態であつた。従つて、大田氏を刺戟するものは皆無であつたはずである。大田氏が何処から、この活動の動力を得たかは知らない。ただし、学生時代、病気のため一年間休学して、帰郷静養して居た事があつた。その病床のつれづれに方言を集め始めたのではあるまいか。大田氏は、東條さんが企てて果さなかつた全国方言の集成を企て、「方言集覧稿」といふ書名で、群馬・長野・福島・栃木・福井・奈良・三重・和歌山諸県の方言集を出した。「言語誌叢刊」の「滋賀県方言集」は、その別動隊とも言ふべきものである。又、啓明会から、研究費の補助を受けて、山陰道や四国方言を調査した事がある。現在、帝国図書館に職を奉じてゐる。
 金森久二氏は、国学院大学在学中すでに方言の研究に興味を持ち、卒業論文も郷里越中の方言に関するものであつた。業を終へて、滑川〈ナメリカワ〉商業学校に職を奉ずるや、方言の研究を続行し、昭和六年〔一九三一〕には「越中方言研究彙報」といふ雑誌を創刊した。
 尚この県には柴山幸氏・中塩清之助氏がある。
〔岐 阜 県〕
 「言語誌叢刊」第二期の刊行書の中に、荒垣秀雄氏の名を見出した事は私に取つて意外であつた。何故なら、この人の名は私に取つて初耳であつたからである。およそ、方言書を東京から出さうとする程の人で、その名が比較方言学者に知られて居ないといふ事は信じ難い事である。論より証拠、「言語誌叢刊」に名を列ねた柳田・東條・三矢〔重松〕・山口〔麻太郎〕・小倉〔進平〕・金田一〔京助〕・大田・真山〔彬〕・湯沢〔幸吉郎〕・杉村〔楚人冠〕・内田〔武志〕諸氏は、それぞれ学界又は社会に名を知られた人ばかりである。一人荒垣氏だけが例外をなす。しかし、この書を繙けば、この書の成つたのは決して偶然ではないといふ事が判る。飛騨の船津町〈フナツチョウ〉に荒垣彦兵衛といふ人があつた。大正七年〔一九一八〕に六十一歳で死んだが、その人が壮年の頃、商売の傍、紙の断ち屑に飛騨のの方言を書きつけて置いた。この父の遺産を小荒垣氏が十数年に亘つて大切に保存して置いたのは、ひとり孝心の故ばかりでなく、方言研究の尊重すべき事を知つて居たからである。後、東京朝日新聞社に、柳田さんと机を並べる様になり、その「言語誌叢刊」の計画を聞くや、父の遺稿を自ら増補して出版する事を申出たのであつた。時恰も、満洲事変起り、世界の視聴はこの一ケ所に向つて注がれた。朝日新聞社は報道の任を全うすべく、特派記者として新進気鋭の荒垣氏を選んだ。荒垣氏は、この重任を荷うて戦禍の満洲に赴くに当り、草卒の間に原稿を整理し、出発の前夜之を柳田さんに渡し、「では万事宜しくお頼みします」といふ声を後に、颯爽として征途に上つた。数ケ月の後、重任を果して帰宅するや、机上には「北飛騨の方言」が美装をこらして待って居た。
 「岐阜県方言集成」は菊判三百五十九頁の大著である。著者瀬戸重次郞氏は先に岐阜師範学校の教諭たりし人で、その在任中、師範の生徒や県下の小学校から集めた資料を、退職の後、整理して出したものである。神奈川県に生れて、岐阜県方言を集成することに成功したのは敬服の至りである。この外、美濃城山村に服部俊三氏がある。

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静岡県警察部刑事課編の「全国方言集」(1927)

2019-02-24 01:27:11 | コラムと名言

◎静岡県警察部刑事課編の「全国方言集」(1927)

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その一一回目で、〔静岡県〕と〔石川県〕の項を紹介する。

〔静 岡 県〕
 内田武志氏は秋田県鹿角【かづの】郡の出身であるが、静岡市に移り住んで後、静岡県方言の分布調査を企て、その結果は「静岡県方言誌、第一輯、動植物篇」「静岡県方言集」の著となつて現れた。同氏は土俗学者であるだけに、その採集に土俗学的偏向が見られる。土俗学的に深みのあるのは結構であるが,用語や語法の方面が閑却され勝ちなのは、静岡県といふ土地がら、他県よりも一層遺憾である。この欠を補ふものは浜松師範の宇波耕策氏である。浜名湖が東西方言語法の境界線を成して居る事は前から知られて居た事であるが、それを更に精密に調査して確実にしたのは同氏の功績である。
 浜松師範の佐々木清治氏は地理学者として、令名がある。その地理学者が言語地理学に着眼したのは賢明であつた。ただし、同氏が材料として取上げたものは、主として、方言量の多過ぎる動植物の名称であつたため、宇波氏の場合ほど、見事な分布区域を示しはしなかつたが、盤根錯節を解剖して、ある傾向を帰納する事には成功した。一体、言語地理学は半分は地理学の領分である。我々は、地理学者の中から、多くの佐々木氏が出る事を希望し、期待する。尚この県には鈴木脩一氏・徳田政信氏がある。
 静岡県警察部刑事課の名で、昭和二年〔一九二七〕に出版された「全国方言集」の編者は増田銀治氏であつたと記憶する。雑駁の憾はあるが、全国的集成を企てた気魄には敬服する。殊に、昭和二年と言へば、まだ方言研究が一般化しなかつた時代である事を思はなければならない。
〔石 川 県〕
 石川県は暗黒である。明治時代の「石川県方言語彙」を其のまま再版したりして、お茶を濁して居る。然し、中山随学氏が「松任〈マットウ〉地方の方言」を出したのと、長岡博男氏が眼科医の傍〈カタワラ〉、方言を蒐集して居るのはやや心強い。

*このブログの人気記事 2019・2・24(10位に珍しいものが入っています)

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