礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

田中金脈問題(1974)と森友学園問題(2017)

2017-02-28 03:29:27 | コラムと名言

◎田中金脈問題(1974)と森友学園問題(2017)

 森友学園に対する国有地払い下げ問題に対する国会での追及、および、この問題を扱った報道が、日を追うごとに激しくなっている。
 これを見て、四十三年前の田中金脈問題(一九七四)を思い出した。
 田中角栄が関わる田中ファミリー企業群は、一九六九年から翌年にかけて、信濃川河川敷を四億円余で買収した。その土地が、建設省の工事によって、時価数百億円となった。これが、不当な資産形成であると指摘されたのが、いわゆる「田中金脈問題」である。発端となったのは、一九七四年一〇月九日に発売された月刊誌『文藝春秋』一一月号に載った立花隆〈タチバナ・タカシ〉執筆の記事「田中角栄研究―その金脈と人脈」であった。
 この問題が浮上した時、首相だった田中角栄は、同年一一月二六日に退陣表明をおこない、一二月九日、内閣が総辞職した。
 この問題と、今回の森友学園問題との共通点・相違点を整理してみよう。

共通点
・ともに、「土地」とその利用が絡んだ問題である。
・ともに、その土地が「ワケあり」である。信濃川河川敷は、ツツガムシの発生する場所だった。森友学園が買収した国有地は、大量のゴミで汚染されていたという。
・ともに、時後、マスコミの報道などによって、初めて問題が浮上した。
・ともに、首相の政治手法に関わる案件である。信濃川河川敷問題は、「土建屋」的国土開発至上主義に関わり、森友学園問題は、「日本会議」的復古主義的イデオロギーに関わっている。
・ともに、首相の進退に関わる問題となった。田中角栄は、疑惑を払拭できず、首相の座を降りた。安倍晋三首相は、自分あるいは妻が、この問題に関係しているなら、「首相も議員も辞める」と表明している(二〇一七年二月一七日)。

相違点
・信濃川河川敷は私有地であった。一方、森友学園が払い下げを受けたのは国有地であった。
・信濃川河川敷の買収に関しては、高級官僚の関与はなかったと思われる。一方、森友学園への国有地払い下げに関しては、少なくとも、財務省近畿財務局の高級官僚が関与している。
・信濃川河川敷の買収に際し、田中角栄の政治力が行使されたことは明らかである。一方、森友学園への国有地払い下げに関しては、安倍晋三首相は、それへの関与を強く否定している。
・田中角栄が関わる田中ファミリー企業群は、信濃川河川敷の買収によって、結果的に、巨額の資産形成が成されたと指摘された。一方、森友学園問題では、安倍首相の関与があったと推定している論者も、この関与によって、安倍首相が「利益」を得た、とまでは指摘していない。

 この事件の今後の展開は、予断を許さない。
 田中金脈問題が浮上した時、田中角栄首相は、その政治力を高く評価されており、国民的人気も根強いものがあった。また、『文藝春秋』の記事に対する大手メディアの政治記者たちの反応は、「そのくらいのことは、皆知っている」というものだったという。つまり、当時はまだ、問題が問題として採り上げられないような風潮があった。
 にもかかわらず、問題は拡大し、ついに田中角栄は退陣に追い込まれている。
 安倍晋三首相を含む政府関係者は、この「史実」に学ばなければならない。もし、今の問題を「軽く」考えているとすれば、それは大きな誤りである。
 なお、仮に、このあと、安倍晋三首相が財務省近畿財務局などに対して、何らかの「働きかけ」をおこなっていた事実、さらに、それに絡んで、森友学園側から、何らかの「利益」を受けていた事実が判明したとする。そうした場合には、「首相も議員も辞める」では済まなくなるだろう。この場合に、学ぶべき「史実」は、田中金脈問題ではなくして、一九七六年に発覚したロッキード事件である。

*このブログの人気記事 2017・2・28

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単なる政治的クウ・デ・ターの失敗に終った

2017-02-27 02:15:44 | コラムと名言

◎単なる政治的クウ・デ・ターの失敗に終った

 たまたま、加田哲二〈カダ・テツジ〉著の『日本国家主義の発展』(慶応書房)という本を書架から取り出したところ、「二・二六事件」について、かなりのページを割いていた。
 この本の初版は、一九三八年(昭和一三)六月一四日発行であるが、その後、一九四〇年(昭和一三)に新版が出ている(月日は不詳)。今、机上にあるのは、一九三八年一二月二五日発行の「改訂九版」である。
 目次を見ると、「第一篇 日本国家主義の発展」、「第二篇 国家主義の政治的発展」、「第三篇 国家主義の経済的発展」、「第四篇 国家主義への現代の歩み」の四篇から成っている。
 巻頭に「増訂版へ著者として」と題する前書きがあるが、それによれば、第三篇は、旧版にはなかったものであり、また、第四篇にも新たに加えられた文章があるという。
 本日は、第二篇「国家主義の政治的発展」の第二章「現代の社会的政治的傾向」から、その第一節「二・二六事件」を紹介してみたい。

 二 現代の社会的政治的傾向
 一 二・二 六 事 件
 二・二六事件はわが民心に多大の衝動を与へた。事件そのものは、青年将校の一部の反乱であつて、直接に大衆との関連を持たないものである。大衆は、この事件の経過に何等関係するところなく、たゞ事件の傍観者としての冷静を保つてゐたことは、不幸中の幸であつたが、武装せる部隊が数日間、帝都の政治中枢地域を占拠してゐた事実は、明治維新以来の出来事として、民心に対する大なる衝撃となつた。而して、この事件を惹起〈ジャッキ〉した青年将校達が、単に一時的感情によつてかゝる行動に出でた〈イデタ〉ものではなく、思想的根拠を持ち、同一傾向の行動の一つの現はれであつた点において、重大視せらるゝとともに、この事件を契機として庶政一新のスローガンが廣田〔弘毅〕内閣によつて挙げられるとともに、この事件及びその底流にある社会的要求に順応すると称せられる政策が、財界の一部において行はれてゐることを見ても、この事件の重要性を認識することが出来る。事件そのものの経過は、反乱部隊の活動が政治家・重臣に対する刺殺といふこと以外に、多く渉つてゐなく、その社会・経済・政治的要求を大衆に訴へる行動に出てゐないので、単なる政治的クウ・デ・ターの失敗に終つてゐるが、その意義は、その行動それ自体にのみ限られてゐない重要性を持つてゐる。
 この事件は、かゝる性質の事件としての五・一五事件〔一九三二〕・神兵隊事件〔一九三三年七月一一日〕・相沢中佐事件〔一九三五年八月一二日〕と関連して考察するところに、その意義が、一層明白になると思はれるし、これらの諸事件との関連においてのみ、その社会的重要性が把握せらるゝやうに考へられる。而して、これらの事件そのものも、単なる青年将校の行動としてのみ、考察せらるべきものではない。なるはど事件の負担者は、主として青年将校達であるが、何が彼等をして、さうなさしめたかを考へるとき、われわれは、それを日本社会の一動向に求めざるを得ない。それは、単独の現象ではあるが、その現象の底には、一つの社会的潮流がある。これらの諸事件は、この潮流の一表徴に過ぎぬものである。われわれは、かくの如く解することによつて初めて、その意義を把握し得るやうに考へられる。何となれば、あらゆる現象は、たゞその全体との関連においてのみ、理解し得るからである。

 著者の加田哲二(一八九五~一九六四)は、社会学者・経済学者で、本書刊行時は、慶応大学教授(一九二六~一九四五)。
 加田が二・二六事件をどう捉えていたかは、「大衆は、この事件の経過に何等関係するところなく、たゞ事件の傍観者としての冷静を保つてゐた」、「その社会・経済・政治的要求を大衆に訴へる行動に出てゐないので、単なる政治的クウ・デ・ターの失敗に終つてゐる」などの言葉によって知ることができる。

*このブログの人気記事 2017・2・27(案の定、二・二六事件関係が多い)

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牧野伸顕・吉田茂・麻生和子・麻生太郎

2017-02-26 01:46:10 | コラムと名言

◎牧野伸顕・吉田茂・麻生和子・麻生太郎

 岩淵辰雄著『現代日本政治論』(東洋経済新報社、一九四一)の第六章「二・二六事件」から、「二・二六事件起る」という文章を紹介してみたい。この文章には、初出の年月が示されていない。おそらく、この本の刊行に際して、書き下されたものであろう。だとすれば、初出は、一九四一年(昭和一六)六月二六日である。

 二・二 六 事 件 起 る

 昭和十一年〔一九三六〕二月二十六日、東京市民は異常な戦慄に襲はれた。口から口に誰いふとなしに眼にものをいはすやうにして、事件の噂は電波のやうに忽ち市民の間に広まつて行つた。
 その日は朝から雪もよひの凍りつくやうな寒さに空もどんよりしてゐた。果して昼から雪になつた。
 事件の概要は、近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、第三連隊、野戦重砲兵第七連隊に属する将兵約一千四百数十名が、その未明に不法出動して〔岡田啓介〕首相官邸、齋藤〔実〕内大臣私邸、渡邊〔錠太郎〕教育総監私邸、牧野内大臣宿舎〔牧野伸顕・前内大臣宿舎〕(湯河原伊藤屋旅館)、鈴木〔貫太郎〕侍従長官邸、高橋〔是清〕大蔵大臣私邸を襲撃し、齋藤内大臣、渡邊教育総監を殺害し、鈴木侍従長、高橋大蔵大臣に重傷を負はしめ(高橋大蔵大臣は同日薨去〈コウキョ〉)次いで此等叛乱軍は永田町付近を占拠してその内外の交通を遮断したのである‥‥(戒厳司令部発表)。事件がどうして起つたか、それは所詮歴史が後に全貌を語ることになるより外に一般には知りやうがないであらうが、政界は前年から異常な危機を孕んで〈ハランデ〉ゐた。陸軍を中心にしては教育総監の更迭〔一九三五年七月一六日〕に次いで永田事件〔一九三五年八月一二日〕が起り、軍務局長の永田鉄山が陸軍中佐相沢三郞に殺害された。その裁判がこの一月〔二八日〕から開かれて一般の耳目を聳てゝ〈ソバダテテ〉ゐた。その一方では右翼を中心とする國體明徴運動といふものが齋藤〔実〕内閣以来熾烈な政治問題となつて、ひた向きに岡田内閣の退場を望んでゐた。
 議会は一月〔二一日〕解散され、二月〔二〇日〕総選挙が行はれたが、この解散には二つの意味があつた。一つは内閣が右翼の政治的攻勢に対して、信を国民に問ふといふことゝ、もう一つは政、民両党〔立憲政友会および立憲民政党〕がこれを機会にして再び政治の中心勢力たらんとしたことである。
 然るに、選挙が済むと、岡田内閣は政、民両党の閣僚と妥協して依然居据る〈イスワル〉ことになつたので、選挙は済んだが政局の転換は望めないことになつてゐた。
 事件はその機微の裡〈ウチ〉に勃発したのである。

 わずか二ページの短い文章だが、事件に至る経緯や、その背景を、的確にまとめている。要するに、この事件で「襲撃」の対象とされたのは、天皇側近、財閥、政党などに代表される旧勢力、あるいはそれらと親和的関係にあった軍人たちであった。端的に言えば、真崎甚三郎を教育総監の座から引きずり下した勢力と見なされた人物が、襲撃の対象とされたのである。
 この事件で襲撃されたが、かろうじて一命を取りとめた岡田啓介や鈴木貫太郎は、のちに終戦工作の中心となった。牧野伸顕は、直接、終戦工作には関わっていないが、その女婿である吉田茂は、深く終戦工作に関わっている。これらは、決して偶然とは言えないだろう。
 ちなみに、事件当日、湯河原伊藤屋旅館の別館「光風荘」にいた牧野伸顕・前内大臣は、孫娘の機転で、あやうく難をのがれたとされている。この孫娘というのは、吉田茂の三女で、のちに麻生太賀吉〈タカキチ〉に嫁した麻生和子である。現・財務大臣の麻生太郎氏は、その長男である。

*このブログの人気記事 2017・2・26(8位に珍しいものが入っています)

 

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優柔と急行、平和と不安のうちに時代は動く

2017-02-25 02:15:49 | コラムと名言

◎優柔と急行、平和と不安のうちに時代は動く

 昨日の続きである。岩淵辰雄著『現代日本政治論』(東洋経済新報社、一九四一)の第六章「二・二六事件」から、「時代の動く姿」という文章を紹介してみたい。初出年月は、一九三六年(昭和一一)三月、つまり事件発生直後である。

 時 代 の 動 く 姿

 二・二六事件は何が動機で、また何が目的で勃発したものであるか、その真相は未だハツキリしないが、これを機会にして政治に対する広汎な革新気分が軍部の若い幕僚を中心にして湧き上つて来てゐることだけは確かだ。その軍部の空気を反映して、廣田〔弘毅〕内閣は幾度か閣僚の人選を変更したし、時局に対する認識なるものも、ゼスチユアだけでも兎に角〈トニカク〉軍部の納得する程度において、それに対応して修正した。
 昨日まで政争と議場の駈引〈カケヒキ〉と選挙に没頭してゐた政党政治家も今更らしく新時代の騎士を装うてゐる。これが時勢の進歩か、動いて行く方向であるか、今後の姿は知らないが、現在のところ、この限りに於て二・二六事件は時勢に一つの契機と緒〈ショ〉を作つた。
 明治維新が幕末の開港佐幕、尊皇攘夷の両論で、江戸と京都を中心にして不安と混乱の時勢の生みの悩みを続けた結果が、その闘争と混乱の間に、自然に佐幕派の開港と尊皇党の尊皇が取り上げられ、佐幕と攘夷が捨てられて、落ち着くところに落ち着いたのであるが、その渦中の際には、橋本左内の日記にも残つてゐるやうに、尊皇党の中心であつた堂上〈トウショウ〉の公卿〈クギョウ〉が、国内の情勢に対しては可なり精通してゐたが、一歩国外の問題になると全く無学無理解で、その頑迷驚くばかりであると嘆ぜしめてゐる。
 橋本が無理解として嘆じたその堂上の人々のなかには、勿論、後の維新の元勲三條〔実美〕、岩倉〔具視〕もゐたのである。それが幾変転と艱難〈カンナン〉の間に夾雑物〈キョウザツブツ〉が取り除けられて、漸く磨き上げられたのである。今後の時勢がどうなるにしても、矢張り〈ヤハリ〉双方に夾雑物があり、それが取り除かれる迄は幾度かの変転を見るであらう。たゞ、目前に起つてゐる混乱した事態だけから云ふと、誠に憂慮に耐へないとも見えるし、革新を欲するものから云へば、現情の既成勢力に執着するものが優柔姑息であり、穏健と平和を欲するものから云へば、早急の革新は頗る危険で不安でもあらうが、しかし、その優柔と急行、平和と不安の絡み合つたなかから徐々に時代はある方向を取つて進んで行くのである。
 これを陸軍だけについて云つても、対外政策の決定実行か、国内政治の革新か、軍の粛正統制か、その何れを先決すベきか、どこまで併行して行ふべきかゞ、こゝ五、六年来の懸案になつてゐる。一緒に実行するとしても、そこに緩急自ら序ありで、満洲に在る出先き軍憲と、中央でも首脳、幕僚と一般将校の間に、いままではそれぞれの差があつた。寺内〔寿一〕陸相は本事件(二・二六)の因つて来る所は極めて深刻且つ広汎として、大いに軍紀の振粛と清軍を期してゐる。その清軍だけでも云ふは易く、行ふは容易でない。況んや広汎な政治の革新に於て、さう簡単に行はれるものでない。
 つまり、事態は簡単でないと云ふ事実に当面した時、人と形を変へて、また次の動きと進路に向つて、これまでの夾雑物を切り捨てゝ行くのである。それがいつ起るか知れないが××も××も恐らくそれまでの存在であらう。   (一九三六・三)

 文中、二か所の××があるが、廣田、寺内と入るのであろう。首相の廣田弘毅〈コウキ〉にしても、陸相の寺内寿一〈ヒサイチ〉にしても、岩淵辰雄は、これを過渡的な存在だと位置づけていると見る。
 全体に、非常に含みの多い、わかりにくい文章だが、ここで岩淵は、次のようなことを言おうとしたのではないか。
 ひとつは、この闘争と混乱も結局は、落ち着くところに落ち着くであろうという観測。その落ち着くところとは、幕末で言えば「開港と尊皇」、つまり、対外協調・平和路線への復帰と立憲天皇制の堅持という観測である。岩淵が、このような「希望的」観測を抱いていたとすれば、その「希望」は実現しなかったことになる(少なくとも敗戦までは)。
 もうひとつは、維新の元勲たる三條実美〈サネトミ〉や岩倉具視〈トモミ〉に匹敵する「公卿」の登場に期待するという諏旨である。この場合、その公卿が近衛文麿〈コノエ・フミマロ〉であることは論を待たない。しかし、結局、その近衛文麿も、岩淵を初めとする国民の期待に応えられなかった事実は、歴史の示す通りである。

*このブログの人気記事 2017・2・25(6・10位にかなり珍しいものが)

 

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相沢事件軍法会議と二・二六事件

2017-02-24 02:12:02 | コラムと名言

◎相沢事件軍法会議と二・二六事件

 岩淵辰雄著『現代日本政治論』(東洋経済新報社、一九四一)の紹介を続ける。
 同書は、全九章からなる。二一日~二三日に紹介した「林と真崎」という文章は、第五章「齋藤・岡田時代」の最後に置かれている。
 第六章「二・二六事件」には、順に、「二・二六事件起る」、「相沢中佐の公判」、「時代の動く姿」という三つの文章が収められている。発表された順番は、「相沢中佐の公判」が最も早く、「時代の動く姿」が、そのあとだと思われる。まず、「相沢中佐の公判」から紹介してみる。
 ここで「相沢中佐」とは、一九三五年(昭和一〇)八月一二日の白昼、永田鉄山軍務局長を斬殺した相沢三郎中佐のことであり、「公判」とは、一九三六年(昭和一一)一月二八日から、第一師団司令部内で開かれた軍法会議を指している。とりあえずここでは、相沢事件の軍法会議開始から一か月後に、二・二六事件が起きているという時系列を押さえておこう。

 相 沢 中 佐 の 公 判

 相沢中佐の公判が開かれてゐる。その公判の新聞記事を通して一般の受けた印象は、被告である相沢を公人として裁くか、私人として裁くかと云ふところに力点をおくのと、どこまでも相沢が巷説〈コウセツ〉に惑はされて分別を誤つたものと認めようとするかの如き傾向との二つを観取せしめることである。公人の公憤か、巷説に感はされたか、また国家改革運動とは何であるか等々のことは、何れ今後の公判の推移と共に明らかになるであらう。我々は一日も早くそれが明らかになることを望む意味に於て、今後の裁判の進行を注視する。だから茲〈ココ〉ではこれ以上これに関して一切何も云はない。が、これを一つの機縁として、我々の想念に浮ぶところの、長い間の疑問がある。
【一行アキ】
 その一つは直接陸軍に関係する。それは世に云ふ○○事件、○○事件〔一九三一年の三月および十月事件のことか〕とは何であるかと云ふことである。この事は五・一五事件の前後から、或はその遥か以前からポチポチ一般の耳目に入つた問題である。世間は五・一五事件〔一九三二年〕の公判を機会にして、それも明らかになるであらうことを期待したのであるが、未だに解かれざる謎になつてゐる。
 相沢中佐の公判によつて一般に明らかになるであらうと想像せられることは、永田中将暗殺の動機、或は動機であるかないか、それも今後を待たなければハツキリしないことであるが、公訴の記録によると、前に十一月廿日事件〔一九三四年の陸軍士官学校事件〕があり、後に〔一九三五年〕八月の真崎教育総監の更迭を中心とする陸軍異動があり、そして永田事件に及んでゐることが解る。この三つの関係は恐らく今度の公判で明らかになるであらう。それで五・一五事件以来の陸軍と云ふものゝ或る部面は国民にハツキリする。しかし、どうしてかうしたことが頻出するか、それを究めるのには、どうしても、その以前にも遡つて凡てが明らかにならなければならぬ。殊に国家非常時の称へられる折柄、国民の信頼する軍部に、些か〈イササカ〉なりとも疑問となるべき陰影を残して置くことは、軍部の為にも、国民の為にも採らない。
【一行アキ】
 もう一つは、寧ろ政治に関するものである。齋藤〔実〕内閣は五・一五事件を契機として、国民の衝動と不安とを一掃する為に生れた内閣である。従つて内閣としては一時の安全弁的特性を以て成立したものである。然るに、その一時の安全弁なる齋藤内閣の特質は、其後二ケ年継続し、さらに岡田〔啓介〕内閣に引継がれて将に〈マサニ〉二ケ年に垂んと〈ナンナント〉してゐる。そして齋藤から岡田に伝統した、この政治の特質は唯無為にして化すと云ふことだけである。無為にして唯何年かの間、熟乎として〔じっとして〕ゐれば、自然に世相は安定すると楽観してゐるかの如くである。さうして我々はこゝ約四ケ年を待つたのである。
 併し果して所謂不安は去つたであらうか。こゝに我々は、今後幾年待つべきかの疑問と共に、寧ろ、齋藤から岡田に伝統された政治の方針を改むべき機会が来てゐるのではないかと云ふ印象を強く感ずるのである。   (一九三六・二)

*このブログの人気記事 2017・2・24

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