礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

平安中期の武将・源頼義と『続本朝往生伝』

2015-12-22 06:44:12 | コラムと名言

◎平安中期の武将・源頼義と『続本朝往生伝』

 一昨日のコラム「源頼義、集めてきた戦死者の片耳を埋める」では、平安中期の武将・源頼義〈ミナモト・ノ・ヨリヨシ〉が、戦死者の片耳を集めていたという話を紹介した。これは、笠原一男編著の『近世往生伝の世界』(教育社歴史新書、一九七八)の序章において、笠原一男が紹介していた逸話の一部であり、笠原は、その典拠が、大江匡房〈オオエ・ノ・マサフサ〉が編んだ『続本朝往生伝』であるかのように書いていた。
 昨日、念のために、国会図書館のデジタルコレクションで、『続本朝往生伝』を閲覧してみた。閲覧したのは、『日本往生全伝』(永田文昌堂、一八八二)に収められているものである。源頼義が、その晩年に、これまでの罪障を悔いた話は、たしかに出てくる。しかし、「片耳を集めた」ことには、一言一句も触れていない。つまり、源頼義が戦死者の片耳を集めていたという話の典拠は、少なくとも『続本朝往生伝』ではない。
 とりあえず、笠原一男の文章の一部、そして『続本朝往生伝』の当該部分を、そのまま
引用しておくことにする。

【笠原一男の文章より】
 前伊予守〈サキノイヨノカミ〉源頼義は代々の武勇の家に生まれ、一生涯殺生〈セッショウ〉を仕事として送った。さらに前九年の役には、十余年の間戦い、人の首をとり、生き物の命を断ったことは、たとえれば中国の竹の産地である楚や越もおよばないほどで、数えきれないくらいである。その結果、特別の恩賞にあずかって正四位に叙せられ、伊予守に任ぜられた。まさに頼義は最も理想的な武士として朝廷のために生涯をささげた人物であった。
 しかし、頼義は晩年におよび、心を改めて等身の阿弥陀仏を安置した御堂〈ミドウ〉を建て、前九年の役以来戦死者の片耳を切りあつめ、干し、箱二つに収めて持ち帰っていたのを、ここに埋めて供養〈クヨウ〉した。そして今までの罪障を深く悔いて、多年の間念仏し、最後には出家した。彼の死後、多くの人が頼義の極楽往生の夢を見た。(『続本朝往生伝』参照)
 源頼義は武人としてりっぱにその任をはたした人である。その当然の結果として多くの殺生を重ねなければならなかったわけである。しかし、たとえ国家のためという大義名分があろうとも、往生伝の編者は悪は悪として容赦することがなかった。頼義は悪人の名に値する人物であったが、悔い改め善人化への努力によって往生をとげたというのである。大江匡房は頼義の往生伝を見て、「これでわかつた、十悪・五逆の者でもなお弥陀〈ミダ〉の来迎往生を許されることを。なんぞいわんやそれ以外の人びとをおいてをや」と記している。
【『続本朝往生伝』のうち、上記に対応する箇所。句読点は礫川が施した】
 前伊予守源頼義朝臣者、出累葉武勇之家、一生以殺生為業。先当征東之任、十余年来、唯事闘戦、切人首、断物命。雖楚越之竹、不可計尽。預不次之勧賞、叙正四位、伊予守。其後建堂、造仏、深悔罪。多年念仏、遂以出家。瞑目之後、多有往生極楽之夢。定知、十悪五逆、猶被許迎摂、何況其余哉。

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コメント (2)
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