礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

政府としては余りに政治が無さ過ぎる

2023-09-30 01:50:53 | コラムと名言

◎政府としては余りに政治が無さ過ぎる

 南原繁著『人間革命』(東京大学新聞社出版部、1948)中の「憲法改正」という文章のうち、「二」を紹介している。本日は、その五回目(一昨日からの続き)。
 文中、傍点が施されていたところは、太字で代用した。

(五)次に憲法内容に関する質疑の第三項目として、国民の社会経済生活に関し伺ひ度い。民主政治の発達は国民全体の経済的基礎を確立するのでなければ不可能と思ふが、この問題解決に関し草案第三章「国民の権利及び義務」の規定は果して必要なる条件を充たしてゐるかどうか。草案が一般に個人の自由及び権利に関する基本的人権を保障したことは、遅れ馳せながら我が国に於ける啓蒙思想の完成として、現行憲法に比し、一段の進歩を示すものとして、吾々はその意義を高く評価する者である。しかし、単に個人の天賦人権思想を以ては、政治的国家生活に於てと同じく、国民の社会経済生活の問題は解決し得られるものではない。
 ここにも十八世紀の自由主義的民主主義ではなく、新たに共同体民主主義が確立される必要があると思ふ。別して敗戦後、国土並びに資源の著しく狭少〈キョウショウ〉となつた我が国に於ては、従来の如きひとり自利心の追求とそれによる個々の企業の発達と競争といふよりも、寧ろ全体の計画経済の樹立と新経済秩序の確立、それによる国民生活の安定保障がより重要となると思ふが、政府はいかに考へられるか。それは個人の自由及び権利といふよりも、より多く社会的正義と福祉の問題である。戦争抛棄について世界に偉大な理想を宣言した日本は、国内の社会的正義の実現に向つても、今少しく画期的な方向を新憲法に於て明示する必要はなかつたか。
 草案に於ては成程、個人の権利は濫用してはならず、公共の福祉のためにこれを利用すべき責任がないわけではない(第十一条、第二十七条二項)。政府はこの規定を手懸りとして或る程度まで適当な方策を講じ得るであらうが、それには限界があり、若しこれを越えれば新憲法に於ては最高裁判所が憲決違反の判決を為し得べく、為めに政府の折角の政策も無効に終ることあるは、最近、米国に於ても苦き経験を持つたところである。 
 今ここに一つの例を採り上げて論じ度い。草案には『すべて国民は勤労の権利を有する』(第三十五条)ことが認められてある。これを認めた以上は、国家は凡て〈スベテ〉の人に勤労の機会を与へ、正当なる報酬を得しめるやう、具体的に施設をなす義務を負ふ筈である。そのため政府は場合によつては経済の編成替〈ヘンセイガエ〉をなす必要が生ずるに相違ない。然るに本案に於ては、飽くまで財産権は侵してはならぬといふのが建前であつて、私有財産は必ずこれを正当なる補償をなすのでなければ、これを公共のために使用することができぬこととなつてゐる(第二十七条)。特定の目的のための公用徴収の場合ならばそれでも支障ないかも知れぬが、国家がすべての国民に勤労権を保障するために組織的な計画と施設を行ふ場合に、殆どそれが不可能に終らないであらうか。一体、政府はこの勤労権を具体的にどこまで保障する意図と計画を持つてゐるのであるか。またこれを忠実に実行せんとする場合に、上述の関連に於て新憲法上矛盾又は支障を来す惧れ〈オソレ〉はないか。以上の諸点につき厚生大臣の説明を承り度い。
 なほ「国民の生活保障」の問題であるが、今回、衆議院の修正によつて『すべての国民は健康で文化的な最低生活を営む権利を有する』とせられたのは、先きに述べた社会的正義の実現を期した一つの新な条項として、喜ばしきことである。これに関連して質問いたし度きは、政府は現下の国民大衆の生活をいかに見て居られるかといふことである。かの長期に亘る遅配により主食配給の大幅の繰延〈クリノベ〉については、ここに問はぬ。今は連合軍の食糧放出の好意によつて、この七・八月を吾々都民は漸く生き延びて来たのである。それでも配給量を以ては、健康な生活は愚か、生存を維持することさへ絶対に不可能である。他方、当局の否認し続けてゐられる間にインフレは亢進し、諸物価の上昇停止するを知らず、国家大衆にとつて文化生活の享受は想ひも及ばぬことである。かやうな状態の下に、国民の生活保障といふは意味を為さぬのである。事態の困難性は十分了解せられるも、かくては政府としては余りに政治が無さ過ぎるではないか。
 総じてこの種問題については、いかに憲法に於て明文化されたとしても、政府の熱意と努力がなければ空文に終る惧れがある。私は、憲法改正に当り、国家が国民の生活権を認めた以上、先づ現下の問題に対し、政府自身従来と異り、いかなる国民の生活標準を考へ、これに対するいかなる新たな具体的方策を立てんとして努力してゐられるかを、農林大臣に伺ひ度いのである。【以下、次回】

 最後に、「農林大臣に伺ひ度いのである」とあるが、この時の農林大臣は、和田博雄であった。

*このブログの人気記事 2023・9・30

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遺憾ながら人類種族が絶えない限り戦争がある

2023-09-29 00:28:28 | コラムと名言

◎遺憾ながら人類種族が絶えない限り戦争がある

 南原繁著『人間革命』(東京大学新聞社出版部、1948)中の「憲法改正」という文章を紹介している途中だが、少しだけ、話を転じる。
 この文章は、敗戦直後、貴族院議員であった南原繁が、1946年8月27日に、貴族院本会議でおこなった「質問演説」の内容を文章化したものである。その「質問演説」のために作成した「原稿」が、この文章だったという可能性もある。
 いずれにせよ、この「憲法改正」という文章と、実際におこなわれ、速記によって記録された「質問演説」との間には、文体や表現において差異があることは間違いない。
 ここで、「文章」のうち、昨日、紹介した部分の一部と、それに対応する「速記録」とを比較してみたいと思う。

【文章】 『戦争はあつてはならない』とは洵に政治道徳の普遍的原理であるが、人類種族の存する限り、『戦争はある』といふのが遺憾ながら歴史の現実である。故にこの現実を直視し、少くとも国家としての自衛権と、随つてそれに必要なる最小限度の兵力を備ふるところがなければならぬ筈である。/吉田首相は、従来自衛権の名の下に多くの侵略戦争が行はれ来つた故を以て、寧ろこれをも抛棄せんとしてゐるが如きも、客観的にその正当性を認められる場合に於ても尚且つこれを主張しないのであるのか。

【速記録】 戦争あつてはならぬ、是は誠に普遍的なる政治道徳の原理でありますけれども、遺憾ながら人類種族が絶えない限り戦争があると云ふのは歴史の現実であります、従つて私共は此の歴史の現実を直視して、少くとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考へると云ふことは、是は当然のことでございます、吉田総理大臣は衆議院に於ける御説明に於きまして、是迄自衛権と云ふ名の下に多くの侵略戦争が行はれて来た、故に之を一擲するに如かずと云ふ御説明であるやうでありますが、是は客観的に其の正当性が認められた場合でも、尚且斯かる国家の自衛権を抛棄せむとせられる御意思であるのか、

 文章のほうは、「である体」が使われているが、実際におこなわれた演説では、「であります体」が使われている。たぶん、南原繁は、原稿を「である体」で書き、それを壇上で、「であります体」に変換しながら、演説したのではあるまいか。
 ただし、「憲法改正」という文章は、当日の「原稿」そのままではなく、発表に際して、適宜、訂正を加えていると思われる。そして、その訂正にあたって南原は、「速記録」に目を通していた可能性もあろう。
 なお、この日の南原演説の速記録は、『貴族院議事速記録』第24号に載っている。今日、この文献の内容は、インターネット上にアップされており、容易に参照できる。便利な時代になったものである。

*このブログの人気記事 2023・9・29(10位になぜか折口信夫)

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最小限の自律的防衛をさへ抛棄するのか

2023-09-28 00:37:15 | コラムと名言

◎最小限の自律的防衛をさへ抛棄するのか

 南原繁著『人間革命』(東京大学新聞社出版部、1948)中の「憲法改正」という文章のうち、「二」を紹介している。本日は、その四回目。
文中、傍点が施されていたところは、太字で代用した。

(四)憲法内容について以上の政治的基本性格の次に私の質疑致し度い第二項目は「戦争放棄」に関する条章である。これは新に甦生〈ソセイ〉したる民主日本が、今次の不法戦争に対する贖罪としてのみならず、更に進んで世界恒久平和への我が国民の理想的努力の決意を表明するものとして、その精神に於て吾々の大に賛同するところである。このことは古来幾多の哲学者・思想家の考案し来つた理想が、一国の憲法に於て採択実現されたものとして、世界人類史上特筆すべき事柄である。それだけに大なる問題が存しないであらうか。理想は高けれは高い丈、現実の状勢を深く考慮するところがなければならぬ。それを考慮するのでなければ、単なる空想に止まるであらう。本案が発表せられたとき米国の新聞に一箇のユートピアとして批評するもののあつたことは、深く吾々の反省すべき点であらう。『戦争はあつてはならない』とは洵に〈マコトニ〉政治道徳の普遍的原理であるが、人類種族の存する限り、『戦争はある』といふのが遺憾ながら歴史の現実である。故にこの現実を直視し、少くとも国家としての自衛権と、随つてそれに必要なる最小限度の兵力を備ふるところがなければならぬ筈である。
 吉田首相は、従来自衛権の名の下に多くの侵略戦争が行はれ来つた故を以て、寧ろこれをも抛棄せんとしてゐるが如きも、客観的にその正当性を認められる場合に於ても尚且つこれを主張しないのであるのか。即ち、本条章は我が国が、将来「国際連合」への加入を許容せられることを予想したものと思ふが、現に同憲章は各国家の自衛権を承認してゐる。且つ、国際連合における兵力の組織は各加盟国がそれぞれ兵力を提供するの義務を負ふのである。日本が将来それに加盟するに際して、これらの権利と同時に義務をも抛棄せんとするのであらうかを伺ひ度い。かくては日本は永久に唯他国の善意と信義に依頼して生き延びんとする寧ろ東洋的諦念主義に陥る惧れ〈オソレ〉はないか。進んで人類の自由と正義を擁護するがために互に血と汗の犠牲を払つて世界平和の確立に協力貢献するといふ積極的理想は却つて抛棄せられるのではないか。
 加之〈シカノミナラズ〉、凡そ現在の国際政治秩序に於ては、米国の或る評論家の批評したやうに、苟も国家である以上、少くとも国民を防衛する用意を持つてをらねばならぬといふのが普遍的な原理であつて、いかなる国家も憲法によりこれを抛棄し、国家として無抵抗主義を採用する道徳的義務はないのである。またいづれの国家も国内の秩序を維持するがために警察力を以ては到底不可能り、凡そ国家兵備の目的の一半はそこに置かれてゐるのである。殊に日本の如き将来国内の状勢複雑深刻なるを予想しなければならぬ国家に於てさうである。政府は近く来らんとする講和会議に於て既に、これら内外よりの秩序破壊に対する最小限の自律的防衛をさへ抛棄する意志であるのかを承り度い。もしさうであるならば国家としての自由と独立を自ら抛棄すると択ぶところはないであらう。国際連合は各国家のかやうな自主独立権を決して否定するものでなく、寧ろそれを完全なものにするがために互に連合して、世界共同の普遍的政治秩序を樹立せんとするものである。
 凡そこれらの国際運動は究極に於て「世界は一つ」――即ち、各々の民族共同体を超えたところの世界人類共同体を理念とするものと吾々は理解する。然るにこの世界共同体の理想に於ては、単に所与の国際の平和と安全を保持するといふのみではなく、人種・言語の差別を超え、進んで世界に普遍的な正義――「国際的正義」を実現するために各国民の協力が要請せられなけれはならぬ。そのためには単に功利主義的なる現状の維持ではなく、政治上経済上のより正しき秩序の建設に向つて、しかも強力によつてでなく、飽くまで人類の理性と良心に訴へ、平和的方法によつて努力しなければならぬのである。日本が自らの過誤を清算する以上は、ひとり世界に向つて戦争抛棄を宣言するのみでなく、この方面に於て将来諸国家の間に実現せらるべき理想目的を自覚することが更に必要であると思ふ。否、既に近く来る〈キタル〉べき講和会議に対し、その準備が必要と考へる。
 今回、衆議院の修正に於て『日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』といふ一句が当該条項に加へられたが、これは以上の意味に解して極めて意義ある修正と思ふ。即ち、それは戦争否認の外に、民族の平和理想を宣言したといふ丈でなく、重要なのはその平和が単なる現状の平和でなく、国際正義に基づいた平和であるといふ点である。政府は右修正に対し、この問題をいかに考へられたか。又その方面にいかなる用意があるかを吉田外務大臣にお尋ねし度いのである。【以下、次回】

 最後に、「吉田外務大臣にお尋ねし度い」とある。第一次吉田内閣では、首相の吉田茂が外務大臣を兼任していたのである。

*このブログの人気記事 2023・9・28(10位に極めて珍しいものが入っています)

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かかる天皇制と民主主義とは毫も矛盾しない

2023-09-27 04:07:57 | コラムと名言

◎かかる天皇制と民主主義とは毫も矛盾しない

 南原繁著『人間革命』(東京大学新聞社出版部、1948)中の「憲法改正」という文章のうち、「二」を紹介している。本日は、その三回目。

 吾々は今、敗戦後満一周年、憲法改正の大業を通して、謂はば祖国興廃の関頭に立つてゐるのである。何故ならば、敗戦と降伏とによつて日本国家の根本性格が変更した訳ではない。一部論者のいふやうに、わが国がポツダム宣言を受諾した瞬間に、国民主権が日本に布かれたのではない。この点政府の意見に私は賛意を表する者である。併し、いま国民の自由意志によつて、まさに今期議会に於てそれを決定しようとしてゐるのである。この秋〈トキ〉に当りさきに連合軍最高司令官の第二声明に於て示唆された如く、『政略上の信条や不当な野心や利己的な陰謀を拭ひ去り、真に自国とその国民に対する責任に於て尊厳と叡智と而して愛国心を以て』事を決すべきであると思ふ。
 草案が余りに多く外国の政治哲学から借り来り、日本の伝統的思想から遥かに断絶されてあるとは、外国の権威ある批評となつてゐる(五月十三日極東委員会声明参照)。今や吾々は新しき善きものはこれを摂取して改革を断行すると同時に、苟も国民の歴史的本質のうちに育成し来つたところのものはこれを保持することが必要である。謂はゆる憲法の「法的継続性」といふのも必ずやかやうな「歴史的継続性」に裏づけられてこそ初めて具体的意義を持つものてあり、これなくして新憲法は決して我が国民の血となり肉とならないであらう。かかる見地から我が国の政治的基本構造に関しては、単なる保守的現状維持でなく、また草案の如く歴史的断絶を意味するものでもないところの、第三の道を択び〈エラビ〉取る必要があつたと思ふが、政府当局はいかに考へられるか。
 現に諸政党並びに有力なる諸研究団体が公にしたそれぞれの草案に於て、主権の所在を或は「日本国家」に在りとし、或は「天皇を含む国民共同体」に在りとし、或は「天皇を首長とする国民全体」に淵源するとしてゐるのは、この問題に関し輿論〈ヨロン〉の或る一致点を表はせるものと見ていい。いづれも政府案に此し、遥かに日本の歴史に立脚した改正を目指してをり、況んや衆議院今回の修正案の如き「主権在国民」の思想とは、本来根本的に異る立場に立つてゐたものである。私自身は予て〈カネテ〉「民族共同体」又は「国民共同体」(national community)の考を有しをる者である。これによつて一面、我が国の歴史に於て君主主権と民主主権との対立を超えた謂はゆる「君民同治」の日本民族共同体の本質を生かす所以であると同時に、他面、民主主権が原理的には個人とその多数に基礎を置けるに対して、更に国家共同体を構成するところの新な世界観的基礎を供し得ると考へるのである。これは恰も十八-九世紀の謂はゆる「自由主義的民主主義」から新たに「共同体民主主義」への発展を意味する概念である。さうして我が国に在つて、国民の統合を根源に於て支へ来つたものが皇室であることは、我が新しき民主主義に対して固有の意義を与へるものと思ふ。
 政府当局は吾々のいふ「国民共同体」の思想に反対せず、或る場合にはそれを採つて説明せる如きも、それは単に「国民」といふ集合概念とは範疇を異〈コト〉にするところのものである。政府はそれならは寧ろ進んで「民族共同体」又は「国民共同体」の概念を取り入れて明確にする意志はないか。しかしこの新たな国民又は民族共同体の思想は、もはや古代的神権的な要素や、中世的封建的要素は一切これを払拭するは勿論、「憧れの中心」といふが如き浪漫的神秘的要索をも排除して、本年〔1945〕初頭の詔書に示されたが如き、専ら人間としての天皇を中核とし、国民との結合を同じく人と人との相互の信頼と尊敬の関係に置き換えへたところの、新しき倫理的文化的共同体を意味するものでなければならぬ。この点に於ても、政府当局は啻に國體観念の変らぬことをのみ云ふのを止めて、寧ろ進んでその変化し、時代と共に発展したこと、否、然か〈シカ〉せしめねばならぬことを明言し、同時に憲法に於て我が国の政治的権威は、かかる我が民族共同体又は国民共同体に由来することを、宣明する必要があると思ふがどうか。
 さうしてその場合、国家とはかやうな国民共同体の最高の組織体に他なぬが故に、国民共同体結合の中心たる天皇は、必ずやそれにふさはしき地位を他ならぬ国家の中に於て持たれねばならぬは当然である。改正草案に於て議会・内閣・最高裁判所それぞれ独立の機能を持つことにより、三権分立が徹底化されたことはいいけれども、その法的政治的統一は或る点に於て空白に残されてゐる。この形式的統一を充たすは正に天皇の位置であるべきである。それは単なる「象徴」ではなく、謂はゆる国家の一「機関」、即ち国家の統一性を保障する機関として――私はこれを日本国家統一意志の表現者とするが妥当と考へるのであるが――構成されることが必要である。その限りに於て、天皇の行為は、単に儀礼的でなく、まさに政治に関する国務たるの名分と形式を具へなければならぬ。そして、このことは天皇制に関する各政党の論議のうち、左右両極を除き、有力なる在野政党並びに民間研究団体の公表した一致の意見であつたのである。 
 私の主張し度いのも正にこの一点であり、それは我が国家の統一的政治法律秩序の要請から来る当然の論理的帰結であり、苟も天皇制を存置するからには、それ以下のものであつてはならぬのである。同時にまた敢てそれ以上であつてはならぬ。即ち、現行法の如き包括的なる所謂大権事項は可及的これを制限し、且つ、天皇の国務に関する一切の行為については内閣の補佐と同意を条件とし、内閣がその責任を負ひ、また内閣は国会に対して責任を負ふとなす議会政治の確立は、まさに改正案の如くあつていい、否、あらねばならぬ。かやうにして天皇と国民との間に、もはや少数者による独裁政治の介入の余地なく、随つて外は彼等による戦争再発の危険が絶対になく、内は天皇の名に於て人間の自由と権利が再び蹂躙される余地のない平和民主日本の建設は成就されるであらう。さうして、かかる天皇制と民主主義とは本来毫も矛盾することなく結びつき、ここに「日本的民主主義」が実現されるであらう。かやうにして全く新たにせられる日本の新憲法が世界と連合国に了解せられぬ筈はない。政府当局は改正案作製に当つて、その内閣と国民の運命を賭けても、かかる努力を果したるや否やを承り度いのである。【以下、次回】

「吾々は今、……」のところは、普通の改行になっているが、ここは「(三)吾々は今、……」とあるべきだった。「憲法改正」の「二」では、(二)のあと、いきなり(四)となって、(三)に相当する範囲が判然としない。しかし、本日、紹介した部分が(三)に相当する範囲だと捉えるのが妥当であろう。

*このブログの人気記事 2023・9・27(10位の西部邁は久しぶり)

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何故か「主権在国民」を明文化するの修正となつた

2023-09-26 01:42:55 | コラムと名言

◎何故か「主権在国民」を明文化するの修正となつた

 南原繁著『人間革命』(東京大学新聞社出版部、1948)中の「憲法改正」という文章のうち、「二」を紹介している。本日は、その二回目。

(二)政治的基本性格に関する第二の点は「主権論」であり、謂はゆる「國體」と関連を有する問題である。即ち、草案の前文並びに第一条に亘り、繰返し強調されてあるところの『国民の総意が至高である』こと、『国政は国民の崇高なる信託によるものであり、その権威は国民に由来する』云々、及び『天皇の地位は日本国民の総意に基づく』とある点である。これは紛ふ〈マギラウ〉べくもなく「君主主権」に対する「人民主権」或は「国民主権」の理論である。かく評するときに草案に於て前述の如き日本の政治的法的秩序との本質的関係から天皇を除外したところの新しい国家形態の基礎づけとして極めて明瞭なる徹底した立場と謂ふべきである。
 これを現行憲法について見るに、その上諭に於て『国家統治ノ大権ハ朕ガ之ヲ祖通宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フルトコロナリ』云々、及びこれを受けた第一条に『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』とあるのとは、根本の相違あることを認識しなければならぬ。ここにも我が国の政治的基本性格は根本に於て変革されるのである。何故、政府は卒直にこれを承認し明言しないのであるか。我が憲法上の一般の解釈は斯る〈カカル〉現行憲法の条章に則して國體を説明し来つたのである。また政府当局の強弁にも拘らず、わが国民が一般に「國體」として考へ来つたのも、かやうな従来の政治的基本性格と離れて存するものではなく、これと深く内的連関を有するところである。現に教育勅語に於て「國體の精華」と宣せられてあるところも、これ以外ではないのである。この意味に於ては我が國體観念も草案に於ては明らかに変更されてゐるのである。
 政府はさすがにこの変化を覆はんがため、これを緩和して、「国民」のうちには天皇をも含むといふ極めて奇怪な解釈を案出したのでわる。加之〈シカノミナラズ〉、『国民の創意が至高である』とは主権の所在を規定するものでないと最初は説明し来つたのである。しかし「国民」についてのかやうな解釈と慣用は我が国従来の国語並びに法律用語に於て嘗てないところである。且つ、英訳(これは内閣の有権的翻訳と見做していい)に於ては明白に〝Sovereignity of the people's will〟又は〝Sovereign will the peopled〟とせられてある。殊に他ならぬ三月六日連合軍最高司令官の声明に於ては『主権は卒直に人民の手に置いてある」と確言せられてある。かくまで明瞭なる事実を押し切つて、敢て人民主権でないと主張する当局の態度は、恰も〈アタカモ〉『耳を掩うて鈴を盜む』の類〈タグイ〉ではないであらうか。
 現に此度〈コノタビ〉、衆議院憲法委員会の審議に於て、種々の経緯はあつたが、最後に至つて何故か反つて政府与党側からの提議により、「主権在国民」を明文化するの修正となつたものと了解するが、政府がこれに同意した理由は何処にあるのか。吾々はこれを以て寧ろ草案の論理が徹底せしめられて完全なる「人民主権」を表はすもの、寧ろ英訳の精神に忠実になつたものと思ふが、政府の見解はどうか。只その場合に、依然「国民」といふ語に天皇を含むとの解釈を残すことにより、一方にこれまで「主権在君説」であつた政党がこれに転換すると同時に、他方に或る政党は新しく「人民主権」を規定せしめたものとして、これに賛同するといふ奇現象が生じたのである。しかし、議会と政府とに於ていかに妥協し解釈したとしても、「国民主権」或はその同義語である「人民主権」といふ世界共通の政治学上の概念の持つ真理性は、これを打消すことはできないであらう。もし、これを以てわが在来の政治の根本性格乃至は國體観念が変更されないものと云ふならば、それは自己満足、自己慰安、敢て申せば、自己欺瞞に外ならないであらう。
 今回の憲法改正により、天皇制と主権論を繞つて、政府の否定的答弁にも拘らず、純客観的に解釈して肇国〈チョウコク〉以来の大革命が国民の識らざる間にいま成されつつあるのである。吾々はかやうな革命を必ずしも避くるものではない。唯問題は国民自身がそれを意識し要求せるかといふことである。政府はこの問題をどう見らるるか。総理大臣並びに金森〔徳次郎〕国務相の弁明によれば、今回改正の一つの理由は、国内情勢の変化をも考へてゐるといふことであるが、然らば一体、この草案作製に至るまで、各政党並びに各種研究団体が公表した憲法改正案は、果してさういうものを要求したかどうか。況んや健全なる国民の大多数は沈黙を守つてゐるのである。いつでも時代の勢力に迎合する少数の意見が前面に出るのが我が国の実情である。私はかくの如き状態を以ては、他日――十年、二十年後に、国民の間に大なる反動の起る口実、否、名分を与へはしないかを憂ふる者である。この点に関し総理大臣はいかなる認識を持つてゐられるか、先きに触れた新憲法の安定性の問題と関連して答弁を煩はし度いのである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2023・9・26(10位に極めて珍しいものが入っています)

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