礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

防空が第一、外征は第二(後宮淳)

2017-06-30 02:59:39 | コラムと名言

◎防空が第一、外征は第二(後宮淳)

 昨日の続きである。昨日は、東久邇宮稔彦著『一皇族の戦争日記』(日本週報社、一九五二)から、「ドウリットル空襲」当日、および翌日の記事を紹介した。
 本日は、それ以降の記事で、同空襲の影響がうかがえるものを、ピックアップしてみた。

 五月七日(木)
 午前十一時、東部軍防空旅団長入江〔莞爾〕少将来たる。入江少将は、今般、陸軍防空学校長に転任した。入江の話によれば、
「先般の米機来襲に当り、連隊長、大隊長はいずれも歴戦者であるが、東京市内で家屋の上を越して射撃しなければならなかつたから、戦地とはまつたく異り、だいぶまごついた。
 下士、兵卒は、すべて初陣であつたから、精神が興奮し、大いにまごついた。通信手の中には、電話機をもつたまま一言も発し得ず、そのために大隊長の号令が伝達されなかつたところがあつた。こんな具合で、敵機は一機も撃墜されなかつた」

 八月二十二日(土)
 午後一時半、川崎市海岸埋立地〈ウメタテチ〉に行き、新しく製作された八サンチ高射砲中隊を視察す。この八サンチ高射砲は、もともとドイツ軍の古品を重慶軍が買い、わが軍が捕獲したものを基として製作したものである。形はドイツ砲と同じだが、機能は、ドイツ砲より劣つているとのことで、やはりわが国の校術はドイツに及ばないとみえる。そのうち、一門は歯車の組合わせの誤りから、正確な運動ができない。この砲は、大阪造兵廠でつくり、厳格な検査をうけたのち、隊に引渡されたものであるのに、かくの如き故障があるのは、技術軍規がゆるんでいるのか、技術者の良心がまひしているのか、わが陸軍のため、大いに注意すべきである。また、鉄の不足から、あまりに鉄を節約して、防楯【ぼうじゆん】を小さくしたので、照準手がよく行動できず、困つていた。まことに心細い話である。

 十月八日(木)
 午前十時、後藤隆之助(近衛公の友人・昭和研究会所長)来たり、次の話をする。
「日本国民は、真珠湾の戦勝以来、戦勝気分に酔つており、また政府も、戦局のよい方面だけを発表し、悪いことを発表しないでいるので、国民は安心して、戦時気分を失い、世間一般がダレ気味である。しかるに、アメリカは本気で戦争をはじめているから、本年以後は、わが国内に大きな空襲があるだろうし、英米の攻勢は必至である。わが国が、現状のようで行くならば、将来は大変なことになるだろう。政府は、このさい彼我の実情を国
民に示し、国民をして奮起せしめ、国民の一大革新を断行しなければならない。そうしなければ、わが国は敗戦の憂き目〈ウキメ〉を見、大事となるだろう」

 十月十三日(火)
 午前十時、中部軍司令官後宮【うしろく】淳大将来たり、次のように防空の重要性を説く。
「アメリカの現状にかんがみ、近い将来に、必ずわが国は空襲を受けるだろう。これがためには、外征軍のことは第二とし、わが国の心臓である国土の防衛を第一としなければならない。防空を軍官民が真剣に考え、陸軍は防空第一主義をとり、防空飛行隊、防空兵器に重点をおかなくてはならない」
 私は、後宮大将の意見に全然同意である。

 どれも、興味深い話だが、特に、中部軍司令官・後宮淳〈うしろく・じゅん〉大将の意見に注目した。後宮淳は、東条英機からの信頼が厚く、一九四四年(昭和一九)二月には、東条英機参謀総長(首相兼任)のもとで、参謀次長となっている。
 後宮淳という軍人についての評価は保留するが、ドウリットル空襲を受けたあと、「防空第一」、「外征第二」の立場に立った軍人があらわれたことは(後宮が、その立場を、周囲に強く示していたかどうかは知らない)、注目してよいと思う。
  
*都合により、明日から数日間、ブログをお休みします。

*このブログの人気記事 2017・6・30(3・5・6・9・10位が珍しい)

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敵機は一機も撃墜できなかったと上奏

2017-06-29 05:55:48 | コラムと名言

◎敵機は一機も撃墜できなかったと上奏

 たまたま、東久邇宮稔彦著『一皇族の戦争日記』(日本週報社、一九五二)という本を手にしたので、「ドウリットル空襲」関係のところ(一九四二年四月)を読んでみた。
 次のようにあった。なお、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)は、ドウリットル空襲時、陸軍大将、防衛総司令部総司令官、軍事参議官であった。

  初 空 襲 に 狼 狽 す る 大 本 営

 四月十八日(土)
 午前八時すぎ、小林〔浅三郎〕総参謀長から電話があり、「今朝、六時,犬吠岬沖六百哩〔ママ〕付近にて、わが海軍の哨戒船二隻が敵航空母艦を発見し、敵軍艦および航空機より攻撃をうけた。よつて八時半、警戒警報を発することにした」
 十時、防衛総司令部に出勤、総参謀長から詳しい状況をきく。
 十二時二十五分、敵大型機数機が来襲し、市内数カ所に爆弾、焼夷弾を投下した。わが高射砲、防空航空隊はこれに応戦した。
 私は昼食を終り、自室にもどり休憩中、大型飛行機がきわめて低く飛ぶのをみた。
 今朝、警戒警報発令以来、一般航空機の飛行を禁止してあるので、変だなと思つていたところ、高空に高射砲弾が破裂し爆弾の爆発する音がひびいたので、やつと敵飛行機とわかつた。総司令部の二階の窓からみると、早稲田方面に三カ所から火災が起り、黒煙があがつていたが、二時ごろ消えた。
 午後二時、総司令部を出発。芝浦埋立地の一工場、芝浦製作所の工場、鉄道省被服製造所の三カ所に行き、爆弾で破壊されたところを見る。いずれもひどく破壊され若干の死傷者も出した。つぎに早稲田付近に行つた。焼夷弾で二カ所に炎が起つた跡をみる。民家十数戸が焼失していた。
 午後六時、家に帰る。七時すぎ侍従武官から電話があつたので、宮中に参内し、天皇陛下に、本日の敵機来襲の状況を上奏した。私は、「敵機は一機も撃墜できなかつた」と申し上げた。 

 四月十九日(日)
 本日の新聞は、昨日の敵機空襲のことを報じているが、損害のことは簡単に書いている。
 東部軍司令部が、敵機空機と敵機数機撃墜の発表をしたところ、参謀本部から、防衛総司令部が発表したと勘違いし、空襲の発表は大本営がすることで、防衛総司令部がすべきでない、と文句をいつてきた。その上、私が昨夜参内して、天皇陛下に空襲に関する上奏をしたことについて、参謀本部から、
「空襲に関する上奏は、大本営の幕僚長である杉山〔元〕参謀総長がすべきである。防衛総司令官の権限ではない。今後注意してほしい」といつて来た。
 私が考えるところでは、天皇は統帥大権をもつておられ、参謀総長はその下の幕僚長にすぎない。したがつて、陛下がいつ、どの軍司令官をよびつけて、軍状の報告をきこうとかまわないはずである。
 もちろん、外地にいる軍司令官をよびつけるわけにはいかないので、そんな時は参謀総長が代つて報告することにするが、私は内地にいる総司令官だから、陛下のお召があれば、直接陛下に上奏してさしつかえないと信じている。大本営の抗議は、ずいぶん変なことで、どこまでも国内防衛の統帥権を参謀総長が握つていたいらしかつた。

 ドウリットル空襲のような不測の事態が起きたとき、まず必要なのは、どの機関に、あるいは誰に、判断や対応の誤りがあったのか、本土の防空体制のどこに、スキがあったのか、などについての検討であろう。
 ところが、この東久邇宮稔彦王の「日記」を見ると、どの機関が空襲に関する発表をおこなうか、空襲に関して誰が天皇に上奏するかなどで、軍当局内でツマラナイ争いが生じていたことがわかる。こんなことでは、とても、不測の事態を招いた理由の究明、不測の事態を招いたことへの反省、その責任の追及などは、できなかったに違いない。
 なお、東久邇宮の「日記」によると、一八日朝に、警戒警報が発令されたことになっているが、警戒警報は控えられたというのが真相である。ただし、横須賀鎮守府管区では、午前八時三九分に、警戒警報が発令されている(今月二四日の当ブログ記事参照)。

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「僕も見たヨ、確かにこれだヨ」谷正之情報局総裁

2017-06-28 06:30:23 | コラムと名言

◎「僕も見たヨ、確かにこれだヨ」谷正之情報局総裁

 昨日の続きである。松村秀逸『大本営発表』(日本週報社、一九五二)から、「ドウリットルの空襲」の節を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 昨日、紹介した箇所のあと、改行して、次のように続く。

 家は健在だつた。すぐ裏の方が二、三十軒やられている。家の中は荷物を二階から玄関におろしてゴッタ返していた。消防自動車が十台近くも集まつてどうやら消し止めたらしい。
 家内も女中も、まだ荷物の片付けに大童〈オオワラワ〉だった。
「どうした」
「いや驚きましたヨ、騎兵隊の方から飛行機がやつて来ましてネ、ちょうどお隣りの坊つちやんと門の前に立つていたんですヨ。操縦士も見える位の低さでした。日本のでしようか、アメリカのでしようかと言つている間に、何か黒いものを落したと思つたらすぐ裏手の方から、ドット煙が上つたのですヨ」
「二階の物干〈モノホシ〉だと思つたので、すぐ電話にとびついてお知らせしたのですヨ。ああ驚いた。焼夷弾というのは怖ろしいものですネ」
 妻と女中は、こもこも説明してくれた。まだ興奮からさめていない。ホンの一発でこれだけの損害を受けるようでは大変だと思つた。
 飛行機は自重十三トンもあるノース・アメリカンB-25であつた。どうも六百五十浬のところで離艦【りかん】したらしい。飛行機は片飛行【かたひこう】で母艦に帰らず中国に通りぬけてしまつた。母艦は飛行機を放すと同時に、東に反転して帰港の途についた。ここまでは日本海軍も考え及ばなかつたのである。
 その日のY新聞の夕刊には、空襲機の写真が出ていた。情報局総裁の谷〔正之〕さんは、その新聞をひろげて「僕も見たヨ、確かにこれだヨ」との話だつたが、三版、四版となると飛行機の後の方に高射砲の爆煙が四つ五つ並んでいた。
 陸軍の航空本部では、その写真が欲しいので、Y社に電話をかけて、アメリカ機の写真を見せてもらいたいと申し込んだ。何時まで経つても、持って来ないので、再三問い合せると「今どこに行つたか見当らない」という返事で、とうとう持つてこなかつた。新聞に出た飛行機は本社屋上からうつすと銘打【めいう】つてはあつたが、実は日本海軍機の写真であつた。不意をくらつて、慌てた日本はドウリットル機をフイルムにおさめることすら出来なかつたのである。
 B-25十六機を銚子東方六百浬で放したホーネットとエンタープライスは、さつさと東航、飛行機は日本爆撃後西にとんで、華中の飛行場に着陸したのである。
 とにかく、ドウリットル空襲の影響は、谷荻〈ヤハギ〉〔那華雄〕報道部長が放送したリットルでもナッスィングでもなく重大なるものがあつた。これがため大陸では華中飛行場の攻略戦が始まつた。いわゆる浙贛【せつかん】作戦である。太平洋では山本〔五十六〕連合艦隊司令長官が主張したミッドウェー攻略戦の実施を決定的なものとしたのである。

 文中、「Y新聞」とあるのは、読売新聞のことであろう。当日のY新聞に載った「アメリカ機」というのは、実は、日本海軍機であったという。要するに、捏造写真だったわけである。その捏造写真を見て、当時の情報局総裁・谷正之が、「僕も見たヨ、確かにこれだヨ」と言ったらしいが、いかにも、お粗末な話である。
 しかし、もっとお粗末なのは、陸軍の航空本部が、空襲機を写真に収めておらず、Y社に電話して、写真を要求したという一件である。
 また、ドウリットル奇襲作戦について、松村秀逸は、「ここまでは日本海軍も考え及ばなかつた」と述べている。松村秀逸は、陸軍軍人として、こういう感想を述べているわけだが、何とも無責任な感想である。
 もし、感想を述べるとすれば、海軍の航空母艦から陸軍の爆撃機を離艦させるなどというのは、日本の軍人に思いつかない発想であり、もし思いついたとしても、実現は、事実上、不可能だったろう、といった感想を、反省の念とともに述べるべきだったと思う。

*このブログの人気記事 2017・6・28(10位にきわめて珍しいものが入っています)

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松村秀逸『大本営発表』(1952)のウソ

2017-06-27 07:51:16 | コラムと名言

◎松村秀逸『大本営発表』(1952)のウソ

 書棚を整理していたら、松村秀逸〈シュウイツ〉著『大本営発表』(日本週報社、一九五二)という本が出てきた。表紙に、「元大本営報道部長 松村秀逸」とある。
 だいぶ前に読んだ本だが、これといった印象は残っていない。久しぶりに手に取り、まず、「ドウリットルの空襲」の節を読んでみた。

  ド ウ リ ッ ト ル の 空 襲
 昭和十七年〔一九四二〕、戦争第二年目の四月十八日、ドウリットルの本土空襲があつた。私はその朝市ヶ谷の陸軍省に立ち寄つて、アメリカの空母が、東方から本土に近づきつつあるとの情報を聞いてから、その頃、三宅坂の参謀本部跡に移つていた情報局に出勤した。
 その日は、情報局の部長会議があつた。会議中に警戒警報が出た。会議に集まつた連中が「何だろう」というので、私は「海軍側から空母接近の情報を話したら」と要求した。ところが、海軍から来ていた情報官は、まだこの情報を入手していないようだった。
 海軍側の秘密保持はなかなか厳重で、海軍から来た情報官にすら、この空母接近の情報を知らして来なかつた。報道部も海軍の方が陸軍の方よりつんぼ桟敷【さじき】におかれていたようである。
 そこで、私が、来がけに陸軍省で聞いて来た情報を、そのまま話した。
「今朝早く、本土東方洋上の監視艇から『午前六時半、犬吠岬の東方六百五十浬、空母二隻見ゆ』との入電があつた。海軍側の判断では、飛行機が離艦してまた空母に帰るわけだから、三百浬まで近寄つてから、飛行機は飛び立つだろう。本土上空に来るのは昼過ぎになるだろう」と話し終るか終らないうちに、空襲警報が鳴つた。
 間もなく、大久保の自宅から「家が焼夷弾でやられた」という電話がかかつて来た。話もそこそこに玄関を飛び出して車をよんだ。私の部下の連中は「部長の宅がやられた、大変だ」というわけで、四人が部屋をとび出して来た。
 玄関口で車を待つている間に、上空では飛行機が乱舞していた。高射砲の音も聞こえて来た。新聞記者がかけ込んで来たので「どうした」と聞いたたら、
「横浜上空では、彼我〈ヒガ〉入りみだれて空中戦の最中です」という。
「千住にも一機落ちたそうです」
「日本かアメリカか」
「どちらかわかりません」
 自動車に飛び乗って大久保へといそいだ。
 電車も動いていない。巻ゲートルをはいて防空服装をした人たちが、右往左往している。学校の授業も中止したらしい。学生も三々五々、時々空の方を気にしながら足ばやに家路を急いでいる。初めての空襲警報で、あわてた街の様子が目に見える。
 若松町までやつて来たら、私の家の方角に濛々と煙が上がつていた。黒い煙の中に赤い舌のような焔【ほのお】がチョロチョロ見える。「今日から家なしッ子の、着たきり雀か」というような想念がチラッと頭をかすめる。消防がサイレンを嗚らして疾走してくる。近づくにつれて、事態がはつきりして来た。どうやら火事も下火になつて来た。【以下、次回】

 当時の日本の軍部は、ドウリットル空襲に対し、有効に対応できなかった。アメリカの軍部は、ドウリットル空襲に際して、海軍の航空母艦から、陸軍の双発爆撃機を離艦させ、超低空を飛んで日本本土に接近し、そのまま中国大陸に向かうという奇策を採用していた。陸海軍が対立していた日本の軍部が、この奇策を予想できなかったのは、やむをえなかったと言えるかもしれない。
 しかし、当時、「内閣情報局第二部長心得」という要職にあって、真相を熟知していたはずの松村秀逸が、戦後にいたって、なお、「ウソ」を流布し続けているのは許されることではない。
 上記の引用でいえば、「本土上空に来るのは昼過ぎになるだろう」(下線)と予想したという部分は、明白なウソである。もし、その日一八日の、「昼過ぎ」に空襲が予想されるというのであれば、当該時刻に、「情報局の部長会議」を開いていたはずはない。空襲があるかないか半信半疑であり、あったとしても、翌一九日だろうと見込んでいた(二四日のブログ参照)からこそ、そんな時間に、危機意識に欠けた会議を開いていたのである。松村秀逸は、なぜ、そうした事実を正直に書けなかったのだろうか。

◎難読曲名の読み

1 浦千鳥見女汐汲   うらちどりみるめのしおくみ
2 遅桜手爾波七字   おそざくらてにはのななもじ
3 五諸車引哉袖褄   ごしょぐるまひくやそでづま
4 内裡模様源氏紫   ごしょもようげんじのえどぞめ
5 禿紋日雛形     さとそだちもんぴのひながた
6 大都会扇成絵合   さんがつおうぎのえあわせ
7 好偕川傍柳     すいたどしかわぞうやなぎ
8 助六曲輪菊     すけろくくるわのももよぐさ
9 翻詞廓文章     てにはをかえくるわぶんしょう
10 道成寺現在蛇鱗  どうじょうじげんざいうろこ
11 七重咲浪花土産  ななえざきなにわのいえづと
12 七所御摂初鉄漿  ななところめぐみのはつかね
13 二世契縁綬糸   にせのちぎりえにしのくみいと
14 春世界艶麗曽我  はるのせかいにぎわいそが
15 牡丹蝶扇彩    ぼたんにちょうおうぎのいろどり
16 封文栄曽我    ふうじふみさかえそが
17 拙業再張文    へただいくにどのはりまぜ 
18 道行思案余    みちゆきしあんのほか
19 雪梅顔見勢    むつのはなうめのかおみせ
20 睦月筈紋日    むつましづきやはずのもんぴ
21 戻駕色相肩    もどりかごいろにあいかた
22 倭仮名色七文字  やまとがないろのななもじ
23 雪芳野木毎顔鏡  ゆきもよしきごとのかおみせ
24 豊春名集寿    ゆたかのはるなよせのことぶき
25 寄三升花四季画  よせてみますはなのにしきえ

*このブログの人気記事 2017・6・27(8位にきわめて珍しいものが入っています)

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邦楽の曲名ほど読み方の難しいものはない

2017-06-26 02:06:36 | コラムと名言

◎邦楽の曲名ほど読み方の難しいものはない

 歌舞伎の演目の読み方は難しい。「与話情浮名横櫛」は、「よはなさけうきなのよこぐし」と読む。これなどは、耳で聞いた覚えがあるから読めるわけで、聞いたことのない演目の場合には、まず読めないであろう。たとえば、「隅田川続俤」という演目は、「すみだがわごにちのおもかげ」と読むらしいが、これをスラスラと読める人は、よほどの「通」であろう。
 さて、歌舞伎の演目と同様に、あるいは、それ以上に、読み方が難しいのが、長唄・清元・常磐津などの邦楽の曲名である。いま、『名曲解題 邦楽舞踊辞典』(冨山房百科文庫、一九三八)から、それら邦楽の曲名を挙げてみる。ぜひ、その「読み」を推定していただきたい。
〔 〕内は、当該の曲名が、どの邦楽のものかの区分を示している。『邦楽舞踊辞典』の記述に拠ったが、邦楽に詳しくないので、同書の記述を誤読している場合があるかもしれない。

1 浦千鳥見女汐汲  〔長唄〕
2 遅桜手爾波七字  〔長唄〕
3 五諸車引哉袖褄  〔清元〕
4 内裡模様源氏紫  〔常磐津〕
5 禿紋日雛形    〔常磐津〕
6 大都会扇成絵合  〔清元〕
7 好偕川傍柳    〔常磐津〕
8 助六曲輪菊    〔清元〕
9 翻詞廓文章    〔清元〕
10 道成寺現在蛇鱗 〔義太夫〕
11 七重咲浪花土産 〔長唄〕
12 七所御摂初鉄漿 〔長唄〕
13 二世契縁綬糸  〔清元〕
14 春世界艶麗曽我 〔長唄〕
15 牡丹蝶扇彩   〔長唄〕
16 封文栄曽我   〔長唄〕
17 拙業再張文   〔長唄〕 
18 道行思案余   〔清元〕
19 雪梅顔見勢   〔長唄〕
20 睦月筈紋日   〔常磐津〕
21 戻駕色相肩   〔常磐津〕
22 倭仮名色七文字 〔常磐津〕
23 雪芳野木毎顔鏡 〔長唄〕
24 豊春名集寿   〔清元〕
25 寄三升花四季画 〔長唄〕

 いずれも難読である。正解は、明日、お知らせする(どうしても気になるという方は、当該の曲名をコピーして検索していただきますと、すぐに判明するかと思います)。
 なお、13番を除いて、漢字六字の曲名が見られない。六文字の曲名を意図的に避けていると思われる。
 歌舞伎の演目も、同様に、六文字を避ける傾向がある。歌舞伎の演目については、「南無阿弥陀仏」が六文字であることから、六文字が忌避されたという説明を読んだ(聞いた)覚えがあるが、いま、典拠を挙げることができない。

*このブログの人気記事 2017・6・26(8・10位にやや珍しいものが)

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