礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

NASAがネットでシャトルの部品探し(2002)

2021-05-31 00:09:39 | コラムと名言

◎NASAがネットでシャトルの部品探し(2002)

 数日前、部屋の片づけをしていたところ、二〇年近く前の新聞記事が出てきた。
 二〇〇二年五月一三日付毎日新聞の27面に載っていた記事で、見出しは、「ネットでシャトルの部品探し」。引用してみよう。

 ネットでシャトルの部品探し
 NASA 老朽化進んで…「生産中止」多く

 【ニューヨーク時事】1980年代初めから利用されている米スペースシャトルは老朽化が進んでいるが、生産中止になっている部品が多いため、米航空宇宙局(NASA)はとうとうインターネットを使った部品探しに乗りだした。
 ニューヨーク・タイムズ紙(早版)によると、NASAはこのほど、ネット上の競売サイト「イーベイ」で旧式の医療機器を購入した。目的は同機器に搭載されているCPU(中央演算処理装置)「インテル8086」で、ブースターロケットの点検装置の交換部品として必要だったという。このほか最近では、8㌅フロッピーディスクドライブや旧式の回路板もネットで調達した。

 インターネットで、「Intel8086 スペースシャトル」を検索してみて驚いた。この記事のもとになったと思われるニューヨーク・タイムズの記事が、いきなりヒットしたからである。便利な時代になったものだ。
 今の若い世代は、3・5インチのフロッピーディスクを使ったことがないという人が多いらしい。まして、8インチのフロッピーディスクを見たことがある若者など、ほとんど皆無であろう。しかし、その一方で、この新聞記事から二〇年近くたった今日でも、8インチフロッピーディスクを使っている人がいるようだ。その証拠に、インターネットを見ると、8インチフロッピーディスクドライブや、8インチフロッピーディスクが、かなりの高値で売りに出されている。
 最近は、秋葉原のジャンク屋街を回ることはないが、一九九〇年代末から七、八年間は、よく通った。その当時、そうしたジャンク屋には、ブラウン管式のモニター、8インチフロッピーディスクドライブ、レザーディスクドライブ、MOディスクドライブなどが、並んでいたものだ。
 初めてノート型パソコンを買ったのも、秋葉原のジャンク屋だった。富士通のFMVで、3・5インチフロッピーディスクドライブは付いていたが、CDドライブは付いていなかった。ノークレーム・ノーリターンで一五〇〇円。OSは、ウィンドウ95だったと記憶する。ちなみに、この当時、こうした古いノート型を使っている人のために、「外づけのCDドライブ」というものが販売されていた。

*このブログの人気記事 2021・5・31(8位になぜか藤村操)

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映画『アスファルト・ジャングル』(1950)を観た

2021-05-30 01:54:48 | コラムと名言

◎映画『アスファルト・ジャングル』(1950)を観た

 一週間ほど前、コスミック出版のDVDで、ジョン・ヒューストン監督の『アスファルト・ジャングル』(MGM、一九五〇)を鑑賞した。たしか、これが三回目である。
 やはり傑作だと思った。特に、「ドク」を演じたサム・ジャッフェの演技がよい。主演のスターリング・ヘイドンを完全に喰っている。
「ドク」を中心とする強盗団が、宝石店の金庫から大量の宝石を盗み出そうとする。金庫破り担当はルイ(アンソニー・カルーソ)、運転手担当はガス(ジェイムズ・ホイットモア)、用心棒担当はディックス(スターリング・ヘイドン)。
 金庫から宝石を奪うことはできたが、警報が作動するという誤算があって、ルイが警備員に撃たれてしまう。四人とも何とかその場を離脱するが、ルイは、その後、自宅で息を引きとる。
 悪いことが重なる。宝石を買い取ることになっていたエメリッヒ(ルイス・カルハーン)が、現金が用意できなかったと言い出す。その場での口論の際、エメリッヒが雇った私立探偵ボブ(ブラッド・デクスター)とディックスが拳銃を撃ち合う。ボブは即死、ディックスも脇腹を撃たれて出血する。
 タクシー運転手の通報が発端となって、警察は、犯行の全容をつかむ。ガスが逮捕され、エメリッヒは、逮捕直前に自殺。
 面白くなるのは、実は、ここから先である。ドクとディックスは、ディックスの愛人「ドール」(ジーン・ヘイゲン)の部屋を訪ね、そこで獲物の宝石を分けたあと、別々に逃走することになる。
 ドールの部屋を出て、夜の街を歩いてゆくドク。その後ろ姿を窓から見おろすディック。ディックスはドールに向って、「肝のすわった男だ」と言う。印象に残る場面である。
 タクシーをつかまえたドクは、クリーブランドに向かう。途中で、休憩のために食堂に寄る。若い男女が、ジュークボックスの音楽に合わせて、派手に躍っている。それを、真剣な表情で見つめるドク。運転手がドクの肩を叩き、「お客さん、そろそろ行きましょう」と言う。ここも印象に残る場面である。
 ディックスとドールは、車を調達してケンタッキーの牧場に向かったが……。映画の結末は、あえて記さない。

*このブログの人気記事 2021・5・30(8・10位に珍しいものが入っています)

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祝田橋、日比谷交叉点を経て朝日新聞本社にゴールイン

2021-05-29 02:01:14 | コラムと名言

◎祝田橋、日比谷交叉点を経て朝日新聞本社にゴールイン

 雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その一〇回目(最後)。本日、紹介するのは、連載第五回(第三巻第五号、一九五三年五月)の後半。

   広々とあきるほど平らな関東
 黒磯、西那須野を過ぎるころ操向がやや不安定になってきたので、降りて点検してみると、右前輪のタイヤが少々へこんでパンクらしい。
 悪路で釘が1本ささったのだった。約5分間で予備車輪と取りかえ、氏家〈ウジイエ〉を経て宇都宮に入った。要するに一周旅行中の故障はこのパンクだけであった。
 氏家の近くで宇都宮のトヨタ販売のトヨペットが迎えに見えていた。
 関東に入って感じることはさすが大平野といった感じである。
 道も平坦でまっすぐなところが多く、コンクリートやアスファルトほそうのところもあるが、砂利道は土けむりで前の車も見えないような始末であった。
 しかし深谷の辺りから東京まではさすが立派なほそう道路で、京浜国道のようなところもある。
 このような道になると、東北の山道にくらべて、いかにも平々凡々で、運転していても興味が薄い。坂やカーブがないだろうかなど苦心して走った木曾路や信州路、山形、福島、青森、十和田などのせまい急な道が懐かしくなる。
 人間なるもの実にわがままなものだと橋本哲人と大笑した。
 宇都宮の栃木荘〔10月23日〕、前橋の白井旅館〔10月24日〕に各々一泊、10月25日(土)朝9時前橋を出発、高崎市中行進や高崎 トヨタの歓迎を受けていよいよ最終コ—スを走った。
 宇都宮も、前橋も戦災を受けた都市であるが、いずれも復興の跡もめざましく特に各地であう中学、小学校の男女生徒や新聞社やトヨタ自動車関係者の元気で落付いた様子は、民主化の一端もうかがわれてうれしかった。

   向上した戦後の自動車人
 特に昔自動車関係の職業にある人たちには素質の低い人が多いようにいわれていたが、戦後は全然このような人は見られず、各デーラーの営策や整備関係の人々が品よく立派な人格者が多くなったことは、日本の自動車界にとってうれしいことであると思った。
 熊谷近くも、新らしく区画整理され、立派な四車線以上の巾広い道が畠のまん中を走っている。しかしいまだほそうされないところも処々ある。
 お蔭で左右の田畑の作物も林の木も土やほこりで葉の色も見えない。
 大宮近くで東京の朝日新聞本社から朝日の旗をひらめかせた陸王オートバイの単車が出迎られたのに会った。
 オートバイは早速浦和まで来ている朝日のニュースカーに伝令に帰って行った。
 中仙道の傍にある埼玉トヨタも黒山の人だかりで島田社長以下の大歓迎を受けた。島田氏は筆者が昭和5年〔1930〕はじめて自動車を習った頃、いろいろカタログや説明書を下さって教えてもらった人である。
 小憩の後オートバイやニュースカーの先導で浦和市内を一周、やがて荒川の志村橋〔ママ〕を越え、板橋、巣鴨、東大前、気象台前、宮城前を通過した。
 空からは朝日のセスナ機がビラを撒きながら出迎え、オートバイやニュースカーの後には各型のトヨペットと、美しい東日本一周国産乗用車トヨペット小学生朝日新聞の文字や図案で飾ったトヨタ大型有蓋トラックなど延々と行列行進した。

   予定時刻にゴールイン
 正4時祝田橋、日比谷交叉点を経て本社玄関前に入った。数千の群集のどよめき、小学生たちがふる朝日の旗の波の中で筆者は走行距離計の数字をノートに記し、同時にまわりの歓迎に答えながら記録写真のシャッターを切った。
 バルコニーからマイクロフォンを通して橋本記者と挨拶した。国産乗用車トヨペットで 東日本一周の感覚を率直に報告し、日本人は日本民族の作った自動車も愛用してほしいことを願った。
 東京都に入ってしみじみ感じたことは、人々特に子供が交通道徳をよく守っていることである。
 地方に出ると対面交通も通行順位も守られないが、さすが東京の子供達はよく訓練されている。
 そしてさすが日本の中心であるとの感が深い。
 家族に迎えられて家路の車の中で、お世話になった東日本の人々、美しい祖国日本の姿、意義ある催しをされた朝日の人々、心から協力をおしまなかったトヨタ自動車の人々、黙々として自動車の整備に精逸する人々、悪路に重いトラックのハンドルをにぎって運輸の重責をはたす人々、雨と風にさらされながら、シャベルやツルハシで国道を守る人々、そして私達2人を歓迎し、おとなしく私たちの話を聞いて下さつた可愛い青年少女たちの姿が、走馬燈のように私の頭の中を往き来した。
 明日からもまた私の好きな自動車で、なんとか人々のお役に立ちたいと念じながら、静かな我家の眠りについた。
 (…五回にわたっての東日本一周ドライブも無事帰京いたしましたので本稿を以て終ります)

 文中の「橋本哲人」は、いかにも、橋本記者のフルネームのようだが、文脈からすると、「哲学者たる橋本記者」といった意味らしい。
 埼玉トヨタの「島田社長」とは、たぶん、埼玉トヨタの創業者・嶋田光衛(しまだ・みつえ)のことであろう(一九〇二~一九九三)。
「荒川の志村橋」とあるのは、「荒川の戸田橋」の誤記か。「気象台前」とは、中央気象台前のこと。中央気象台は気象庁の前身で、当時は、千代田区竹平町にあった。
 浦和から朝日新聞本社にいたるルートは、中山道(国道17号)、白山通り(国道17号)、本郷通り(国道17号)、順天堂前、御茶ノ水駅前、明大通り、千代田通り、気象台前、内堀通り、祝田橋交差点、晴海通り、日比谷交差点というものだったと思われる。
 明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2021・5・29(10位に珍しいものが入っています)

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栗子峠に比べれば箱根はものの数ではない

2021-05-28 01:38:43 | コラムと名言

◎栗子峠に比べれば箱根はものの数ではない

 雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その九回目。本日、紹介するのは、連載第五回(第三巻第五号、一九五三年五月)の前半。

=国産乗用車=
 東日本一周ドライブから ⑸
  福島から郡山・宇都宮・前橋・高崎・浦和・東京へ   宮 本 晃 男

   栗子峠の嶮を越す
 10月22日は10時10分上の山温泉米屋を出発赤湯を経て米沢に入った。
 米沢市内を一周、昼食の後いよいよ板谷〈イタヤ〉峠の険を越えて福島に抜けることになった。
 米沢盆地は南は磐梯、吾妻〈アヅマ〉、東は金山〈カネヤマ〉、蔵王、西は朝日岳、飯豊〈イイデ〉の山々に囲まれ、最上川の上流にうるおされて美しい街である。道は一車線半、自然の砂利と岩の道で、岩でできた鋸の歯の上にタイヤをこすりつけて登るような道である。このような道で栗子峠を越えた。
 思わずハンドルをにぎる手も汗ばみ、学生時代剣道の試合で強敵に相向ったときのような緊張をおぼえた。
 岩又岩の道のどこに右の車輪をどこに左の車輪を持って行くか、そのせんたくに次々と気をくばりハンドルをしっかりにぎりつづけた。
 急勾配の山肌をけずってできた2米に及ばない絶壁にまいたはちまきのような道を走った。セコンドギヤとローギヤの使い分けで走る。幸いエンジンも快調である。
 なかなか頂上が見えない。崖下を見下している暇もないほどハンドルのさばきが急がしい。23年間の運転を省みてもこんな緊張した運転はなかったように思う。
 ずるずる、ずるずると右左に車輪がずれるのをハンドルとアクセレレーター〔Accelerater〕の加減で走るスリルはなんともいえない。
 この点後の関東平野の平々凡々のドライブと比較したらやはりこのような難コ一スには味があって楽しい。
 これは暴風雨の中の飛行に似たスリルの楽しみがあると思った。
 箱根越えなど、ものの数ではない。
 頂上に300メートルほどの立派なトンネルがある。こんな石の頂上に石やセメントを運んでトンネルを作った土木技術家の努力に頭が下った。 右側にその昔、手掘りで作られたトンネルがならんでいる。
 トンネルがなければこの山は越せないのだ。このような道を走ると、私どもは自動車を使う以上汽車とレール、レールがなければ汽車は走れないという公理を、自動車にも道路やトンネル、橋などがないと走れないという定義に十分結びつけて考えなければならないとしみじみ感じた。
 このような嶮路になるとロードクリアランス(最低地上高)の低い外国製の乗用車ではとても走れない。
 栗子峠の頂上で一休みし、いま上って来た羊腸たる細い道をはるかに見下して、よくも上って来たものと感心した。
 そしてこれで東日本一周も無事に終了したようなものだと思った。
 橋本記者も同感だといっていた。
 頂上に飯場〈ハンバ〉がありトンネルや道路工事の人々が生活していた。一人の若い婦人が岩清水で食器を洗っていた。こんな嶮しい山の頂上で、多勢の荒くれ男の炊事をしている姿は神々しくたのもしく見えた。このようなけなげな女性の力があってこそ、このような山奥にトンネルも道路も築かれ、私たちの自動車も無事に走れるのだと思った。
 午後3時無事福島に着いた。上の山から栗子峠越えは約100kmの行程であるが、全行程中もっとも張合いのあるコースであった。
 10月23日庭の池ではねる大きな鯉の水の音で目がさめた。
 福島トヨタや陸運事務所の心づくしの歓送を受けて南下した。
 福島市は山地と、奥羽山脈とに囲まれた盆地の中にある。道は陸運事務所の整備課長の言の通り、立派なコンクリートのほそう道路で、甲州街道のような感じで、60km近い時速で気持よく走った。
 直線コースが多く、昨日の難コースに比べたら張合いのないくらいの良い道である。
 予定よりはるかに早く郡山〈コオリヤマ〉に入った。
 途中松川町の近くで多数の小学生が日の丸の旗を手に手に道の両側に整列し、私どものトヨペットが行くと、みんな大よろこびで手をふるので、橋本記者も大歓迎とばかり感激して大いにこれにこたえた。
 ところがしばらく行くと警察のジープを先導にパッカード乗用車にお召しの秩父宮妃殿下がお出でになり、早速キャノンで記念に1枚シャッターを切った。生徒さんたちは国民体育会への妃般下のお出迎えであったとわかって橋本記者と大笑いした。
 郡山で昼食後、小学校で講演し、須賀川〈スカガワ〉、矢吹を経て白河に入った。
 白河の関跡は近くにある。道は砂利敷であるが、手入れはよく、両側の高原のすすきの白い穂が、秋の風を受けてなよなよと波を打つ姿は一入旅愁をさそった。
 このあたりで八溝〈ヤミゾ〉山脈の高原と福島、栃木の県境を越し、いよいよホームグラウンドの関東に入った。
 那須野に入ると道は広いが路面は悪く荒い砂利道であるが、自動車は快速で走れる。

今日の名言 2021・5・28

◎岩でできた鋸の歯の上にタイヤをこすりつけて登るような道である

 運輸省技官の宮本晃男が、栗子峠越えの道を表現した言葉。上記コラム参照。ちなみに、この道路は、1952年(昭和27)12月4日から「国道13号」と呼ばれるようになった。宮本晃男らが走ったのは、同年10月22日のことだったが、その時点で、この道が何と呼ばれていたかは不明。

*このブログの人気記事 2021・5・28(8~10位に珍しいものが入っています)

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盛岡・花巻間の舗装路をトヨペットは滑るように走った

2021-05-27 04:40:52 | コラムと名言

◎盛岡・花巻間の舗装路をトヨペットは滑るように走った

 雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その八回目。本日、紹介するのは、連載第四回(第三巻第四号、一九五三年四月)の後半。

   東京は外国車ラッシュ地方は国産車全盛
 途中多数のバスやトラックや乗用車に出会ったが、いずれもトヨタ、ニッサン、いすず、ふそう、民生、日野、トヨペットなど国産車であった。
 青森、弘前、秋田などで聞いた話であるが、地方では外国車を買っても、部分品が入手難であるし、整備も十分できないし、道が悪いので、じきに足まわり、すなわち走行装置がまいってしまって商売にならないとのことであった。
 要するに国の一流会社は、サービス網が行届いているので、今後価格がさらに値下げされれば、決して外国車に押される心配はないとの意見が強かった。
 三本木盛岡間は、大部分砂利道ではあったが、手入れが良く、気持ちよいドライブができた。三本木盛岡間160キロ余であるが、約5時間で走破できた。

   奥 の 細 道 を 上 る
 渋民村〈シブタミムラ〉に車を駐め、石川啄木の歌碑を訪ねた。啄木が勤めた小学校の近く、今は中学校の裏手の丘に碑があり、その西北に岩手富士といって親しまれている岩手山がそびえている。その足下に北上川か流れており、その風景は、まことに詩が生れるにふさわしいと感心した。
 碑には清素な明朝文字で『やわらかに、柳あをめる北上の、岸辺目に見ゆ、泣けとごとくに、琢木。』とほってあった。
 盛岡市の公会堂で大歓迎を受けて一泊した〔10月19日〕。あす〔10月20日〕は北上川の流域にそい、仙台入りである。夕刻粟つぶのようないぼだらけの南部の名鉄瓶を物色し、地図をながめて眠りについた。
 盛岡から花巻へは坦々たるコンクリートのほそう道路で、トヨペットは滑るように気持よく走った。 
 西には和賀岳〈ワバダケ〉、真昼岳、焼石岳など奥羽山脈の連山がならび、東には北上山地が連なり、まっすぐな道路がその中央を南下している。花巻から国道を東に寄り途し、宮沢賢治の詩碑をたずねた。
 人情にあふれ、隣人愛に生きる賢治先生の面影か躍如としてあたたかく私たちの心を包む思いがした。花束をそなえ、国道に戻った。水沢では 国際的にその名を知られた緯度観測所をおとずれた。
 30分余走り北上川をわたると、正面の丘にこんもりとした杉の森がある。
 これが平泉の中尊寺の境内である。
 平泉は藤原三代栄華の跡であり、ここから眺めた風景は、京都の洛中から東山や愛宕山を望んだ景色によく似ている。北上川はまさに加茂川といった感じである。
 石段を上りつめ、光かがやく金色堂をなめながら、はるか昔をしのんだ。
 奥の細道をおとずれた雲水松尾芭蕉がのこした、『五月雨や降りのこしてや光堂』の句が懐かしい。山の上から見下せば、S字形にうねる衣川が見える。

   手入れの行届いた東北の砂利道
 仙台市の歓迎にまに合すため、スピードを上げ、平泉、仙台間101キロを約3時間で走った。
 仙台市は国民体育大会で湧き返り、当夜〔10月20日〕は秩父宮妃殿下お泊りの仙台ホテルに一泊した。仙台市は大空襲で焼失したが、今は区画整理も進み、さすがに東北一の大都会としてふさわしい。
 10月21日11時仙台ホテル発、土井晩翠〈ドイ・バンスイ〉と滝廉太郎〈タキ・レンタロウ〉の荒城の月に名高い青葉城跡を左に見、作並〈サクナミ〉温泉を経、関山峠を越えて天童村を通り、山形市に入った。
 この道は天皇、皇后両陛下が山形にお出ましになり、御料車を廻送するため早朝からグレーダー〔地ならし機〕が路面をけずったため、奧羽山脈越えの路面はなめらかで、乗心地の良いドライブができた。 
 峠を越して山形盆地を見下した風景は、まさに天下の絶景である。山形トヨタと朝日新聞の専売の車が歓迎に来られた。
 山形は右も左も四面山また山で、まことに山の形ばかり目につくところである。人情に厚く、質朴で、心の美しさに打たれた。
 山形公会堂で挨拶し、コンクリートほそうの京浜国道のような立派な道を上ノ山〈カミノヤマ〉温泉に走り、米屋旅館に一泊した。
 両陛下は村井旅館にお泊りになった。樹氷で有名な蔵王はこの東にそびえている。トヨペットは快調であり東京は日一日と近づき楽しい旅行が続いた。   (つづく)

*このブログの人気記事 2021・5・27(8・10位に珍しいものが入っています)

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