礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

普選という言葉を空気のように吸った清水幾太郎

2014-06-10 06:16:44 | 日記

◎普選という言葉を空気のように吸った清水幾太郎

 昨日の続きである。社会学者の清水幾太郎の『社会学入門』(カッパブックス、一九五九)から、清水が、関東大震災の体験を語っているところを紹介している。本日は、その四回目(最終)。

 私の十歳代は第一次世界大戦の終結と共に始まった。民主主義を標榜していた連合国側の勝利で戦争が終わったために、日本の社会にも民主主義の大波が押しよせてきた。
 しかし、それと同時に、私の十歳代はロシア革命の成功と共に始まったと言える。日本でも労働組合の結成が進み、ストライキが頻発した。といっても、そのころは無我夢中で、私が一番ハッキリと覚えているのは普通選挙であった。第二次世界大戦後の今日では、普通平等選挙権などというのは平凡きわまる代物〈シロモノ〉に見乏るが、その獲得を目指す運動は、私が生まれる十年以上も前に始まり、途中で社会主義運動と合流、はげしい弾圧の下で続けられてきていた。普通選挙とか普選とかいう言葉を、私は空気のように吸って成長してきた。
 その普選が、第一次世界大戦後の民主主義とロシア革命の成功とによって生み出された条件の中で新しい生命を帯びてきていた。関東大震災の直後の一九二五年、運動開始後三十六年で普選はようやく実現するのだが、この普選運動を中心とする時代の雰囲気とでもいうべきものが、私にとっては、大杉栄という自由な人間のうちに、とりわけ、彼の著書のうちに結晶していたように思われる。
 この結晶は、今、こなごなに打ちくだかれたのだ。国家は何のためにあるのか。軍隊は何のためにあるのか。警察は何のためにあるのか。今日の少年ならすでに多くのことを知っているであろうが、私は大震災のドサクサの中で、つまり、自分の身の上の危機の中で目を開かれたのである。大杉栄は私の先生である。くわしいことは判らないが、彼は人間を愛し、自由を愛し、正義を愛する人である。日本の軍隊は先生を虐殺した。先生を殺した力は、いつか、私にソッと近づいて、私を殺すであろう。

 こうして、清水幾太郎は、関東大震災、その直後の朝鮮人虐殺、大杉栄虐殺等、関東大震災の二年後に実現した普選(普通選挙)等の体験を通して、「国家は何のためにあるのか。軍隊は何のためにあるのか。警察は何のためにあるのか」について、考えはじめたのである。
 こうした体験が、彼の学者としての原点になるわけだが、しかし、その原点が、清水幾太郎という学者において、貫徹していたかどうかは疑問である。清水の戦中における言動については、暫く措くとしても、一九七四年以降の「右旋回」は、どういう動機に基づくものなのか。この点については、機会を改めて論ずるとし、次回は話題を変える。

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清水幾太郎、大杉栄の虐殺に衝撃を受ける(1923)

2014-06-09 07:37:02 | 日記

◎清水幾太郎、大杉栄の虐殺に衝撃を受ける(1923)

 昨日の続きである。社会学者の清水幾太郎の『社会学入門』(カッパブックス、一九五九)から、清水が、関東大震災の体験を語っているところを紹介している。本日は、その三回目。

大杉栄虐殺さる 兵営に一週間いて、私たちは焼跡へ帰った。営門をはいる時の私と、営門を出る時の私とは別の人間であった。焼跡に焼トタンで小屋のようなものを作り、私たちはここに住むことになった。未開人のような生活が始まった。始まって間もなく、この未開人はまた決定的な打撃を受けた。無政府主義者大杉栄(一八八五年―一九二三年)が憲兵大尉甘粕正彦〈アマカス・マサヒコ〉によって虐殺されたのである。
 九月十六日、甘粕大尉は、東京憲兵隊本部において、大杉栄、妻伊藤野枝〈ノエ〉、甥橘宗一〈タチバナ・ソウイチ〉(当時六歳)の三人を殺した。また、九月五日ごろ、社会主義者平沢計七〈ケイシチ〉など十一人が亀戸警察署で殺された。大震災の混乱に乗じて、朝鮮人、無政府主義者、社会主義者が殺されたことは、それのすべてが私には大きなショックであった、しかし、大杉栄の場合は特別であった。当時の私は大杉栄の著書を愛読していたからである。
 大震災の直前、神奈川県茅ヶ崎〈チガサキ〉の海岸へ遊びに行った時は、彼の評論集『正義を求める心』(一九二一年)と大杉栄・伊藤野枝共著の『二人の革命家』(一九二二年)とをたずさえていったと覚えている。クロポトキンの『相互扶助論』(A. Kropotkin, Mutual Aid, 1912.)も大杉栄の訳(第十四版、一九二二年)で読み、ダーウィンの『種の起原』(Charles Darwin, Origin of Specie, 1859.)も大杉栄の訳(一九二八年)で読んでいた。いろいろと読んではいたが、私が少し早熟であったにしても、彼の思想が少年の私によく理解されていたとは思われない。ことによると、神近市子〈カミチカ・イチコ〉が大杉栄を神奈川県葉山の日蔭茶屋で刺したというような事件(一九一六年)が私の関心を唆って〈ソソッテ〉いたのかもしれぬ。いや、そう考えるよりは、あの時代の空気の全体が大杉栄という人物及び著作のうちに結晶していたと見るべきなのであろう。【以下、次回】

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清水幾太郎、朝鮮人虐殺の現実に接する(1923)

2014-06-08 05:11:18 | 日記

◎清水幾太郎、朝鮮人虐殺の現実に接する(1923)

 昨日の続きである。社会学者の清水幾太郎の『社会学入門』(カッパブックス、一九五九)から、清水が、関東大震災の体験を語っているところを紹介している。本日は、その二回目。

私の全体が悲しみであった 泥沼を渡って、亀戸の方へ逃げて行くうちに、私たちは、群集というか、流民というか、巨大な無組織集団に融けこんでしまった。
 私たちは、素裸〈スッパダカ〉同様の姿で、枕とかお櫃とかいうナンセソスた品物を大切に抱えて、町中一杯の流れを作って、まだ焼けない町をノロノロと動いていく。日は幕れてしまったが、一面の大火事のために、そう暗くはない。誰も黙っているが、みな家を失い、財産を失い、肉親を失っていることをたがいに知りあっている。私の妹や弟もいつか行方不明になっているのである。私たちは病んだ獣の群のようであった。私の心が悲しいと感じるよりは、私の全体が悲しみなのである。前後左右は見知らぬ人間ばかりなのに、私は、その人たちといっしょに、甘い暗い感情、それを抜け出るのが辛いような感情にひたされていた。この人間の流れの中から、時々、ウォーという叫びとも呻き〈ウメキ〉ともつかぬ声が起こる。それを聞くと、私の身体の底の方から自然にウォーという声が出てしまう。
朝鮮人の血 〔九月〕二日の夜、私たちは千葉県市川の国府台〈コウノダイ〉の兵営に収容されて、毎日、行列を作って握飯をもらい、夜は馬小屋や営庭の芝生で眠った。父は、行方不明になった妹や弟を探すために、毎日、東京の焼跡へ出かけて行った。
 あれは三日か四日の夜中であったと思う。馬小屋で寝ていた私は、水が飲みたくなって、洗濯場へ行った。洗濯場には、夜中なのに大勢の兵隊がいて、みな剣を洗っている。その辺は血だらけである。ピックリしている私に向かって、一人の兵隊が得意そうに言う。「朝鮮人の血さ。」私は腰が抜けるようにおどろいた。朝鮮人騒ぎというのは噂には聞いていたが、兵隊が堂々と朝鮮人を殺すものとは思わなかった。だが、もし私が朝鮮人の友だちを持っていなかったら、それほどには感じなかったのであろう。しかし、どういう訳か、私は何人かの朝鮮人の友だちを持っていたし、彼らが暴動など起こすはずはないと思っていた。また、もし私が軍隊というものに親しみを感じていなかったら、それほど驚かなかったかもしれぬ。しかし、父が日露戦争に出征していたということもあり、小学校の六年生の時、兵営の参観に行ったりして、軍隊というものに気安い親しみを感じていただけに、私の受けたショックは大きかった。
 私はゾッとした。軍隊は何のためにあるのか。軍隊によって守られている国家は何のためにあるのか。今から思えば、関東大震災のドサクサの中で、十六歳の私はこの大きな秘蜜の一部分に触れたのである。【以下、次回】

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清水幾太郎の運命を決めた関東大震災

2014-06-07 04:24:45 | 日記

◎清水幾太郎の運命を決めた関東大震災

 社会学者の清水幾太郎〈イクタロウ〉(一九〇七~一九八八)に、『社会学入門』(カッパブックス、一九五九)という本がある。その第一章の第一節で、彼は、関東大震災の体験を語っている。本日は、これを紹介してみよう。

 私の運命を決めた関東大震災 「社会学など勉強せずに、医者になっていたら、今ごろはどうだろう。」今でも、折に触れて私はこう考えることがある。実際、万事が順調に進んでいたら、私は医者になっていたはずなのである。何も特別の理想があって、それで医者を志したというのではなく、小学校を卒業するころ、或る易者が私の顔をつくづく眺めて、「あなたは医者になりなさい。医者になれば、すぐ博士になるし、すぐ金持になる。」と言ってくれたのが原因である。
 当時も現在も、医者になれば、十中八、九は博士になり、金持になるらしいから、落ちついて考えれば、この予言は、私だけでなく、万人向きのものなのであろう。しかし、その時は、そうは考えなかった。その後、私は博士にはなったが、まだ金持にはなっていない。今でも、金に困るたびに、医者になっていたら、と考えてしまう。それよりも、家族に重い病人が出ると、医者になっておけばよかったのに、と後悔する。
 医者になるつもりで、全国から医者の卵ばかりが集まる独逸学協会学校中学という長い名前の中学に籍を置きながら、到頭、私が社会学へ方向転換をしたのは、一九二三年の関東大震災のためであった。私の家は東京の本所〈ホンジョ〉の片隅にあった。私は中学の三年生。九月一日正午、始業式を終えて家に帰り、暑い、暑い、と言いながら、パンツ一枚で昼飯を済ませた途端に、大地震が来た。私の家は、湿地を埋めたてた土地に建てられていたものらしい。家はたちまちつぶれて、私たち一家は天井の下敷きになってしまった。何分間かの悪戦苦闘の末、ようやく天井に穴をあけて、私たちは屋根へ這いでることができた。
 しかし、ホッとする暇もなく、そこへ火がまわってくる。私たちは、この穴の近くにあった、枕とかお櫃とかいう、ほとんどナンセンスなものを抱えて、火を逃げることになった。逃げるといっても、つぶれた家々のために道はなくなっているので、方々の工場から流れ出る汚水がたまってできた泥沼を渡って、まだ火のまわらぬ亀戸〈カメイド〉の方へ逃げた。真黒なネバネバした水は私の腹まで来た。
 私は東京の日本橋で生まれた。旗本であった祖父が禄を離れてから始めた「士族の商法」が失敗に失敗を重ねた挙句、私が小学校の六年生の時、私たちは本所のスラム街の真中で新しい商売を始めたのであった。こういう事情は、『私の心の遍歴』(中央公論社、一九五六年)に詳しく書いておいたから、今は述べない。大震災に見舞われたのは、新しい商売が何とか芽をふきだした時であった。私たちは、一瞬の天災のために、無一物〈ムイチモツ〉になり、東京の焼野原に投げ出されてしまった。
 もし父が官吏か会社員であったら、勤め先があるかぎり、月給がもらえたであろうが、あいにく、商人であり、商品はきれいに焼けてしまった。もし私たちが地方の出身であったら、田舎にしばらく身を寄せるという便宜があったであろうが、私たちは先祖代々の江戸っ子である。私たちは無一物で焼跡に生きるほかはなかった。【以下、次回】

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昔の事を知らないのは誇りにならない(幸田露伴)

2014-06-06 05:30:00 | 日記

◎昔の事を知らないのは誇りにならない(幸田露伴)

 昨日の続きである。清水文弥の『郷土史話』(邦光堂、一九二七)の巻頭に置かれている、作家の幸田露伴による「序」の後半である。「昔の事はまるで知らぬのが誇りになる訳でも無い」という一句は、露伴の歴史観を示すものであり、かつ、この本に対する推辞にもなっている。

 且又幕府末造〔末世〕の際は、考ふべきことも甚だ多いのである、慕末は幕府政治の崩壊を余儀なくされるほど糜爛〈ビラン〉したのであるが、一方には又三百年の太平を維持するに足るだけの或者が存在して居たからこそ三百年の太平が持続されたであつた。それで明治以前の数十年には一般は衰頽腐敗したには相違無いが、猶ほ長期の太平を支へて来た所以のものが部分的には存してゐたのである。それらをも考ヘずに一切を抛棄するやうな料簡を取つて、何でも彼でも〈カデモ〉旧い事は取るに足らぬといふやうに思ふのは、玉石倶に焚くと云ふもので、感心したことでは無い。三百年の太平は、腐敗をも醸し出したろうが、他の一面には化醇の作用をも做し遂げたに疑ない。国内だけ水入らずに、善悪利弊の鍛錬陶冶が行はれて、そして社会の安定、生活の平穏、思想の順当、感情の優美等が煉り出され築き上げられたことも争はれまい。日本人として日本人らしい発達をなし進歩を遂げたことも、三百年の太平と云ふ坩堝の壊れない間に做されたと看るのも、全然無理とは云はれまい。日清日露の戦争に、世界の他の国民が驚嘆した日本人の精神力といふものは、むしろ明治以前の坩堝の中から出た材料に、明治の文明の坩堝が加へられてそして立派な形を成し立派な用を為したと解しても間違つて居らぬかも知れぬのである。
 旧いことの回顧といふものは、やゝもすれば詰らぬ結果又は無意義に終るものであるが、此の二つの意味からして、此書の如きは、今日の人々の一読と三省とを値するであろう。著者清水老人は幕末に青年であり、明治に壮者であり、大正に及んで老人ではあるが、全国に亘つての旅行者であり、観察者である野人的風格を有する一種の人である。其の語るところが、時に或は学者や識者から然様〈サヨウ〉ではないと思はるゝやうなことは有らうとも、著者は皆これを自己の実際の眼で視、身で覚え、そして心に映じ浮べたところから取り出してゐるものである。
昔の事はまるで知らぬのが誇りになる訳でも無いから明治以前と今日とを、今の人々は此書によつて比較して見るのも、興味の有ることでもあり、利益の有ることでもあろう。
 昭和二年新春   露 件 道 人 識

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