礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

刀江書院の『郷土教究』は方言をのせない

2017-07-31 05:58:09 | コラムと名言

◎刀江書院の『郷土教究』は方言をのせない

『方言と土俗』の第三巻第七号(一九三二年一一月)から、「方言雑誌合評会」という記事を紹介している。本日は、その二回目。
 文中、太字は、雑誌名または書名をあらわす(原文では、傍線)。

B「本山〔桂川〕さんや桂〔又三郎〕さんも、よく複刻をしますね」
A「千葉県郡別方言集とか岡山県方言集とか、あゝいふのは善いよ。何しろ、郡誌は部厚〈ブアツ〉なものが多いから、借りて見るにしても、送料が大変だ」
E「本山さんは編輯物が得意らしい」
D「長崎方言は、もう、種切れだらう」
B「用言篇は、まだ、出ません」
C「体言篇があまりに大き過ぎたから‥‥‥‥」
D「標準語と同じものまで入れたから、あん大きなものになツたのだ」1/祛i>fe-e-fe'」
A「桂さんに岡山市の方言集のないのは不思議だ」
B「島村〔知章〕さんがやツてゐました」
C「島村さんが死んでから、桂さん、元気がなくなつた様だ」
D「中国民俗研究を創刊した頃はかなり油がのツて居た様だが‥‥‥‥」
A「あまり、消極的だからいけない。雑誌そのものはいゝけれど‥‥‥‥」。
E「商売気〈ショウバイギ〉が無いんだね」
D「その癖、古本屋だよ」
E「商人といふがらではない」
C「飯尾〔哲爾〕さんは中々うまくやツてる。土のいろはもう十年近くなるだらう」
D「しかし、方言をのせる様になつたのは去年からだよ」
E「時々、方言の特輯号を発行する」
C「飯尾さんは何も書かないね」
A「佐々木清治〈キヨジ〉さんと、宇波耕策さんとで持ツてる様なものだ」
D「二人とも分布調査がお得意らしい。佐々木さんは単語の、宇波さんは音韻語法の‥‥‥‥」。
B「佐々木さんは地理学者です」
A「一体、方言地理は、半分は、地理学の領分だよ。しかし、地理学者は、ここに気が附かない様だね」
E「刀江書院の郷土教究が方言をのせないのは不思議だ。あそこは言語誌叢刊の発行所のくせに」
D「土のいろで遠州方言集を出してくれるといゝ。一と通りの方言集さへ無いくせに、分布調査など木末顛倒だ」
B「方言と国文学はどうです」
D「方言と国文学と相備長屋の感がある」
C「題が悪い。方言と国語とすればよかつた」
D「山下〔邦雄〕さんの興味は方言にある事は確かだ」
E「薩摩狂句の評釈などばかりやツてる」
C「本格的研究を発表するには準備が足りなかつたのだらう」
B「郷里を離れて居るから、研究には萬事、不便でせう」【以下、次回】

 文中、Aの発言に、宇波耕策という名前が出てくる。インターネット情報によれば、長野県の飯田中学校(旧制)の教師だったようだ。
 弁護士の正木ひろしは、かつて、長野県の飯田中学校に英語教師として赴任したことがある。インターネット上で読める『小説 正木ひろし』によると、そのとき同校には、すでに、宇波耕策という国語教師が在職していた。正木は、宇波の人となりを観察し、また、その授業も参観して、「彼あっての飯田中だ」という感じたとある。
 また、Dの発言に、「相備長屋」という言葉が出てくる。読み、意味ともに不明である。博雅の御教示を乞う。

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1932年の「方言雑誌合評会」

2017-07-30 06:47:30 | コラムと名言

◎1932年の「方言雑誌合評会」

 一昨日からの続きである。一昨日は、『方言と土俗』の第三巻第七号(一九三二年一一月)から、「方言掲載雑誌目録」を紹介した。同誌同号は、その目録のあとに、「方言雑誌合評会」なる記事を載せている。
『方言と土俗』誌の関係者五人による、方言雑誌をめぐる「合評会」の記録である。関係者五人(A、B、C、D、E)の氏名は不明。また、実際に、この合評会が開かれているのか、それとも「架空」の合評会なのか、ということも明らかでない。ともかく、本日は、これを紹介してみよう。
 文中、太字は、雑誌名をあらわす(原文では、傍線)。

 方 言 雑 誌 合 評 会

B「先づ春陽堂の方言から始めませう」
C「あれには、よく、西洋人の日本語研究が紹介されますね」
B「珍らしいからでせう」
D「物好きもある」
E「音声資料としては価値が高い」
A「外に、言語学雑誌がないから、少しでも、方言に関係あることは、みんな、こツちへ持ツて来るんだらう」
D「土俗の記事がないのは不満だ」
A「土俗の記事はなくてもいい。土俗学的立場から、方言を見る用意さへあれば‥‥‥‥」
B「柳田〔國男〕さんがよくお書きになるぢやありませんか」
C「しかし、此頃は、土俗よりも、訛音〈カオン〉の方を、多く、取り扱はれてる」
A「ちと人物不経済だね。訛音なら、外の人にでも書けさうだ。
E「近頃は、書く人の顔ぶれが、大抵きまツた様だ」
D「毎号、大家の名を出さうと、編輯者が骨を折ツてる様だ」
A「方言に大家はないよ。東條〔操〕さん以外は、みな、七八年この方、始めた人ばかりだ。年は取ツても、研究歴は若い」
C「僕は、方言を手に取ると、尻の方から見るよ。第一に編輯後記、それから、学界消息、新刊紹介、雑誌要目とね。」
D「誰でもさうだらう」
B「雑報欄をもツと拡げるといい」
A「いや、狭いから、却ツて、いゝのだ」
E「方言には、新刊紹介は余り出ないね」
C「新刊紹介では、方言と土俗が、一番骨折ツてる」
B「近頃では、地方雑誌でも、大抵、新刊紹介をやツてゐます」
C「昔の寄贈御礼が進化したのだ」
E「今でも、寄贈御礼ですましてゐる所が多い」
D「佐渡郷土趣味研究の寄贈御礼には閉口するね。古本屋の販売目録まで並べて、二頁も三頁も取ツてゐるんだもの‥‥‥‥」
C「青柳〔秀雄〕さんは目録が好きなのだらう」
D「蒐集家だ」
B「よく方言誌を出しますね」
D「みな、十頁前後の薄いものばかりだ」
E「佐渡の古今の方言書を集大成してくれるといい。これ一冊あれば、あとは、もういらんと言ふ様な‥‥‥‥。薄ツぺらな物は保存に困難だし、カードに取るにしても、同じ言葉を何べんも書かされる事になる」
C「青柳さんは、方言そのものよりも、方言書に興味を持ツてゐるらしい」
A「しかし、どんな珍本でも、複刻すれば、書誌的興味は雲散霧消するよ」
D「複刻するからには、実用的価値を問ふべきだ」
C「古書を複刻するよりは、自分で採集したものの方が価値が高いと思ふ。大体、明治時代のものは学問的立場から採集したものは少ないから‥‥‥‥。」【以下、次回】

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こうすれば良かった安倍首相の危機管理

2017-07-29 03:15:17 | コラムと名言

◎こうすれば良かった安倍首相の危機管理

 テレビ・ニュースによれば、稲田朋美防衛大臣は、七月二八日午前、安倍晋三首相に辞表を提出したという。このことを聞いた私は、なぜ、こうなる前に、安倍首相は防衛相を罷免しておかなかったのだろうかと感じた。同時に、安倍首相の危機管理能力に(というより、「危機管理のセンス」に)、あらためて疑問を抱いたのである。
 この間、当ブログでは、三度ばかり(二〇一七年三月四日、三月一五日、六月二五日)、「安倍首相と危機管理」について論じた。本日は、そのまとめを兼ねて、安倍首相のこの間の危機管理は、「こうあるべきだった」ということについて書いてみよう。題して、「こうすれば良かった安倍首相の危機管理」。

1 安倍首相は、森友学園問題が浮上して間もない二〇一七年二月一七日、自分あるいは妻がこの問題に関係しているなら、「首相も議員も辞める」と言明した。これは、言う必要のない言葉であった。あえて、みずからの退路を断つ、危険な発言であった。また、同年三月一日には、「私は公人ですが、妻は私人です」とも述べた。これまた、無意味というか無益な発言であった。危機管理上は、問題が浮上した時点で、「妻のしでかした不始末は、私の責任です」と認め(「板垣英憲情報局」三月三日記事を参照した)、みずからの判断により、昭恵夫人に名誉校長を「辞退させた」旨を言明するのが良かったと思う。 
2 稲田朋美防衛大臣は、三月一三日の参議院予算委員会で、「籠池氏の事件を受任したこともなければ、法律相談を行ったこともありません」と答弁したが、翌一四日の衆議院本会議では、「今朝の報道において一三年前の裁判所の出廷記録が掲載されました。平成一六年一二月九日、夫の代わりに出廷したことが確認できましたので、訂正しお詫びいたします」と前言を撤回し、謝罪した。安倍首相は、この時点で、防衛相を罷免すべきであった。そうしていれば、そのあとに起きた、防衛相がらみの諸問題は回避できたし、自由民主党の支持率が急減することもなかったであろう。
3 森友学園問題の本質は、「日本会議」という政治的・宗教的組織にあった。安倍首相は、森友学園問題が大きく採り上げられるようになってきた段階で、「日本会議」との関係を断つべきであった。少なくとも、「日本会議国会議員懇談会」の特別顧問は、辞退しておくべきであった。
4 加計学園問題に対する政府の対応は、加計学園理事長・総長の加計孝太郎氏の証人喚問要求に応じないなど、森友学園問題の際の対応との違いがありすぎた。安倍首相は、加計学園問題が大きく採り上げられるようになってきた段階で、「不適切な行政指導」が存在したことを認め、認可手続きをいったん白紙に戻すべきであった。また、加計学園問題について、不適切な行政指導に関わった閣僚を更迭するとよかった。 
5 総じて言えば、安倍首相は、本年二月以降に浮上した問題に対して、「危機管理」という発想に立って、真剣に誠実に、かつ謙虚に対応すべきであった。対応の過程で、みずからの危機管理能力に自信を失った場合は、「危機管理専門家」に(周囲の「お友達」に、あるいは「日本会議」系の人に、ではなく)、助言などを求めるべきであった。

今日の名言 2017・7・29

◎炎上しているサイトは早く閉めるしかない

 2017年7月27日夕、稲田朋美防衛相は、官邸に首相を訪ね、辞意を表明したという。これについて、ある政府関係者は、「政権運営の歯車が狂い、負のスパイラルに陥っている。炎上しているサイトは早く閉めるしかない」と述べ、稲田氏の辞任は当然との見方を示したという(朝日新聞デジタル版:2017年7月27日23時32分)。

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1932年当時の方言掲載雑誌

2017-07-28 03:43:46 | コラムと名言

◎1932年当時の方言掲載雑誌

 先日、偶然に、『方言と土俗』の第三巻第七号(一九三二年一一月)を入手した。この雑誌は、盛岡市在住の言語学者の橘正一〈タチバナ・ショウイチ〉が編輯・発行していたもので、発行所は、盛岡市新馬町〈シンウママチ〉の一言社である(橘正一の住所も、盛岡市新馬町)。
 謄写版で、本文四〇ページ。最後のほうに、「方言掲載雑誌目録」というものが載っていた。本日は、これを紹介してみよう。

 方言掲載雑誌目録  (昭和七年十月現在)

版  誌  名    編輯者   範囲  回数  発行所
活 南 島 談 話    比嘉春潮〈ヒガ・シュンチョウ〉 琉球 隔月
 東京市神田区西今川町五、 三元社
活 日向郷土誌資料  日野 巌  日向  隔月
 宮崎市江平町〈エヒラチョウ〉三の七六、 日野 巌
ト         梅林新市  福岡  不定
 福岡市春吉四番丁、 梅林新市
活 九大国文学    春日政治〈カスガ・マサジ〉 九州 不定
 福岡市外、九州大学法文学部国文学研究室
ト 愛媛県周桑郡郷土研究彙報 杉山正世〈マサヨ〉 伊予 不定 
 愛媛県宇和島、宇和島高女、  杉山正世
ト いよのことば   杉山正世  伊予  不定
 右に同じ
ト 中国民俗研究 桂又三郎〈カツラ・マタサブロウ〉 岡山 不定
 岡山市内山下【ウチサンゲ】元町一の八  文献書房
ト 兵庫県民俗資料  河本正義  兵庫  不定  
 神戸市平野下祇園町四二六、 河本正義
ト 土 の 香    加賀治雄  各地  毎月
 愛知県中島郡起町〈オコシチョウ〉三条、  加賀治雄
ト 土 の い ろ    飯尾哲爾  遠州  隔月
 静岡県浜名郡曳馬村高林、 飯尾哲爾
ト 越中方言研究彙報 金森久二  越中  不定
 富山県下新川郡滑川町神家、  金森久二
活 郷 土       池上隆祐  信州  不定
 東京市外砧村喜多見三三三の四 池上隆祐
活 方 言       沢野武馬  各地  毎月
 東京市日本橋通り三の八  春陽堂
活 音声学協会々報  石黒魯平  各地  不定
 東京市小石川区竹早町百廿 愛知社
活 郷 土 研 究   岡村千秋  各地  不定
 東京市小石川区茗荷谷町五二 郷土研究社
活 国 語 教 育    大原美康  各地  毎月
 東京市牛込区白銀町二十九  育英書院
活 国学院雑誌    進藤 譲  各地  毎月 
 東京市外渋谷町  国学院大学
ト 方 言 誌      三谷栄一  各地  不定
 東京市外渋谷町 国学院大学方言研究会
ト 民 俗 研 究    本山豊治〔桂川〕 各地 毎月
 千葉県市川町真間、   本山豊治
ト む さ し の    池ノ内好次郎 埼玉 不定
 埼玉県入間郡宗岡村、  池ノ内好次郎
活 方言と国文学   山下邦雄  各地  不定
 福島県群山市菜根屋敷  山下邦雄
ト 佐渡郷土趣味研究 青柳秀雄  佐渡  不定 
 新潟県佐渡郡小木町〈オギマチ〉、  青柳秀雄
ト 方言と土俗    橘 正一  各地  毎月 
 盛岡市新馬町中通り   一言社

 雑誌名の前にある「活」は活版を指し、「ト」は謄写版を指している。

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三時間以上の睡眠をとったことは稀

2017-07-27 05:39:24 | コラムと名言

◎三時間以上の睡眠をとったことは稀

 山形英語英文学会発行の『山形大学 英語英文学研究』第3号(1957年3月)から、田中菊雄「英語遍歴五十年」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。「4.辞典編集の苦心」を紹介する。

   4.辞典編集の苦心
 長岡へ転任した頃から研究社の「岡倉英和大辞典」初版〔岡倉由三郎編『新英和大辞典』1929〕の編集がはじまり、私がその一部を分担することとなり、苦心惨憺した。翌年の春、富山高校長の南日恒太郎〈ナンニチ・ツネタロウ〉先生の御厚意で富山高校に移ったが、引続きこれに専心した。夏休み毎に上京して研究社の二階に籠城して昼夜を分たずはげんだ。この事業が終った時、自分の知的身長が急に伸びた様な感じがした。引続き「岡倉スクール英和」〔岡倉由三郎編『研究社スクール英和新辞典』1929〕に精進したが,山形高校の島村盛助〈モリスケ〉先生の招きで昭和五年〔1930〕の春、山形へ移ることとなった。今度こそは辞典の仕事を一切やめて専心英文学の勉強に精進しようという覚悟で山形へ来たのであったが、事は志とちがって「岩波英和」〔島村盛助編『岩波英和辞典』1936〕の編集に参加することとなり、まる七年をこれに捧げた。この七年こそ私にとって最大の修業であった。多年に亘って元旦以外は一日も欠かさず、自分の書いた原稿をたずさえて、島村先生の許へ通って訳文を直していただいた。ほとんど三時間以上の睡眠をとったことは稀であった。本当に「身をすててこそ」といった気持であった。この辞典がもし売れてせめて家族を路頭に迷わせないだけの収入さえ確保されたら、あこがれの英国へ一日も早く行こうという考えであったが、それは遂に見はてぬ夢に帰した。また余り年をとらないうちに東京へ出ようという考えもあり、そういう誘いもうけたが、そのうち心境が変化して都ばかりが文化の中心ではない、自分の居るところが自分にとっては世界の中心である。たとえいかなる僻地〈ヘキチ〉にあつても文化的活動ができるということを悟って、山形に落着くこととなり今日に至った。

 以上が、「4.辞典編集の苦心」で、このあとに、「5.傾く齢の慰め」および「附言」があるが、これらの紹介は割愛する。
 なお、『山形大学 英語英文学研究』第3号所載の「記録(Ⅲ)」などによって、以下の事実がわかる。
 山形大学教授にして山形英語英文学会会長の田中菊雄は、1956年(昭和31)11月3日に開かれた第四回山形英文学大会(山形英語英文学会と山形大英文研究会の共催)において、「英語遍歴五十年」という講演をおこなっている。これに先立って、田中は、東北英文学大会においても、同じタイトルで講演をおこない(日付は不明)、同年12月15日には、秋田大学英文学会でも、同じタイトルで講演をおこなった。『山形大学 英語英文学研究』第3号所載の「英語遍歴五十年」は、これらの講演の内容をまとめたもので、擱筆は、「昭和三十一年のクリスマス前夜」(1956年12月24日)だという。

*このブログの人気記事 2017・7・27(3位にかなり珍しいものが入っています)

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