礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

備仲臣道氏の新刊『百鬼園伝説』を味読する

2015-05-31 06:33:40 | コラムと名言

◎備仲臣道氏の新刊『百鬼園伝説』を味読する

 備仲臣道氏から、新刊『百鬼園伝説』(皓星社、二〇一五年五月)をいただいた。内田百間三部作の第三作にあたる。快作である。どこを読んでも、おもしろい。どこから読んでも楽しめる。
 読んで感じたことだが、この本は「書評」には適さない。なぜか。これは、論ずる本ではなく、味わう本だからである。また、内田百間という異色の人物をめぐる「伝説」を淡々と紹介する、この本の味わいを伝えることが難しいからである。
 というわけで、以下でおこなうのは、この本の「書評」ではない。拝読して、印象に残った部分を抜き出すことによって、この本の味わいを伝えようとするのである。故事成語に、「一斑を見て全豹を卜す」という。
 本書「猫好きの章」の「ノラ」の節に、飼い猫のノラが失踪して悲しんでいる百間に対し、高橋義孝が「猫じゃらし」を贈るなどの悪戯〈イタズラ〉をした話が出てくる。高橋にとって、百間は師(先生)であったが、その先生が、「誰も彼も皆、先生と一緒に、先生と同じように悲嘆にくれなければならぬ」と考えているように思え、反発したのである。
 このノラ失踪事件について、備仲臣道氏は、百間の心境を、次のように忖度する。

 ノラの失踪した年、百間は六十八歳であったから、すでに高齢であって涙腺が刺激に弱く、すぐに緩んでしまうようになっていたはずである。また、その前年の一九五六(昭和三十一)年六月二十五日には、長いこと親交のあった宮城道雄が、大阪へ向かう急行銀河で奇禍に遭って亡くなっており、人と猫を同列に並べて論じるのではないけれど、百間の心の中に癒やし難い深い傷を刻んでいた。さらには、戦前の一九三六(昭和十一)年に遡るが、長男久吉が二十三歳で早世している。死期の迫った息子が、お父さんメロンを食べたいと哀願したのを、むなしく退けた悔やみと痛みが、いつまでも心に刺さって離れなかった。
 百聞が砂利場に隠れたころ、久吉はまだ十二歳で、百間には手のかかる子どもだったにしても、久吉のほうからすれば、生後二年は岡山に別居していたし、東京へきてからも他家に預けられたり、情の薄い親父と映っていただろう。十二歳の久吉の下には、長女多美野十一歳、次男唐助八歳、次女英野四歳があり、末っ子でのちに清子の生家の養女になった三女菊美は、まだ赤ん坊であった。だから、これが文学だと確信したものに殉ずるため、百間が捨てたのは、なんにたとえようもないほどに大きなもの、普通人間が捨ててはならない一番のものだったかも知れない。そうして、百間は普通ではなかったのである。
 それらの悔いや悲しみに加えて、かつて教えた学生たちにも、人となってのちに若死にしたものが何人かいた。このころの百間は、文筆の上である程度の達成感を得ていたのは明らかで、過去を振り返ってみる余袷はあった。だから、いまさらではあっても、それら一切合切を泣きたい思いは強かったのである。しかし、それを口に出して、人に言えるものではないから余計に苦しい。そんな涙の堰を、ノラやクルが切り崩してしまい、百間はなりふりかまわず泣くことになったのであって、たかが駄猫一匹のために流した涙ではないはずである。そう考えないことには、どういう涙かという説明のつけようがない。

 百間が「駄猫一匹のために流した涙」について、ここまで踏み込んで解釈した論者を、寡聞にして知らない。
 備仲氏は、内田百間に対して、あくまでも優しい。百間の良き理解者である。ある意味で、内田百間になり切っている。そうでありながら、「百間は普通ではなかったのである」という冷厳な認識を手放そうとはしない。これが、著者のスゴイところである。並の「百鬼園読み」と異なるところである。
 本書のオビに、「百鬼園読みの著者の文体はついに百間のそれに迫り百間が乗り移る」とある。百間が著者に乗り移っているのか。それとも、著者が百間に乗り移っているのか。いずれにしても、乗り移っているのは、「文体」にとどまるものではあるまい。

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『聖徳太子伝略』、「敏達天皇十年」を訳解する

2015-05-30 03:16:41 | コラムと名言

◎『聖徳太子伝略』、「敏達天皇十年」を訳解する

 昨日は、藤原猶雪が復原した『聖徳太子伝略』における「敏達天皇十年」の条の原文を紹介した。再度、引用すれば、以下の通り。
 
十年【辛丑】春二月。蝦夷数千寇於辺境。天皇召群
臣議征討之事。於時太子侍側。竦耳左右。聞群
臣論。天皇近召太子詔曰。汝意如何。太子奏曰。
少児何足議国大事。然今群臣所議。皆滅衆生
之事也。児意以為。先召魁帥。重加教喩。取其重
盟。放還本路加賜重禄。奪其貪性。天皇大悦。即
勑群臣。召魁帥綾糟等詔曰。惟你蝦夷。大足
彦天皇之世。合殺者斬。合赦者放。朕今遵彼前
例。欲誅元悪。於是。綾糟等怖懼乃到泊瀬川面
三諸山而盟曰。臣等蝦夷。自今以後。子子孫孫
用清明心。事奉天闕。臣等若違盟者。天地諸神
及天皇霊絶滅臣等種矣。自此後時久不犯辺。

 しかし、このままでは意味が通じない。そこで、勉強を兼ねて、これを書き下し文に直してみた。

十年【辛丑〈かのとうし〉】春二月、蝦夷〈えみし〉数千、辺境ヲ寇ス〈あだす〉。天皇、群臣ヲ召シテ征討ノ事ヲ議ル〈はかる〉。時ニ太子、側〈かたわら〉ニ侍リ〈はべり〉、耳ヲ左右ニ竦テ〈そばだて〉、群臣ノ論ヲ聞ク。天皇、近ク太子ヲ召シ、詔シテ〈みことのりして〉曰ク、汝ガ意〈こころ〉如何。太子奏シテ曰く、少児〈しょうに〉何ゾ〈なんぞ〉国ノ大事ヲ議ルニ足ラン、然レドモ今群臣ノ議スル〈ぎする〉所、皆、衆生〈しゅじょう〉ヲ滅ス〈ほろぼす〉ノ事ナリ、児〈じ〉ガ意フ〈おもう〉ニ、先ヅ魁帥〈カイスイ〉ヲ召シ、重ク教喩〈おしえさとし〉ヲ加ヘ、其ノ重盟〈おもきちかい〉ヲ取リテ、本路ニ放還シ、加フルニ重禄〈ちょうろく〉ヲ賜フテ、其ノ貪性〈たんせい〉ヲ奪ハント以為リ〈おもえり〉ト。天皇大ニ悦ブ。即チ群臣ニ勑シテ〈ちょくして〉、魁帥ノ綾糟〈あやかす〉等〈たち〉ヲ召シ、詔〈みことのり〉ニ曰ク、惟レバ〈おもんみれば〉、你〈なんじ〉蝦夷ハ、大足彦〈おおたるひこ〉天皇ノ世、合ニ〈まさに〉殺スベキ者ハ斬リ、合ニ赦スベキ者ハ放ツ、朕、今カノ前例ニ遵ヒテ〈したがいて〉、元悪〈ゲンアク〉ヲ誅セント欲スト。是〈ここ〉ニ於テ、綾糟等、怖懼〈ふく〉ス。乃チ〈すなわち〉泊瀬川〈はつせがわ〉ニ到リ、三諸山〈みもろやま〉ニ面テ〈むかって〉盟テ〈ちかって〉曰ク、臣等〈しんら〉蝦夷、自今以後、子子孫孫、清明ナル心ヲ用ヰテ、天闕〈テンケツ〉ニ事ヘ奉ラン〈つかえまつらん〉、臣等、若シ〈もし〉違盟〈いめい〉セバ、天地諸神及ビ天皇ノ霊、臣等ガ種〈つぎ〉ヲ絶滅セ〈ほろぼせ〉ト。自此〈コレヨリ〉後時〈コウジ〉久シク辺ヲ犯サズ。

 かなり難しかったし、時間もかかった。実を言うと、岡田諦賢編纂『聖徳太子伝暦訳解』(哲学書院、一八九四)を参照して、何とか作業を終えたのである。
 若干、注釈する。岡田諦賢が使用したテキストでは、「本路」が「本洛」となっていたらしく、岡田はこれを「本の洛(もとのくに)」と読んでいる。「本路」も、あるいは「本ノ路(もとのくに)」と読むべきなのかもしれない。
 岡田は、「貪性」に「たんせい」というルビを施している。ここでは、それに従った。
 岡田は、書き下しにあたって、「児意以為」における「以為」を切り離し、聖徳太子の発言の最後に持ってきている。上記でも、それにならった。
「勑」は、「敕」の異体字で、「勅」とは別字である。しかし、「勅」の異体字として使用(誤用)されることがあるという。ちなみに、岡田が使用したテキストでは、この字は、「勅」となっていたようだ。
 岡田は、「絶滅」に「ぜつめつ」というルビを振っていたが、上記では、岩波文庫版『日本書紀』(黒板勝美編)で、相当箇所に施されていたルビ「ほろぼ」を採用した。
 なお、『聖徳太子伝暦訳解』の訳解者・岡田諦賢は、訳解にあたって使用したテキストを明らかにしていない。いずれにしても、このテキストは、藤原猶雪が復原したテキストと、若干の相違があったものと思われる。
 参考までに、『聖徳太子伝暦訳解』、「敏達天皇十年」の部分を、以下に紹介しておく。【 】は原ルビ。原本には句読点がない。なお、『聖徳太子伝暦訳解』においては、「你」の字の箇所は、ニンベンに爾という字が使われている。ここでは、「你」で代用した。

十年辛丑春二月蝦夷【えぞ】数千【すせん】辺境【へんけい】を寇【あだ】す天皇群臣を召して征討の事を議る時に太子側【かたはら】に侍【はんへ】り耳を左右に峙【そばだ】て群臣の論を聞き玉ふ天皇近く太子を召て詔て曰汝意【なんじがこゝろ】如何太子奏曰少児【せうに】何ぞ国の大事を議るに足ん【たらん】然れとも今群臣の議する所皆衆生【しゆじやう】を滅すの事なり児【じ】が意【おもふ】に先つ魁師【かいし】を召て重く教喩【おしへさとし】を加へ其の重盟【おもきちかい】を取て本の洛【くに】に放還【はうくわん】し加ふるに重禄【ちようろく】を賜ふて其貪性【たんせい】を奪んと以為【おもへ】りと天皇大に悦びて即ち群臣に勅して魁師の綾糟等【あやかすたち】を召て詔曰【みことのりにいはく】惟【おもんみ】れは你【なんじ】蝦夷は大足彦【おほたるひこ】天皇(景行天皇の御事)の世殺すへき者は斬り赦すへき者は放つ朕今彼【かの】前例に遵ひて元悪を誅せんと欲す是【こゝ】に於て綾糟等怖懼【ふく】して乃ち泊瀬川【はせかは】に到り三諸山に向て盟【ちかつ】て云臣等【しんら】蝦夷自今以後子々孫々清明なる心を用いて天闕に事へん臣等若【もし】違盟せは天地諸神及ビ天皇の霊臣種【しんたね】を絶滅【ぜつめつ】したまひ之より后時【こうじ】久しく辺【へん】を犯さすと

 ここで、これも勉強のために、上の書き下し文を「復文」してみた。これも、なかなか難しかった。たぶん、以下のような感じだったのではないか。

十年【辛丑】春二月蝦夷数千寇於辺境天皇召群臣議征討之事於時太子侍玉側峙耳左右聞玉群臣論天皇近召太子詔曰汝意如何太子奏曰少児何足議国大事然今群臣所議皆滅衆生之事也児意以為先召魁師重加教喩取其重盟放還本洛加賜重禄奪其貪性天皇大悦即勅群臣召魁師綾糟等詔曰惟你蝦夷大足彦天皇【景行天皇之御事】之世合殺者斬合赦者放朕今遵彼前例欲誅元悪於是綾糟等怖懼乃到泊瀬川向三諸山而盟云臣等蝦夷自今以後子々孫々用清明心事天闕臣等若違盟者天地諸神及天皇霊絶滅臣種矣自之后時久不犯辺

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『復原聖徳太子伝略』、「敏達天皇十年」の原文

2015-05-29 03:11:31 | コラムと名言

◎『復原聖徳太子伝略』、「敏達天皇十年」の原文

 これまで、聖徳太子については、あまり関心を払ってこなかったが、一昨日、国立国会図書館で、友田吉之助の論文「日本書紀後世改刪説の再検討」(一九六〇)を読み、さらに、岡田諦賢編纂『聖徳太子伝暦訳解』(哲学書院、一八九四)、藤原猶雪編『復原聖徳太子伝暦』(聖徳太子奉讃会、一九二七)といった文献に目を通しているうちに、いまさらながら、この人物には謎が多いということを認識した。そして、この人物に、いくらか関心を抱くようにもなった。
 しかし、当面の関心は、聖徳太子という人物そのものではない。むしろ、次のような諸点である。
一 友田吉之助は、『聖徳太子伝暦』、「敏達天皇」の項における聖徳太子関係の記述は、「旧本日本紀」とも言うべき文献を踏まえおり、その文献が、改刪を経た上で『日本書紀』となったという説を唱えている。この友田説は、はたして妥当か。
二 友田説が妥当だとすると、『聖徳太子伝暦』、「敏達天皇」の項における聖徳太子に関する記述は、なぜ削除されなければならなかったのだろうか。あるいは、誰が、どのような意図で削除したのか。
三 森博達氏の『日本書紀の謎を解く』(一九九九)によれば、『日本書紀』の第二十巻「敏達天皇紀」は、「α群」に分類できるという。すなわち、同巻は、中国人(渡来唐人)の手によって、「正格漢文」で書かれていると認定できるという。では、『聖徳太子伝暦』、「敏達天皇」にはあるが、『日本書紀』、「敏達天皇紀」にはない部分(『日本書紀』で削られたとされる部分)についても、同様の認定がなしうるのか。
四 『聖徳太子伝暦』、「敏達天皇」の項における文章表現と、『日本書紀』、「敏達天皇紀」の記述の文章表現とは、同一内容を記述している部分において、若干の違いがある。この違いを、森氏の視点、すなわち「倭習の有無」という視点から捉えた場合、何か見えてくるものがあるのか、それともないのか。
五 森博達氏は、その著書『日本書紀の謎を解く』において、『日本書紀』には、「後人」による加筆や挿入がおこなわれた可能性について指摘している。しかし、この問題は、加筆あるいは挿入として捉えるよりは、むしろ、『日本書紀』成立時における「改刪」という問題として捉えるべきではないのか。日本書紀改刪説は、江戸後期の伴信友〈バン・ノブトモ〉が、すでに唱えているという。森氏の方法論(音韻論・文章論)は、昔からある改刪説の当否を判断する際、重要な役割を果たしうるように思うが、どうなのだろうか。

 なお、森博達氏の著書『日本書紀の謎を解く』(中公新書、一九九九)については、鵜崎巨石氏が、一昨日(五月二七日)、そのブログ上に、本質を突いた解説をおこなっている。すでに、当該書を読まれた方も、まだお読みになっていない方も、一読されることをおすすめしたい。

森博達著「日本書紀の謎を解く 述作者は誰か」

 ところで、先ほど書名を挙げた『聖徳太子伝暦訳解』、『復原聖徳太子伝暦』は、国立国会図書館にアクセスすれば、自宅にいて閲覧できる。本日は、参考までに、『復原聖徳太子伝暦』から、藤原猶雪によって復原された「敏達天皇十年」の原文を紹介しておくことにしよう。ページでいうと、八~九ぺージ。改行は、原本に従っている。なお、「你」の字は、ニンベンに爾という字の代用ではない。ここでは、この「你」の字が用いられている。

十年【辛丑】春二月。蝦夷数千寇於辺境。天皇召群
臣議征討之事。於時太子侍側。竦耳左右。聞群
臣論。天皇近召太子詔曰。汝意如何。太子奏曰。
少児何足議国大事。然今群臣所議。皆滅衆生
之事也。児意以為。先召魁帥。重加教喩。取其重
盟。放還本路加賜重禄。奪其貪性。天皇大悦。即
勑群臣。召魁帥綾糟等詔曰。惟你蝦夷。大足
彦天皇之世。合殺者斬。合赦者放。朕今遵彼前
例。欲誅元悪。於是。綾糟等怖懼乃到泊瀬川面
三諸山而盟曰。臣等蝦夷。自今以後。子子孫孫
用清明心。事奉天闕。臣等若違盟者。天地諸神
及天皇霊絶滅臣等種矣。自此後時久不犯辺。

*このブログの人気記事 2015・5・29

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友田吉之助、「旧本日本紀」の存在を示唆す

2015-05-28 07:53:51 | コラムと名言

◎友田吉之助、「旧本日本紀」の存在を示唆す

 昨日は、国立国会図書館に行って、友田吉之助の論文「日本書記後世改刪説の再検討」(『開学十周年記念論文集』島根大学、一九六〇年二月)を閲覧してきた。この論文は、友田教授の主著『日本書紀成立の研究』(風間書房、一九六九:増補版、一九八三)に収録されており、一度、読んだことがあるが、初出の形で読んでみたかったのである。
 友田吉之助は、一九一二年生まれで、島根大学名誉教授。インターネット情報によれば、すでに故人となっている。友田は、日本書紀の研究者であって、今日、伝わっているものとは別の日本書記(旧本日本紀)が存在したとする説を唱えていた。つまり、日本書記改刪〈カイサン〉論者である。また、日本書記の紀年についても、独自の学説を唱えていたことで知られる。
 友田吉之助という学者が、アカデミズムの世界で、どのように評価されているかは知らないが、私個人としては、その著『日本書紀成立の研究』は、稀に見る名著ではないかと信じている。友田の文章は、論旨が明快な上に、挙証に説得力がある。対立する見解(多くの場合、アカデミズムの世界における多数派)を批判する際も、穏やかな表現に終始しており、一見、論争的でない。しかし、この穏やかな姿勢が、読む者を惹きつけずにはおかないのである。
 百聞は一見に如かずというから、本日は、「日本書記後世改刪説の再検討」の一部を引用させていただくことにしよう。引用は、『日本書紀成立の研究』増補版の第二章から。ページでいうと、五三~五五ページである。
 友田は、ここで、『日本書紀』の敏達天皇紀と『聖徳太子伝暦〈デンリャク〉』のそれに相当する記述とを比較しながら、旧本日本紀が存在した可能性を示唆している。

 ……以下、伝暦と日本書紀との関係について検討を加えてみよう。
 十年春潤二月。蝦夷数千寇於辺境。由是召其魁帥綾糟等。【魁帥者大毛人也】。詔曰。惟你蝦夷者。大足彦天皇之世合殺者斬。応原者赦。今朕遵彼前例欲誅元悪。於是綾糟等懼然恐懼。乃下泊瀬中流。面三諸岳漱水而盟曰。臣等蝦夷。自今以後子子孫孫【古語云。生児八十綿連】。用清明心。事奉天闕。臣等若違盟者。天地諸神及天皇霊絶滅臣種矣。(日本書紀、敏達天皇紀)
 十年【辛丑】春二月。蝦夷数千寇於辺境。天皇召群臣議征討之事。於時太子侍側。竦耳左右。聞群臣論。天皇近召太子詔曰。汝意如何。太子奏曰。少児何足議国大事。然今群臣所議。皆滅衆生之事也。児意以為。先召魁帥【魁帥者大毛人也】。重加教喩。取其重盟。放還本洛。加賜重禄。奪其貧性。天皇大悦。即勑群臣。召魁帥。綾糟等詔曰。惟你蝦夷。大足彦天皇之世。合殺者斬。応原者赦。今朕遵彼前例。欲誅元悪。於是。綾糟等怖懼乃至泊瀬川【長谷川也】。面三諸山而盟曰。臣等蝦夷。自今以後。子子孫孫用清明心。事奉天闕。臣等若違盟者。天地諸神及天皇霊絶滅臣種矣。自此後時久不犯辺。(聖徳太子伝暦、敏達天皇)
 両文を比較してみると酷似している。とくに「召其魁帥綾糟等。」以下は二・三の語句の小異を除けば、全く同文である。このように両者は酷似しているから、両者の間には資料的に親近関係があるに違いない。しかも伝暦と書紀との間に同文が見られるのは、この十年の条のみではなく、敏達天皇紀のみについて見ても、五年・六年・八年・十二年・十三年・十四年の条にそれぞれ同文がある。伝暦は延喜十七年の成立であることが明らかにされているから、伝暦は日本書紀を一つの資料として撰述されたものと思われる。では伝暦の資料として用いられた日本書紀は、現存本であろうか。いま十年の条の両文を比較してみると、伝暦の「天皇召群臣議往討之事。(中略)天皇大悦。即勑群臣。」の文が書紀には見当らない。書紀になくして伝暦にのみある部分の内容をみると、蝦夷数千辺境に寇した際、「天皇は群臣を召して征討のことを議した。時に太子は側に侍して群臣の論を聞いていた。天皇は近く太子を召してその意見を尋ねられた。それに対して太子は、年少なるわたくしは国の大事を議するに足らないが、群臣の議するところは皆衆生を滅すことである。わたくしは先ず魁帥を召して、教喩を加えて重盟を取り、本洛に還して重禄を賜わり、その貪性を奪うことが必要であると考えます。と奏した。」というのである。この太子の奏上は、慈悲の精神を述べたものであるから、あるいは撰述者の創作であるかも知れない。しかし「天皇召群臣議往討之事。(中略)天皇大悦。即勑群臣」の文全体も撰述者の創作であろうか。
 こゝにおいて書紀の文を検討してみると、書紀には「蝦夷数千寇於辺境。由是召其魁帥綾糟等。」とある。蝦夷数千が辺境に寇したことと、その魁帥綾糟等を召したこととの二つの文を「由是」で結合させているのは、余りにも唐突である。「由是」という句は、何かの処置がとられ、それに基づいて魁帥を召したことを意味する句であるから、この上下両文の間には、何かが省略されているに違いない。これを伝暦にひいて見ると、「天皇召群臣征討之事。」以下の文があり、「召其魁帥綾糟等詔曰。」の文が、上の「蝦夷数千寇於辺境。」の文に自然に接続して、無理のない文章になっている。このように見て来ると、現存日本書紀の原拠になったものには、「天皇召群臣議征討之事。」以下の文があったのであるが、(その文が伝暦記載のものと同文であったか否は、明らかにすることはできないが、)現存日本書紀の編纂に際して、この文を省略し、そこを「由是」の句で接続させたため、不自然な文章になったものと解せられるのである。従って伝暦は、現存の日本書紀を原拠としたものではなく、現存の日本書紀と伝暦とは、同一の原拠に拠っているのであり、現存の日本書紀は、その原拠の文の一部を省略しているのである。
 以上の解釈に誤りがないとすれば、現存日本書紀以前に、現存本とほぼ同文の旧日本紀が存在し、この旧日本紀は、現存日本書紀の原拠になったばかりでなく、聖徳太子伝暦の原拠にもされていると言わなければならない。もしそうだとすれば、信友が改刪説の根拠した〔ママ〕伝暦の敏達天皇三年の条の記事も、旧日本紀に存在したものと推測されるのであり、旧本日本紀の存在を推定する一つの根拠たり得ると思われるのである。

 日本書紀、聖徳太子伝暦を引用している部分に、「你」という字があるが、これは原文では、ニンベンに爾である。聖徳太子伝暦を引用している部分に、「貧性」とあるが、これは、あきらかに「貪性」の誤植である。また、「召魁帥。綾糟等詔曰。」とあるのは、「召魁帥綾糟等。詔曰。」の誤植ではないかと思われる。いずれも、そのままにしておいた。【この話、続く】

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饅頭屋から時計屋へ、伊勢崎の井下時計店

2015-05-27 03:51:32 | コラムと名言

◎饅頭屋から時計屋へ、伊勢崎の井下時計店

 尾内幸次郎著・渡辺敦補筆『今昔思い出草』(伊勢崎郷土文化協会、一九六五)を紹介している。本日は、「時報と時計」の後半部分を読んでみよう。ページ数でいうと、一〇〇~一〇二ページ。

 伊勢崎の町に始めて時計屋が出来たのは、およそ明治二十年〔一八八七〕の頃だったと覚えて居ます。此の年は太政官制度を内閣組織に改めた三年目で、今やまさに明治憲法が三年後に制定発布されようとして、自由思想が朝野にみなぎった時代だったのです。処は今の本町三丁目、井下〈イシタ〉時計店のはじまりだった。その以前、この店は立派な繁昌したおまんじゅう屋だった。この饅頭店を営んだのが、今の昭和町から行った平さんだったので、「平さん饅頭」で名の通った店。その頃の言葉で申すとナダイ(名代)のおまんじゅう屋だったのです。この店がよくハヤル上に、店が広すぎるからと、目をつけて、話合の上で若い時計やさんが、前橋から来て間借をした。沢山時計を壁にかけたり、台の上に置いたりして販売を第一とし、破損したものは修繕してもやるのだった。珍らしい商売なので、忽ち買手が集って売れることおびただしい。
 その平さんに娘が一人あって、丁度年格好〈トシカッコウ〉も似合という訳で、この時計屋さんを聟〈ムコ〉にきめ、繁昌する鰻頭屋の方を惜しげもなく廃業して、時計屋の専業になった。その上時計の構造を知り扱い方を覚えるばかりでなく、修繕の作業を学びたいといって、弟子入する者が四方からやって来た。中でも平さんのでど(出所)の昭和町からいった三人は太田、大間々〈オオママ〉、大胡〈オオゴ〉へ分れて開業した。兎に角〈トニカク〉時計屋では井下の店が元祖というわけです。他所〈ヨソ〉へ出あるく人や若い衆は、みな懐中時計を買うのだった。掛時計の方はぜいたくといって、買う人が少かったものだ。
 その後近所の人が寄合って相談の上、井下の時計店へ行って、そのゼイタクな時計を買うことになった。十二人がそろって同じ型の時計を一年払の月賦で買ったのです。店では毎月一箇ずつの代金がはいる。何とそれが一箇十二円だったのです。今の十二円とは違い、昔の十二円は村の小学校の校長さんの給料に相当したものです。今之を米に換算して見ると、四斗五升入二俵の代金に当る。私の家では今もこの時の時計を店先に掛けて使用して居ますが、ほとんど狂いません。
 中台寺の鐘を大正四年〔一九一五〕に栄町の鐘楼へ移して、日に三度鳴らすことになった。昭和十年〔一九三五〕に日吉町へ警察署が新築されて、こゝにサイレンが装置され、二十年足らずの間、鐘つきに精励した鈴木のおばさんが失業した。
 今大ていの家には掛時計がある。又男女老若を問わず、腕時計をアクセサリーと心得て居る。しかし時を守ることは、時の記念日を制定した頃と、大した進歩を見せて居ない。
 時計も鉄砲や大砲と同様に、戦国時代の終り頃から、南蛮人と呼ばれた西洋人が伝えてくれたので、秀吉も家康も之を愛用したというが、私どもが老人から聞いた所では、朝起るのは一番とり二番とりの鳴声を聞いてしたものだった。昼にも又近所の鶏がトキをつくった。その声を聞けばお昼だと知るのだ。又猫の眼のひとみが針のように細くなる時がお昼だといゝ、雨がち蛙が沢山なく時だとか、その他にも色々と昼時を知る方法があったと思いますが今は忘れました。私共は古い事を思い出して今と較べると、丸で夢のようなので、不思議な思を致してばかり居ます。
(附記)お盆の十五日に本町三丁目の井下時計店を訪ねて、聞きましたら、今年〔一九六二〕が丁度時計屋開業八十年に当るという事です。勝山卯之助がこの家へ時計屋を始めた年もはっきりするわけです。尾内〔幸次郎〕翁が九十二ですから、八十年前は明治十五年〔一八八二〕になるといゝます。娘とうの母みさは先夫善兵衛の死後、下植木の小保方氏藤兵衛を後家入〈ゴケイリ〉に迎えた。娘とうには継父です。此人が通称平さんでした。其頃母みさは別に裏屋敷で製糸業を営み女二十人程を置いていたといゝます。明治二十年頃に井下家の聟になって、時計屋専門店になったものでしょう。(渡辺記)

 最後の「附記」は、郷土史家の渡辺敦による補筆。同書巻末の「解説」(執筆・橋田友治)によれば、この本を企画したのは渡辺敦であったが、彼は同書の刊行を待たずに亡くなったという。

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