礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

一国共産主義と国家社会主義

2016-10-31 03:23:11 | コラムと名言

◎一国共産主義と国家社会主義

『日本週報』の第四八・四九・五〇合併号(一九四七年三月二三日)から、岩淵辰雄の「続 敗るゝ日まで 一」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

  〇一国共産主義の実現へ
 然らば、満洲事変から太平洋戦争まで、日本の陸軍を貫いた思想は何であつたか。それは社会主義というよりも、端的にいつて、一国共産主義の思想であり、その実現を企図したものであつた。
 日本の右翼と称する人々が、明治三十年代の黴〈カビ〉くさい愛国心とそのテ口的な行動によつて、国民を恐喝している間に、進歩的な一団の軍人と、その協力者である達識〈タッシキ〉な社会主義者や、共産主義者、並に〈ナラビニ〉マルクス主義理論を信奉する一団の学者、インテリ階級が、軍とスクラムを組むで〈クンデ〉、国家社会主義の形態の下に、実は、一国共産主義の実現を意図して、理念的に軍国主義、侵略主義を裏付け、政策の企画立案に参与し、ジヤーナリズムに於ける宣伝に懸命の努力を尽したのである。彼等は陸軍の中枢勢力と緊密に結びつき、これを支持し、これに理念を授け、更に、これを煽動して、日本の破滅にまで駆りたてたのである。
 勿論、彼等は陸軍固有の思想である帝国主義に同意したのではない。彼等は、寧ろ、事変を利用し、陸軍の有する特殊な地位とその政治力を利用して、彼等の意図する社会革命を合法的に行わんとしたのである。
 彼等の意図する革命とは、いうまでもなく、外に在つては戦争を共産主義国家と資本主義国家の矛盾衝突でなく、資本主義国家の矛盾、帝国主義国家間の衝突の方向に誘導し、国内にあつては、一国共産主義の制度と組織に、日本という国を革新することであつた。
 しかも、彼等は、一度、戦争が終ると、一転して、彼等の持つ民主主義的な要素を以て、平和主義、民主主義の選手として、曽つての戦争の謳歌者、挑発者としての彼等の過失の責任を誤間化して、民主主義日本の立役者たらんとしている。
 その陋〈ロウ〉や悪む〈ニクム〉に余りある。    (つづく)

 最後に、「つづく」とあるが、『日本週報』のこれに続く号は、まだ参照できていない。
 さて、本日、紹介した部分を読んで、いわゆる「近衛上奏文」を連想された読者もあると思う。
 この文章の筆者・岩淵辰雄が、「近衛上奏文」に関与していることは間違いない。「ヨハンセングループ事件」と呼ばれる事件がある。戦中の一九四五年(昭和二〇)四月に、吉田茂(のちの首相)らが、「近衛上奏文」に関与したとして逮捕された事件である。岩淵辰雄も、この事件で、グループの一員と目されて逮捕されている。「近衛上奏文」を実際に執筆したのは、近衛文麿の秘書・殖田俊吉〈ウエダ・シュンキチ〉、あるいは岩淵辰雄ではなかったかと思うが、いま断定は避ける。

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日本の陸軍軍人は左翼思想の所有主で且つ実行者

2016-10-30 05:12:48 | コラムと名言

◎日本の陸軍軍人は左翼思想の所有主で且つ実行者

『日本週報』の第四八・四九・五〇合併号(一九四七年三月二三日)から、岩淵辰雄の「続 敗るゝ日まで 一」を紹介している。本日は、その四回目。

  〇右翼は時代錯誤のドンキホーテ
 過去十数年に亘つた日本の軍国主義、フアシズムの時代を定義して、日本の大方の人達は、軍人とそれに連らなる右翼勢力の跋扈時代と簡単に規定する傾向がある。しかし、その認識には重大な誤りがある。
 日本の右翼団体が、平生〈ヘイゼイ〉、大言壮語して、自ら以て、東洋の豪傑を以て任と為し、固陋〈コロウ〉な帝国主義、侵略主義の素朴な実行を理想として、国体護持と、日本の国と人との優越性を誇張して、常に対外膨脹を鼓吹して来たことは、隠れもない事実である。
 彼等は、そうして軍の意図する侵略戦争を謳歌し、これを合理化し、国民を精神的に戦争に駆り立てた。軍人も、また、彼等の有している日本特有のいわゆる右翼勢力なるものを利用した。その仕方は、彼等の素朴な愛国論を以て、精神的に国民に影響を与えたばかりでなしに、その暴力的な力を利用して、国民を脅迫したのである。
 しかし、満洲事変から支那事変に、そして太平洋戦争への重大な進展の過程に於て、右翼勢力の成し得た役割というものは、実質的には、表面に宣伝せられ、且つ想像されているほど重大なものではなかつた。
 日露戦争当時の、未だ、儒教思想と、封建時代の遺習の抜け切らなかつた時代の日本人ならば、たゞ、対外硬といつただけでも、単純に血を沸かし、魂を躍らせたことであつたであろうが、それから三、四十年の月日を経過して、第一次世界大戦の経験をした後の日本人は、どんなに世界の文化から遅れているとはいつても、いわゆる、右翼と称するものゝ謂うところの頑迷にして粗笨〈ソホン〉な愛国心の宣伝に乗つて躍り出るほど馬鹿ではない。陸軍の軍人も、多分に彼等と連携し、彼等を利用し、たことは事実であるが、その利用の範囲は、彼等の有する暴力的、恐喝的の力の限度であつて、それ以上には及ばなかつたのである。
 十数年間に亘つて、日本に軍国主義時代を現出した処の、日本の陸軍の軍人は、寧ろ、日本の右翼や、一般の人々が考えているほど、保守的な存在でも反動的な存在でもなかった。寧ろ、彼等は右翼に加担するものでなくして、遥かに進んだ左翼思想の所有主で、且つその実行者であつたのである。
 そういう意味からいうと、日本のいわゆる右翼の人々は、陸軍の真相に通ぜず、かえつて、彼等平生の主張、行動であるところ、既に黴〈カビ〉の生えてしまつた、時代錯誤の思想を誇張することが、陸軍に迎合する所以だと、ドンキホーテの様に誤信したのである。滑稽とも、何とも評し様のないことであつたといわなければならぬ。【以下、次回】

 岩淵がこの文章でいう「日本の陸軍」については、故永田鉄山軍務局長が構想し、着手した国家総動員体制を実現しようとしていた、かなり広範な「政治グループ」と置き換えると、理解しやすいように思う。同様に、この文章でいう「右翼」については、その「政治グループ」に操られた「防共護国団」あたりをイメージすると、理解しやすいように思う(今月一五日のコラム参照)。
 岩淵辰雄の「続 敗るゝ日まで 一」は、このあと、もう一節が続いている。

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国内革新のために事変を延長継続する

2016-10-29 05:30:27 | コラムと名言

◎国内革新のために事変を延長継続する

『日本週報』の第四八・四九・五〇合併号(一九四七年三月二三日)から、岩淵辰雄の「続 敗るゝ日まで 一」を紹介している。本日は、その三回目。

  〇太平洋戦争を挑発した理由
 太平洋戦争、即ち、日本の対米英戦は、その支那事変を基盤とし、その延長として誘導くされた。支那事変を不当に延長継続することによつて、日本人をして対米英戦争を不可避と認識せしむる手段に出でゝ〈いでて〉、太平洋戦争を国民の認識の上に合理化することに成功して、日本人の愛国心を戦争に巻き込むだのである。
 近衛内閣が、昭和十六年〔一九四一〕、日米交渉を開始した時に、東條を初めとして陸軍の中枢が、一応近衛の戦争を避けんとする外交方針を認めて、これに協力するかの如き態度を示しながら、その半面で、民間における彼等の協力者はあらゆる手段によつて、その交渉の成功することに反対した。彼等は、それをこういう理論で合理化した。
「……日本の国内革新は、将に〈マサニ〉、完成せんとしている。然るに、日米交渉によつて、その原動力であるところの支那事変が解決したのでは、これまで運んで来た革新の成功を、九仭〈キュウジン〉にして一簣〈イッキ〉に欠くことになる。支那事変は、日本が欲すれば、いつでも解決し得る。せめて、もう少し事変を継続して国内革新を実現、完成せしむべきである……。」
 ところで、こうして陸軍の走狗となつて、軍人と表裏を為して事変の拡大、進展に拍車を掛ける重大なる役割を為したものは、日本革新の理論を振り翳して、国内輿論の誘導に努力したインテリとジヤーナリズムであつた。

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彼らは満洲事変が満洲で止まることを欲しなかった

2016-10-28 01:05:18 | コラムと名言

◎彼らは満洲事変が満洲で止まることを欲しなかった

『日本週報』の第四八・四九・五〇合併号(一九四七年三月二三日)から、岩淵辰雄の「続 敗るゝ日まで 一」を紹介している。本日は、その二回目。

  〇一切は日本陸軍の陰謀
 こゝ十数年に亘つた戦争は、一から十まで、日本の陸軍が負うべきものである。欧洲における第二次の大戦が、ヒットラーに責任があつたように、今次の戦争ほど、欧洲に於ても、日本に於ても、責任の存在の明確なものは、これまでの歴史に於ても珍しいことである。
 勿論、日本の陸軍のなかに在つても、戦争に反対し、戦争を早期に解決しようとして努力した少数の人物がいる。しかし、それらの人々は、陸軍内部からの陰謀によつて、次ぎ次ぎに勢力を失墜し、発言権を喪失し、没落せしめられた。
 それと同時に、陸軍以外のものにして、陸軍と提携し、これと協同して、積極的に事態を推進したものと、消極的に軍の威力に追随して、かえつて軍の力を増大せしむることに役立つたものとがある。何れも、軍と共に責任を分担すべきものである。満洲事変も、支那事変も、そうして陸軍を主動勢力として、陸軍以外の人及び勢力の協同、合力〈コウリョク〉によつて、計画的に起され、一度、事態が起ると、これまた計画的に拡大に導かれたものである。
 満洲事変は、一時、満洲の分野だけで、一応、結論づけられ、解決されそうな事情にあつた。しかし、戦争挑発者は、満洲事変が満洲で止まる〈トドマル〉ことを欲しなかつた。彼等は、満洲から更に事変を拡大する為に、外にあつては戦火の口火を支那に求め、国内にあつては事変の拡大を阻止する人と勢力に対して、叛逆を企て、これを暗殺し、牢獄に閉じ込めた。
 昭和七年〔一九三二〕の五・一五事件から、昭和十一年〔一九三六〕の二・二六事件は、そうして国内に起つた恐怖事件であり、その間の種々なる紛糾は、その為に計画的に行われた陰謀の不祥事件であつた。かくして、一旦、納りかけた満洲事変の燃え残りの火は、新たに搔き立てられて、蒙古に飛んで綏遠〈スイエン〉事件となり、北支に転じて、支那事変の導火線となつたのである。【以下、次回】

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日本の悩みは、これからさき幾年続くか判らない

2016-10-27 03:43:10 | コラムと名言

◎日本の悩みは、これからさき幾年続くか判らない

 先日、五反田の古書展で、『日本週報』の「第四十八―五十号」(一九四七年三月二三日)を購入した。一冊で、「第四十八―五十号」である。つまり、第四八号、第四九号、第五〇号の合併号ということらしい。古書価は、たしか、二〇〇円だった。
 帰ってきて、読もうとして驚いた。綴じられていないばかりか、ページも切れていなかった。A3の紙六枚が、四折りにされ、それが重ねられている状態だった。正確に言うと、表紙(一ページ)から八ページまでと四一ページから裏表紙(四八ページ)までの計十六ページ分を両面に印刷したA3の紙二枚を四折りにしたもの、九ページから一六ページまでと三三ページから四〇ページまでの計十六ページ分を両面に印刷したA3の紙二枚を四折りにしたもの、一七ページから三二ページまでの十六ページ分を両面に印刷したA3の紙二枚を四折りにしたもの、都合六枚の紙が、折られて重ねられているだけの冊子だった。
 秋の夜長に、そうした冊子のページを開きながら読むというのも、なかなか趣があった。本日は、同冊子から、岩淵辰雄の「続 敗るゝ日まで 一」を紹介してみたい。

続 敗るゝ日まで 一
 ――一国共産主義と軍との合作――
         岩 淵 辰 雄
  〇敗戦は有史以来の大変革
 日本を破滅に導いたところの、今次の大戦争、それは昭和十二年(一九三七)七月七日に始まる支那事変から、昭和二十年八月十五日、日本の無条件降服に終つた太平洋戦争まで、実に八ケ年の長期に亘つたものであるが、もし、これにこの戦争のそもそもの発端を為したところの昭和六年(一九三一年)九月十八日に勃発した満洲事変を加えるならば、更に六ケ年を加えなければならぬ。これを通計して実に十四ケ年の長きに及ぶものである。
 ヨー口ッパや、支那では十年、二十年、或いは三十年に亘つた戦争は、決して、珍しくない。しかし、日本では十一ケ年の長きに亘つたものは応仁の乱以外にない。
 更に、戦後における国民の困苦、これからの再建、過去の伝統と意識からの脱皮、反省という、終戦を機会として現に日本の国内で進行しつゝある、革命的な事態を考察の中〈ウチ〉に加えると、日本の悩みは、これからさき幾年続くか判らない。
 応仁の乱は十一年の長きに亘つた。が、その実体は京都を中心とする、足利幕府を繞る権臣の政権争奪戦であつた。
 期間の長きに比較しては、規模は小さかつたが、幕府を中心とする権臣の政権争奪という、事変そのものゝ本質が齎らした〈モタラシタ〉ところの国内の秩序の紊乱〈ビンラン〉、綱紀の頽廃、道徳の衰微は、やがて、日本全国に元亀、天正の戦国時代を現出した。日本の歴史において、革命とか、維新とかいう言葉で記憶されている時代を求めると、一応、大化の改新と明治維新を数えるのを常識としているが、徹底的に過去の伝統と秩序を無視し、これを蹂躙〈ジュウリン〉した事実からいうと、大化の改新も、明治維新も、到底、応仁の乱以後の元亀、天正の戦国時代の転変に比すべくもないのである。
 皇室はあれども、殆どなきに等しく、皇居は京童べ〈キョウワランベ〉の遊び場と化し、天皇は辛うじて室町幕府の一室に食客の儚ない〈ハカナイ〉日を送られるという、悲惨とも、何ともいいようのない御境涯に在らせられた。堂上の公卿は近衛、九条、一条等の五摂家〈ゴセッケ〉を初めとして、何れも流離して四散した。伊勢の宗廟は、皇室からのお賄が絶えたので、祭祀の資に窮して、全国に講を作つて寄捨〔ママ〕を求めざるを得なかつた。平安朝以来、地方から蜂起した武家時代の大々名は、次ぎ次ぎに家臣の為に権力を奪われ、家を乗つ取られて、没落して行った。家柄も、家系もない一介の斯波〈シバ〉家の代官の子から成り上つた信長が、中原に乗り出して覇を称するかと思うと、尾張中村の百姓の子である秀吉が天下を統一して、桶屋の小僧から成り上つた福島市松が、左右衛門大夫〔ママ〕正則となって芸州広島で六十万石の大大名になるという始末で、氏〈ウジ〉も素性も、この一期〈イチゴ〉を境にして一変してしまつた。
 飛鳥川、淵瀬〈フチセ〉と変るどころの騒ぎではなかつたのである。
 今度の新憲法で、貴族院というものはなくなり、華族というものも廃止されたが、しかし、これらの貴族、華族と称するものも、実は、応仁の乱以後、元亀、天正の革命期は腕一本、足一本の働きで成り上つたものゝ子孫である。もつとも中には堂上の公卿〈クギョウ〉として、大化の改新以来の家柄である藤原氏の一族があつたともいえるけれど、内容的に見ると一千余年の歴史は、その内容を疑問の多い変色に包むで〈ツツンデ〉いる。
 こうして、今や、敗戦後の日本は、かつて日本の歴史が経験した、応仁の乱から以後の元亀、天正の変革にも等しい、一大変革の途上に晒されているということが出来る。過去の日本を葬り去つて、新たな日本への発程に上つている。が、それはいうべくして、実行は容易ならざる苦難の道である。
  〇未だに実相を知らぬ国民
 われわれ日本人は、戦争中の二十年に近い苦難に加うるに、更に、戦後の新しい日本への脱皮の為の苦難の道程に立つて、これからさき幾年、恐らく、十年、二十年、或はそれ以上の長きに亘つて、かつて、われわれの祖先が元亀、天正の時代に経験した以上の悩みを悩み抜かなければならぬ運命におかれている。
 われわれが、その試練に耐え得るや、否や、これが日本人に与えられている現在の課題である。
 ところで、こういふ重大な運命を日本に招来し、誘導したところの戦争は、どうして起つたのであろうか、ということになると、日本の何人〈ナンピト〉も、未だ、その真相を真剣に究明しようとする努力をしていない。
 アメリカ軍の日本占領によつて、概略の事実は連合軍の手によつて調査され、東京裁判では、連合軍の検事団によつて、あらゆる証拠が提出されて、戦時中の日本の秘密が次ぎ次ぎに明るみに出されているが、日本側の弁護人は、逆に、日本の戦争時代の行為を合理化しようと努力している。
 それは弁護士という職責上、職務に忠実な行き方かも知れないが、しかし、過去の日本を合理化することが、真実の事実の上に立つて立証されていることならば、それは大に証拠立てられることが至当であるが、もし、それが、たゞ、弁護の為の弁護であつたなら、日本の過去に対する反省を歪曲し、正しい認識を曖昧にし、将来に対する日本人の起ち上りを誤らすものになるであろうことを怖れざるを得ないのである。寧ろ、われわれ日本人は、この一大変革の関頭〔わかれめ〕に立つて、日本人自ら過去の誤りを訂正し、反省し、振りすてるべきで、決して、その為に怯懦〈キョウダ〉であつてはならないと思う。
 これまで、多くの日本人の戦争に対する考え方は、内外の情勢の必然的な推移によつて発展したものだとする結論に傾いていたようである。しかし、果して、そうであろうか。筆者は断じて、否、であると考える。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2016・10・27

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