礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「戦ふ科学者」荒川清二医学士と玄米食

2015-01-31 05:53:12 | コラムと名言

◎「戦ふ科学者」荒川清二医学士と玄米食

 昨日の続きである。月刊誌『富士』の一九四四年(昭和一九)一月号から、佐藤通次のエッセイ「戦ふ科学者」を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日紹介した部分に続き、改行して次のようにある。

 荒川〔清二〕君は、昭和十二年〔一九三七〕に大学を出て、伝染病研究所に入ることになりましたが、こゝでは新人の人には俸給を出しませんので、元々豊かでない同君は、はたと生活の問題にぶつつかりました。ところが、日本文化協会で研究生を募集してゐることを知り、こゝに応募したところ幸に合格して、その研究生にして貰ひ、研究費が得られることになりました。そこでは、原則として、一週間に一回集会に出なければならないのですが、伝研〔伝染病研究所〕の仕事に打込んでゐると、どうしても月一回くらゐしか出席出来ません。真面目な荒川君は、協会の方をいゝ加減にやつておいて、給与だけ受けることを甚だ心苦しく思つて、先輩に相談に行きました。するとその先輩は、それなら伝研の勤めだけにして、傍ら診察をしたらどうか、その口なら僕が心配してやつてもいゝ、と言つてくれたさうですが、荒川君の気持としては、自分の生活のために内職をやつては、天子様からお預りしてゐる職務を忽せ〈ユルガセ〉にすることになつて、洵に畏れ多い。といふのでその方は辞退しました。
 幸にして既に伝研からは月給五十五円を頂くやうになつてゐたので、これは、五十五円でお前はやつて行けといふ天子様の思召し〈オボシメシ〉なのであるから、これで御奉公して行かうと心に誓ひました。その時、頭に浮んだのは、学生時代に、岐阜県の正眼寺〈ショウゲンジ〉といふ禅宗のお寺で、修行をした折のことです。
 この寺は、全国でも一番戒律のやかましい所で、御飯は全部玄米、それに朝は大根葉〈ダイコンバ〉を刻んだものがつき、昼は沢庵、夜は沢庵の外にお汁といふ極めて簡素な食事です。この流儀でやれば、五十五円で食へないことはない、といふ考へで、玄米食を始めたのです。
 荒川君は、研究所の仕事に没頭すると、早朝から夜は九時、十時まで研究室で過します。従つて飯を炊きに家〈ウチ〉に帰る時間がありません。そこで主任の矢追〔秀武〕博士に、研究所の瓦斯で御飯を炊くことを願ひ出ました。すると先生は笑つて、そんなにむづかしいことをいふならば、研究所の水でも私用には飲めぬぢやないか、一向差支へないから使ひたまへといはれ、非常に嬉しかつたといひます。かうして研究所の瓦斯で玄米を炊くことを始めました。これによつて更に都合のよいことには、残つて仕事をしてくれる人達にも夕飯を上げて一緒に食事が出来るので、皆の気持が親密になつて仕事の上にも好結果が得られるのでした。しかしあくまでも律儀な同君は、研究所の瓦斯を使はせて貰ふからには、同時に玄米の炊き方、玄米食の研究をもやつて、私用に使ふことを公のために役立てようと志したのです。それから従来のカロリーとか、ビタミンとか、栄養学上の諸問題にも、研究の手を延ばしたのです。
 玄米食の功徳
 玄米食をやつてみて、荒川君はいろいろ大きな発見をしたのですが、先づ第一に、気力の出ることです。それまでは午後三時頃になると、昼食〈チュウジキ〉をとつてゐるにもかゝはらず、どうも腹が減つて仕事の能率が上がらない。或は睡く〈ネムク〉なるのですが、玄米食にしてから、三時頃から頭がすつきりと冴へ、体の具合がよくなつて来たさうです。夜も今までは晩飯を食べると、気力が抜けてしまつたのが、玄米を食べ始めてからは、すつとなると申します。【以下、次回】

 佐藤通次にとって、荒川清二医学士は、デング熱の研究者であるが、同時に、玄米食の実践家でもあった。むしろ佐藤は、後者としての荒川医学士を「戦ふ科学者」として位置づけようとしているらしい。
 荒川清二医学士については、まだ詳しくは調べていないが、インターネット上の情報によると、戦後は、医学博士として東京大学医科学研究所に在籍していたもようである。東京大学医科学研究所というのは、伝染病研究所の後進である。
 このエッセイは、残りがまだ一ページ分ほどあるが、この紹介は明日。

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デング熱は敵兵を苦しめる武器になる(佐藤通次)

2015-01-30 05:40:11 | コラムと名言

◎デング熱は敵兵を苦しめる武器になる(佐藤通次)

 書棚を整理していたら、古い雑誌が出てきた。大日本雄弁会講談社が発行していた月刊誌『富士』の一九四四年(昭和一九)一月号(第二〇巻第一号)である。
 その中に、「戦ふ科学者」というエッセイがある。執筆しているのは、佐藤通次〈ツウジ〉(一九〇一~一九九〇)。佐藤通次はドイツ語学者で、『岩波独和辞典』(一九五三年初版、一九七一年増補版)の共著者のひとりである。一方で彼は、「皇道哲学」を説いた右派の思想家としても知られている。特に戦中においては、オピニオンリーダーのひとりとして、少なからぬ影響力を発揮していたようだ。
 本日は、そのエッセイ「戦ふ科学者」の前半を紹介してみたい。

☆★☆ 戦ふ科学者 ☆★☆   佐藤通次
 敵を圧倒する業績
 大東亜戦争は今や科学戦正に酣〈タケナワ〉です。敵米英は科学者を総動員して、特にアメリカの如きは研究室を兵器の母胎として、挙げて戦争に必要な発明研究にふり向け、やつきになつてをるやうです。わが国でも、各方面の学者なり、技術者なりが、渾身の努力を傾けて研究に従事し、敵を圧倒する輝かしい業績を着々現はしてゐることは、洵に〈マコトニ〉心強い次第であります。私が現に見聞した所によつても、例へば、医学の方面ではデング熱研究の素晴しい業績があります。
 デング熱治療に成功
 南方作戦が始まつてから、皇軍の中にもデング熱にやられるものが続出しました。日本の医学界、特に伝染病研究所では、一時〈イットキ〉も早くデング熱を征服したいものと考へたのですが、今まで国内には患者が居なかつたので、手のつけやうがありませんでした。
 ところが程なく、幸か不幸か、大阪に一人の罹病者が発生したといふ知らせがあつたので、伝研〔伝染病研究所〕の或る若い学士が、矢追博士の命で早速大阪にかけつけました。そして、矢追博士の薫陶を生かして、文字通り不眠不休で病原菌の検索、治療法、予防法の研究にとりかゝりました。彼は忽ち病原菌をつきとめ、治療、予防に必要な血清療法の端緒をつかむことに成功したのです。研究にかゝつてからそれが成功するまでの間が約半ケ年、これは世界の学界にも例のない超短期間の記録的のものだつたさうです。
 敵恐怖の武器
 デング熱は、マラリヤと並び称される熱帯病で、この病気にかゝると四十度内外の高熱が出て、頭通がし、一旦途中で少し熱が下つて、また上がるといふ経過をとり、二、三日して熱が下がると、体に紅いぶつぶつが現れます。また手足や腰の関節がひどく痛むのが特徴で、熱が下つても体がだるいことは相変らず続くのです。『デング』といふのは、西班牙〈スペイン〉語の伊達者〈ダテモノ〉といふ言葉から出たものださうで、いつまでもふらふたして一人前になれないといふ所から来てゐるのださうです。
 外国の学者が研究しても成功しなかつた一つの理由は、この病原は、人間以外には本当に罹る実験動物がないといふ厄介な病気であることも挙げられませう。ところが昭和十八年〔一九四三〕再び阪神地方にデング熱が流行したので、この学士は師矢追博士と共に逸早く大阪に赴き、わが国初めての血清療法の人体実験を試みました。そして自らも病気に罹つて、貴重な試験台ともなつたのです。その結果、この療法が高熱、苦痛、食慾不振を解消する著しい効果があることが証明され、先頃学会に発表せられたのです。
 これによつて南方戦線に活躍する皇軍兵士を、デング熱といふ目に見えぬ敵から護ることが出来るわけです。のみならず、若し細菌兵器を用ひてよいといふことなら、ソロモン、ニユーギニア方面に蠢動してゐる何十万といふ敵兵を、全部デング熱で苦しめることさへも出来る恐ろしい武器となり得るわけです。
 頭の下るこの心構へ
 この研究を完成した学士は、荒川清二君といふ三十歳を出るか出ないくらゐの医学士で、この人の生活をみると、まつたく戦ふ日本の学徒の典型といふ感じがします。【以下、次回】

 当時の学者の文章としては、平明で読みやすい部類に入ると思う。文中、「矢追博士」とあるのは、細菌学者の矢追秀武〈ヤオイ・ヒデタケ〉(一八九四~一九七〇)のことである。「戦ふ科学者」荒川清二学士については、次回、述べる。

 筆者の佐藤通次は、「デング」の語源にも言及しているが、ウィキペディアにも、語源についての説明はない。
 この文章を読んで最も驚いたのは、デング熱の病原菌は、細菌兵器に使えるという発想を披露していることである。素人の発想として、一笑に付すことは断じてできない。なぜか。もし軍部が、ひそかにそういう細菌兵器を構想していたとすれば、これは重大な秘密漏洩になる。もし、考えていなかった場合でも、この文章が米英の目に触れた場合、軍部は国際法に違反する細菌兵器に関心を持っているらしいという疑念を抱かせることになりかねない。いずれにしても、『富士』のような、誰でもが手にとれる雑誌で、口にすべき内容ではない。

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小林篤郎『物質の謎』再版(1946)の「序」

2015-01-29 04:22:38 | コラムと名言

◎小林篤郎『物質の謎』再版(1946)の「序」

 今月二七日に、小林篤郎著『物質の謎』(大雅堂、一九四四年八月二〇日初版)の「序」を紹介した。
 実は、この本には、戦後に出た「再版」が存在する。本文は、一字一句、変わっていないが、「序」は、まったく別の文章になっている。初版にあった「『ぼくらの文庫』刊行のことば」は、削られている。表紙の刷色にも、若干の相違がある。再版は、一九四六年(昭和二一)三月二〇日発行、売価金六円、発行部数は不明。
 本日は、その再版の「序」を紹介してみたい。

 
 日本は今、苦しみに喘いでゐます。悲しみのさ中にあります。誰もが憂鬱で気難しく、ともすれば取止めのない愚痴に耽つたりします。是ではならない筈です。誰にでも分つてゐます。然し今、声を大にして頭の切替を叫び、聖人ぶつたお説教をしたくありません、誰にその資格がありませう。むしろ、悲しみに徹し、苦しみに直面せよと言ひたいのです。口先だけで立派なことを述べたり、力も考へも足りない人がそれを粧つたり、他人に強制したりする事が如何につまらないことであるか、嫌と云ふ程味はゝされたではなかつたででせうか。偽りと無智の上に築かれた努力が如何に果無い〈ハカナイ〉ものであるかを、血によつて教へられたのではないでせうか。そして大きな悲しみと苦しみに徹した者にこそはじめて立上りの勇気と反省が与へられるのではないでせうか。
 さうです。是からの日本人は別して〈ベシテ〉聡明でなければなりません。そして誠実でなければなりません。聡明とは単に学歴を増やす事ではなく、ほんたうに身についた智慧の事であり、誠実とは他人に対してよりも先づ自分に対するものであると思はれます。
 此の書物は未来ある純真な少年少女諸君に献げたものです。こんな小さな書物でも、皆さんの「科学の眼」を養ふのに役立てばといふ希望を以て書かれたものです。我々を取り囲む一見つまらない種々雑多の出来事の内に、どれだけ意味深い真理が隠されてゐるか、又それを探り出すには実際どの様にするかといふ事に就いて、出来るだけ数式を用ひないで気軽にお話した積りです。
 科学は皆さんの周囲にあります。皆さんの毎日の生活にあります。神秘と現実とは背中合せなのです。私達は普通是を見逃してゐるのです。それを見抜くには、素直な心、鋭い眼を養へば良いのです。言葉や形に騙されてはいけません。実際、一滴の水、一瞬の光にも驚く許りの美しさと秩序とを含んでゐます、その中には数学もあり、物理学もあり、化学もあります、たゞ、私達が学校で習つた時の様にそれ等はばらばらではなくて一つに融け込んでゐます、是こそほんたうの姿なのです。敏感な心の持主ならば自然の奏でる妙なる〈タエナル〉音楽さへ聞き取る事が出来るでせう。一生かゝつても解き尽せない「謎」の面白さに惹きつけられるでせう。
 反省してみれば皆さんを教へて来た勉強の方法にも不充分な点が可なりあると思ひます。余りに教科書中心主義で字句の解釈に堕したり、実験本位を唱ヘながら、実際の設備は言ふに堪へない程貧弱だつたり、理詰に過ぎて生々とした心の動きと無関係だつたり。例へばこんな事はなかつたでせうか。数学の時間が始まつて約三十分、そろそろ悪太郎共は退屈を感じ初めてゐます。突然、黒と黄とのだんだらに染め抜いた粋な蜂が飛び込んで来ました、凡そ「墜落」などゝ云ふ事からは縁の遠い軽快な飛行振り、一体どの様にして蜂は翔べるのだらうか。一瞬誰でもかう考へます。併し次の瞬間、先生の恐い眼が皆の心を「数学」に引戻します、折角の自発的な素直な疑問も答へられないまゝに終ります。悪太郎とて感ずるのは同じです、誰かその素直さを賞めて自発的な心の動きをのばしてやる人はゐないものでせうか。
 誰もが驚きの心を持つてゐます、謎を解きたい、知りたいと熱望します、何故は何故を呼び、徹底的に理解を要求します。それは結局、物の内部はどうなつてゐるか、色々な物の性質はその内部の仕組とどの様な関係にあるのかといふ事に帰着します。著者が勇を振つて筆を手にしたのはこの様な知識をもつと多くの人々に親しみ易くしたい為です。スペクトルとか電子とか云ふ言葉がとび出して来るので一寸難しさうに見えますが、それはラヂオとか電気とか云ふのと同じ様に馴れゝば何でもない事です。尤も、茲に記した事柄全部を記憶して戴きたいのではなく、素直な疑問と、ひいては限り無い真理を追い求める熱情とを願つてゐるのです。そして皆さんの内一人でもこの自然の真理に打たれ、聡明への道へ一歩踏み出されたならば著者の幸ひは是に過ぎるものはありません。
 昭和二十年十二月   京都北白川にて   小 林 篤 郎

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湯川秀樹の中間子理論を少年少女に紹介(1944)

2015-01-28 05:16:17 | コラムと名言

◎湯川秀樹の中間子理論を少年少女に紹介(1944)

 昨日の続きである。「ぼくらの文庫」の一冊、小林篤郎著『物質の謎』(一九四四)を紹介している。
 同書の構成は、序、第一章~第二六章、結び、用語解説、というようになっている。その第二六章は、湯川秀樹博士(一九〇七~一九八一)の中間子理論の紹介である。本日は、これを紹介してみよう。

 二六、日本の誇、中間子の予言
 原子核の中からは、陽電気を帯びた陽子と、電気を帯びない中性子が飛び出します。その他色々な理由もあつて、総ての原子核は、陽子と中性子との集りで出来上つてゐると考へられてゐます。
 ところが電気を帯びてゐない中性子と、陽電気を持つてゐる陽子とは、どうして原子核を作つてゐるのでせうか。そこには引きつけ合ふ力はないやうにも思はれます。
 これは中々難かしい問題です。
 我が国の湯川博士に、原子核の中には、電子の二百倍位の目方をもつた、中間子と云ふものがなければならない。陽子と中性子とは、この中間子をやり取りして、互に結合してゐるのであると発表されました。
 陽子や中性子は電子の千八百倍ほどの目方を持つてゐます。これに対して、二百倍ほどの目方を持つものを、中間子と呼ぶやうになつたのです。中間子は正または負の電気をもつ事が出来ます。
 陽子と中性子とは、原子核の中でたゞ引きつけ合つてゐるのではないやうです。中性子が陽子になつたり、陽子が中性子になつたりしてゐるのです。陽子が中性子になる時には、陽電気を帯びた中間子をほうり出します、中性子がそれを受取つて陽子になります。また中性子が陽子になる時には、陰電気を帯びた中間子をはうり出し、それを他の陽子が受取つて中性子となります。このやうな複雑な事が、小さい原子核の中で起つてゐると考へねばならないのです。
 湯川博土の中間子に就いての発表があつて、二年ほど経つてから、宇宙線を研究してゐる際に、中間子は霧函〈キリバコ〉の実験によつて発見されました。世界の学者はみんな驚嘆しました。私達は、どこまでも進んで止まない、学問の奥深いのに驚くと同時に、日本人の頭について深く考へさせられるのであります。

 文中、「中間子は霧函の実験によつて発見されました」とあるのは、一九三五年(昭和一〇)のアメリカの実験物理学者・アンダーソンによる中間子(ミュー中間子)の発見を指しているようだが、アンダーソンの名前を出さなかったのは、「戦中」という事情があったからと思われる。ただし、このとき、アンダーソンが中間子と考えたものは、のちに、中間子ではなかったことが判明し、今日では、ミュー粒子(ミューオン)と呼ばれているという。ちなみに、湯川博士の中間子理論の正しさが確認されたのは、戦後の一九四七年(昭和二二)のことであった。
 湯川秀樹は、すでに一九三四年(昭和九)に「中間子理論」の構想を発表し、一九四三年(昭和一八)には、文化勲章を受章していた。したがって、一九四四年(昭和一九)に出たこの本の中で、著者が湯川秀樹の中間子理論を、「日本の誇」として紹介していることに、何の不思議もない。むしろ著者は、湯川秀樹の中間子理論というものを、少年少女にわかりやすく紹介したいがために、この本を書いたのではなかったか。

*このブログの人気記事 2015・1・28

 

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小林篤郎『物質の謎』(1944)の「序」

2015-01-27 05:49:13 | コラムと名言

◎小林篤郎『物質の謎』(1944)の「序」

 昨日の続きである。戦争末期、京都の大雅堂から「ぼくらの文庫」という叢書が刊行されていた。本日は、その一冊、小林篤郎著『物質の謎』(一九四四年八月二〇日、初版二〇〇〇部)の「序」を紹介してみたい。国立国会図書館は、同書を「ぼくらの文庫」の第五冊に位置づけているが、その根拠はハッキリしない。

 
 物の考ヘ方も感じ方も新鮮で弾力のある少年少女諸君に此の書を贈ります。茲に記した話は一口に言へば、いろんな物の内部はどうなつてゐるかど云ふ事と、それが色々な物の性質にどの様に関係してゐるかと云ふ事を述べたものです。私達は毎日の生活でいろいろな出来事にぶつかり、沢山の物に囲まれてゐます。電車は走り、飛行機はとびます。太陽は輝き、風は唸り〈ウナリ〉ます。毎朝水を飲み空気を吸います。総ては当然の事であつて何の不思議も感じません。然し、一歩突き進めて考へて見ると、判らない事や不思議な事ばかりです。電気が流れるといふのはどう云ふ事だらうか、金属の中はどうなつてゐるのか、塩が水に溶けるとどうなるのか、かう考へて来ると仲々難しいのです。科学は一歩一歩それ等の謎を明らかにして行きます。又明らかにしようとしてゐます。 そして考へれば考へる程此の世の中の意味深いこと、美しくて秩序のある事に気付くのです。これを味はつた事のない人はほんたうに気の毒だと言ふ外ありません。
 日本は今、国を賭して戦つてゐます。深く考へ、強く実行しなければならぬ時です。わけても科学と工業とは是が非でも発展させねばなりません。それが私達のつとめでもあり、悦びでもあります。而もこの事は生やさしく出来るものではないのです。一体科学や工業の世界は単に学者や技術者だけの力で動いてゐるのではありません。皆さんと同じ年齢の少年少女が沢山に工場で働いてゐます。どんどん複雑な仕事をして美しい品物を作つてゐます。其他にも仕事の方針をきめたり、予算を許可したりする人々も間接に仕事をしてゐる訳です。考へる人、図をかく人、造る人、運ぶ人、皆が分業で仕事を受持つてゐます。もしこれ等の人々が全力をこめて助け合つたならどんなに素晴らしい事でせう。総ての仕事の根本には熱情がなければなりません。理解がなければなりません。言ひ換へれば一般の人々の科学に対する愛が、工業に対する理解が、其の国の科学や工業を動かしてゐるのだと思ひます。此の事は科学の歴史を繙けばよく判ります。
 小さい時から、深く考へ、強く実行し癖のついた人々が、科学の世界を動かす様になつたら、どんなに素晴らしい事でせう。この小さな書物が、賢くて感じの鋭い皆さんの心の奥にある、智慧の宝を抽き出すきつかけとなるならばどんなに楽しい事でせう。
 こんな積りで私はこのお話を書き綴りました。たゞこの本にある謎の答だけを憶えて貰ひたくはありません。それよりも、科学はどの様にして謎を解いて行くのか、又その結果が実際の事柄と、どういふ繋がりにあるのかと云ふ事に注意して戴きたいのです。私は余りに慾張つて、多くの事を書き過ぎたかも知れません。然し、ゆつくりと落着いて読んで戴けば、結局、私の心と皆さんの心とは通ずる事と信じます。
 船を好み絵を愛した亡き弟を偲びつゝ
 皇紀二千六百四年  北白川にて   小 林 篤 郎

*このブログの人気記事 2015・1・27

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