礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

拷問・断獄に近き糺問等、致すまじき事

2017-04-30 03:55:15 | コラムと名言

◎拷問・断獄に近き糺問等、致すまじき事

 昨日の続きである。昨日は、一八七四年(明治七)の新潟県「捕亡吏心得書」を、ほぼ原文に近い形で紹介した。
 本日は、これに句読点、送り仮名、濁点を補い、振り仮名、注釈などを付し、もう少し読みやすい形にして紹介する。

捕亡吏〈ほぼうり〉心得書
   第一條
各大區捕亡吏ハ、其ノ區内犯罪ノ者ヲ搜捕〈そうほ〉スルヲ職トシ、都テ〈すべて〉縣廳ノ趣意ヲ旨トシ、取締所ノ差図〈さしず〉ヲ奉ジ、區内ノ諸役人、勤惰正邪アル顕然タルニ於テハ、封書ノ儘〈まま〉、本縣及ビ取締所へ報告スベキ事。
   第二條
捕亡吏二人ニテ一大區宛〈ずつ〉受ケ持チ、右二人ノ内一人宛、間断ナク持チ區ヲ巡邏シ、半月ヲ以テ交代スベキ事。
   第三條
持區〈もちく〉巡邏〈じゅんら〉ノ節、一小區又ハ二小區毎ニ〈ごとに〉宿所一ケ所宛、相定メ、其ノ取締所へ届ケ置キ、戸長・用掛〈ようがかり〉へモ通達致シ置クベキ事。
   第四條
持チ區巡邏中、予メ〈あらかじめ〉各小區宿所〈しゅくしょ〉へ到着ノ日ヲ定メ置キ、余義〔余儀〕ナキ事故アルニ非レバ〈あらざれば〉、右到着ノ日ニ違フ〈たがう〉間敷〈まじき〉事。
   第五條
持區巡廻中、強盗・窃盗・人命・放火・貨幣擬造〔偽造〕行使及徒党ヲ謀ル重犯ノ者アル時ハ、自身召捕〈めしとり〉可申〈もうすべく〉、若シ〈もし〉手余シ〈てあまし〉候ノ強賊〈きょうぞく〉ニ候ハバ、臨時、人ヲ雇フテ捕縛〈ほばく〉シ、本縣或ハ取締所へ差シ出シ、尤モ其ノ次第、戸長へ申シ入レ置クベキ事。
   第六條
局騙〔かたり〕・掏摸〈すり〉・博徒・浮浪等、都テ惡業ヲナス風体〈ふうてい〉ノ者アルトキハ、問ヒ糺シ、罪跡顕ハルル者ハ、縛シテ〈ばくして〉縣或ハ取締所ヘ護送シ、罪跡ナクシテ応答明白ナルモノハ、放遣シ、都テ區内ノ者ニ非ズシテ胡乱〈うろん〉ナル者ハ、持區中ニ徘徊為致間敷〈いたさせまじき〉事。
 但シ、乞食ハ戸長ト謀リ、無籍ハ縛シテ縣廳へ差シ送リ、他管轄ノ者ハ、都テ縣廳或ハ取締所へ差シ送ルベキ事。
   第七條
闘争・乱暴等ノ所業見聞ニ及ブ時ハ捕押ヘ〈とりおさえ〉、其ノ區戸長ト謀リ、時宜ニヨリ縛シテ、縣廳或ハ取締所へ差シ送ルベキ事。
 但シ、戸長不在ノ節ハ、其ノ地用掛ニ謀ルベシ。
   第八條
第五條ニ記スル所ノ犯人、他ノ區内ニ在ルヲ聞知〈ぶんち〉シ、他區捕亡吏ヘ報告シテ機会ヲ失ヒ犯人逃走ノ憂〈うれい〉アル時ハ格別、其ノ他ハ其ノ區捕亡吏ヘ報告シテ捕縛セシメ、都テ持區外へ出テ捜捕致ス間敷事。
   第九條
第五條ニ記スル所ノ犯人、其ノ持區内ニ在リ、他區捕亡吏ヨリ報告ヲ得ル時ハ、直ニ〈ただちに〉捕縛、縣廳或ハ取締所ヘ護送シ、都テ非常ニアラザレバ、他區捕亡吏及ビ雇人〈やといにん〉等ノ力ヲ借ルベカラザル事。
   第十條
都テ犯人ヲ護送スルハ、戸長若クハ〈もしくは〉其ノ用掛ト謀リ、例規ニ照準シ、雇人ヲ以テ護送スベキ事
   第十一條
都テ犯人ヲ搜捕スルハ、其ノ持區中ニ限ルト雖モ〈いえども〉、若シ〈もし〉臨時、縣廳及ビ取締所詰等、内官ノ命アル時ハ、區外へ出テ搜索捕縛スルモ妨〈さまたげ〉ナキ事。
   第十二條
犯人ヲ搜捕スルヲ職トナスト雖モ、拷問・断獄ニ近キ糺問〈きゅうもん〉等、致ス間敷事。
   第十三條
持區内巡邏ノ旅費ハ、等級ノ高卑ニ拘ハラズ、一日金二十五銭ヅツ支給スベキ事。
   第十四條
持區内人民ハ不及申〈もうすにおよばず〉、都テ懇切実直ニ接待シ、毫モ〈ごうも〉威権ケ間敷〈いけんがましき〉儀、致ス間敷〈まじく〉、且、訴訟其ノ他、一切分外ノ事ニ關係スベカラザル事。
右、明治六年定ムル所ニヨリ、更正増補候條〈そうろうじょう〉、遵守可致〈いたすべき〉者也。
 明治七年第十二月   新潟縣令楠本正隆〈くすもとまさたか〉

 以上の「読み」は、あくまでも、礫川案であって、読み間違えている箇所、ヨリ適切な読み方がある箇所などがあろう。お気づきの点を、ご指摘いただければ幸いである。
 さて、上記「捕亡吏心得書」については、当時の警察制度の研究を踏まえた上で、さらに解説を加えるべきところだが、時間的にも能力的にも、それが許されない。あくまでも今回は、「資料提供」にとどめさせていただきたい。

◎礫川ブログへのアクセス・ベスト50(2017・4・30現在)

 

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
5位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
6位 17年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
7位 17年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
8位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
9位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
10位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表

 

11位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
12位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
13位 17年3月11日 教育者は最も陰湿なやりかたで人を殺す
14位 17年2月18日 張り切った心持は激しい憤激に一変した
15位 17年1月4日  東京憲兵隊本部特高課外事係を命ぜられる
16位 17年4月29日 明治7年(1874)の新潟県「捕亡吏心得書」
17位 16年8月14日 明日、白雲飛行場滑走路を爆破せよ
18位 16年12月6日 ルドルフ・ヘスの「謎の逃走」(1940)
19位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
20位 17年4月14日 吉本隆明の思想はヨーロッパ的な理性の基準からはずれている

 

21位 17年2月26日 牧野伸顕・吉田茂・麻生和子・麻生太郎
22位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
23位 15年8月6日 「親独派」木戸幸一のナチス・ドイツ論
24位 17年3月15日 今からできる安倍首相の危機管理
25位 16年8月15日 陸海軍全部隊は現時点で停戦せよ(大本営)
26位 16年1月15日 『岩波文庫分類総目録』(1938)を読む
27位 15年8月15日 捨つべき命を拾はれたといふ感じでした
28位 16年12月15日 イー・ザピール「フロイド主義、社会学、心理学」
29位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
30位 17年1月3日 日本は横綱か、それとも十両か

 

31位 17年3月9日  森友学園問題から見えてきたもの
32位 17年3月17日 「奇想天外」は、中国語では「異想天開」
33位 17年1月2日 佐川憲兵伍長を呼び出した下士官すら特定できない
34位 16年8月24日 本日は、「このブログの人気記事」のみ
35位 17年1月6日  暗号連絡は、「明碼符」の数字を使う
36位 16年12月16日 マルクス主義の赤本、フロイド主義の赤本
37位 16年1月16日 投身から42日、藤村操の死体あがる
38位 17年3月16日 実力のない人物が重要な地位についている
39位 17年4月22日 『大字典』と栄田猛猪の「跋」
40位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ 
    
41位 16年12月8日 ビルマのバー・モー博士、石打村に身を隠す
42位 16年6月7日 世界画報社の木村亨、七三一部隊の石井四郎を訪問
43位 17年4月2日  真実を話さない限り自身が苦しむことになる
44位 17年4月10日 「椹梨」「機織」「万木」という地名の読み方
45位 17年1月20日 重臣殺害は予想したが叛乱は予想しなかった
46位 17年4月24日 十一年間、五時に起き十時に伏す(栄田猛猪)
47位 17年4月23日 意気軒昂却つて痛快の情湧くを覚ゆ(栄田猛猪)
48位 17年3月24日 内憂外患・百鬼夜行・半信半疑・悲憤慷慨
49位 16年12月12日 旋盤を回しながら「昭和維新の歌」を歌う
50位 17年1月7日  軍に賢い戦争指導者なく政府に力ある政治家なし

 

*このブログの人気記事 2017・4・30(4位にやや珍しいものが入っています)

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明治7年(1874)の新潟県「捕亡吏心得書」

2017-04-29 05:15:45 | コラムと名言

◎明治7年(1874)の新潟県「捕亡吏心得書」

 書棚を整理していたところ、「捕亡吏心得書」というものが出てきた。和綴で、本文三丁、すなわち六ページの小冊子である。
 だいぶ前に、入手したものだが、一度も利用したことがない。この際、ブログで紹介しておけば、活用してくださる方があるかもしれない。
 以下、なるべく原文に近い形で、その内容を紹介する。改行は原文のまま、一行あいているところは、改ページを示している。
 以下の漢字は、入力の都合上、新漢字に直した。
「図顕侭断毎戸予余強窃党博縛応乱為闘争会銭増」
 第六條にある「体」は原文のまま。第六條の「トキ」は合字であることを示す。

 捕亡吏心得書
   第一條
各大區捕亡吏ハ其區内犯罪ノ者ヲ搜捕スルチ職ト
シ都テ縣廳ノ趣意ヲ旨トシ取締所ノ差図ヲ奉シ區
内ノ諸役人勤惰正邪アル顕然タルニ於テハ封書ノ
儘本縣及ヒ取締所へ報告スへキ事
   第二條
捕亡吏二人ニ一大區宛受持右二人ノ内一人宛間
断ナク持區ヲ巡邏シ半月ヲ以交代スへキ事
   第三條
持區巡邏ノ節一小區又ハ二小區毎ニ宿所一ケ所宛
相定其取締所へ届置戸長用掛へモ通達致シ置クヘ

キ事
   第四條
持區巡邏中予メ各小區宿所へ到着ノ日ヲ定置余義
ナキ事故アルニ非レハ右到着ノ日ニ違フ間敷事
   第五條
持區巡廻中強盗窃盗人命放火貨幣擬造行使及徒党
テ謀ル重犯ノ者アル時ハ自身召捕可申若手余シ候
ノ強賊ニ候ハヽ臨時人ヲ雇フテ捕縛シ本縣或ハ取
締所へ差出尤其次第戸長へ申入置へキ事
   第六條
局騙掏摸博徒浮浪等都テ惡業ヲナス風体ノ者アル
トキハ問糺シ罪跡顕ハルヽ者ハ縛シテ縣或ハ取締

所ヘ護送シ罪跡ナクシテ応答明白ナルモノハ放遣シ
都テ區内ノ者ニ非スシテ胡乱ナル者ハ持區中ニ徘
徊為致間敷事
 但乞食ハ戸長ト謀リ無籍ハ縛シテ縣廳へ差送リ
 他管轄ノ者ハ都テ縣廳或ハ取締所へ差送ルヘキ
 事
   第七條
闘争乱暴等ノ所業未聞ニ及フ時ハ捕押ヘ其區戸長
ト謀リ時宜ニヨリ縛シテ縣廳或ハ取締所へ差送ル
へキ事
 但戸長不在ノ節ハ其地用掛ニ謀ルへシ
   第八條

第五條ニ記スル所ノ犯人他ノ區内ニ在ルヲ聞知シ
他區捕亡吏ヘ報告シテ機会ヲ失ヒ犯人逃走ノ憂ア
ル時ハ格別其他ハ其區捕亡吏ヘ報告シテ捕縛セシ
メ都テ持區外へ出ヲ捜捕致間敷事
   第九條
第五條ニ記スル所ノ犯人其持區内ニ在リ他區捕亡
吏ヨリ報告ヲ得ル時ハ直ニ捕縛縣廳或ハ取締所ヘ
護送シ都テ非常ニアラサレハ他區捕亡吏及雇人等
ノ力ヲ借ルヘカラサル事
   第十條
都テ犯人ヲ護送スルハ戸長若クハ其用掛ト謀リ例
規ニ照準シ雇人ヲ以テ護送スヘキ事

   第十一條
都テ犯人ヲ搜捕スルハ其持區中ニ限ルト雖モ若シ
臨時縣廳及取締所詰等内官ノ命アル時ハ區外へ出
テ搜索捕縛スルモ妨ナキ事
   第十二條
犯人ヲ搜捕スルヲ職トナスト雖モ拷問断獄ニ近キ
糺問等致間敷事
   第十三條
持區内巡邏ノ旅費ハ等級ノ高卑ニ拘ハラス一日金
二十五銭ツヽ支給スへキ事
   第十四條
持區内人民ハ不及申都テ懇切実直ニ接待シ豪モ威

権ケ間敷儀致間敷且訴訟其他一切分外ノ事ニ關係
スヘカラサル事
右明治六年定ムル所ニヨリ更正増補候條遵守可致
者也
 明治七年第十二月   新潟縣令楠本正隆

 明日は、上記の原文に対し、若干の注釈を付してみたい。

*このブログの人気記事 2017・4・29(4位、6~9位に珍しいものが)

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「困りましたな、困りましたな」(美濃部達吉)

2017-04-28 01:39:32 | コラムと名言

◎「困りましたな、困りましたな」(美濃部達吉)

 一昨日、昨日に続いて、『特集文藝春秋 三代日本の謎』(一九五六年二月)という雑誌にある記事を紹介してみたい。
 本日、紹介するのは、「公職追放委員会の真相」という文章である。筆者は、岩淵辰雄(一八九二~一八七五)である。
 文中、太字は原文のまま。

公職追放委員会の真相  岩淵辰雄【いわぶち たつを】

 政界一新を旗印に掲げながらGHQの権力に翻弄され政争の具と化した追放委員会の去就をその嘗ての委員が記す

  政 界 を 一 新 す る
 追放ということが、戦争から戦後にわたつてのエポックに、どれだけの役割を果し、或は意義があつたかというと、俄に〈ニワカニ〉、なんともいうわけにいかない。
 私は、追放というものに直接、関係をもつた立場から、決して、無意義ではなかつたと思つているが、しかし、戦争から十年を経過して、いまの政界を見渡すと、政治の指導権は、完全に、追放解除者や戦争犯罪人だつた人達によつて握られている。
 政治意識が戦前の古いものをそのまゝ、戦後十年たつたいまの政界に持ち越されている状態である。
 追放によつて、戦争までの時代の指導権を握つた人達が第一線を退いたあと、そのブランクを埋めるようにして登場して来た、いわゆる、アプレゲールの新人達も、彼等によつて、戦後の新しい時代を築き上げるだけのものがなかつたのか、戦前派の追放が、次ぎ次ぎに、解除されると、その人達の持つ実力の相違とでもいうのか、いつのまにか、アプレゲールの新人の影が薄れて、時代は、再び、戦前派の人達によつて占拠されてしまつた。こうなると、何のための追放だつたのか。日本人には戦争というものを境にして、時代的に、何の反省も起らないのか、不思議としなければならない。
 私が追放に関心をもつたのは、終戦直後の東久邇〔東久邇宮稔彦王〕内閣が、戦争中の古材木、戦争責任者を、そのまゝ連れて来て、戦後経営を、かりに一時的ではあつても、やろうとした、その顔触れを見たときからである。これは、どうしても、戦争中に指導的立場にあつたものは、全部、政治の一線から引き下げる必要があると。
 それで幣原〔喜重郎〕内閣になつて、議会を解散するというときに、私は、吉田〔茂〕(当時外相)に勧めた。
〝‥‥戦争中、指導的立場にいたものとか、翼賛議員とかいうものを、そのまゝにしておいて選挙をしても無意味だ。そういうものは先ず、行政的措置で、政界から追放して、それから選挙をするということでないと、政界を一新するということはできない‥‥〟
 しかし、吉田は、
〝‥‥その必要はない。奴等、もう屁古垂れ〈ヘコタレ〉ている。選挙さえすれば新しくなりますよ‥‥〟
 幣原内閣が、そうして昭和二十年〔一九四五〕の十二月十九日に議会を解散すると、二十一日になつて、占領軍から、〝選挙はしばらく待て〟という命令が来て、越えて、一月四日に、追放令の指令をうけたのである。
 この追放令で、政界の分野は、一瞬にして変化した。かつて翼賛会の首脳だつたり、推薦議員だつたりしたものが、枕を並べて政界から退いて行つた。
 このときも、幣原内閣は、追放の事務を処理するために、書記官長の楢橋渡〈ナラハシ・ワタル〉を委員長として、役人で委員会を組織し、世間の噂では幣原が総選挙を機会にして、政界に乗り出すために、この追放を利用しているというようなことが伝わつて、直接、私なども、そういう不平、不満を聞かされたので、吉田に逢つてまた、勧めた。
〝‥‥追放というようなことを、政府の役人だけにやらすということが間違つている。民間人の委員会で、公平に審査すべきで、追放を政争の道具にするというような噂が出るだけでも好ましくない‥‥〟
 しかし、あのときは、内閣としては、全然予想もしていなかつたことなので、占領軍から命令は出る。選挙は迫つているというような事情で、吉田の説明を待つまでもなしに、内閣は転手古舞〈テンテコマイ〉で、理想的なことを第三者がいつても通らなかつたのであろう。
  鳩 山 の 追 放
 この前後のことで思い出に残つていることは、矢張り、鳩山一郎の追放である。これは、何かの機会に書いたかもしれないが、或日、或人が訪ねて来た。それは、日本人ではない。
〝‥‥鳩山をどう思うか‥‥〟という、突然の質問だつた。
〝‥‥それは、どういう意味か‥‥〟
〝‥‥鳩山は政治家として、どういう人間か‥‥〟
 それで、しばらく、話をしていると、
〝‥‥君の話をきいていると、鳩山は追放に値しない。むしろ、追放すべからざる人間になるが、それはどうだ‥‥〟という。
〝‥‥一体、鳩山を追放しようというのか‥‥〟
〝‥‥既に、決つている‥‥〟
 それから、鳩山追放のデータは、一体、どこから出たか、総司令部が自ら調査したのかそれとも他から提供されたのかと訊いたが、それは日本人から材料が出た。それは誰だ。それはいえない。しかし、その間に、大体。どこから衬料が出たか明かになったことであ
る。
 第一次吉田内閣になつてからは、吉田は追放委員会を改組して、美濃部達吉を委員長にし、馬場恒吾〈ツネゴ〉を委員にし、民間人三名、関係省の次官三名という構成の委員会にしたが、この委員会で問題になつたのが、雑誌改造の社長山本実彦〈サネヒコ〉だつた。この事情は、私は、また聞きだから、確かなことはわからないが、馬場氏が、いつか、憂欝そうな顔をして、〝しようがないな〟と歎いているから、どうしたのだときいたら、総司令部の干渉が八釜しくて〈ヤカマシクテ〉、山本は駄目だという。〝そんな馬鹿なことがあるものか、委員会は日本の見識でやればよいんで総司令部の干涉で、いうまゝになるなら、何も、美濃部や、馬場氏を要さないんだ〟と激励した。
 山本の追放は、委員会の票決に問うたら、三対三で、追放、非追放同数ということになつた。民間の委員は非追放で、役人側が追放を主張したのである。その結果、美濃部さんが〝困りましたな、困りましたな〟と再三思案しながら、遂に、委員長として、非追放という決断を下したのであつたが、総司令部の承認が得られずに、ディスアプルーブ〔非承認〕で追放になつたのらしかつた。
 山本の追放が、他の新聞、雑誌の関係者と切り離して、さきに行われたのは、山本が代議士になつて国民協同党の首脳になつていたからで、総司令部としては、山本の追放をもつて、他日、行われる出版並に、文化人関係の追放の基準にしようとしたのらしかつた。出版関係の審査に入ったとき、民生局の係官は、よく、〝山本改造の追放が先例だ〟と主張した。
 このときも、私は、吉田にいった。
〝‥‥委員会は、全部、民間人にすべきだ。その民間人も、いまさら、美濃部〔達吉〕博士や、馬場〔恒吾〕氏のような老大家を煩わすまでもない。総司令部と太刀打ちするような若い連中を連れて来たらどうだ‥‥〟
〝‥‥そんな理屈をいつても駄目だ、何しろGSの連中は三十万人も追放しろといつているので、太刀打ちなどできるものでない‥‥〟
〝‥‥三十万人追放しろというなら、追放してやろうじやないか。軍人は勘定に入つていないが、これを計算したなら、それに近くなるだろう。但し、日本の追放は、独逸のと違つて、責任を問うものと、反省を与えるものとに区別すべきで、占領軍のいうように、三十万人追放したら、追放したということで、占領軍の面目をたてたら、反省の機会を与えたもの、そのポストにいたというだけで追放になつたようなものは、順々に、或る期間を経て解除すベきだ。もし、総司令部がそれを認めるというなら、三十万人出そう‥‥〟
  新聞・出版・文化関係の追放
 こうして、吉田内閣は、昭和二十二年〔一九四七〕の一月、中央公職適否審査委員会というものと、訴願審査委員会というものとの、二つの機関を併行して作つた。
 しかし、これは吉田がマックァーサーに逢つて、直接、諒解を得て来たことなので、GSの方は、追放解除のための訴願委員会を作るなどということには、非常な反対で、容易に、これをアプルーブ〔承認〕しようとはしなかつた。
 私が追放の委員になつて、最初に打つかつた〈ブツカッタ〉問題は、東洋経済新報、というよりは、総司令部の狙いは大蔵大臣だつた石橋湛山〈タンザン〉にあつたのだが、それに対する日本側の委員のメンタルテストだつた。
 それまで新聞・出版・文化関係の追放の基準というものは決つていなかつた。専ら、政界に集中していたので、私達の委員会が発足したとき、総司令部から、文化関係の追放基準を作るようにといつて来た。それで、委員の中から小委員を上げて、終戦連絡事務局の政治部の責任者と協議することになつたが、そのとき、GS〔民政局〕のケージス大佐から、いきなり、東洋経済新報をどう思うか、至急に、返事しろといつて来た。そこで委員の加藤萬寿夫君(共同通信)と、終連〔終戦連絡事務局〕の政治部次長の田中三男君で、手わけをして、十年間位の東洋経済新報とオリエンタル・エコノミストを取り寄せて、徹夜で調べた。加藤君の報告によると、
〝‥‥十年間のことだから、探したら、該当事項が沢山出ることだろうと思つたところが、調べて見て驚いたことには、一つもない。東洋経済という雑誌は偉い雑誌だ。あの戦争中の十年間、よくも、自由主義の立場を守りつゞけたものだ‥‥〟
 ということだった。ところが、こういう加藤君や、田中君の調査が、逆に、GSの御機嫌を損じた。
〝‥‥そんな調査では駄目だ。君らがそういう考え方で、東洋経済を支持するなら、先ず君らから追放する‥‥〟
 と威嚇した。加藤君は、きすがに新聞人だから、そんな威嚇に恐れるどころか、逆に、反撥したらしいが、田中君の方は役人だから目の前で反撃するわけにいかない。〝あんな口惜しかつたことはない〟と、あとで述懐していた。
 総司令部が、いきなり、東洋経済を、特に取り上げて、われわれをテストして来た理由は、そのときには、よく、われわれにわからなかつたが、あとになつて、石橋を狙つたのは、山本で改造をテストケースにしたと同じ様に、東洋経済を追放の基準にしようとしたのらしかつた。
 とにかく、この結果、われわれの小委員会は解散を命じられた。何でも、〝加藤と岩淵の参加する委員会で、追放の基準を決めてはいけない〟、つまり、決められたワクの中で、その適用だけをやる分にはかまわないが、そのワクを决めるようなことに、この二人を加えてはいけないということだつたらしい。こつちは、むしろ、有難いしあわせだと思つた位のことだつた。
 総司令部の圧力は、これを手始めにして、委員会に加つて来た。そして、幾度も、われわれを総司令部に呼び出しては、委員全部を集めて、長い訓示をする。私は幸か不幸か、奴らの喋舌る〈シャベル〉ことは、一ト言もわからないから、身振り、手振りをしながら訓示するのを芝居でも見ているようなつもりで、黙つて眺めていたが、語学の達者な加藤君などは、〝人を馬鹿にしていやがる〟といつて、よく、あとで憤慨していた。、
  総 司 令 部 の 圧 力
 追放の関係で、総司令部の干渉に柔順でなかつたといぅので民政局から復讐されたものに庄野理一氏がある。庄野氏は委員会が石橋湛山を非該当と決定したときの委員長であつたが、それがケージスの憎むところとなつて、後に最高裁判所の判事を辞職せざるを得ないことになつた。その裏面は、現に関係者が生存しているので明記することを憚るが、いかに総司令部の係官が感情的に執拗だつたかということゝ、日本の関係者達が利己的な立場から同胞相喰んだ〈アイハンダ〉かという事実を如実に示したものであつた。
 平野問題では、また、平野の弁護士として民事で〝仮処分の執行〟をしたために、戸倉嘉市氏は、危く、総司令部から弁護士の職権を取り上げられようとした。総司令部といえども、自由職業としての弁護士を取り上げるということは、実際としても出来得べきことではないが、ケージスは、敢て,それをしようとした。だから、総司令部から嫌われたというだけで、平野は追放になつただけでなしに、裁判でも散々ひどい目に逢つたのである。
 追放と私との関係で、いまでも話題にされるのが平野力三〈リキゾウ〉の追放だが、これは〝平野追放の真相〟という本になつて、平野の方で公にしているし、いつか、文藝春秋の増刊で、そのときの官房長官だつた曽祢益〈ソネ・エキ〉が、内閣側の楽屋裏を正直に公にしていたから、それで真相は、ほゞ尽きていて、別に、付け加えるものはないが、私だけの関係としては、一つ二つ思い出がある。その一つは、牧野委員長(英一)との会話だ。
 牧野氏が、総司令部で、ケージスに卓を叩いて、ものをいわれて来てから、私を部屋の隅に呼んで、
〝‥‥何とか考え直してくれないか、こゝで総司令部のいゝ分を通さないと、どんなことになるかわからない‥‥〟
〝‥‥どんなこととは、一体、どんなことですか‥‥〟
〝‥‥それはわからないが、大変なことになると思う‥‥〟という。
〝‥‥牧野さん、あなたも学者としては、世界で指折りの人でしよう。ところが、総司令部に来ているアメリカ人は、マックァーサーを除いたら、フーズ・フー〔who's who 〕にも載つていない連中でしよう。GSと内閣とで、政争をするならしたらよいでしよう。しかし、その争いを、われわれの委員会の責任において利用されては困る。どうなるかもしれないが、結局われわれが辞めればよいことでしよう。矢張り初めの決定通り、非該当で押せばよいじやないですか‥‥〟
 しかし、委員長は、 われわれが辞めるだけでは済まないでしようと憂鬱になつていた。
 もう一つは、ケージスと、ネーピアとが、私を総司令部に呼びつけて、吊し上げたことだ。
〝‥‥日本人の委員の各個人については、いろいろ、噂を聞いている‥‥〟というから、
〝‥‥噂なら、総司令部のケージス大佐のことも、ネーピア少佐のことも、われわれは聞いている‥‥〟といつたら、
〝‥‥どんな噂を聞いているか‥‥〟と顔色を変えて詰め寄つて来たから、
〝‥‥ボクは噂というものを信じていない。日本の諺には、火のないところに煙るたゝぬということがあるが、人を陥れようとする場合の計画的な、火のないところにも煙をたてるものだ。だから、ボクは、この眼で見て、自分で判断し得ること以外は信じないことにしている。したがつて、噂は聞くが信じていない‥‥〟
 この吊し上げは、前後四時間に及んだが、最後には私の手を握つて、ケージスが、
〝‥‥僕は君を信用する。君の主張を邪魔するようなことはしないから、君は君の主張通り行動してよろしい‥‥〟といつて、エレべーターまで送つて来て、 二度も、 三度も握手して別れた。
  政 争 の 具 と 化 す
 もう一つは、平野追放と決した一月十三日の午前に、バンカー大佐(マックァーサーの高級副官)が逢いたいというので会つたら、
〝‥‥平野問題については、オールド・マン(マックァーサー)が、民政局に対して、日本の委員会に干渉してはいけないということを、総司令官として厳重に命令したから、君の主張通り、総司令部の関係に囚われることなしに、主張してよろしい‥‥〟ということだつた。
〝‥‥しかし、そのことなら、ボクに話すよりも、牧野委員長に話して貰いたい。ボクは決して主張は変らないが、委員会の決定を左右するものは委員長だ‥‥〟
 そうしたらバンカーは、意外なような顔をして、委員長にそんな権限はない。委員会の決定は委員が決めるものだというから、それはアメリカのような国のことで、日本の、しかもわれわれの委員会は、そういうような在り方にはなつていないといつて別れた。
 追放に関しての内輪のことなら、材料は山ほどある。鳩山の解除については、監査課長の岡田典夫君が、解除を主張したというので、ときの官房長官が、岡田君が役所にいるにもかゝわらず、わざわざ、岡田君の留守宅に伝話をかけて、お前の亭主は不都合な奴だから、馘〈クビ〉にするといつて脅かしたということもあつたということを聞いた。もつとも、これは伝聞だから、いまになつて、真偽はしらないが、追放ということが歴代の内閣によつて政争の具に供されたということは、幾多の事実によつて証明すことができる。
 政争の道具としての追放ということになると、追放によつて、日本人に反省を与えるなどということは、むしろ、滑稽なことになつてしまう。いまになつて追放の効のなかつたことも理由ありとしなければならぬだろう。

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将官級による三月事件、佐官級による十月事件、尉官級による二・二六事件

2017-04-27 01:22:02 | コラムと名言

◎将官級による三月事件、佐官級による十月事件、尉官級による二・二六事件

 昨日に続き、『特集文藝春秋 三代日本の謎』(一九五六年二月)という雑誌にある記事を紹介してみたい。
 本日、紹介するのは、「雪の首相官邸の秘密」という文章である。筆者は、真崎甚三郎(一八七六~一九五六)の実弟・真崎勝次(一八八四~一九六六)である。
 文中、太字は原文のまま。
 
雪 の 首 相 官 邸 の 秘 密  真崎勝次【まざき かつじ】

 岡田啓介首相は当夜官邸にいたか? 又は赤坂の料亭にいたか? 筆者は事件の黒幕といわれた真崎甚三郎大将の実弟にして元海軍少将、現・自民党代議士

  真崎甚三郎首班内閣説
 昭和十六年〔一九四一〕春、自分は故牧野伸顕伯の義兄に当る秋月左都夫〈アキヅキ・サツオ〉氏に会つた。それは当時住友の重役であつた鷲尾〔鷲尾勘解治か〕という人が、自分を訪問して言うのに、『秋月老人は博覧強記で高貴な識見をもち実に立派な人格者である。日支事変に関して、全く貴方と同じような意見で国家の前途を非常に心配しておられる。しかるに二・二六事件後世間は誤解して、貴方がたがあの事件に関係があるように思われ、貴方がたは秋月さん一家の敵であるかの如く思われているから、一度貴方が訪問してみたら得るところがあると思う』とのことであつた。そこで自分は喜んで秋月老を訪問した。
 話を聞いてみても日支事変に関して全く自分と同じ意見をもつておられた。
 自分は昭和十二年〔一九三七〕八月十二日、
「日支事変を早く切り上げなければ結局は世界戦争になつて日本は亡びる。また今日何故に支那と戦争をしなければならぬのか、何の理由もない無名の〔名義の立たない〕戦いではないか。たゞ政治家や軍の一部が共産党に躍らされてその手練手管に乗つている」
 ということをしたため〔認め〕、牧野伯を通じて陛下に奏上しようとした書類を秋月老にお目にかけた。秋月老は、
「自分は昭和十五年〔一九四〇〕になるとこれでは日本は亡びるなと大へん心配したが、貴方は日支事変が始まつて一ヵ月そこそこでこれだけの判断をする先見の明がどうしてあつたか」
 といわれた。そこで自分は、
「先見の明ではありません、世界を騒がせている根本震源地であるロシアについて、明治四十三年〔一九一〇〕以来関係しておりました。それと一方陸軍のことは兄(元大将)を邪魔ものとしての事件であり、すなわち革命を起すのに邪魔になる人物を真崎〔甚三郎〕としてこれを排撃した。それに陸軍の思想的内容もよく承知しており、海軍のことは昭和七年〔一九三二〕の五・一 五事件に際して時の大角〔岑生〕海軍大臣から、『君よりほかに思想問題の分つた人はないから、是非この後始末をしてほしい』と、とくに懇願されてその衝に当つたから、海軍部内の思想状況もよく承知している。以上三つのことを知つているために、自然の結論としてソ連が音頭をとつて、一貫した世界革命を起す方針のもとに、先ず日本に革命を誘発せんとする作戦の一端に過ぎないことが明瞭であるから、上奏文に書いたような結論を得たのであります」
 と答えた。
 この秋月氏との関係で吉田茂元首相とも昭和十六年〔一九四一〕頃から昵懇〈ジッコン〉の間柄となつた。
 吉田氏もそれまでは、二・二六事件は真崎の仕打ちのように考え誤解しておられた。その後よく話を聞かれて、なるほどいわゆる皇道派はどういうものかという正しい理解をもたれ、近衛〔文麿〕公とともに何とかして皇道派に陸軍の権力をにぎらせ、政権をファッショ軍閥よりもぎとつて、立憲政治の正道に復帰させようとされ、事件の解決のため努力された。
 それで昭和十七年〔一九四二〕以後は、平河町の吉田邸で近衛公を中心とし、現鳩山〔一郎〕首相、吉田茂、真崎甚三郎小畑敏四郎〈オバタ・トシロウ〉、殖田俊吉〈ウエダ・シュンキチ〉、岩淵辰雄氏などが相会し、自分が犬馬の労をとつてこの会に参加した。はじめは家兄甚三郎を首班とする内閣をつくり事件を解決せんとしたが、なかなか誤解にもとづく抵抗が強く、上〈カミ〉、陛下にまで及んでおり非常に困難であつたので、海軍大将小林躋造〈セイゾウ〉氏を翼賛会の総裁に祭り上げ、林〔銑十郎〕内閣をつくつて軍閥の横暴を押え、時局を収拾せんとしたが結局成功しなかつた。
  筋書通りのクーデター
 そこでどうしても陛下に本当のことを奏上して、日本がこんな馬鹿々々しい戦争に突入した真の理由を了解していただかなくてはならないと考え、「主として陸軍大臣は予備から正しい人物を採用して、時局の解決をはからねばならない。軍の一部が赤化して、天皇さえ存続しておれば共産主義でもいゝというような赤色分子の日本革命の巧妙な二段戦術にかゝつているから結局平和は来ない。日本は共産革命をもつて亡びる」という意味のことを奏上した。
 そのとき侍立したのが木戸幸一氏である。それからこのことが東條〔英機〕にもれ、東條は自分の反対派の政府が出来て殺されることをおそれ逆手を使つて来た。そして吉田邸その他の家宅捜索となり、吉田氏は買収された書生や女中を通じて、近衛の上奏の内容を憲兵に奪われて吉田氏以下数名が逮捕されることになつた。幸い昭和二十年〔一九四五〕五月二十三日、二十五日の東京空襲で渋谷刑務所が焼け、また当時鈴木〔貫太郎〕講和内閣であつたために吉田氏一味の命は助かつた。これが吉田前首相が遭難した経緯である。
 このときのわれわれの計画が成功していたならば今日ほど日本を混乱におとし入れずに済んでいたろうと思う。
 一世を騒がせた二・二六事件についていえば、日支事変を起さしめ、世界戦争に誘導して日本に革命を起すのに一番邪魔になる人物を葬り去ることが、あの事件のソ連のネライであつた。でもこのことを本当に研究しているものはまずない。
 真に思想を了解し、世界の動向、ソ連の陰謀を洞察して前途を警戒し、国内における各種のクーデター事件に反対し、満洲事変を拡大せぬように処置した人物がおつては、日本に革命を起すことも出来ず、日支事変を起すことも出来ない。
 そこで日支事変を起すのに邪魔になる重要人物を葬るように仕組んだのが、二・二六事件の筋書である。
 論より証拠で、世間からみると二・二六事件に関係があり、悪い人間のように思われていたような人物が、陸、海軍から葬られたその翌年から、日支事変になつたことを考えても明瞭ではないか。
 二・二六事件ほど?究してもその真相のはつきりとわからぬものはない。自分らは非常なる被害を受けたのだから真剣にこれを研究してみた。
 最近の三十年来の日本の政情を知るためには、第一にロシアの革命に引続いて、ソ連の思想戦すなわち世界革命作戦をよく知るとともに、陸軍部内の思想戦、海軍部内の思想の動向、この三つを知つたものでなければ、日本が今日のようになづた理由がわからないのである。
 自分はロシア革命前、革命中、取命後にわたり前後を通じて十年近くソ連に在勤し、今日まで研究を続けておつたから、ほゞその真相を掴みうるのである。
 事件の処置についても、真剣に考えれば、不可思議極まることが多数あるにもかゝわらず、知識階級といえども冷静にかつ真剣にことの真相を研究しようとしない。
 そのため今日でも、戦争責任の所在も、二・二六事件の責任者および事件の処置法についても、一向に明瞭にならないで、正邪曲直を反対に考え、善人を悪人扱いにし、悪人を善人扱いにし、大義名分を顛倒して考えていることが、今日の施策にも反映して、極めて不適当なること多く、また自衛隊の建説にしても、日本の実情と世界の動向、日本の国力などを塩梅〈アンバイ〉した適切のやり方でないものが多く、外敵のみを気にして、国内はまさに活火山のような事態であることを忘れて安眠しているような日本の実情である。
  岡田啓介は赤坂にいた?
 二・二六事件の処置についてもちよつと考えればこれはオカシイ、これはクサイと思われる筋が多々ある。順次に、その例を挙げて見る。
(一) かの裁判に際して同じことをやりながら、いわゆる皇道派系の人三井佐吉は重刑に処せられているが、いわゆる統制派(満洲事変を起し、つゞいて戦争をはじめ、日本をつぶした一味)は裁判にも呼出されていない。たゞ田中〔弥〕大尉が全国に〝蹶起せよ〟という電報を発信しようとした廉〈カド〉で裁判に呼ばれなければならない破目になり、彼は自決をした。そのために後から彼を操つていた人は裁判に呼ばれずに済んでしまつた。
(二) 元来あの特別裁判を実行するのは、すなわち一審で弁護士もつけず認定するという裁判のやり方は、戦地だけで許されることである。もつとも二・二六事件でも、あの事件が継続して国内は動乱中であるなら、かゝる裁判は一応もつともかも知れないけれども、事件は二月二十八日に終熄して国内は平静状態に戻つていたのであるから、事態を公平に裁き世間に真相を明らかにしようと思うならば、公開裁判を開き普通の裁判を行うべきであつた。しかるに法曹界の人達でさえもこれを一言半句も口に出さないのは不思議な事である。
(三) 更に重大なことは、昭和十一年〔一九三六〕三月の貴族院において阪谷芳郎〈サカタニ・ヨシロウ〉男爵が質問した事柄である。質問の要点は次の通りである。
 問 寺内〔寿一〕陸相に対し「一体反軍だというのはいずれの時期からか」
 答 「営内を出たときからです」
 問 「しからば反軍に陸軍省参謀本部が、たとえ三日間でも占領された責任は誰がとるのか」
 註=旧陸海軍刑法によると守所を占領せられたるときは、首領は死刑若くは無期徒刑となつている=これは結局軍の圧迫でウヤムヤに葬られてしまつた。これは重大事件である。これも世間で一向に問題にしないのはおかしな話である。
(四) 次には岡田啓介首相の問題である。事件の日の朝、岡田氏が女中部屋に寝ていたとか、或は政友会が選挙に勝つたのでその祝いで赤坂の料亭に泊つていたといわれる、或は下落合〈シモオチアイ〉の寓居に避難していたとかいろいろいうけれども、これは私的行動であつてとかく論ずる必要はないと思うが、難を逃れておりながら首相として後藤文夫氏を首相代理にしておき、一週間以上も参内しなかつたということは臣節を欠くものであつて、後世の戒めとしても黒白を明瞭にしておく必要がある。
(五) 銃殺された青年将校のなかにはまだ心臓の鼓動があるものを火葬に付したという話もある。元来火葬は死後二十四時間を経なければ実行できないことになつているはずなのに、法を曲げてかゝる暴挙をあえてしたことは何のためであろうか。全く不思議な話である。
(六) 元老西園寺〔公望〕公が興津の寓居から逃れて、静岡県の警察部長官舎に難を避けていたということは、事前に事件を予報したものがあるに違いない。そしてこの二・二六事件の計画が例の三月クーデター事件、十月クーデター事件に酷似している点もよく研究してみなくてはならない。
 三月事件〔一九三一〕は将官級がこれを計画し、真崎、山岡萬之助徳川義親〈ヨシチカ〉の反対にあつて未発に終つた。十月事件〔一九三一〕は佐官級が計画し満洲事変に引続いて起り、主脳者の保護検束をもつてウヤムヤに終つた。二・二六事件は尉官級が計画してこれを実行した。
 要するに二・二六事件はこれに参加した人といえども自分がやつたことだけは知つているが、どういう筋書、いかなる目的で、誰が指揮していたか一向わけがわからんで動いていたようである。
 もし世間にうわきされた如く立派な人がこれを指揮していたとするならば、革命を実行しようとするものが事件発生後三日間もいたずらに時の推移を待つような馬鹿なことはしなかつたであろう。
 時を待つていれば、自分たちは処罰されるに決つている。この一事をもつてしても統一計画を擁する指揮者がいなかつたことが明瞭である。
 自分はあの蹶起将校中一人も知つたものなく、また会つたこともないが、今から冷静に考えると、あれらの将校の主張するような政府が出来ておれば、時の政府の重臣たちは殺されたかもしれないが、上、天皇陛下以下日本国民は微動だにせずにこんな馬鹿々々しい戦争も起らないで済んだことと思われる。

 タイトルは「雪の首相官邸の秘密」となっているが、二・二六事件当日の「首相官邸」については、何らの新事実も示されていない。
 むしろ、この文章で興味深いのは、いわゆる「近衛上奏文」に、真崎甚三郎や真崎勝次が関与していたという事実を証言していることであろう。真崎勝次は、ソ連大使館付武官の経験があり、本人も認めているように、共産主義について一家言を持っていた。「近衛上奏文」の内容に、真崎勝次の見解が反映している可能性は、かなり高いのではないだろうか。

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陸奥爆沈は永久の謎となろう(北上宏)

2017-04-26 04:30:36 | コラムと名言

◎陸奥爆沈は永久の謎となろう(北上宏)

 書棚の整理をしていたら、『特集文藝春秋 三代日本の謎』(一九五六年二月)という雑誌が出てきた。
 本日は、この雑誌から、「軍艦・陸奥爆沈の真相」という文章を紹介してみよう。

軍艦・陸奥爆沈の真相  北上 宏【きたがみ ひろし】

 陸奥・長門と謳われた大戦艦が理由なくして突如消え失せた――終戦まで一言も語ることのできなかつた怪事件の原因は何か? 筆者は元海軍情報参謀

  濃霧の中に大爆音
 アッツ島玉砕、山本〔五十六〕元帥戦死と次々に悲報が伝わり国内各部にようやく悲壮な空気がみなぎり始めた昭和十八年〔一九四三〕六月八日正午ごろ、広島湾南部の連合艦隊秘密泊地に戦艦の主砲を打つたような大音響が響きわたつた。泊地にいた数隻の軍艦は素破〈スワ〉何事と色めき立つたが、折からの濃霧に包まれて何事が起つたか知る由も無かつた。ほど経てから軍艦扶桑の短艇が切断した陸奥の艦尾と多数の乗務員が海上に漂つているのを発見して、はじめて同艦の爆沈を知り直ちに遭難者の救助を開始したのであつた。
 軍艦陸奥は長年のあいだ日本海軍最新鋭の戦艦として宣伝せられていた関係もあり、同艦の沈没は既に傾きかけていた国民の戦意に重大な影響を及ぼすものと考えられたので一切発表されないことになつた。当時の霧は千米しか離れていなかつた扶桑艦上からも何事も認められなかつたほどひどいもので、あたかもこの事実を覆いかくすようであつたが、その後のこの付近の取締りは厳重をきわめ、沈没のちの字でも口に出そうものならば忽ち憲兵に連れて行かれるという有様であつた。殉職者の発表も全部他の艦に転勤の手続をとつてから行うという非常手段がとられた。海軍部内でもM事件と名づけ陸奥爆沈などとは一切言わない程の注意が払われたので、終戦までこの事件を知らない人が多かつた。
 かくて陸奥の沈没は厳秘に付せられたまま終戦を迎えたが、昭和二四年〔一九四九〕に至つて連合軍司令部許可のもとに同艦の搭載物資が引揚げられることとなり、酒やビールが飲めるか、重油を何うして取り出すかとかいうような事が話題となつた。後に至つて許可以外に船体の一部を破壊して引揚げたということが国会の問題となり、今なお裁判沙汰となつている。一方これに伴つて遺骨の引揚げが問題となり、内海の水深四十米に過ぎないところに何百という遺骨が其のまゝ残されているということが各方面で論議の的となつた。これ等の問題に伴つて同艦の沈没状況やその原因が興味をよび、中には水兵放火説や海軍士官恋のさやあて等という見て来たような話まで伝えられるに至つた。
 思えば軍艦陸奥はその生立ちから問題の多い艦であった。大正七年〔一八一八〕六月横須賀工廠で起工せられ丸二年後の大正九年〔一九二〇〕五月三十一日に進水したが、当時色々の面で世の注目を集めていた大本教で「進水出来ないゾヨ」と予言したと伝えられた。華府〔ワシントン〕海軍軍縮会議においては、事実上竣工していたにも拘らず未成艦扱いを受けて危く廃棄処分になろうとした。加藤〔友三郎〕全権をはじめ関係者一同のあらゆる努力にもかゝわらず、同艦の保有を認めさせるためには英米両国に未完成又は未起工の戦艦を二隻ずつ建設することを許さなければならなかつた。
 これと云うのも当時四十糎砲を搭載していた戦艦は世界中に我が長門、陸奥と米国のメリーランド号しか無かつたためで、条約の結果米国はコロラド、ウェストバージニヤの二隻の建造を続け、英国はネルソン、ロドネーの二隻を新たに起工することとなつたが、これ等は何れも四十糎砲塔載艦である。
 陸奥はその後大改造を行い長さを九米伸ばし幅を三米も拡げ、前の煙突を曲げたり後には一本にしたりして外観も大分かわつたが、長い間日本海軍最新鋭戦艦としてニュース映画や宣伝映画で国民に親しまれて来た。
 いや沈没後も大きな海戦が有るごとに軍艦マーチに送られてスクリーンの上で活躍していた。
  三式弾という花火のような弾丸
 さて、当時陸奥は第二戦隊の二番艦として第一艦隊に属していたが、第一艦隊はミッドウェイ海戦に参加した他はほとんど内海を出ること無く訓練を重ねながら待機していた。一番艦即ち艦隊旗艦の長門は呉軍港で小修理を終りこの日午後一時頃柱島錨地〈ハシラジマ・ビョウチ〉にもどることになつていた。
 長門不在中、呉との電話が取りつけてある旗艦の浮標に繋留していた陸奥は、〇時半転錨の予定で機関科のものは既に固有配置について試運転を行つており、兵科のものも早目に食事を終り、転錨の準備にかゝろうとしていた。
 十一時五十八分(十二時五十八分という者もある)突然後部三、四番砲塔付近から「ブウー」という騒音と共に、丁度主砲を発砲したときのような白褐色の焔が噴出し、瞬時に大爆発を起し艦体はこゝから二つに切断され、前部は右舷に転覆約二十秒で沈没してしまつた。後部は三十度くらい傾斜して浮いていたが翌日午後一時頃遂に沈没した。
 千三百名の乗務員の他に土浦航空隊の予備練習生約二百名が艦隊実習のため一時間前に乗艦したばかりであつたが、生存者は三百五十名計りで艦長以下千百四十余名は艦と運命を共にした。
 その後約一カ月にわたり遺体捜索を行つたが百六十体の遺体を収容し得たに過ぎなかつた。
 陸奥の爆沈を知ると艦隊司令部始め各艦においては敵潜水艦内海侵入の虞〈オソレ〉ありとして警戒を行つたが、その兆候は認められず、潜水夫を入れて沈没した艦体を調査した結果も魚雷や機雷などによる外部からの爆発の跡は発見されなかつた。
 沈没の原因が内部にあるということになつたので、特に査問会を設けてその原因を徹底的に調べることとなり凡ゆる〈アラユル〉方面から検討が加えられた。
 弾火薬庫の爆発とすれば先ず考えられるのは装薬の自爆である。装薬即ち弾丸を打ち出すための火薬の自燃、自爆という問題は明治時代に無煙火薬を使用するようになつてから各国海軍ともに悩まされた問題であつた。
 ダイナマイトと綿火薬をねり合せたような無煙火薬は温度が高くなると分解作用を起して不安定になるので、軍艦の火薬庫は日露戦争の時代から冷却装置を備え近代ビルよりも完全なエア・コンディションを行つていた。そのうえ温度を外から計る機械、温度がある程度以上となるとベルが鳴る警報器や氷を撒く装置、ハンドル一つで急に水を張る仕掛けなど種々の工夫が凝らされていた。
 しかし明治三十六年〔一九〇三〕に日本海軍が無煙火薬を採用すると、三十九年〔一九〇六〕には日露戦争中連合艦隊旗艦であつた三笠が佐世保で火薬庫自爆のため沈没するし、四十一年〔一九〇八〕四月には日清戦争中連合艦隊旗艦であつた松島が遠洋航海の帰途台湾の馬公〈マコウ〉で爆沈しあたら多数の若い候補生の命を奪うという事故が起つた。
 しかし無煙火薬の採用によつて大砲の射程が増大し、命中精度も格段によくなつたので、この使用を止めるわけには行かないから、極力安定度の向上に努めたので、大正六年〔一九一七〕横須賀軍港で沈没した軍艦筑波、大正七年〔一九一八〕徳山湾中で爆沈した軍艦河内を最後としてこの問題もあとを絶つに至つた。
 陸奥の場合は火薬の温度上昇を知らせる警報器も鳴つていないので、装薬の自爆ということはほとんど考えられないが、ここに関係技術者の頭にピンと来る問題が一つあつた。それは三式弾という新しい弾丸の自爆の問題である。
  爆 沈 の 真 相 は?
 戦艦や巡洋艦の主砲を対空射撃に使うために作つた零式弾という榴散弾の効果が充分で無いので工夫したのが三式弾で、時限信管で弾丸を破裂させるとゴムを主体とした焼夷剤を詰めた多数の弾子が三千度という高熱を発して燃えながらばら撒かれ、その弾子も最後に破裂するという丁度花火のようなものである。
 三式弾という名は二千六百三年型という意味で昭和十八年〔一九四三〕兵器に採用されたことを示しているが、前年の十七年春実験が一応成功すると出来上るのを待つて前線に向う艦から順順に積込んだ。十七年〔一九四二〕十月十三日夜戦艦金剛がガダルカナル島に打込んで飛行場を火の海としたのは実にこの弾丸であつたが、夜などこの弾丸の射撃を見ていると両国の川開き其のまゝで実に綺麗なものであつた。
 しかし戦局が急迫していて、実用を急いだため、平時のような貯蔵試験を行つていなかつたので、NHKの二十の扉式に云うと、鉱物と植物を混ぜ合せてあるこの焼夷剤は変質する虞が無いという確信が無かつたのである。早速沈没している艦体の中から三式弾を引上げて色々検査を行つたが、変質の徴候は認められなかつた。
 しかし一時は各艦の三式弾を卸したり改造したり大騒ぎとなつた。
 この外に人為的に火薬を点火することも考えられるが、火薬はいざ火を付けるとなると案外簡単には爆発しないもので、警報器が鳴る間も無く爆発させるためには、時限爆弾を使用するか、火薬を貯蔵するとき入れておく火薬罐の蓋を開けて小銃か拳銃の空砲を打ち込むようなことが必要で、毎日少くとも二回は必ず掛りのものが戦闘配置につくし、その他のときは必ず鍵をかけ番兵を配してある弾火薬庫でこのようなことをするのは普通では考えられない。
 大正の始めごろ上官に恨〈ウラミ〉をいだいていた下士官が、火薬庫に電線を引き込んで電気火管を発火させるような細工をしたのを爆発前に発見したという話を聞いたことがあるが、これは毎日戦闘配置につくというようなことの無い平時の場合である。陸奥の場合査問会でこの点についても充分調査したがそれらしい兆候も発見されなかつた。
 結局査問会の結論は三式弾の自爆らしいということになつたが確実なことはわからないまゝに終つた。
 問題の後部砲塔の付近は艦体が切断されるまでに破城されていて、三番砲塔は左舷、四番砲塔は右舷に飛び散つているという有様で、国とサルべージ業者との間の繋争事件が解決し艦体が十数年振りで引揚げられて陽の目を見る日が来ても、恐らく爆沈の真相は判明しないであろう。
 超戦艦武蔵、大和が出来るまで二十年近くの間日本海軍の最新鋭戦艦として、国民の連合艦隊いや海軍に対する信頼の象徴となつていた軍艦陸奥は、進水のときから何かと暗い影を伴つていたが、今次の大戦に際してもほとんど実戦に参加すること無く、濃霧に包まれたまゝ僚艦に看とられることも無く消えて行つたが、その原因もまた永久の謎となろうとしている。
 第一艦隊の他の艦、長門、扶桑、山城などが陸奧沈没後間も無く南方戦場に進出して、それまでの訓練の成果を示す機会を得たことから見ても、何処までも不運な艦であつたと云う外は無い。
 いやその上に、沈没後の今日まで剥ぎ取り事件などという不明朗な問題で名を上げているのである。
 ただこの上はこれ等の事件が解决し、艦体が引揚げられて、新しい鉄として更生し、平和的建設に貢献すると共に、艦内に残つている遺骨が引揚げられて然るべきところに埋葬される日の一日も速かに来らんことを希つてこの稿を終りたい。

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