礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

三国同盟の締結は妥当の政策であった(近衛文麿)

2021-09-30 03:26:55 | コラムと名言

◎三国同盟の締結は妥当の政策であった(近衛文麿)

 近衛文麿手記『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六)から、「三国同盟に就て」という文章を紹介している。本日は、その七回目(最後)。

 三国同盟成立事情およびその具体的目標は右申述べたる如くである。しかるに最近わが戦局すこぶる不利なるに加へて、ドイツ崩壊といふ重大事実に直面し、一部には三国同盟締結に対する貴任を云々するものあるやに聞く。仍ち〈スナワチ〉ここに余の所見を述べて置きたいと思ふ。
 余は今以て三国同盟の締結は、当時の国際情勢の下においては止むを得ない妥当の政策であつたと考へて居る。即ドイツとソ連とは親善関係にあり、欧州のほとんど全部はドイツの掌握に帰し、英国は窮境にあり、米国は未だ参戦せず、かかる状勢の下に於てドイツと結び、更にドイツを介してソ連と結び、日独ソの連携を実現して英米に対する我国の地歩を強固ならしむることは、支那事変処理に有効なるのみならず、これによりて対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献し得るのである。随つて昭和十五年〔一九四〇〕秋の状勢の下において、ドイツと結びしことは親英米論者のいふ如く、必ずしも我国にとりて危険なる政策なりとは考へられぬ。これを強いて危険なりといふは感情論である。感情論にあらざればドイツの敗退を見て後からつけた理窟である。
 とかく我国の外交論には感情論が多い。同盟締結当時の反対論も、主として親英米的感情より発したるもの多く、英米の勝利、ドイツの敗退を科学的根拠より予想せる先見の明に基くものではなかつたやうである。故に親英とか親独とかいふ感情を離れて、冷静に日本の利害を中心として考へる立場より見れば、これらの反対論は十分首肯できなかつた。
 しかしながら、昭和十五年秋において妥当なりし政策も、十六年〔一九四一〕夏には危険なる政策となつたのである。何となれば独ソ戦争の勃発によりて日独ソ連携の望は絶たれ、ソ連は厭応〈イヤオウ〉なしに英米の陣営に追込まれてしまつたからである。事ここに至れば、ドイツとの同盟になお拘泥することは我国にとりて危険なる政策である。すでに危険と感じたる以上は速に方向転換を図らねばならぬ。ここにおいて日米接近の必要が生じたのである。しかるに陸軍はこの期〈ゴ〉に及んでなおドイツとの同盟に執着し、余の心血を注ぎたる日米交渉に対し種々の橫槍的注文を発し、遂に太平洋の破局をもたらしたのである。これまた日本の利害を冷静に検討したる結果にあらずして主として親独的感情より発したるものと思ふ。感情論が外交を左右することのいかに恐るべきかを知るべきである。
 同盟反対論物は米国の対日態度は三国同盟を契機として俄然強硬となり遂に日米開戦となつた。故に日米開戦の原因は三国同盟の締結にありといふ。しかしながらこれは法理に反し又事実に反する。
 法理上からいへば日本は米国がドイツに宣戦せざるその前に進んで米国に対し宣戦したのである。故に宣戦の詔書にも、三国同盟といふ文字は全然見出されないのである。即法理上よりいへば、日米開戦と三国同盟との間には何らの因果関係はない。
 次に事実上においてもその間に因果関係はない。なるほど三国同盟の締結が、英米の輿論を一層激化したことは事実である。しかしながら例の通商条約の廃棄の如きは、同盟締結前即ち五年四月〔ママ〕にすでに行はれて居り、又かの資産凍結令の如きは、同盟締結後約十ケ月を経たる仏印進駐を契機として行はれたのであつて、同盟締結の直接の反響としては具体的に何も表はれなかったのである。殊に日米国交調整を目的とする日米交渉が、同盟締結後約半歳を経たる昭和十六年〔一九四一〕四月米国の提議によりて開始せられたといふ事実は、三国同盟と日米開戦との間に事実上因果関係なかりしことを物語るものである。  (完)

 文中、「例の通商条約の廃棄の如きは、同盟締結前即ち五年四月にすでに行はれて居り」のうち、「五年四月」とあるのは誤記であろう。アメリカが日米通商条約の破棄を通告したのは、一九三九年(昭和一四)七月で、同条約の失効は、一九四〇年(昭和一五)一月のことだった。
 さて、この「三国同盟に就て」という文章で、近衛は何が言いたかったのか。「三国同盟と日米開戦との間に事実上因果関係なかりしこと」である。なぜ、それが言いたかったのか。「自分に日米開戦の責任はない」と釈明したかったからである。
 三国同盟を締結した責任は、たしかに自分にある。しかし、三国同盟と日米開戦との間に因果関係はない。したがって、自分に日米開戦の責任はない。――これが、近衛の論理である。
 執筆した時期から言って、明らかに近衛は、戦後、開かれるはずの「国際軍事裁判」を意識している。そこで、「戦争責任」を問われることを、近衛は恐れた。だからこそ、こんな文章を書いたのである。
 近衛文麿という人物は、毀誉褒貶の激しい人物である。しかし、この「三国同盟に就て」という文章を見る限り、言い訳の多い、小心な人物に見える。なぜ彼は、「三国同盟と日米開戦との間には、因果関係がある。したがって、三国同盟を推進した自分には、戦争責任がある(あるいは「敗戦責任がある」)」と言えなかったのだろうか。
 当ブログでは、このあとも三国同盟をめぐる話題を採りあげる。その際、三国同盟と日米開戦との間の因果関係を解明するという課題を、つねに意識してゆきたい。ただし、次回は、話題を変える。

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対米戦争の危険に対しては、日米接近のほかなし(近衛文麿)

2021-09-29 01:17:14 | コラムと名言

◎対米戦争の危険に対しては、日米接近のほかなし(近衛文麿)

 近衛文麿手記『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六)から、「三国同盟に就て」という文章を紹介している。本日は、その六回目。

 六月二十二日に至り遂に独ソ戦の火蓋〈ヒブタ〉は切られた。英米はただちにソ連援助を声明した。ソ連は明らかに英米陣営に入つた。日ソの関係には当分変化なしとはいへ、三国同盟の前提たる日独ソの連携はもはや絶望である。日本とドイツとの交通は遮断せられ、三国同盟は現実にその効用の大半を失つたのである。さきに平沼〔騏一郎〕内閣当時、ソ連を対象とする三国同盟の議を進めながら、突如その相手ソ連と不可侵条約を結びたることが、ドイツの我国に対する第一回の裏切行為とすれば、ソ連を味方にすべく約束し、この約束を前提として三国同盟を結んで置きながら、我国の勧告を無視してソ連と開戦せるは、第二回の裏切行為といふべきである。随つてこの時日本としては当然三国同盟の再検討をなすべき権利と至当性を有する次第である。余は当時三国同盟締結の理由ないし経過に鑑み、本条約を御破算にすることが当然なのではなからうかと軍部大臣とも懇談したことであつた。しかしながらドイツ軍部を信頼すること厚きわが陸軍は、到底かかる説に耳を傾けようとしなかつた。殊に緒戦におけるドイツの大戦果は一層わが陸軍をしてその確信を強めしめたやうである。ここにおいて余は次の結論に達した。即ち三国同盟の再検討は到底わが国内事情が許さざるのみならず、昨年〔一九四〇〕締結したばかりの同盟を今ただちに廃棄するが如きは、いかに相手方の裏切行為になるとはいへ、それは裏面の話であつて、表面は我国の国際信義の問題となる。故に今三国同盟そのものを問題とするのは適当でない。しかしながらすでに独ソ開戦となつた以上は、同盟の主たる目標の一である所の日独ソ提携の希望は完全に潰え〈ツイエ〉去つたのであり、かかる条件の下において、将来三国同盟より生ずることあるべき危険、即ち対米戦争の危険に陥る如きことあらば、我国として由々しき一大事である。第一それでは同盟を結んだ意義が全く失はれる次第である。故にこの危険に対しては十分備へる所がなければならぬ。それは日米接近のほかにはない。しかも日米接近の可能性は同盟締結前においては絶望視されたが、当時においてはむしろ大に有望視されたのである。何となれば、欧州において英国の窮境を救はんとする米国は、太平洋において日本と事を構ふることを極力回避せんとして居たからである。現に日米交渉はその年〔一九四一〕四月より始められて居る。余が三国同盟に多少冷却的影響を与ふることありとも、日米交渉はぜひ成立せしめねばならぬと決心したのはこのためであつたのである。〈二五~二六ページ〉

 ドイツがソ連と開戦したことを、日本に対する「裏切行為」と捉えていたのであれば、近衛は、三国同盟の廃棄を決断すべきだったと思う。「国際信義の問題」という、よくわからない理由によって、近衛は三国同盟を維持した。
 独ソ戦の勃発に遭遇した近衛は、「対米戦争の危険」を意識した。そこでにわかに、「日米接近」をはかったわけだが、三国同盟を維持したままで、「日米接近」をはかるというのは、結果論ではあるが、やはりムシが良すぎたようだ。
 もしもこのとき、近衛内閣が、三国同盟を廃棄した上で日米交渉に臨んでいたとしたら、その後の歴史は変わっていたかもしれない、などと夢想した。

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今度ノ戦デハ日本ノ御力ヲ借リル要ナシ(リッベントロップ)

2021-09-28 00:01:06 | コラムと名言

◎今度ノ戦デハ日本ノ御力ヲ借リル要ナシ(リッベントロップ)

 近衛文麿手記『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六)から、「三国同盟に就て」という文章を紹介している。本日は、その五回目。

 以上の如く三国同盟は将来ソ連を同盟側に引入れるといふことを前提として締結されたのである。しかるに翌十六年〔一九四一〕三月松岡〔洋右〕外相がベルリンを訪問するやヒ総統〔ヒットラー総統〕もリ外相〔リッベントロップ外相〕も口を極めてソ連の不信暴状を語り、前述のリッベントロップ腹案についてもモロトフは原則としてこれに賛成しながら、ドイツとして到底承認できぬ三十何箇条の交換条件を提出したといひ「ソ連に対しては一度打撃を加へざれば欧州の禍根は到底除かれぬ」となし、前年〔一九四〇〕の三国条約締結当時の約束とは打つて変つた話である。そこで松岡氏はリ外相に対し、もし独ソの間に事起らば日本としては非常な影響を蒙る〈コウムル〉故、この戦争には俄に〈ニワカニ〉同意し難き旨を述べ、又「帰路にはモスクワに立寄り日ソ国交調整の話を進める考である」といつたのに対し、リ外相は「ソ連は不信の国ゆえその話はむづかしいだらう」とのことであつたから、松岡氏は「しかしながらもし話ができたらどうだ」と尋ねたところ、リ外相は「できたらそれは結構である。がしかし到底まとまらないだらう」といつたといふのである。(以上は松岡外相帰朝後の報告談話)
 松岡外相は帰路モスクワに立寄りソ連当局と交渉の結果、日ソ中立条約はドイツの予想に反して成立した。大島〔浩〕大使の電報によればヒ総統はすこぶるこれを意外としたらしく、又リ外相は同大使に「自分は松岡外相に対しあれ程はつきりと独ソ戦の不可能なることを御話致して置いたのに、その相手のソ連と中立条約を締結されたことはその真意了解に苦しむ」と厭味〈イヤミ〉を述べて居る。
 リ外相のいふ所と松岡外相のいふ所とはかく喰ひ違つて居る。
 これは双方の誤解か故意の曲解かそれは暫らく措くとし、とも角も独ソ関係はその後まします悪化の度を加へ来り、四月以降大島大使の電報はことごとく開戦の迫れることを暗示するものであつた。ここにおいてわが政府としても黙視し得ず、五月二十八日松岡外相の名を以て、リ外相に「現下ノ我国ヲ廻ル国際情勢及我国内状勢ニ鑑ミ〈かんがみ〉本大臣トシテハ独逸政府ガ此際能フ限リ蘇聯トノ武力衝突ヲ避ケラルヽ様希望ス」といふメッセージを送つた。これに対しリ外相の返事は「今日トナリテハ最早独ソ戦ハ不可避ナリ、乍然(しかしながら)戦争トナラバ二三ケ月ニシテ作戦ハ終結シ得ベキコトヲ確信ス、此点自分ヲ信頼セラレタク、又今度ノ戦デハ日本ノ御力ヲ借リル要ナシ、シカモ戦争ノ結果ハ必ズ日本ノ為ニモ有利ナルベシ」といふことであつた。
 又ドイツ最高軍事当局者は大島大使に対し「今次作戦は恐らく四週間にて終るべし。戦争と名の付くものでなく一の警察措置と見るべきものなり」と言明した。〈二三~二五ページ〉

 文中、リッベントロップ外相の発言に、「自分は松岡外相に対しあれ程はつきりと独ソ戦の不可能なることを御話致して置いたのに、……」というものがあるが、この「不可能」は、「不可避」としないと文脈が通らない。参考までに、朝日新聞社刊『失はれし政治 近衛文麿公の手記』(一九四六年五月)を参照すると、当該部分は、「自分は松岡外相にたいしあれ程はつきりと独ソ戦の不可避なることをお話致して置いたのに、……」(三九ページ)となっている。

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なにゆえ余は日独ソの連携に賛成したか(近衛文麿)

2021-09-27 00:02:36 | コラムと名言

◎なにゆえ余は日独ソの連携に賛成したか(近衛文麿)

 近衛文麿手記『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六)から、「三国同盟に就て」という文章を紹介している。本日は、その四回目。引用にあたっては、漢字による表記を「ひらがな」、「カタカナ」に直すなど、原文に少し手を入れた。

 第二、対ソ親善関係の確立
 三国同盟の第二の具体目標は、独ソ不可侵条約成立後の独ソ親善関係を更に日ソ関係に拡大して、日ソ国交調整を図り、でき得れば進んで日独ソの連携に持つて行き、これに依りて英米に対する日本の地歩を強固ならしめ、以て支那事変の処理に資せんとすることこれである。
元来余は熱心なる日米国交調整論者であつた。昭和九年〔一九三四〕自ら米国に赴き、朝野の士に親しく懇談したのも、何とかして日米間の問題に解決点を見出し、以て太平洋の平和に貢献せんとする微意にほかならなかつた。
 しかしながら事志と違ひ〈タガイ〉、その後日米の国交はただただ悪化の一路をたどり、殊に支那事変以来は両国の国交は極度の行詰りを呈するに至つた。かかる形成となりし以上は、松岡〔洋右〕外相のいへる如くもはや礼譲とか親善希求とかいふ態度のみでは国交改善の余地はない。もちろん日本政府としてはかかる親善希求にのみ終始したわけではない。歴代の外相、殊に有田〔八郎〕、野村〔吉三郎〕両外相は外交の主力を米国政府との直接交渉に向け、日米間最大の問題たる支那問題に関する了解に到達するため惨澹〈サンタン〉たる努力を重ねたのである。
 しかしながらこれらの努力も何らの効なく、もはや米国相手の話合の途〈ミチ〉を以てしては、目的を達すること絶望視されるに至つたのである。しかも日本が世界に孤立する危険は刻々に迫つて居た。ここにおいて唯一の打開策はむしろ米国の反対陣営たる独伊と結び、さらにソ連と結ぶことによりて米国を反省せしむるほかはない。独伊だけでは足りない。これにソ連が加はることによりて初めて英米に対する勢力の均衡が成り立ちこの勢力均衡の上に初めて日米の了解も可能となるであらう。即ち日独ソの連携も最後の狙ひは対米国交調整であり、その調整の結果としての支那事変処理であつたのである。
 日米国交調整論者なりし余は一面において対ソ警戒論者であつた。対ソ接近を好まざる余が何故〈ナニユエ〉に日独ソの連携に賛成したかといへば上述の如く、当時の形勢においては一方においてむしろかくすることが米国との了解に到達し得べき唯一の途と考へられたのみならず、他方警戒すべきソ連の危険は日本とドイツとが東西よりソ連を牽制することによりて十分緩和し得ると信じたからである。
 ドイツは松岡スターマー会談録にもある如く、日ソ国交調整に努力すべく約束し、スターマー特使は帰国後大に努力すべしといふて去つた。かくてドイツは、少くともソ連外相モロトフが、十五年〔一九四〇〕十一月ベルリンを訪問した頃までは日独ソ連携の方向に向つて進んで居たのである。その証拠には当時ドイツよりリッベントロップ腹案なるものが送られて来たのである。即ち左の如し。
日独伊を一方としソ連を他方とする取極〈トリキメ〉を作成し
 一 ソ連は戦争防止平和の迅速回復の意味において三国条約の趣旨に同盟することを表明し
 二 ソ連は欧亜の新秩序につきそれぞれ独伊および日の指導的地位を承認し三国側はソ連の領土尊重を約し
 三 三国およびソ連はおのおの他方を敵とする国家を援助し又はかくの如き国家群に加はらざることを約す
 右のほか日独伊ソ連何れも将来の勢力範囲として
 日本には南洋、ソ連にはイランインド方面、ドイツには中央アフリカ、イタリーには北部アフリカ
 を容認する旨の秘密了解を遂ぐ。
 このリ外相〔リッベントロップ外相〕腹案に対しては政府として同意の旨を答へ、リ外相は同年十一月モロトフソ連外相にこれを提示したのである。〈二一~二三ページ〉

 ここで近衛は、「日独ソの連携も最後の狙ひは対米国交調整であり、その調整の結果としての支那事変処理であつたのである」と述べている。三国同盟を推進したことを肯定する論理である。すなわち近衛は、ここで、三国同盟を推進したのが自分であったこと、そして、三国同盟の捉えかたが、基本的に松岡外相と同じだったことを、みずから認めているのである。

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日米関係改善の手段は毅然たる態度のみ(松岡外相)

2021-09-26 01:14:20 | コラムと名言

◎日米関係改善の手段は毅然たる態度のみ(松岡外相)

 近衛文麿手記『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六)から、「三国同盟に就て」という文章を紹介している。本日は、その三回目。引用にあたっては、漢字による表記を「ひらがな」、「カタカナ」に直すなど、原文に少し手を入れた。

 第一、米国の参戦防止
 三国同盟締結の際賜はれる詔書に「禍乱ノ戡定〈かんてい〉平和ノ克復の一日モ速ナランコトニ軫念〈しんねん〉極メテ切ナリ」と仰せられたるは、即ち米国の参戦を防止し世界戦乱の拡大を防がんとする御主旨なのである。しかしながら三国同盟の締結が果して米国の参戦を防止する効果ありや否やにつきては、大に議論があつた。締結直前の御前会議においても「米国は従来日本が独伊側に走るを阻止するため、日本に対する圧迫を手控えて居つたが、日本がいよいよ独伊側に立つといふ事になれば、自負心強きかの国民の事ゆえこれにより反省するどころか、却て大に硬化すべく、日米国交の調整は一層困難となり、遂には日米戦争不可避の形勢となるべし」との説も出た。しかしながら松岡〔洋右〕外相は「日米の国交は今日までの経験によれば、もはや礼譲または親善希求等の態度を以てしては改善の余地なく、却て彼の侮蔑を招きて悪化さすだけである。もしこれを改善しこの上の悪化を防ぐ手段ありとすればスターマーの言の如く毅然たる態度を採るといふ事しか残つて居ない。その毅然たる態度を強めるために一国でも多くの国と提携し、かつその事実を一日も速に中外に宣明することに依りて米国に対抗することが外交上喫緊事〈キッキンジ〉である。しかし本大臣はかかる措置の反響ないし効果を注視しつつなお米との国交を転換する機会はこれを見逃さないつもりである。ただそれにしても一応は非常に堅い決心を以て毅然対抗の態度を明確に示さねばならぬ」と論じたのである。
 この両説の何れが正しかりしか、即ち三国同盟の締結が果して米国の参戦を防止するだけの効果ありしや否やは永久の謎である。
何となれば昭和十六年〔一九四一〕十二月、米国未だ参戦せざるに、米国の参戦防止を目標としたる日本自身が、進んで米国に宣戦してしまつたからである。
 ただ少くとも同盟締結後約一年余米国が参戦しなかつたといふ事実は、三国同盟の効果であつたといはれぬ事はない。現に米国は十六年四月より開始されたる日米交渉に於て、終始三国同盟を骨抜きにすべく執拗に努力したのである。この事は三国同盟が米国にとり厄介の代物であり、この同盟の存する限り米国は容易に参戦するを得ない事情にあつたことを雄弁に物語つて居ると思ふ。〈一九~二一ページ〉

 ここで近衛は、三国同盟の締結が米国の参戦防止という目標において効果があったか否か、という問題を立てている。締結によって、「日米戦争不可避の形勢となるべし」というのが第一説である。当時の天皇側近、海軍主流、外務省主流は、この考え方を採っていたと思われる。
 一方、陸軍や外務省枢軸派は、三国同盟を締結して米国と対抗することによって、米国の参戦を防止できると考えた。これが第二説である。
 近衛は、この問題は「永久の謎」であるとする。しかし、その文章を読めば、彼が第二説を支持していたことは明白である。近衛首相は、松岡外相とともに、第二説の立場に立って、外交を展開していた。この文章で近衛は、みずからの外交姿勢を明らかにすると同時に、それについての釈明をおこなったのである。
 ついでに言えば、三国同盟の締結が、米国の参戦防止に役立ったか否かという問いは、今日では、ほとんど意味をなさない。なぜなら、日米開戦に関しては、新しい歴史認識が、すでに定着しているからである。――ドイツとの戦いで苦しんでいたイギリスのチャーチル首相は、アメリカの参戦を強く望んでいた。そして、日米開戦に先だって、アメリカのルーズベルト大統領と会談し、そこで、日本の参戦を促すような(日本に「一発目」を撃たせるような)画策がおこなわれていた。日本が、アメリカに参戦すれば、三国同盟の規定にしたがって、ドイツもアメリカに参戦する。これがチャーチルの狙いだった。すなわち、「三国同盟が米国の参戦を防止した」のではなく、むしろ、「三国同盟が米国の参戦を招いた」のである。

*このブログの人気記事 2021・9・26(8位に極めて珍しいものが入っています)

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