礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家永三郎の「天皇制と日本古典」にみる国家と宗教

2012-12-31 06:04:24 | 日記

◎家永三郎の「天皇制と日本古典」にみる国家と宗教

 年末の片付けで、『法律時報』の一九七六年四月号(48巻4号)が出てきた。特集「天皇制」となっていて、横山晃一郎「天皇制と不敬罪」、森長英三郎「私の事件史のなかの天皇制」など、興味深い論文が掲載されている。
 本日は、同誌から、家永三郎のエッセイ「天皇制と日本古典」を紹介してみることにしたい。見開き二ページの短い文章だが、提起している問題は重要であり、また、説得力のある例示がなされている。紹介するのは、その前半部分で、「国家と宗教」という問題を扱っている。

 天皇制と日本古典 家永三郎 東京教育大学教授
 帝国憲法下で日本の歴史・文化を研究してきた一人としての体験と、戦後になってから知った事実や反省を加えて、敗戦前の天皇制イデオロギーならびに法秩序のはらんでいた矛盾点を随筆風に書いてみることとする。
 帝国憲法下の天皇制イデオロギーの本質規定に立ち入る余裕はないが、少なくとも万世一系の皇統の存続が神聖不可侵とされた思想上の根拠は、それが日本古来の尊重すべき伝統とされていたからであり、したがって皇統の存続だけが孤立して尊重されたのではなく、これと不可分の関連をもち「忠孝一本」を基礎づけるとされた「家族制度」や、「尊皇」思想はもちろん、その他もろもろの道徳・文化の伝統(ただし「乱臣賊子」の言動は例外現象として除かれる)が総合的に尊重され、天皇制イデオロギー、当時の用語でいう「国体観念」が「日本主義」「国粋主義」等と呼ばれた日本伝統文化尊重思想に支えられてはじめてその威力を十分に発揮できたことについては、おそらく異論のないところであろう。
 ところが、日本の伝統的文化、たとえば定評ある代表的古典だけを見た場合にも、必ずしも天皇制の神聖維持のために好ましいものばかりでなかったのを看過してはならぬ。天皇制の神聖をそこなう外来の反国体思想の表現を抑止するために設けられたのが、新聞紙法・出版法の「皇室の尊厳冒涜」、刑法の「不敬」、治安維持法の「国体変革」等に対する刑事制裁立法ならびに検閲制度であったが、古典の内にはそれらに該当する内容が、一般に想像されるよりもはるかに多かったのである。
『源氏物語』のストーリーの中心には、主人公光源氏と父天皇の配偶者藤壷女御との密通がはずすことのできない事件として設定されている。たといフィクションであっても、日本の天皇が登場するのだから、帝国憲法期の道徳基準からすれば「皇室の尊厳」をそこなうおそれが多い。難解な原文は誰にでも読めるものでないから、原文の公刊は最後まで放置されたが、脚本化して劇として上演したり、全文現代語訳する試みで、禁止された例があるのはそのためであった。
 仏教は外来宗教であるが、よく日本化し「鎮護国家」の宗教となったので、「国体」と調和したとされた。日本仏教の大勢はたしかにそのとおりの御用呪術に堕していたが、たとえば鎌倉新仏教の開祖たちの教義には、基本的にも局部的にもそうでないものが多い。親鸞の主著『教行信証』には「出家人の法は、国王に向って礼拝〈ライハイ〉せず、父母〈ブモ〉に向って礼拝せず、うんぬん」という『菩薩戒経』の一節を引用しており、巻末には朝廷の念仏弾圧をはげしく非難した「主上臣下、法に背き義に違し、うんぬん」という痛烈な言葉が記されている。道元は主著『正法眼蔵』のなかで「帝者に親近〈シンゴン〉せず、帝者にみえず」とか「帝者の僧尼を礼拝するとき、僧尼答拝せず」などと、出家者が君主に接近従属するのを禁じている。もともと普遍人類的な真理の体得を追求する仏教では、特定国家の世俗的君主への奉仕を拒むのが当然であって、親鸞や道元のように御用化した南都北嶺の旧仏教から脱却して仏教の原点に復帰した人びとにとり、右に引いたような立言は自明の命題にすぎなかったのである。
 天皇制からの自立、その圧迫への抵抗の姿勢を堅持した親鸞・道元と反対に、日蓮は逆に朝廷・幕府を「正法」〈ショウボウ〉に奉仕させ、俗権を宗教の下に置こうとした。日蓮の遺文の随処に「釈迦仏は主なり師なり親なり。天神七代地神五代人王〈ニンノウ〉九十代の神と王とすら、猶〈ナオ〉釈迦仏の所従なり」とか、「仏と申は三界の国主、三界の諸王は皆此の釈迦仏より分ち給て、諸国の総領別領等の主となし給へり」とかの文が散見するのは、そのような立場から出た主張である。天皇制と宗教とを切断することで信教の自由を守ろうとした親鸞・道元よりも、天皇制を宗教に従属させようとした日蓮のほうが、「不敬」の点ではいっそう露骨だったといえるのでなかろうか。
 能楽の主題にも皇室を素材としたものが多く、謡曲の詞章や筋の運びには「皇室の尊厳」維持のためには好ましくないものが少なくない。白河院に仕える山科の荘司〈ショウジ〉という「賤しき者」が女御に恋する物語をテーマとした「恋重荷」〈コイノオモニ〉や、延喜の帝〈ミカド〉の第四皇子で逢坂山に捨てられた盲目の僧の悲劇を語る「蝉丸」などがその例にあげられよう。
 鎌倉新仏教も、能楽も、『源氏物語』と同様に、日本の文化的遺産として世界に誇るに足るトップレベルに位置するものばかりであったが、天皇制イデオロギーが無謀な戦争に国氏をかりたてる武器としてふりまわされた十五年戦争下で、ついに政府は、親鸞・日蓮の著作や謡曲にまで弾圧の手をのばし、真宗・日蓮宗に「聖典」の一部削除や改編を、能楽の家元に特定曲目の上演禁止や謡本の削除改編を命令した。一方で西洋文化を敵性文化として排斥し、日本の国粋尊重を鼓吹しながら、他方で日本の伝統的文化の粋を破壊してはばからぬかような措置は、天皇制イデオロギーの論理的矛盾をはしなくも露呈したものとして、注目に、値いする。真宗・日蓮宗の本山や能楽の家元はいくじなくその命に従ったが、例外ながら日蓮宗の学僧のうちに断乎として宗祖の教義の歪曲を拒み、刑事弾圧を受けても屈しなかった人物の存在する事実は記憶しておかねばなるまい。その詳細が、一九四九年公刊の小笠原日堂著『曼陀羅国神不敬事件の真相―戦時下宗教弾圧受難の血涙記―』に語られていることを紹介しておく。【以下略】

 ここ家永が挙げている『曼陀羅国神不敬事件の真相―戦時下宗教弾圧受難の血涙記―』という文献については、すでにこのブログでも、少し紹介したことがある。まだ、紹介を終えたわけではないので、来年もまた、折を見て、その内容を紹介してゆきたい。
 ちなみに家永は、一九八〇年に『猿楽能の思想史的考察』(法政大学出版局)という本を上梓している。同書は、前編が「十五年戦争下の能・謡への弾圧」となっていることは、一一月一五日のブログで紹介したことがある。この本の紹介も、来年ということで。

今日の名言 2012・12・31

◎帝者の僧尼を礼拝するとき、僧尼答拝せず

 道元の言葉。『正法眼蔵』「三十七品菩提分法」に出てくる言葉。仏教における真理の世界は、世俗の政治権力に優位すると解釈できる。上記コラム参照。

*今年、アクセスが多かったコラム* 今年、アクセス数が多かった日と、その日のコラムを、順に五つ挙げておきます。では、皆様、良いお年を。
1位 7月2日   中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)
2位 9月20日  柳田國男は内郷村の村落調査にどのような認識で臨んだのか
3位 9月17日  内郷村の村落調査の終了と柳田國男の談話
4位 9月5日   雑誌『汎自動車』と石炭自動車の運転要領
5位 12月19日 盛り上がらなかった第20回衆議院総選挙(1937)

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幣原喜重郎、六義園で「赤穂義士」を語る

2012-12-30 05:11:27 | 日記

◎幣原喜重郎、六義園で「赤穂義士」を語る

 一昨日に続いて、幣原喜重郎『外交五十年』(読売新聞社、一九五三)から。同書の一篇「二・二六 逃避行」に出てくる話である。

 余談だが、六義園〈リクギエン〉という庭、私の駒込の矮屋〈ワイオク〉に不相応な名園については、いろいろ話がある。私が外務大臣在職中、アメリカの庭園協会の人が来たので、外人を集めて園遊会をやったことがある。その人が帰国後、日本へ来る人に必らず私を紹介してよこす。それは私を紹介するよりは、私の庭を紹介するのであった。外人客が帝国ホテルヘ着くと、会いたいといって電語をかけて来る。会って何の用かと思うと、庭を見せてくれという。
 それにはその理由があった。この庭は、柳沢保恵〈ヤナギサワ・ヤストシ〉君の祖先の柳沢吉保の作った庭で、赤穂義士の討入りの直前に完成したものである。それで外人客が庭を見に来たとき、私は一度おもしろ半分に、ちょっと四十七士の話をした。それから来る者も来る者も、四十七士の話をしてくれという。何度も繰り返させられて、英語の下手な講談師、いささか閉口したものであった。
 徳川の将軍家がこの庭が好きで、よく遊びに来た。それで将軍様の威光で、玉川からわざわざ堀割を作って、池に水を引いたという大したものである。五代将軍綱吉が屡々当園に遊びに来られた。とにかくその当時、赤穂の四十七義士に死を賜うか、それとも無罪にするかが幕府の大問題であった。頃は元禄の終りごろで、世の中が柔弱淫蕩に流れていた際であったから、義士の行動は一世を感奮せしめた。それで綱吉将軍自身も何とかして義士を救いたいと思ったが、将軍家の発意で無罪放免を申渡すことも異例であるから。菩提寺の寛永寺の坊さんに内々旨を含めて、四十七士の命乞いをさせたなどと伝えられている。
 ところが柳沢の家来で顧問格の荻生徂徠〈オギュウ・ソライ〉という学者が居て、四十七士を助命することはいかん、断然死を賜うべしという意見を唱えた。それを主人の柳沢に説いたことは無論だが、間接にそれが綱吉の耳に入ったか、あるいは六義園へ微行などの折、酒間直接に徂徠が綱吉に説いたのか、それは判らんが、とにかく徂徠の論が容れられ、義士に死を賜うことに幕議が一決し、表面は三、四ケ所の大名屋敷で切腹したことになっているが、実は今の高松宮邸になっている南部屋敷に一同を集めて切腹させたということである。荻生狙徠の説というのは、四十七士の行動は誠に美事なもので感嘆に堪えない。しかし人生は最期が大事である。芳名を万世に伝うるには死を賜うべきである。もしこれを助命すれば、その壮烈な業績はいつしか世人の記憶から失われる。しかも数多き者のうち晩節を汚すものなしとも限らない。彼らの忠節を活かすのは唯だ死あるのみという意味であったらしい。私はよく判らんが、これは徂徠の卓見で、後世、泉岳寺に香煙の絶えないゆえんであると思う。

 幣原喜重郎が、六義園で、外国人に「赤穂義士」を語ったという話は、あまり知られていないはずである。
 幣原は、荻生徂徠が四十七士に切腹を命じたのは、彼らの「芳名を万世に伝うる」ためであり、これを「卓見」と評価しているが、私見では、荻生徂徠が四十七士厳罰説を唱えたのは、彼らの行為を是認しなかったからであって、「芳名を万世に伝うる」ためではなかったと思う(結果的には、「芳名を万世に伝うる」ことになったが)。なお、寛永寺住持・公弁法親王が、綱吉に対し、「芳名を万世に伝うるには死を賜うべきである」と説いたという説があるらしい。

今日の名言 2012・12・30

◎今の高松宮邸になっている南部屋敷に一同を集めて切腹させた

 幣原喜重郎の言葉。幣原によれば、四十七士は南部屋敷に集めて切腹させたという。『外交五十年』(読売新聞社、1953)195ページに出てくる。上記コラム参照。この説の当否については、今、これを判断するだけの蓄積がない。いずれにしても、幣原喜重郎は、「赤穂義士」については、一家言を持っていたようである。なお、南部屋敷というのは盛岡藩の江戸藩邸のことで、維新後は、有栖川宮家用地となり、その後、高松宮家に引き継がれた。今日、有栖川宮記念公園(中に都立中央図書館がある)となっているところである。

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回想・試作電気自動車「たま第1号」

2012-12-29 07:29:35 | 日記

◎回想・試作電気自動車「たま第1号」

 年末の片づけで、日本自動車整備振興会が発行する雑誌『自動車と整備』の創刊150号記念号(第一五巻第二号、一九六一年一月)が出てきた。同誌は、一九四七年八月の創刊で、創刊時の誌名は『自動車整備』、創刊時の発行元は、日本自動車整備研究会であったという。
 特集記事のひとつに、「私の15年前」がある。自動車業界の各氏が、それぞれ一五年前を回想した文章を寄せている。
 本日は、そのうちのひとつ、プリンス自動車販売株式会社技術部長・山内正一氏の回想を紹介しよう。

 10年というと一昔であるが何かつい最近の様な気がする。当時私達が初めて作った電気自動車「たま号」が、今日の「プリンス」のそもそもの卵であった事を思うと大変懐しい。
 私は戦時中は立川飛行機の設計に勤務し、長距離世界記録を作った、航研〔東京帝国大学航空研究所〕及朝日新聞の「A26」と陸軍の高々度長距離爆撃機「キ74」の機体を担当していた。戦争末期には出来上った十数機は空襲を避け、各地の飛行場に疎開したが、運強くか被害なしで終戦になつた。終戦と同時に米第5空軍が進駐して来て会社は占領下に置かれてしまった。A26、キ74の関係者は米軍の命令で疎開した飛行機を整備し、追浜〈オッパマ〉まで空輸し母艦に積込む仕事でその年は暮れた。翌21年には会社は従業員ぐるみ接収され、米軍の仕事をやるよう指示せられた。命をかけて作った飛行機も米国に送り終り、何か気が抜けた様だった。
 此の時に我々が今後何をするかの計画に、中心になり推進して下さったのが現富士精密の外山〔保〕専務で、同志150名が立川基地を抜け出して平和産業の自動車と自働操糸機研究へ進む事に決心した。といってもなかなか容易な事ではない。先づ別の地に工場を求めねばならない。やっと府中に軍用グライダーを作っていた木造2000坪の工場が借りられ、此処に移る事になった。此の工場たるや想像外のしろもので、雨が降ると傘をさして事務をやり、工場内はゴム長で歩くという程のボロ工場だったが、それでも元気一っぱい立川基地からの逃出しにかかった。疎開地からの材料、機械の引揚げ、基地から合法非合法の什器其の他の持出し等さながら夜逃げの感であった。
 当時はガソリンの統制時代でガソリン車の製造は禁止されていたので、電気自動車を作る事にした。たまたま戦前からあった小型電気自動車「デンカ号」が焼残って保存されていたのを見付け、早速手に入れて研究し整備をしてみた。車検も受けてナンバーももらった。だが府中から品川の車検場に行くと東京で充電しないと府中迄帰れないいという、今考える嘘の様な話である。いざ車検となるとシャシ刻印と原導のシャシ番号が一番違いであることが発見され、当時車検官だった根津さん(現東京いすずにおられる)に三拝九拝、やっと盗品でないことが解ってナンバーを頂いた。今でも根津さんに感謝している。
 あれやこれやで当時高速機関(オオタ号)が立川飛行機の子会杜であった関係から図面を借りたり、日立多賀工場でモーターを作ってもらったり(当時日立本社の松原さんの非常な熱意で実現した)、湯浅電地の協力で何とか試作電気自動車「たま第1号」が完成したのは確か21年の秋だったと思う。全員が整列している前で私がハンドルを握りテープを切って初運転した感激は今でも忘れない。
 翌22年に丁度貴誌の創刊の年と聞き、全く感無量である。此の年の8月に生産の乗用車及び貨物車が完成し、日比谷で展示会を行って販売を開始した。以来15年今のプリンスの姿を見ると夢の様である。そして我々の苦難時代より色々面倒を見て下さった、ブリヂィストンタイヤ社長石橋正二郎氏及びプリンス自販前社長鈴木里一郎氏に深く感謝致します。
尚同時に研究を始めた自動繰糸機(繭から人手によらず自動的に糸をとる機械)は、苦節数年にして完成し、今では国内はもとより欧州にも輸出され富士精密の重要な製品となっていることをつけ加えておく。

 かなづかいは、新旧が入り混じっていたが、現代仮名づかいに統一した。漢字は原文のままにしておいた。
 ちなみに、文中にある「プリンス」は、当時のプリンス自動車(一九六六年に日産自動車と合併)の社名および車名である。

今日の名言 2012・12・29

◎テープを切って初運転した感激は今でも忘れない

 プリンス自動車販売株式会社技術部長(当時)・山内正一氏の言葉。山内氏は、試作電気自動車「たま第1号」の初運転を任せられたという。『自動車と整備』創刊150号記念号(1961年1月)62ページより。上記コラム参照。

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命がけで梵鐘を守った古刹の住職

2012-12-28 06:05:21 | 日記

◎命がけで梵鐘を守った古刹の住職

 一昨日、戦争末期には除夜の鐘が鳴らなかったという話を紹介した。これは、「金属供出」といって、軍需品の生産に欠かせない金属を、官公庁あるいは民間に提供させる措置がとられたからである。最初は、任意の供出であったが、一九四一年(昭和一六)には、国家総動員法(一九三八)に基く「金属類回収令」が定められたという。「金属類回収令」は、インターネット上に、その条文がある。
 お寺の梵鐘も、もちろんその対象となった。しかし、すべての梵鐘が供出されたわけではない。国宝、国指定重要美術品となっているものは、供出を免れたという。また、中には次のような「例外」もあった。
 これは、幣原喜重郎『外交五十年』(読売新聞社、一九五三)の中の一篇「鈴木貫太郎夫妻」に出てくる話である。

 戦争中、軍需物資を造るというのでお寺の鐘とか、銅像とかあらゆる金属を民間から取りあげた。村にお寺が一つあり、その寺の釣鐘に白羽の矢が立った。それで村の者が行って、坊さんに釣鐘供出の話をした。坊さんは黙って聞いて居ったが、「それば不可ません〈イケマセン〉。私は承知出来ません。この寺は古い寺で、徳川の何代ごろからのもので、もう三百年も前から今月に至るまで、朝夕に撞くこの鐘の音というものは、実に音と今を繋ぐ一つの連鎖なんです。もしこの鐘を持って行かれたら、もうこの音は聞かれない。うすればこの寺は潰れた〈ツブレタ〉と同じです。そしてそれは私が死んだと同じことです。私としては鐘を供出することは絶対に出来ません」といって、坊さんはどうしても釣鐘を引渡さない。村の者は弱って、われわれが幾ら談判〈ダンパン〉しても、坊さんに言い負かされてしまう。これは鈴木〔貫太郎〕大将に頼んで説諭して貰う外はないというので、ぞろぞろ東京へやって来た。
 鈴木君は、どういう事かよく判らんが、一度帰って話を聞いて見ようと、日曜に関宿〈セキヤド〉へ帰って、坊さんを尋ねた。そして「あなたが釣鐘を献納なさらんそうで、村民が県庁に対して申訳ないといつて、私のところへ訴えて来たが、あなたはどういうお考えですか」というと、坊さんは「あなたは私が献納する方がいいとお思いですか」と反問する。鈴木君は、「イヤ、私はその判断をするのじゃない。村の者がいって来たから、それを伝えただけだ」といった。すると坊さんは暫らく黙然と考えていたがつと立って出て行った。いつまで経って帰って来ない。何か不安な気がして、本堂の方へ行って見たら、坊さんは仏像の前へ坐って、短刀を側へ置き、昔風の切腹の様子である。あわや短刀を抜こうとする。鈴木君が飛込む。危ういところで坊さんの一命を取止めた、そうして、「イヤ、あなたの心持ちは判った。私は何も鐘を献納しろといいに来たのじゃない。しかしあなたがそれほど自分の生命を投げ出しても、法を護ろうとする真情は実に神聖なものだ。宜しい。これからは村の者が何といっても、この鈴木が承知しませんから」といって、坊さんをなだめた。
 それから彼は村の者を寺へ呼出して、「この坊さんは実に尊い人だ。こんな人は日本に滅多に居らん。この尊い坊さんを、お前らが寄ってたかって殺すようなことになりかけた。今後二度とこんな事を申出てはならん。この鈴木が承知せん」と、厳然と申渡した。坊さんは感動する。村の連中はワアワア泣き出す。それは実に劇的な光景であった。

 この鈴木大将というのは、終戦時の首相として知られる鈴木貫太郎のことである。二・二六事件の際、瀕死の重傷を負った鈴木が、夫人のセイキ術によって蘇生したという話は、一一月三〇日のコラムで紹介したことがある。

今日の名言 2012・12・28

◎この鐘の音というものは、実に音と今を繋ぐ一つの連鎖なんです

 戦時中に梵鐘の供出に応じようとしなかった古刹の住職の言葉。上記コラム参照。この古刹が何という寺か、この梵鐘は、その後、重要美術品に指定されたのか、などのセンサクは、今回あえておこなわなかった。

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昭和19年の東南海地震によって生じた鉄道の混乱

2012-12-27 06:00:39 | 日記

◎昭和19年の東南海地震によって生じた鉄道の混乱

 昨日に続き、高田保馬『社会歌雑記』(甲文社、一九四七)から。
 昭和一九年(一九四四)一二月七日、「昭和東南海地震」が発生した(この呼称は、当時のものではない)。この地震によって、東海道線は不通になった。そのアオリを受けた高田保馬は、京都から直江津まわりで、東京に往復したという。

(41) をやみなく汽笛鳴り去り鳴り来る一夜をいねぬ越の直江津(昭和十九年)
 これは十二月十日という日付をもつてゐる。愛知静岡の地震があつて東海道線が不通になつてから北陸線と中央線だけが関東と関西とをつなぐ通路であつた。私共の立場では中央線の利用が出来ないので、北陸線経由で東京に往復した。年末に近づくにつれて、列車の混雑は烈しくなつた。月に一二回の東京行もなかなかのことではない。十二月十日の朝に直江津廻り上野行といふ列車にのりこんではみたが、腰かける席などあるわけはない。新聞紙をしいて小さく座つてゐた。大阪で席をとつた一行四名の客の如きは、佳肴珍味を人見よがしに並べてつつき合つてゐる。列車の速力は遅い。直江津に着くまで十二時間、予期した通りの立ち通しである。此上はと思つて直江津で下車して駅前の旅館に一泊した。車内で連〈ツレ〉が出来て、二人は四畳半の一室をふりあてられた。野宿せずに済むだけでもありがたいことである。丁度初雪の晩で町はとけかかつた雪に蔽はれてゐた。同室の客は岐阜の山中から来たといつて、かち栗を火鉢であぶつて私にもすすめた。床に入ては見たが中々にねつかれぬ。機関車を中心として汽笛があちらに鳴つたり、こちらに鳴つたりする。たうとう、睡らずに夜を明してしまつた。直江津の町にとまることなど、これからまづないと思ふが、縁あつて一泊したその晩は、ただ汽笛の連続であつた。翌日、朝五時頃直江津をたつて信越線経由、上野に出た。途中所見。「漸くに下りとなりて雪はだら長野平の冬浅みかも。」「浅間山雪のおもてにかげ動きまひるの空をわたる雲あり。」

 短い文章だが、よく当時の雰囲気を再現している。
 短歌については、どうこう言えるだけの鑑賞力を持ち合わせていないが、冒頭の一首、文末の二首、ともに良い短歌だと感ずる。特に最後の一首に感銘を覚えた。
 二首目にある「雪はだら」は、雪がまだらに積もっている様をあらわす言葉か。

今日の名言 2012・12・27

◎直江津に着くまで十二時間、予期した通りの立ち通しである

 高田保馬『社会歌雑記』(甲文社、1947)118ページより。上記コラム参照。当時の時刻表を確認したわけではないが、この列車は、大阪発の直江津まわり上野行きと思われる。筆者は、京都からこの列車に乗り込み(たぶん)、12時間立ち通し、ついに直江津で途中下車したという。直江津駅前で同宿した岐阜人は、米原からこの列車に乗り込んだものと推察される。

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