礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

関東大震災と自警団の「不逞人」対応

2015-11-10 06:00:57 | コラムと名言

◎関東大震災と自警団の「不逞人」対応

 このブログで、二・二六事件について、あるいは関東大震災について書くと、どういうわけか、あとまでアクセスが多い。だからというわけではないが、本日は、関東大震災に数日後の深夜、単身、東京にはいった新聞記者(大阪朝日新聞社)の体験談を紹介してみたい。出典は、大阪朝日新聞社整理部編『新聞記者打明け話』(世界社、一九二八)。
 当時、東京の各地に「自警団」が組織されたことは、よく知られるが、この記者は、目の前で、「不逞人」と誤認されたひとりの若者が、自警団員によって惨殺される場面を目撃している。貴重な記録だと思う。

 死 線 を 越 え て  篠崎昌美
 大正十二年〔一九二三〕九月四日! 大正時代におけるこの夜こそ帝都の最も危機に頻した頂上であつた。戦慄と恐怖に包まれた大東京の街々を夜半縦横に歩き廻つたものが果して幾人あらうか、恐らくないといつてもよいくらゐ。その夜は全部が不安におびやかされてゐた、不逞のやからの不意打とかいふ流言【るげん】のため極度におびえた市民、刻々飢餓に迫られつゝある市民、前途不安にかられた市民、等々々!、あらゆる不祥事に印象づけられた矢先とて、その夜の帝都の混乱無秩序なことは言語に絶するの事態であつた。
 一日【つひたち】の午後大阪の本社を発し、伊豆半島の災害状況を詳さ〈ツブサ〉に調査した私は、三日松本から発せられた第一の軍用列車に便乗して入京した。百十数人の新聞通信社員を同駅でまいた心苦しさ、それとゝもにたゞ一人この貴重な列車に乗せてもらつた好運と苦心、それから入京するまでに見聞した幾多の大震災秘録は実に数限りない、たゞそのうち一つ。
  *   *   *   *   *   *
 私は軍用列車の輸送指揮官H大佐と高崎からこの列車に便乗した近衛師団のB参謀から(当時の帝都警備は近衛師団であつた)それぞれ入京証明を貰つた。これで入京の時間と市丙通過の証明は得たわけで、この外【ほか】愛知県知事(名古屋支局取扱)の身許【みもと】証明書を携帯して、田端駅で親切な軍隊の人々とお別れした。『危険だから今夜だけは軍隊とゝもにせよ』と有難い言葉もあつたが、先を急ぐまゝ強ひて単身真黒い闇の中に私は進んだ。近衛連隊のB参謀が『どう考へても危険だから、たつて進むなら第一関所まで送らう』と数町ほど一緒に連れられ、田端青年団総本部に到着、B参謀から詳細私の身の上について証明と保護を依頼された。同青年団は快よく承諾して同町を通過、隣の町内に入つた。
 田端側から『これこれだ』と伝言してくれたので、その二三個所の自警団は手取り早く通過できたが、七八ツも過ぎるうちだんだん紹介の言葉が粗雑になり、『隣町からいうて来た大阪の新聞記者ださうだ、通してやつてくれ給へ』『そんなわけにはゆかぬ、一応は調べる』『それなら調べ給へ』『君、調べを受けてから行かぬと、大変な目に逢ふよ』『ハイハイ』――かうして各地の自警団本部で証明書をいちいち出して見せる。常識のある自警団では近畿地方の被害状況やその他物資のことなど聞いた上で、直【すぐ】に、『今当町通過、大阪朝日新聞社員の報告』として町内に触れ廻る機敏な町当局〈チョウトウキョク〉もあるかと思へば、団長が取調べてゐるその際、不意に木剣【ぼくけん】で私の腰に下げてゐるサイダー壜を一撃する無法者もある。何事だらうと見るとマツチで点火してゐる、揮発油とでも思つたらう、咄嗟に背後から打ち叩くもの、頬【ほゝ】を殴り附けるもの、随分と酷い目に逢ふことが続いた。
 この調子で進めば夜を徹しても目的地に達することは不可能と思つた。だが、それといつて一夜の露をしのぐことを願ひ出ると、何れの自警団も拒絶した、私はやむを得ず足を進めた。取調べは依然として厳重で、なかなか捗らない。ウンザリすること十幾度、遂に一つの悲劇に遭遇した。それは某町〈ボウチョウ〉と某町との中間に設けられた竹やらい〔矢来〕の附近で一人の若いものが××された(数日後この被害者は某大学生で不逞人と間違へられたことがわかつた)ときの光景である。
 眼【ま】の当りに人間が生から死へたどる瞬間を見せられた私は、実際全身の毛穴に冷汗を覚えた。それと同時に前進の勇気もくぢけ果てた、『折角こゝまで来られたのですから……』と親切な在郷軍人団の有志に勇気づけられ、再び起つて進むことにした。かくて気味の悪い、かうした箇所を通過すること二十数ケ所、午前三時ごろやつと不忍池畔【しのばずちはん】に出た。
 こゝからは近衛連隊の警備区域となつてゐた。恐怖の巷【ちまた】、混乱の巷を経てこゝに死灰〈シカイ〉の巷を迎へた。あゝ見渡す一瞬、鬼哭啾々〈キコクシュウシュウ〉、上野一帯一点の燈火【ともしび】もなく、たゞ眼前に燃え上る二ツの土蔵の青白い火焔のみ、しかもそれがものすごくも低く垂れた雨雲に反映してゐる。恐ろしの天変地異よ。私はそれから軍隊擁護の下に、午前四時帝国ホテルに入ることができた。
 この間【あひだ】の秘聞も夥しい〈オビタダシイ〉。翌朝枕許で騒ぐ人々の声に驚いて眼を醒ました。が一向見知らぬ人ばかり。周囲の人々は一斉に『君は誰か?』『本社から来た』『本社て何処の……』『大阪朝日や』『それなら隣りの部屋ぢや、こゝは電報通信社の仮事務所だ』這々〈ホウホウ〉の態【てい】で逃げ出す間の悪さ、これも震災気分の一つ。

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