礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

心中を止めるとき声を掛けてはいけない

2018-04-30 05:06:45 | コラムと名言

◎心中を止めるとき声を掛けてはいけない

 昨日の続きである。野村無名庵著『本朝話人伝』中公文庫版(一九八三)の「解説」において、演芸評論家の藤井宗哲(一九四一~二〇〇六)は、次のように述べていた。
 
 もはや読者も気づかれているように、無名庵はまるで高座から語りかけるように筆を進めている。当時の読者はおそらく聞きたくとも落ちついて聞けない釈場に思いを寄せながら、防空壕や灯火管制下の薄明りで、本書をまるで世話講談を聞いてでもいるように、むさぼりながら耳で読んだのではないだろうか。

 この「耳で読んだ」(下線)という一句に注意されたい。野村無名庵の文体は、まさに講談話の語り口であって、読んでいるうちに、講談師の口調と張扇の響きが聞こえてくるかの感がある。これを藤井宗哲は、「耳で読む」と表現したのである。
 さて本書のうち、「耳で読む」という表現が、最もよく当てはまるのは、石川一夢(一)から同(四)までの文章であろう。それもそのはず、この文章は、最初から「講談」の原稿として、ないし、実際の講談を再現した形を借りて、書かれているのである。
 そのことを確認していただきたく、とりあえず、「石川一夢 (一)」の全文を紹介してみたい。テキストは、協栄出版社版(一九四四)を使用した。

  石川一夢 (一)
 此度〈コノタビ〉は初代石川一夢〈イチム〉といふ、講談の名人のお噂を一席申し上げます。この一夢といふ先生は、安政元年〔一九五四〕五月二十一日。
「持つて来た勘定だけの年たちて、うはば〔上葉〕で遊ぶ夢の世の中」
「夢一つ破れて蝶の行衛【ゆくゑ】かな」
 と以上二首の辞世を残し、五十一歳で亡くなりました。悟りの開けた人物だつたことがこの辞世によつて窺われますが、初代〔松林〕伯円や伊東燕凌と共に、当時の三名人と称せられ、講釈の方では端物【はもの】といふ、即ち世話講談が巧【うま】く、とりわけて「佐倉義民伝」と来た日には、古今独歩得意中の得意でありましたから、
「一夢がどこそこで義民伝を読んでゐるぜ」
 となると、如何なる時でも必ず入り〈イリ〉があつたと申します。所謂極めつき折紙つき、その人に限られた至芸だつたと思はれます。その頃ほひ、東両国〈ヒガシリョウゴク〉の北詰に、講談を専門の寄席がありまして、これは橋番〈ハシバン〉の五郎兵衛といふ人が経営してゐたところから、人呼んで五郎兵衛の席と申しました。その講釈場〈コウシャクバ〉へ石川一夢がかゝりまして、得意の「義民伝」を読んでゐると、面白いので毎日大入り、その中に、そろそろこの続き物も終りに近づき、いよいよ宗吾一族が茨木台でお処刑【しをき】という条【くだり】にかかりました。満場の聴衆、水を打つたやうになつて聴いてゐると、一夢は釈台を叩いて調子に乗り、
「その時数万の見物人、矢来【やらい】の外にて押あひ、へしあへ……」
 云々と弁じました。ところが多勢の聴衆【きやく】の中に、佐倉在【さくらざい】から出て来たお百姓が、四五人連れで聞いて居りまして、思はず苦い顔をいたしました。然し多勢【おほぜい】の中だから、一夢は心づきません。その侭に講演を続け、
「さてこのお後〈オアト〉は明日の後座【ごさ】に申し上げませう」
 といつもの通り、喝采の裡【うち】にその日は終演【うちだし】となりましたが、かの四五人連れは出ても行かずに後へ残つて居りまして、一夢が丁寧に一礼し高座を下りやうとするとその傍【そば】へ近づいて参り、
「先生ちよつくら待つて下せえ」
「ハイ、何か御用で……」
「ハア、私どもは下総【しもふさ】の者で、今度江戸へ出て参り馬喰町【ばくろちやう】に宿を取つて居りますが、先生の宗吾様の御講釈を伺つて、いかにも感服致しましたので、毎日聞きに参つて居ります」
「それはそれは、御屓贔【ごひゐき】まことにありがたい事でございます」
「就きましては、どうも余計な差出口〈サシデグチ〉でごぜえますが、先生聞いて下せえませうか」
「ハア、何なりとも伺ひませう」
「イヤ外でもありましねえ。今更私共が申上ぐる迄もねえ事でがすが、宗吾様は佐倉領二百二十九ケ村、何万何千人の総名代【そうみやうだい】になつて、御自分ばかりか妻子眷族〈ケンゾク〉の命を投げ出し、一同の苦しみを救つて下すつた大恩人でごぜえます。その神様とも仏様とも思ふ大恩人の宗吾様御一族が、見るも酷【むご】たらしいお処刑【しおき】におなりなさるところを、誰がのん気らしく見物なんぞ出来ますべえかね。心ある者ならば、皆わが家へ引きこもつて表をしめお題目を唱へたり、お念仏を申したりして御一族の御冥福をお祈り申してゐたに違ひねえと思ひます。とてもその場へ参つてお処刑を見るなんて事は、人情として出来ますめえ」
「ウーム、成程……」
「それを矢来の外に数万の見物、押合ひへし合ひと申されましたは、先生にも似合はねえ事ではごぜえますめえか。然かしそこは講釈のことで、文の形容【かざり】といふ迄ならば、せめてそれを見物人と言はずに、宗吾様へお名残【なご】りの別れを惜まうとお見送りの人々、とでもお直しになつてはどんなものでがせうなア」
 言はれました時に石川一夢、
「イヤこれはどうも恐れ入りました。大きに心づきませんで汗顔【かんがん】の至りでございます。仰せ一々御道理【ごもつとも】の次第、ようこそ御注意下さいました。以来はお教へ通りに直して弁ずることといたしませう」
 恭【うやうや】しく礼を述べました上、兎も角〈トモカク〉もとその一行を、柳橋の万八〈マンパチ〉という有名な料亭【ちやや】へ案内いたし、一夢が御馳走【ごちそう】をいたしました。
「こんな事をして貰つては済みません」
 とお百姓たちは恐縮しましたが、国へ帰ってこの事を、名主様【なぬしさま】や五人組に話したので、
「偉え〈エレエ〉先生があるものだ。そういう人に是非佐倉へ来て、宗吾様の講釈を聴かせて貰ひ度え〈テエ〉ものだのう」
 という事になりました。そこで今度は五人組の衆が付添って江戸へ出府【しゆつぷ】、改めて一夢の宅【うち】を訪ね、先頃の礼を述べた上、佐倉への来演【らいえん】を頼みましたので、一夢も快よく承諾いたし、日取りを定めて佐倉へ乗込み、二百二十九ケ村の人々へ、毎日組を分けては講演をいたしましたが、有がたい宗吾様のお話でありますから、一同感涙【かんるゐ】を流して謹聴、木戸銭は一切無料【むれう】としたのですが、志の包み金も大層な額に上り、一夢はその半分を佐倉の宗吾霊堂へ奉納、いゝ心持になつて江戸へ帰りましたが、各村の有志から贈られましたビラばかりでも、馬の背に積み切れない程あつたと申すこと、ただしこれは後のお話でありますが、この佐倉のお百姓たちを柳橋の万八へ招待しましたその晩のこと、一夢は客人を送り出して、自分も酩酊【めいてい】した侭、酔顔〈スイガン〉を両国の川風に吹かれながら、本所二葉町〈ホンジョ・フタバチョウ〉の我家〈ワガヤ〉へ帰ろうと、横網【よこあみ】の川つぷちをブラブラ参りましたのが、当今の時間で夜の十時頃おひ、モウ人通りも絶へて淋しうございます。今一夢が御蔵橋〈オクラバシ〉を渡り、長々と続いた筋塀【すぢべい】へ沿つて、夜道を段々参りまする四五間先に、暗中【くらやみ】ながら佇【たゞず】んでゐる人影が見えました。而もそれは二人らしい。どうやら若い男と女のやうだから、そこは苦労人の石川一夢、
「ハ丶ア、密会か、夜鷹【よたか】か、それにはお誂【あつら】へ向きの場所だらう」
 心中に苦笑ひをいたし、邪魔をするのも野暮【やぼ】だらうと、塀際【へいぎは】へ身体を寄せるようにいたし、足音を忍ばせて通り抜けようとしたその途端、男も女も今まで泣いてゐたらしい涙声で、
「サア、いつ迄くり返しても同じこと、所詮【しよせん】生きては添はれぬ身の上、お前も覚悟をしておくれ」
「覚悟は疾【と】うにして居ます。未来は必ず夫婦ですよ」
「念を押される迄もない、それではお浜」
「南無阿弥陀仏【なむあみだぶつ】……」
 唱名【しやうめう】もろとも身を躍らせ、石垣の上から大川へ、あはや両手をつないで飛込まうといたしました。申すまでもなく情死【しんじう】であります。イヤ驚いた石川一夢一時に酔【よひ】もさめてしまひ、最う〈モウ〉斯う〈コウ〉なつては粋【すゐ】なんぞを利【き】かせてゐる場合でない。それと見るより履物〈ハキモノ〉をぬぎすて、足袋跣足【たびはだし】の侭でそれへ飛び出し、今一瞬の差で河岸を離れやうとする男女の、帯際【おびぎは】を両手で確か〈シカ〉と掴んでから、
「莫迦野郎【ばかやらう】ツ……」
 と精一杯の声を出しました。これが一夢の物馴【ものな】れたところで、さすがに始終【しじう】高座から、斯ういふ場合の講釈を演【や】つているだけに、心得が違ひます。若しこんな時にアワを食つて、遠くから声でもかけた日には、却つて先方を早く飛び込ませてしまひます。水ヘ入つてからでは助けにくい、飛込まない中に抱き止めるのが第一だが、それには声をかけてはいけません。いきなり引捕へて〈ヒットラエテ〉おいて、それから警告の声をかけるべきものださうで、これも生ぬるい、同情的の言葉をかけては駄目だと申します。次第によれば横つ面【つら】の一つも引ぱたき先方【さき】がムツとして反感を起すような激しい大喝【だいかつ】を浴びせて脅【おど】かすに限るさうで、何しろ貴重な命を我から棄てて縮めようという程、精神に異状を来たしてゐる時なのですから、普通のことでは気がつきません。ひどく脅かされるので初めて反省もし、所謂つきかかつた死神も離れるといふ道理でありませう。アナヤと身をもがく男女を、力に任せてズルズルズル、往来の真ン中まで引戻した一夢が、左右へ引据ゑてホツと一息、
「何てえ真似をするんだ不量見【ふりやうけん】な。大切に使えば一生保【も】つ寿命を、粗末にするとは何たる罰当りだ、ざまア見やがれ」
 と又叱つた。こんな文句は年中高座で売物にしてゐるんだから、骨も折らずにスラスラと出ます。その声音【こはね】に心づいて顔を上げた若い男が、
「アツ、貴方は石川一夢先生、アヽツ、面目【めんぼく】ないツ……」
 といふとバタバタバタ、逃げ出さうとするのを又引止めました。
「何だ。どこの人かと思つたら、お前は五岳さんの伜【せがれ】、芳次郎さんではないか」
 と一夢も意外に思ひましたのは、同じ講釈師で笹川五岳、この人が又、至つての芸達者で、太閤記全部を無本で演じたという程記憶が強く、一晩中でも打通し〈ブットオシ〉に立読【たちよみ】をして疲れを見せなかつたと申す位、その代り根性もひねくれて居りまして、まだ一夢が修業中の小僧時代、五岳の方がぐつと先輩だつたから、
「廃【よ】しねえ廃しねえ。お前のやうな不器用な弁口【べんこう】で、講釈師なんぞにならうてえのが量見ちげえだ。やめちまへやめちまへ」
 高座の横から顔を出して大声に叱りつけ、多勢の聴衆【きやく】のゐる前で、赤面させたことが何遍あるか分りません。その度毎〈タビゴト〉ごとに一夢の無念さは如何ばかり、然し対手は先輩だから言葉を返す事は出来ない。散々【さんざん】苛【いぢ】められるのをぢつと堪へ通しました。

 かなり長いが、ここまでが(一)である。語り口は、完全に「講談調」である。
 途中、「ただしこれは後のお話でありますが、この佐倉のお百姓たちを柳橋の万八へ招待しましたその晩のこと」という箇所がある。ここで話題が転じ、しかも、時間も遡っている。にもかかわらず、改行もなく、句点(マル)すらない。文章として読んだ場合は、この転換がわかりにくいが、これを講談師が語る場合には、間合いを置いたり、声の調子を変えたりして、聴衆に対して、話題の転換と時間の遡及を明らかにすることになるだろう。そして、読者もまた、ここでは、講談師の「語り」を耳に浮かべることによって、話題の転換と時間の遡及を確認するわけである。
 すなわち、これは、講談師の「語り」を意識しながら読むと理解しやすい文章であり、あるいは、そのようにして読むべき文章なのである。これを称して、「耳で読む」文章という。

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無名庵は高座から語りかけるように筆を進める

2018-04-29 02:15:23 | コラムと名言

◎無名庵は高座から語りかけるように筆を進める

 一昨日、神田神保町の古書展で、野村無名庵著『本朝話人伝』(中公文庫、一九八三)を入手した。定価三八〇円、古書価二〇〇円。この中公文庫版は、その後、改版して、中公文庫BIBLO版となったようだが(二〇〇五、定価八五七円)、こちらは未見。ちなみに、中公文庫版、中公文庫BIBLO版とも、現在では品切れになっているもよう。
 中公文庫版を手に取り、まず、カバーの折り返しにあった「著者紹介」を読んだ。口ヒゲをはやし紋付を羽織った著者の写真の下に、次のようにあった。

著者紹介/野村無名庵【のむらむめいあん】
明治二十一年(一八八八)、東京牛込に生まれる。本名、野村元雄、のち元基と改名。日本橋坂本小学校から府立第一中学校に入るが、父の死により中退。医者の住込み書生などしたのち、三代目古今亭今輔に弟子入り。その後、日本演芸通信社に入社、都新聞などに演芸記事を寄稿する一方で、大衆読物、新作落語の創作をはじめ、話芸を中心に幅広い文芸活動を行う。昭和二十年五月の東京大空襲で死去。『落語通談』『大江戸隣組』などの著書がある。

 次に、「解説」を読んだ。解説は、演芸評論家の藤井宗哲〈ソウテツ〉が執筆しているが、特に最後の部分が印象に残った。以下に、その部分(二七一ページ)を引用させていただく。

 本書は昭和十九年〔一九四四〕四月、協栄出版社より刊行された。いうまでもなく戦争がだんだんいけなくなってきた頃である。そんな状況下で本書を手にした人々の思いはどうだったろうか。もはや読者も気づかれているように、無名庵はまるで高座から語りかけるように筆を進めている。当時の読者はおそらく聞きたくとも落ちついて聞けない釈場〈シャクバ〉に思いを寄せながら、防空壕や灯火管制下の薄明りで、本書をまるで世話講談を聞いてでもいるように、むさぼりながら耳で読んだのではないだろうか。
 冒頭で述べたように、本書は宝暦八年〔一七五七〕から明治三十年〔一八九七〕の柳桜〔初代春錦亭柳桜〕、三十三年〔一九〇〇〕の燕枝〔初代談春楼燕枝〕、円朝〔初代三遊亭円朝〕の死に至るまでを書いている。そして、円朝、燕枝の死によって、江戸の講談、落語の幕が閉じられたといっても過言ではない。それは同時に近代寄席芸の幕開けでもある。
 無名庵はあとがきで、近代の何人かの講談、落語家を続編にしたいと書いている。そして、構想も立てられていたと聞く。それらの諸芸人は無名庵が生まで知った人達ばかりである。それただけに力の入れ方もまた違ったであろう。しかし、続編を世に出す前、翌二十年〔一九四五〕の五月二十五日の大空襲で、猛火に巻かれて不慮の死をとげた。その思いはどうであったろうか……。

 文中に「釈場」という言葉があるが、講釈を専門とする寄席の意味。「講釈場」〈コウシャクバ〉を省略した形であろう。ちなみに、寄席=「よせ」は、寄席=「よせせき」の省略形であるという。
 上記の解説では、初代談春楼燕枝(三代目麗々亭柳橋の隠居名)の没年を明治三〇年(一八九七)としている。これは、本書本文における野村無名庵の記述(中公文庫版、二六三ページ)に従ったものであるが、今日、ウィキペディア「麗々亭柳橋(3代目)」の項を見ると、没年月日は、「1894年6月8日(68歳没)」となっている。どちらが正しいのであろうか。

*このブログの人気記事 2018・4・29(9位に珍しいものが入っています)

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「ハックルベリイ・フィンの冒険」と吉田甲子太郎

2018-04-28 02:40:03 | コラムと名言

◎「ハックルベリイ・フィンの冒険」と吉田甲子太郎

 このブログでは、今月に入ってから、『星野君の二塁打』など、吉田甲子太郎の作品について触れる機会があった。これを読んだ青木茂雄氏から、一昨日、次のような投稿があったので、本日は、これを紹介したい。
 この文章は、「よしだきねたろう」という固有名詞に触発されて書かれたものであって、青木氏の自伝の一部という位置づけになる(ただし、番外編)。青木氏には、できれば、このあと、『星野君の二塁打』の内容に踏み込み、それが「道徳教材」として適しているのか否かについて、あるいは、「道徳」という教科そのもの適否について、論じていただければと期待する。
 以下、最後まで、青木氏の文章である。

「ハックルベリイ・フィン」のころ
  記憶をさかのぼる【番外編】   青木茂雄
       
 昨年11月に連載を始めた私のささやかな自伝の試み「記憶をさかのぼる」は現在休止中であるが、時間の余裕ができたら再開する予定である。幸いなことに、古い時代のことは良く憶えているもので、しばらくはこの記憶が失われることはないであろう。切迫しているのは、この世の中の推移の方だ。とくに高校学習指導要領の改定が「告示」され、「公共」という極めて怪しげな科目が発足し、旧社会科の地歴・公民の内容が激変すること必至の状況にある。黙視するわけにはいかない…。
 さて、礫川さんが先日ブログで吉田甲子太郎のことについて書いていた。その「よしだきねたろう」という名前には私はずいぶん昔からなじみがあった。
 私が小学校6年生のころ、NHKラジオ第1放送で「ハックルベリイ・フィンの冒険」という連続放送があった。たしか、私が小学校を卒業して地元の中学校に入るころだから、1960(昭和35)年の2月か3月に始まって、半年ぐらいは続いたのではないかと思う。午後6時ごろから始まる15分くらいの短い連続番組だった。私は学校から帰って、しばらく遊んでから、6時近くになると家に戻ってきて毎日聞いた。日が長くなってきて、その放送時間は外は明るかったという印象が残っている。
 その番組の冒頭には、アナウンサーが「ハックルベリイ・フィンの冒険、マーク・トゥウェイン原作、よしだきねたろう訳、脚色…、音楽…」と発声した(脚色と音楽は誰だったか憶えていない)。
 アナウンスの前にテーマ音楽が入り、これが当時の私にとっては大変に珍しかったジャズのリズムで演奏された。歌詞とメロディーは今でもよく憶えている。

 ハック、ハック、ハック、ハック、
 ハックルベーリイ・フィン、
 ハックはみんなの友達だ、
 冒険、探検、何でも来い、
 悪いやつらをやっつけろ、
 心の中は青空のようだ。

 ラジオ番組「ハックルベリイ・フィンの冒険」はマーク・トゥウェインの「トム・ソーヤーの冒険」と名作「ハックルベリイ・フィン」を合体してラジオドラマに脚色したもので、地方判事という良家の子息トム・ソーヤーと浮浪児ハックルベリイ・フィンとの交流・冒険・探検の話であった。時おり訪れるハックの父親のエピソード、ミシシッピ川の中洲の無人島探検や「悪漢」“インディアン・ジョー”との対決など子供心にも胸躍るものがあった。ハックルベリイの声を担当したのが、里美京子だったと思う。その少し前にこれもNHKラジオの連続放送「ヤン坊・ニン坊・トン坊」のヤン坊の声も里美京子だったと記憶している。里美京子の声は、少し年上の大人びたお姉さんの声の代表として私には記憶された。
  ◇  ◇  ◇
 私の家にテレビジョンが据え付けられたのは、かなり遅く1964(昭和39)年の東京オリンピックが始まる少し前であった。一般に、1960年頃までには各家庭にテレビ受信機が普及したと言われているから、私の家の場合は標準から5年くらい遅れていた。私は、この遅れの理由を、家が貧乏であるからだと固く信じて疑わなかった…。
 中学校に入っても級友とのテレビ談義には一切加わらなかった。大体テレビの番組にはそもそも興味が無かったし、知るよしもなかった。その代わり、わが家のだんらんの中心にあったのはかなり後々までラジオであった。そのラジオの上には、いつからとなく迷い込んでわが家に住み着いた白猫が、冬になるとねそべっていた。
 ラジオは、大体がNHKの番組であったが、良く聞いていた。とくに落語がおもしろかった。その頃、夕刻には「一丁目、一番地」という連続ドラマをよく聞いた。名古屋章が父親役の一家のホームドラマで、よく聞いているとその家にはテレビがまだ無いという設定になっており、私はテレビが無いのは自分の家だけではない、と安堵したのを憶えている。ところで、名古屋章は一般的なサラリーマンの、ちょっとかっこ良い父親の代表の声として記憶された。私は例えば宝田明のような見栄えのする人物を想像していた。後に映画のスクリーンでお目にかかった印象はだいぶ違っていたが…。
  ◇  ◇  ◇
 私は「ハックルベリイ・フィンの冒険」の原作を読んでみたくなり、中学1年の時に、誕生日のお祝いに母に買ってもらった。創元社の少年少女世界文学全集の中の1冊で、訳者が吉田甲子太郎、挿絵入りの豪華本だ。私は、こたつにあたりながら一気に読んだ。その後も何度か読んだ。しかしラジオから聞いたのと、だいぶ印象が違う。どこかシリアスなのだ。そのシリアスさがどこから来るのかということは子供の私にはまだ分からなかった。
 私は、小学校の高学年ころから、アメリカ映画は何本か観る機会があり、異国としてのアメリカの像をそれなりに浮かべることができた。しかし、それはあくまでも外側からだけであった。私は、吉田甲子太郎訳の「ハックルベリイ」を通して、アメリカというものと内側から向き合うようになっていった。中学1年で英語の学習が本格化してきた頃であった。

*このブログの人気記事 2018・4・28(10位に極めて珍しいものが入っています)

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一生を下積みに終った不遇の芸人の方が多い

2018-04-27 05:10:29 | コラムと名言

◎一生を下積みに終った不遇の芸人の方が多い

 野村無名庵著の『本朝話人伝』(協栄出版社、一九四四)を紹介している。本日は、その四回目で、同書の「あとがき」を紹介する。
 原文では、ルビが多用されているが、その一部を、【 】の形で再現した。〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による注である。

  あ と が き
 講談落語名人誌の稿を起してより、一冊に全編を輯録すべき意図なりしも、次第に枚数を費してまだ半ばに達したに過ぎません。わづかに明治期に入つたのみで、まだあとには、講談の部に、花楽の陵潮〔伊東陵潮〕、〔桃川〕燕林の実、のんのん南龍〔二代目田辺南龍〕、名人の〔邑井〕一〈ハジメ〉、その子貞吉〈テイキチ〉、或は〔邑井〕吉瓶〈キッペイ〉、〔柴田〕馨やら、〔松林〕伯知やら、本編中にも談話を引用して資料と仰いだ〔東流斎〕馬琴老やら、次郎長の三代目〔神田〕伯山や、〔一龍斎〕貞水、〔桃川〕如燕、〔小金井〕芦洲、〔錦城斎〕典山、〔一龍斎〕貞山、南龍〔二代目田辺南龍〕さては〔伊藤〕痴遊、〔細川〕風谷、〔大谷内〕越山等、最近の諸名家に至る迄、一方落語の部に於ては、〔三遊亭〕円生〈エンショウ〉、〔三遊亭〕円橘〈エンキツ〉、鼻の円遊〔三代目三遊亭円遊〕、〔柳家〕禽語楼、〔三遊亭〕円馬、〔三遊亭〕円左【ゑんさ】、〔橘家〕円喬、小さん〔三代目柳家小さん〕、〔三遊亭〕円右〈エンウ〉、〔柳亭〕左楽、〔橘家〕円蔵、〔都々逸坊〕扇歌、〔三遊亭〕小円朝、〔橘ノ〕円〈マドカ〉、〔立花家〕橘之助、〔柳亭〕燕枝【えんし】、〔三升家〕小勝、〔柳家〕三語楼、乃至、〔入船亭〕扇橋【せんけう】、小さん〔四代目柳家小さん〕、〔桂〕文楽、〔柳家〕金語楼等、現在の面々に至る、諸家の列伝や目まぐるしき程の、沿革消長を語るには、尚以上の分量を要することと思はれますので、これは後編にゆづりますが、こゝに一言〈イチゲン〉いたしたきは、この書物を著した目的が、唯【たゞ】この道の事を、調査研究せらるゝ方々の参考資料たらしむるためにありますことでこゝに選んでのせた伝記中の人々は、皆それぞれ一世に名をあげた、成功者の話ばかりゆえ、これだけを見ますると、講談師落語家などは、割にやさしく立身【りつしん】が出来るものと、早合点をする読者がないとも限られず、年少子弟を過る〈アヤマル〉事ありはせずやと、いさゝか老婆心より憂慮もいたされます。どういたしまして、この反面に於て此〈コノ〉道の、失敗者落伍者はどの位あるか分らず、一生を禄々【ろくろく】と、下積みに終つた不遇の芸人の方が、数に於ては多いのでありまして、その中の何十分の一か、何百分の一かの少数の人々が、どうにか物になり得たのみに止まります。即ちごく選ばれた、天分のある特別の人が、非常の努力と苦労とによつて、辛うじて此〈コノ〉列伝中へ入れた訳【わけ】なのでありまして、決して誰でもなれるわけのものではありません。むしろ他の方面に於て、こゝに至る迄の苦心と努力をしたらもつと早く、もつと容易【たやす】く、どれ程立身も出世も出来て世の中の為めになれたか分らないと思ふ程であります。それはマア何の業でも同じではありますが、所謂【いはゆる】勝てば官軍とやら、成功したればこそ、先生とか師匠とか、世間でも認めませうが、その位置まで行かれなければ、残念ながら軽蔑を以て遇せられても文句のいへぬ家業であります。近頃でこそ、芸能人とか、芸術家とか申しますものの、昔は芸人【げいにん】といつて下等視され、堅気【かたぎ】を去つて芸人など志望すれば、勘当〈カンドウ〉はお定まり、親類縁者からは義絶をされるものに極つてゐたのを見ても分ります。よほど天分のあるものに非【あらざ】れば、講釈師や落語家などを志すものではありません。要はこの書中の名人大家たちが、その盛名を得るに至る迄の、忍耐と精進との精神を学び、これを各自の行く道に応用して頂きたいのであります。念の為特に呉々〈クレグレ〉も、此点を力説して本編を了ります。

 この「あとがき」によって、本書は、「講談落語名人誌」の前編にあたること、著者はこのあと、後編の刊行を予定していたことがわかる。
 同書の紹介は、このあとも続けるが、明日は、いったん話題を変える。

*このブログの人気記事 2018・4・27

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正徳4年から使われていた小柳亭の釈台

2018-04-26 03:02:17 | コラムと名言

◎正徳4年から使われていた小柳亭の釈台

 一昨日および昨日、野村無名庵著『本朝話人伝』(協栄出版社、一九四四)から、「名人しん生 (一)」、そして「名人しん生 (二)」という文章を紹介した。
 この本で野村無名庵〈ムメイアン〉は、馬場文耕、赤松瑞龍、立川焉馬〈タテカワ・エンバ〉を初めとして、多くの「話人」(講談師、落語家)の伝記、逸話を紹介している。順序が前後したが、本日は、本書の冒頭(ただし、目次のあと)に置かれている「巻頭に一言」という文章を紹介してみたい。
 原文では、ルビが多用されているが、その一部を、【 】の形で再現した。〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による注である。

本 朝 話 人 伝    野 村 無 名 庵

  巻頭に一言
 江戸が東京となつて更に大東京に拡がり、東京都と発展して、大東亜、否【いな】八紘一宇の中心地にならうといふ時の勢ひ、これに伴って何事にも浮沈消長は免れがたく新聞雑誌或は単行本の速記物やラジオの放送によつて、読むだけの講談聞くだけの講談は、大に普及発達いたしましたが、反対にその本元【ほんもと】たる、演者を見たり聞いたりして味ふ定席〈ジョウセキ〉の講談は却つて振はず、講談の席即ち講釈場〈コウシャクバ〉は都内に唯の二三軒といふ、空前のさびれ方を示すに至りましたこと、当業者の遺憾も嘸【さぞ】かしと同情されます。もつとも数の少なくなつたのは、講釈場ばかりでなく、色物〈イロモノ〉はじめ其他の寄席【よせ】といふ寄席が、その盛【さかん】なりし昔から思ふと嘘のやうに少なくなつて居りますのは、これに代るべき大衆の娯楽場、とりわけて映画館が、非常な勢ひで増加して来た影響を、先づその原因の第一に数へねばなりますまい。ところが昨今決戦態勢重大時局の関係から、映画の方にも統制が行はれる一方、内容的にも転換があり、それ等が動機で実演ものへ、一般の興味がふりむけられた結果、講談落語色物等寄席の演題も、再び時流に迎へられて興隆の兆〈キザシ〉を示して来たとのこと、これは我等同好者にとりまことに喜ばしい現象でありますが、何にせよその以前は、神田の須田町〈スダチョウ〉を中心に、小柳【こやなぎ】、白梅、立花の三席が、目と鼻の近い所へ鼎立し、三軒ともそれぞれ繁昌をして土地の名物にもなつてゐた。それが白梅【はくばい】先づ失くなり小柳姿を消し、更に残つた立花も、数遍の代替り、三軒も一ツ所に栄えてゐたのが一軒になり、つまり神田の一局部だけでもこれだけ変化があつたといふ事になりますが、今申した三軒の中、小柳だけは講談席、而も由緒の頗る古い家で、表看板へ大々的に「正徳四年創業」と書き出し、これを何よりの自慢にしてゐました。勿論経営者は何代も変りましたらうが、この看板が事実とすると、正徳〈ショウトク〉から現代まで二百何十年、おまけや掛値【かけね】があつて話半分として見ても百何十年といふ事になります。ずい分古い家柄だと思ひますが、この小柳に、その創業の始めから、ずつと伝はつたといふ釈台【しやくだい】がありました。釈台とは高座【かうざ】で演者が前に控へる机で、講談師が張扇や拍子木〈ヒョウシギ〉で叩き立て叩き立て、調子をとりながら弁舌を揮ふには、最も肝要な道具であります。これをそもそもの創業から使つたとすると、古来数百数十人の大家小家、名人不名人、長老末輩、有名無名の講釈師たちが、この釈台を前にして毎日毎夜弁じ立てたことを考へると、恐ろしい位の感じもしましたが、ひどいもので釈台もかうなると不思議な功能を現はしたといひます。何しろ何遍か削り直して、可なり薄くもなつてゐましたが、それでも机の表面に、ピシリピシリと張扇【はりあふぎ】の当るところは、誰が叩くにしでも大てい場所がきまつてゐますから、そこだけが深く凹んで溝になつてゐました。そして天気の悪くなるときは自然天然と、この釈台に湿【しめ】りが来まして、まるで汗をかいたやうになる。いくら拭【ふ】いても又ジツトリとして来たさうで、その反対にこれが乾いて来ると、降り続いた雨もきつと止んで、カラリとした快晴になる、それはモウ判で捺したやうだつたと席主がいつてゐました。つまりこの釈台によつて気象が予測出来たわけで、斯う〈カウ〉なると無心【むしん】の机も何だか性ある化け物のやうにも思はれます。若しもこの釈台が今まで伝はつて居りましたら、写真にも撮れませうし、実物を展覧会などへ出陳【しゆつちん】も出来ませうが、惜しいかな。大正十二年〔一九二三〕関東大震災の時に、神田区は一番最初に火の手に見舞はれ、小柳も勿論類焼、名物珍物の由緖古きこの釈台も、灰になりましたのは返す返すも惜しい事でありました。否、机ばかりではありません。この震災によつて、講談や落語に関する参考書画や物品も、烏有【ういう】に帰したものが少なからず、さらぬだに文献や記録に乏しき斯道〈シドウ〉の考証には、一層大きな障碍となりましたが、幸にもこの震火災【しんくわさい】の少し前から、関根黙庵先生の苦心してお蒐【あつ】めになつた材料及び、それによつて編纂せられた「講談落語今昔譚」と申す書物が辛うじて祝融〔火災〕の厄を免【まぬか】れましたこと、まだしもの仕合せと申すべく、然しこれが原因で先生は病を得て間もなく永眠せられましたのは、全く斯道の事を記録する為めに殉ぜられたとも云へるのであります。爾来いさゝかその御遺志【ごゐし】をつぎ心がけて集めました材料や、見聞の筆記より、兎に角この名人誌がまとまつた次第、努めて年代順に述べるつもりではありますが、読物としての興味も考へねばなりませんから、記事の配置に陰陽の色どりをも配慮いたしましたので、順序の前後や脈絡の飛び飛びになりましたところもありませう。そこは及ぶ限り年代的の書添〈カキソエ〉をしてあります故、御熱心の研究家が、これによつて更に整理して下されば、講談落語年表といつたやうなものも自然に出来やうと存じます。そして小うるさくいろいろと、参考になりさうな事を書き入れましたのも、全く後世への記録資料を、提供したい微衷〔気持ち〕であります故、お目ざわりの点は、予め御寛容を願ひまして、然らばこれより、そろそろ本文へ入る事といたします。
 ○神田小柳亭 大正末年廃業
 ○同 白梅亭 昭和十三年〔一九三八〕廃業 
 ○同 立花亭 昭和十一年〔一九三六〕前席主大森氏の手より一龍斎貞山へ譲り、更に他の手へ渡り、現在東宝の手にて直営。

 文中、「正徳四年」とあるが、西暦に直すと、一七一四年になる。また、注に「前席主大森氏」とあるのは、たぶん、大森竹次郎のことであろう(インターネット情報による)。

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