礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

その老人は音もなく天井に消えた(坪井一等兵)

2022-01-31 00:43:42 | コラムと名言

◎その老人は音もなく天井に消えた(坪井一等兵)

 岡田啓介述『岡田啓介回顧録』から、第八章「二・二六事件の突発」を紹介している。本日は、その三回目。原文に施されていた傍点は、下線で代用した。

     女中べやの押入れに
 後に事件当日のてんまつについて軍法会議の調べのあった際、この坪井敬治という一等兵も調べられたが、彼の陳述したところはこうだった。
 坪井は、はじめ松尾の死体を検分したとき、どうも首相ではないような気がする。『あれはちがうようですよ』と隊長の栗原〔安秀〕中尉に進言した。栗原は本館の総理大臣室で将校たちと会議していたが、『今は忙しいからよけいなことはいうな』といって一言のもとにはねられた。栗原はせっかく首相を仕止めたと確認しているのに、またそれがぐらついてはたまらない、という気持もあっただろうし、他人のいうことを落ちついて聞くゆとりもなかったんだろう。
栗原にはねつけられたが、やはりふに落ちぬものがあるので、坪井は二、三人の兵隊を連れて、もう一度松尾の死体を確かめに寝室へはいったわけだ。
 彼はこう陳述している。『寝室に近づいてゆくと、暗やみの中にひとりの老人がいるのが見えた。だれか、と叫ぶと、その老人は音もなく天井に消えた。それでテッキリ首相の幽霊でも出たか、と思い、急に恐ろしくなって逃げ帰った』
 わたしの話と、その一等兵の陳述とがピッタリ符合している、といって検察官がおもしろがっていたそうだ。坪井たちが、本館のほうへ引き返していったあと、わたしは寝室へ戻らず、そのままなんということなしに、廊下を回って女中べやのほうへ歩いてゆくとバッタリふたりの女中に会った。
 秋本サクというのと府川キヌという女だが、騒ぎの最中は、女中べやにじっとしていたらしい。わたしを見るなり『まァ御無事でしたか。早くここへおはいりなさい』と女中べやに押しこむようにしていれた。騒ぎもおさまったので、わたしの身を案じて捜しにいこうとしているところだったという。女中べやにはいったが、これからどうしようか、と思いながら、へやのまん中につっ立っていた。どうするにしてもこみいったことをしてはいかん、簡単なほうがいいと考えたわけだが、へやには火ばちもないし、寒くていかん、ひとつ寝てやれ、と心を決めた。
 女中べやには一間の押入れがある。押入れの上の段から天井へ上がれるようになっていて、女中たちは、しきりにそこへ上がれというものだから、ひとつどんなかしらん、と思いつつのぞいてみたが、何年前に人がはいったかわからんようなところで、とてもきたなくておれるものではない。また下におりて考えたが、ここは裏門のすぐ近くで、外部の樣子を深るに都合がよいからここにいよう。ここにいるなら、この一間の押入れのほかにはない。上の段はベッドにつくれるが、ぐあいが悪い。下の段には、せんたく物みたいなものが多少置いてあるだけだから、そこがいいだろうと、女中に片づけさせた。
 下がコンクリートで、その上に床板が張ってある。女中たちはその板の上に布団を三枚くらい敷いて、わたしが寝られるようにこしらえてくれた。そこへ横になっていたら、だんだん知恵が出てきて、せんたく物をわたしの周囲に積みあげて、もし押入れを開けられても、わたしが見えないようにした。
 女中たちはどうしていたかというと、押入れのから紙を背にして、キチンとならんですわっていたらしい。
 サクという女中は、気のきいた女で、わたしが押入れにはいるなり、すぐ立って、松尾の寝ていたへやへゆき、その寝床を片づけてしまったそうだ。寝床の数と見つかった人間の数とがあわないと、また面倒なことになると思ったのだろう。
 そのあとどういう用事があって、押入れの外に出ていたのか、今となってはよく覚えていないが、わたしがへやの中につっ立っているときだった。
 急に廊下に人の近づく気配がした。来たなと思ったが、もうどうにもならんので、動かなかった。ガラリとからかみがあいた。廊下に立っているのは、永島という官邸の仕部(守衛のこと)なんだ。永島は、わたしを見るなりまっさおな顏になって、またぴしゃりとから紙をしめてしまった。永島のうしろには、兵隊が立って、こちらを見ていた。とうとう兵隊に見つけられてしまったわけだ。ところが別段なにごとも起らない。
 わたしは、また押入れにはいって寝たが、女中と三人で反乱軍の中に孤立しているかっこうになっている。小用を催すと、小さなあきびんをもってこさせて、用をすませていた。
 『おれは岡田だ。』とこちらから名乗り出るようなことは、しないほうがいいと思った。向こうも、そんなことをすれば、なんとかしなければならなくなってしまう。女中は女中で、もしわたしが兵隊に見とがめられたら、自分の父がいなかから上京して、官邸に泊まっている間に、こんな騒ぎにあったというふうに、とりつくろうつもりでいたらしい。
 いつごろだったか、まただれかへやにはいってきて、女中と問答をしている。そのうちに、いきなりからかみがあいた。チラリ見ただけだが、兵隊らしく軍服を着ている。わたしと顔を見あわせたかと思うと、またぴしゃりとからかみをしめ、へやを出ていった。そのときは、わたしは敷布団の上にあぐらをかいていたように覚えている。
 いよいよやってくるかな、と思っていたが、あたりはしんとして人の動く様子は感じられない。

     兵隊は味方だった
 この兵隊は篠田惣寿という憲兵上等兵だったそうだ。篠田は青柳利之という憲兵軍曹【ぐんそう】といっしょに、近くの陸相官邸にいたらしい。首相官邸に反乱軍が押し寄せて、銃声が起ると同時に、飛びだして、首相官邸になだれこむ反乱軍にまぎれこんではいっていたわけだ。一通り騒ぎがおさまってから、兵隊どもに見つかり『なんだ、憲兵がうろうろしているじゃないか』といって、もんちゃくが起り、栗原中尉に『出てゆけ』と怒嗚られたが、
 『官邸の中には女もいるし、いろいろ貴重な品物もある。騒ぎのあおりで、不届きなことでも起っては軍の汚名になるから、それを保護する意味でいるんだ』
 と答えた。それで栗原も『それならいてもいいが、外部との連絡は一切許さん。電話も使用してはならん』ということになった。青柳のほうは、死んだ四名の警察官の死体の始末や負傷した巡査を病院へいれるためにまもなく官邸を出て、篠田だけが残っていた。
 篠田は、女中たちは、どうしているかしら、と思って、へやをのぞくと、サクとキヌが、押入れのからかみを背にして、キチンとすわっている。『お前たちはもうここにいてもしようがないし危険だから引き取ったらどうだ』というと『だんなさまのごいがいがここにある間は、帰るわけにいきません』とひどく強硬である。あまりがんばるんで不審を起した。それに女中たちは、からかみにぴったりからだをくっつけているので、その中になにか隠してあるような感じをいだかせたらしい。それで『そこをのいてみなさい』といって、ひとりの腕をつかむと、のくまいとする、女中のからだが動いたはずみに、押されてからかみが開いた。それで中にあぐらをかいていたわたしと顔を見合わせたわけだ。
 憲兵は不審なものを見つけた、と血相を変え、女中たちには『よしわかった。そのままにしていなさい』といって、どこかへ走っていったという。
 その後も卅分おきぐらいに兵隊が見回りにくる。将校は、さすがに女ふたりしかいないへやにはいるのを遠慮して廊下に立ったまま『異状はないか』ときく。兵隊がふたりくらいはいってきて女中に『異状はないね』ときき『ありません』と答えると、こんどは押入れのからかみを……両端をすこしずつ開けて、中にあったせんたく物を一つ二つ外へつかみだして中を改めるようなしぐさをしてからかみをしめて『異状ありません』と将校に報告する。
 そこでつくづく考えたのであるが、兵隊はわたしの味方だということだ。ちゃんとわたしの顔を見ている。わたしが押入れにいることを知っている。それでいて別段わたしをどうしようという気を起さないのは、不思議である。わたしを首相だと感づいているのに、黙っていたのか、それとも、もう首相は死んだものと思いこんでいるので、妙なじいさんがいるのを見つけても関心を持たなかったためなのか。
 このことについてはわからないままになっていたが、近ごろになって、土肥竹次郎からこんな話を聞いた。そのむすこは支那事変中、中尉で戦地にいっていたが、たまたま二・二六事件の話が出た折り、部下の兵隊が『わたしは総理の生きていることを知っていたが、今さら殺すべきでないと思ったので、上官には報告しなかった』といっていたそうだ。それで、わたしもなるほどと当時の兵隊たちの態度について納得のいった次第だ。
 さて、わたしは押入れの中にいて今後のことについていろいろと思案した。襲撃されたのは、おそらく自分だけではないであろう。暗殺は予想していたものの、五・一五事件のように若干の将校が動くだろうと思つていたら軍隊が出てくるという予想以上のことが起つている。
 宮中はいかがな御様子であろう。重臣たちの安否は? とにかくこの暴挙を鎮めて、跡始末をする責任が自分にはある。軍の政治干与をおさえる絶好の機会になるかも知れない。いたずらに死んではいかん、という気が起る。【以下、次回】

「女中べやの押入れに」の節に、「永島という官邸の仕部」という箇所があるが、「仕部」は原文のまま。あるいは「使部」のことか。使部(しぶ)は、下級役人の意味で、「つかいベ」、「つかわれべ」とも言う。
「兵隊は味方だった」の節に、土肥竹次郎という人名がある。この名前は、すでに『岡田啓介回顧録』の第六章に出ている。小樽木材会社の常務取締役だったことがあり、当時、政財界の顔利きで通っていたという。
 なお、映画『二・二六事件 脱出』(ニュー東映、一九六二)では、栗原安秀中尉は、「栗林中尉」として登場する。これを演じたのは江原真二郎さんである(好演)。

*このブログの人気記事 2022・1・31(10位の千坂兵部は久しぶり)

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おれは岡田大将に似ているだろう(松尾伝蔵)

2022-01-30 00:17:46 | コラムと名言

◎おれは岡田大将に似ているだろう(松尾伝蔵)

 岡田啓介述『岡田啓介回顧録』から、第八章「二・二六事件の突発」を紹介している。本日は、その二回目。

     義弟松尾の最期
 これで邸内に泊まっていた護衛の警察官は、みんないなくなってしまったわけだ。はじめ に日本間の玄関の外で襲撃隊を阻止しようとした小館〔喜代松〕巡査は、その場で殺害されていたそうである。そのほかの警察官は、おおかた逃げたり、あるいは抵抗をしなかったので、別条はなかったようだ。
 松尾〔伝蔵〕はどうしたのだろう。わたしのいるふろばから洗面所をへだてて中庭があり、その向うがわたしの寝室。ガラス越しにふろばから寝室の中まで見通せるようになっている。
 『庭にたれかいるぞ』
  という声がした。寝室と中庭との間の廊下に部下五、六人をひきつれた下士官が現れた。ふと中庭を見ると、戸袋のわきにくっつくようにして立っている人影がある。松尾であることがすぐにわかった。 
 『撃て』
 と下士官がどなっている。しかし兵隊たちは、機関銃をもっているんだが、不思議なことに撃とうとしないんだ。みんな黙って、つっ立ったままでいる。
 兵隊たちが撃とうとしないものだから、下士官は大いにおこったようだ。
 『貴様らは今は日本にいるが、やがて満洲へいかなければならないんだぞ。満洲へいけば、朝から晩までいくさをやるんだ。毎日人を殺さねばならないんだ。今ごろこんなものが、ひとりやふたり撃ち殺せんでどうするか』
 と地団太ふんで、はげましている。それでも引金をひかない。しかし、やはり相手は上官だ。ためらっていた兵隊たちもついに廊下の窓から中庭に向かって発砲した。松尾はこうして死んだ。これはあとで松尾の死体を調べてわかったことだが、十五、六発の弾丸がからだじゅうに入っており、さらに、いつこんな傷をつけたのか、あごや胸に銃剣でえぐったあとがあったとか。むごたらしい殺し方をしたものだ。松尾を殺した一隊は、日本間の非常口から外へ出て、表の本館のほうへいった様子だ。今、思うと村上や土井を倒した一隊が、わたしを捜して非常口からどこかへ立ち去ったあと、新手〈アラテ〉の一隊が松尾を見つけて撃ったものであろう。
 わたしの周囲には、兵隊の姿は見当たらないが、官邸の中をあちらこちら捜しているよう な気配がする。しばらくしてどこからともなく現れた一隊が、廊下の窓から中庭に倒れている松尾の死体を見つけだした。『ここにだれか死んでおるぞ』といいながら、庭におりた連 中は口々に、
 『じいさんだ。これが総理大臣かな』
 と話しあっている。そのうちに松尾の死体をかつぎあげて、さっきまでわたしが寝ていたへやに運びこみ、わたしのふとんに横たえた。
 その寝室は十畳で、隣は十五畳の居間になっており、そこの欄間〈ランマ〉にわたしの夏の背広姿の写真が額に入れて飾ってあった。彼らは、それを銃剣で突きあげて下へ落とした。死体の顔とその写真とを見くらべて、死体の主がわたしであるかどうかを、確かめようとしたものらしい。
 この事件で、あんなに大勢の軍隊に襲撃されながら、わたしひとりがかすり傷ひとつ負わずにすんだことについては、いろいろな不思議があるんだが、その不思議のひとつはこのとき起った。もちろんこれは後になってわかったことなんだが、兵隊どもがわたしの写真を欄間から突き落としたとき、銃剣を持つ手もとが狂ったのか、剣先でしたたか、わたしの顔のみけんのところを突いたらしい。写真の上にはめこんであったガラスにひびがはいった。それもみけんのところを中心に四方へひろがっていた。
 兵隊どもは額を拾いあげると松尾の顔をのぞきこむようにして、写真と見くらべている。 しかしあんなにガラスがひびだらけじゃ写真の顔がよく見えなかっただろうと思う。それに彼らの気持も常態ではない。ついに松尾の死体をわたしだと断定してしまった。
 『これだ、これだ、仕止めたぞ』
 とガヤガヤ話しながら寝室を出ていった。本館のほうにいる本隊へ報告に行ったんだろう。
 そのときの様子は、官邸の裏門のそばにあった秘書官官舎でも手にとるようにわかったそうだ。秘書官は迫水久常〈サコミズ・ヒサツネ〉である。迫水は銃声を聞いて予期していた異変がついに起ったのを知り飛び起きて警視庁に電話すると、当時新撰組とあだなされていた特別警備隊の一箇隊はすでに出発したということだったので、服に着かえていると、意外にも兵隊がたくさんやってきて、裏門のところで官邸のほうに銃口を向けて機関銃をすえたそうだ。急いで官舎を出ようとしたが、そこら一帯はもう兵隊がいっばいいて、門から一歩も出してくれない。やむなく二階に上がって官邸のほうをながめていると、玄関の方角で、
 『とうとうやったぞ』とか『世話をやかせたな』とか、いいあっていたそうだ。

     目前から引き返す兵隊
 またあたりが静かになったが、松尾たちに寝着のまま寝床からひきずりだされて、ふろばに押しこめられたのだから寒くて仕方がない。わたしは厚ぼったいものを着て寝るのがきらいでね、着ているものは薄着一枚だった。
 こんな姿で見つけだされるのもいやなものだし、この際着物を着ておこうと思って、ふろばを出て、寝室に入っていった。あたりは土足で踏み荒らされて、さんたんたるものだった。さっきまでわたしの寝ていた床の上には、松尾の死体が横たわっている。例の写真の入っている額はかたわらにほうりだしたままだ。
 松尾はわたしの妹の婿で、なんというか、非常に親切な男だった。その親切には、少しひとり決めのところがあって、わたしが静かにしていたいときでも、なにかと立ちまわって世話をやくというふうな性質だった。わたしが首相を引き受けたについて、これは義兄の一世 一代の仕事だから、どうしても自分が出ていって、めんどうを見てやらねばならん、という気持で、総理大臣秘書を買って出たと思われる。陸軍大佐で当時六十一歳だった。どうしても、わたしのそばで役に立ちたいというものだから「内閣嘱託」という辞令を出した。給料はたしか無給だった。それでも喜んで官邸に寝泊まりしていた。
 事件直前の選挙では、秘書官をやっていた福田耕〈タガヤス〉が福井県で立候補したので、松尾はその応援演説に行った。福井で、
 『おれは岡田大将に似ているだろう。このごろはひげの刈り方まで似せているんだ』
 と言っていたそうだが、いつもいっしょに暮らしているわたしから見れば、似ているもなにもあったものではない、まるで別人だ。しいていえば、二人とも年寄りであるということが似ているくらいのものだった。頭はわたしは五分刈りだったが、松尾はだいぶはげあがって、すそのほうだけ五分刈りにしてあった。松尾をわたしとまちがえたのは、松尾というもうひとりのじじいが官邸にいるとは、さすがの反乱軍も思いおよばなかったためかもしれない。
 松尾が福田の応援演説から帰ってきたのは二月二十五日だったが、それから一昼夜もたたないうちに、この世を去ってしまったわけだ。余談だが、松尾のむすこに新一というのがいる。麻布三連隊の中隊長だった。事件の前年の十二月の異動で北支駐屯軍の山海関〈サンカイカン〉の大隊副官に転じたが、新一の部下だった中隊は反乱に参加している。新一は後に、
 『もしあのとき、うちのおやじが、われこそは岡田啓介なりと名乗って出て身代わりになったのであったら、こんな申しわけのないことはない』
 といっていたそうだ。おやじがよけいな世話をやいたために、わたしに大事な際の進退をあやまらしめたではないか、という心配がむすこの胸に去来していたと思われる。わたしとしては、松尾のやってくれたことに対してはありがたかった、という気持があるだけだ。
 それはさておき、わたしは松尾の死体にぬかずいてからそのそばで、寝着を脱いであわせ に着替えた。部屋の電燈は消えていた。羽織をはおって、袴をとりあげその紐を結ぼうとすると、また玄関の方角から人の足音がドヤドヤと近づいた。そこで廊下に出て、洗面所の壁 のところに立っていた。
 寝室に入ろうとしたのは、あとで聞いたところによると、坪井という一等兵だったそうだ。 本所あたりの浪花節語りだとか。『今なにか、へんなものがいたぞ』といっている。『たしか に地方人だ、じいさんだった』『しかしもうだれもいるはずがないんだから、へんだぞ』と いいあっている。そのうちに『気味悪いな、帰ろう』といったかと思うと、そそくさと引き 返していってしまった。わけのわからぬ兵隊どもの行動で、もし彼らが丹念にあたりを見回 せばわたしのいることをわけなく見つけだしたと思うのだが、これもやっぱり不思議のひとつだ。【以下、次回】

「義弟松尾の最期」の節に、ある下士官が、「今ごろこんなものが、ひとりやふたり撃ち殺せんでどうするか」と怒鳴ったとある。こう怒鳴ったのは、将校の(下士官ではなく)林八郎少尉だったようだ。
 映画『二・二六事件 脱出』(ニュー東映、一九六二)では、この場面が、再現されている。撃とうとしない兵隊たちに向かって、「撃て」と叫んでいるのは、大村文武さんが扮する「森少尉」である。

*このブログの人気記事 2022・1・30(10位の森本清吾は久しぶり)

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非常ベルの音でわたしは目をさましたんだ(岡田啓介)

2022-01-29 01:05:42 | コラムと名言

◎非常ベルの音でわたしは目をさましたんだ(岡田啓介)

 本日からしばらく、岡田啓介述『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社、一九五〇)を紹介してゆきたい。
『岡田啓介回顧録』は、今日、中公文庫(一九八七、二〇〇一、二〇一五)に入っているが、これは、岡田貞寛(さだひろ)編『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社、一九七七)を底本にしている。岡田啓介述『岡田啓介回顧録』と岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』とでは、表記などで若干の異同が見られるようだが、細かくチェックしたわけではない(岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』のうち、ブログ子が参照できたのは、一九八七年の中公文庫版のみ)。
 岡田啓介述『岡田啓介回顧録』から、当ブログで紹介するのは、第八章「二・二六事件の突発」である(一五七~一八九ページ)。

  八  二・二六事件の突発

     雪の朝悲劇の開幕
 あのころ、すでに首相官邸には庭の裏手からがけ下へ抜ける道が出来ていた。五・一五事件で犬養毅首相が殺されたあと、なにかの際に役に立つだろうというので、つくったものらしい。がけっぷちのずっと手前から土をくり抜いて、段々の道になっており、そこを降りて行くと土のかぶさった門がある。土のかぶさった門と思ったのは実は小さいトンネルだったんだが……そこを通ってフロリダとかいうダンスホールの裏に出る。山王方面へ抜ける近道になっていたわけだ。話によると、永田町の官邸には秘密の通路があるとのうわさも世間にあったそうだが、たぶんこの道のことだろう。
 義弟の松尾伝蔵は、とっさの間に、わたしをその抜け道へ連れだそうと考えたらしい。時刻は午前五時ごろだったか。つまり昭和十一年〔一九三六〕の二月廿六日の朝だ。非常ベルが邸内になりひびいて、その音でわたしは目をさましたんだと思うが、間髮を入れずに松尾がわたしの寝室にとびこんできた。
 『とうとう来ました!』
 という。わたしと同郷の土井清松巡査と村上嘉茂右衛門巡査部長の二人がいっしょだ。きたといって、なにがどれくらい来たんだ? ときくと、
 『兵隊です、三百人ぐらいも押し寄せて来ました』
 そんなにこられてしまっては、もうどうにもならないじゃないか、といえば、
 『そんなことを言っている場合じゃありません。すぐ避難して下さい』
 とわたしの手をひっぱる。そうかそれじゃあといって、寝床に起き上がり、庭へ降りようとした。雨戸はしまっているが、わたしの寝室の前にだけ非常用のくぐり戸がついていた。松尾はそれを開けて、まず庭にとびだした。
 庭の向こうは築山〈ツキヤマ〉になっているんだが、大雪のあとで、一面まっ白くなっている。夜はまだ明けていないが、雪あかりで見通しがきく。松尾がしゃにむに飛びだすと、同時にパンパンと銃声が起こった。よく見ると庭にはすでに兵隊が散兵線を布いている。非常口の外には、わたしが当然そこから避難すると思っていたのだろう。清水〔与四郎〕巡査が先回りして待っていたが、この射撃であえなく倒されてしまった。松尾は、とてもここから避難することはおぼつかない、と見てとってまた家の中へ走りこんできた。
 当時、官邸の中にはいたるところに非常ベルのボタンがあり、異変が起れば、これを押す手順になっていた。すると邸内のベルが鳴るばかりでなく、警視庁にも直通する。今になにか起こりそうだという空気は陸軍部内にあったのだし、いつ官邸が血気の将校などに襲撃されても防げるよう対策は講じてあったわけだ。本館から日本間へ行く境目には鉄製のシャッターがおろされて、夜間は、完全にさえぎられていた。窓にも全部鉄格子がはめられていた。護衛の警官は廿名ほどで、襲撃があったら最初の十五分はこのものたちで防ぐ。そのうちに警視庁の援隊がかけつけ、さらに二十分後には麻布の連隊から軍隊が出動するという段取りであったが、なんぞはからん、その軍隊が襲来してきたわけだ。警視庁の援隊は、予定どおりかけつけたものの、正門で兵隊たちに機関銃をつきつけられ、そのまま引き揚げたそうだ。警察は軍隊と戦うべきでない、と判断したためであるという。

     ふろばで聞く銃声
 外へ出るのは、もう手おくれである。松尾と土井、村上はわたしを抱きかこむようにして、廊下づたいに台所のほうへ向かった。寝室の隣に三坪くらいの中庭があり、その向こうがふろば、さらに向こう隣が台所になっていた。台所には、湯をわかすのにつかう大きな銅製のボイラーがあった。そのボイラーをたてにとるような形で、しばらく四人で立っていた。松尾は、よくまァ気がついたと思うのだが、台所へやってくるまでに廊下の電燈ひとつひとつ消して、まッ暗にしてまった。わたしらのいる日本間の玄関は厳重なつくりになっていたので、兵隊たちは、それをこわすのに手間がかかった様子だが、どうにかこじ開けることが出来たと見え、まもなく玄関のほうからひとつひとつ電燈がついて、だんだんこちらへ近づいてくる。わたしらをあちこち捜しているにちがいない。ところがまっ暗にしてあったおかげで、彼らの近づいてくる方向がよくわかる。つまり電燈のついたところが彼らのいる位置だと見当がつくわけだ。そこでわたしらはその方向とは逆の廊下に出て、彼らのうしろに回り、彼らがつけた電燈をまた一つ一つ消していった。
 ぐるりと廊下を回って、またふろばのところへきたとき土井は、わたしをそのふろばへ押しこんで、ガラス障子をしめるや、向こうから五、六人の部下をつれてやってきた将校……その一隊に対して身構えたらしい。村上はふろばのわきの洗面所から、大きないすを持ちだしてきて、これをたてに、ふろばの外の廊下にがんばり、近づく連中にピストルで応射したが、たちまち撃ち殺されてしまった。このとき土井は、たぶんピストルのたまも撃ちつくしたのだろう、隊長らしい将校に飛びかかり、組み討ちになった。はげしい物音がふろばの中に聞えてくる。土井は柔道四段、剣道二段という剛の者で、手もなくその将校を組み伏せたが、相手には数名の部下がついている。うしろから銃剣で刺されて、ふびんな始末になった。
 やがて物音はとだえた。土井を刺した兵隊たちもどこかへ行ってしまったらしい。倒れた土井は、まだ息があるようで、うめき声がかすかに聞える。わたしのいるふろば……ふろばといってもあまり大きすぎるので、ふだんは別のふろをつかい、ここは酒などの置場になっていた。からになった一升瓶がたくさんほうり込んである。わたしのぐるりにも、空瓶がいくつもあるのだが、ちょっと身動きすると瓶がカラカラと音を立てる。すると、土井が苦しい息の下から、
 『まだ出てきてはいけませんぞ』
 と、うめくように言うんだ。二、三度そんな注意をしてくれたとおぼえている。いつの間にか、そのかすかな声も聞えなくなってしまった。新婚早々の男だったが、もうこときれたらしい。【以下、次回】

 読んでわかるように、口語調である。すなわち、岡田啓介が口述したものを筆記した形になっている。この聞き取り、筆録をおこなったのは、毎日新聞社で『毎日グラフ』の編集次長を務めていた古波蔵保好(こはぐら・ほこう、一九一〇~二〇〇一)だとされている。

*このブログの人気記事 2022・1・29(10位に極めて珍しいものが入っています)

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将軍様を拝まうと三枚橋の辺りまで出掛けました

2022-01-28 03:05:59 | コラムと名言

◎将軍様を拝まうと三枚橋の辺りまで出掛けました
 
『話』第四巻第三号(一九三六年三月)から、鈴木かめ述「箱根の山奥に百年住んで」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。

     雲 助 の 生 活
 私の主人は、大正十四年〔一九二五〕九十二歳で亡くなりましたが、若い頃は雲助稼業をして居ました。土地の習慣として、体のいい若い衆は皆【みんな】雲助になったものです。
小田原に人夫【にんぷ】の問屋場【とんやば】があつて、毎日其処で仕事を貰ひ、箱根を越えて三島まで担ぎました。荒い稼業なので、温和【おとな】しい若い衆でも直ぐ一廉【ひとかど】の無頼漢【ならずもの】らしくなり、明け荷をしたり「山祝ひ」を強請【ゆす】つたりしました。
「山祝ひ」と云ふのは、無事箱根を越えたお祝ひに、と云つて、酒代【さかて】を強請【ゆす】ることです。お侍衆になると、なかなか雲助の云ひなりにおいそれと出しませんので、時々争ひが起こつたさうです。私の主人なども、一度お侍に「山祝ひ」をねだつた所が何うしても出さなかつたので、腹立ち紛れに「此の旦那は乞食【こじき】かい」と悪口【あくこう】したさうです。
 するとお侍は「雑言【ざふごん】申すな」と呶鳴つて刀に手を掛けたので、流石【さすが】向ふ見ずの主人もすつかり怖気【おぢけ】づいて、「手前共の符牒で、お武家様や御出家を小ジキと申し、それ以下の人間を大ジキと申します」と弁解したさうです。まさか斯んな子供騙しの言訳に納得した訳でも有りますまいが、雲助相手に争つても始まらないと思つたものか、其のまゝ許して呉れたさうです。「今日はすんでの所でバツサリ殺【や】られるところだつた」と家【うち】へ帰つて苦笑しながら話して居ました。
 斯んな荒稼ぎですから、お定【さだま】りの飲み、買ふ、打つ、は雲助に附物【つきもの】です。小田原城のお見附先の広場では、毎日雲助達の野天博奕【ばくち】がおほツぴらに開かれて居ました。目が出なければ褌【したおび】一本で帰つて来るし、当れば酒を鱈腹【たらふく】飲んで、それでもお鳥目【てうもく】が余ればお味噌や醤油を持つて帰ります。一体どれ位【くらゐ】の稼ぎが有つたものか知りませんが、私共が天保銭を見たことは滅多にありません。力自慢の雲助でも、雪の箱根越えは大変苦しかつたさうです。長持【ながもち】などは、雪の上を橇の様に曳【ひき】ずつて運びました。それでも時々荷物を壊すことが有つたさうですが、荷主【にぬし】の方では別に何とも云はず、雲助仲間でも、箱根で縮尻【しくじ】ることは恥辱にならなかつたさうです。

     御進発と榊原健吉
 今でこそ大平台は本街道に沿つて居りますが、旧東海道の廃止された明治二十年〔一八八七〕頃までは、寂しい間道【かんだう】の小村でした。其の頃の旧東海道は一日中賑【にぎやか】な人通りが絶えず、立派な行列もよく通つたさうですが、女のことでは有り、わざわざ大平台から見に出かけるやうな事は滅多にありませんでした。
 それでも将軍様御進発(註。文久三年〔一八六三〕三月、将軍家茂【いへもち】攘夷の詔勅により上洛)の折は、将軍様が外国を攻めるとか長州を討つとか大変な騒ぎで、私共も将軍様を拝まうと、村の人人と三枚橋の辺りまで出掛けました。
 私共が街道へ着いた時は、将軍様はもうお通りになつた後でしたが、行列はまだ長々と続いて居りました。お大名毎に馬印【うまじるし】を樹てゞ、誰も彼も徒歩【かち】だつたやうに憶えて居ります。大部分のお侍が鎧【よろひ】で身を固め、其の上に陣羽織をはおつて居ました。私共は、鎧が日光に当ると暑いので、上に陣羽織を着て居るに違ひないと囁【さゝや】き合つたものです。
 中に唯一人、頭抜【づぬ】けて背が高く、異様な風体のお侍が混つて居りました。此の人は陣羽織の代りに網の掛かつた越前蓑【ゑちぜんみの】を着て、其の蓑には幾枚もの短冊がヒラヒラと結び付けてありましたので、直ぐ人目をひいて噂の的になりました。
 これが江戸一番の剣術使ひの榊原健吉(註。当時二の丸留守居格【るすゐかく】、三百俵取り、家茂の親衛隊)と云ふ人で、右腕の太さは普通の二三倍も有つたさうです。怖しい様な頼母【たのも】しい様な気がしました。
 其の後【のち】江戸が騒【さはが】しくなつた時、有馬様が江戸を避難してお引上げになりましたが、斯の行列は何故か旧東海道を避けて間道を通りましたので、私共も始【はじめ】から終まで見る事が出来ました。お侍衆は打裂羽織【ぶつさきばおり】で徒歩【かち】でしたが、女子衆【おなごしう】はお女中の末に到るまで皆美々【びゞ】しい塗駕籠【ぬりがご】に乗つて、其の長い女乗物の行列がキラキラと飾物を陽【ひ】に輝かせ、まるで錦絵から抜け出た様な眺めでした。後【あと】にも先にも、斯んな美しい目の覚める様な行列は見られませんでした。

     山崎戦争の思ひ出
 一番身近に怖しく感じたのは、旗本脱走兵の伊庭【いば】八郎と云ふ人達が箱根に立籠つた時でした。(註。明治元年五月廿日、上総【かづさ】請西〈ジョウザイ〉の領主林昌之助忠崇【はやしまさのすけただたか】旧幕臣の遊撃隊と合し、上野の彰義隊と呼応して箱根に拠る)小田原様の御家来にも旗本脱走兵の味方に附くものが出たとか、小田原様お叱りのお使者が来るとか(註。同廿五日、大総督府錦旗奉行穂波経度【ほなみつねのり】問罪使として小田原に至り、大久保侯に迫つて順逆を正さしめ、援けて賊軍討伐を命ず)それは大変な騒ぎでした。
 風祭【かざまつり】、入生田【いりふだ】、山崎切通【きりどほし】の辺りには小田原藩の土塁が積まれ、三枚橋には関所が出来たと云ふ噂でした。
 私共は危いから出てはいけないと云ふお触れでしたが、怖はごは〈コワゴワ〉ながらも戦争が見たくて鎌と梯子【はしご】を持つて裏の山へ登りました。鎌と梯子は、万一見咎【みとが】められた場合に、薪【まき】を伐りに来たと答へるための用意です。頂上から眺めますと、遥か切通の辺りに戦争らしい人の動きが見え、白い煙が上つて居ました。それ以上はつきりした事は私共には判りませんでしたが、戦争が済んでから主人が聞いて帰つた話によると、官軍が石垣山を廻つて後【うしろ】に出たため、脱走兵は十一二個の死骸を残して逃げたさうです。又この戦争で、小田原様は日本に五挺しかない村田矢【むらたや】と云ふ怖しい道具を二挺持つて居て、其のために楽々戦争に勝つた、流石【さすが】御内福な小田原様は違つたものだ、と噂し合ひました。村田矢と云ふのは何んな道具か知りませんが、何でも強い毒を持つて居るらしく、村田矢の当つた並木の松が、現に枯れがれになつて居るのを主人は見て来たさうです。私共は村田矢と云へば、世の中で一番怖しいものゝ様に思つて居りました。
 堂ケ島でも脱走兵と官軍との戦争があつて、此処では十人の脱走兵中の九人が殺されたさうです。斬落した九つの首を、四斗樽に詰めて小田原へ搬【はこ】び下るさうな、と云ふ噂も立ちました。
 残りの一人は、宮ノ下の江戸屋とか云ふ宿屋に逃げ込んで、米櫃【こめびつ】の中に隠れ、まんまと追跡の手を逃れたさうです。立派なお侍なので、宿屋の主人が同情してして匿【か】くまつたとも云ひますから、伊庭【いば】八郎と云ふ大将だつたかも知れません。
 又、三枚橋の関所の処で、片腕を切られたのが伊庭八郎だつたさうですから、他の身分あるお侍だったかも知れません。(終)

「雲助の生活」の節に、「明け荷」という言葉がある。辞書にある言葉だが、ここでは、辞書にはない意味で使われているようだ(何らかの不正行為を指す言葉として)。
「御進発と榊原健吉」の節に、「越前蓑」という言葉がある。調べてみたが、ここにある説明以上のことはわからなかった。同節にある「有馬様」は、最後の久留米藩主・有馬頼咸(ありま・よりしげ)のことであろう。
「山崎戦争の思ひ出」の節に、「村田矢」という言葉がある。調べてみたが、ここにある説明以上のことはわからなかった。
 明日は、話題を「二・二六事件」関係に戻す。

*このブログの人気記事 2022・1・28(9位に珍しいものが入っています)

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六尺棒を持つた番人が五六人居たやうに思ひます

2022-01-27 02:56:05 | コラムと名言

◎六尺棒を持つた番人が五六人居たやうに思ひます

 正月に、箱根駅伝第5区「小田原・芦ノ湖間」の中継を見ているうち、昔、何かの雑誌で読んだ文章を思い出した。その文章は、幕末維新のころの箱根を、老女が回想しているものだった。
 数日前、ようやく、その雑誌が見つかった。文藝春秋社発行の月刊誌『話』の第四巻第三号(一九三六年三月)で、当該記事は、鈴木かめ述「箱根の山奥に百年住んで」であった。この記事を、二回に分けて紹介する。

 箱根の山奥に百年住んで
   ――御維新前後の思ひ出を語る――    鈴 木 か め

==相州〔相模国〕箱根温泉村大平台【おほひらだい】の鈴木かめ女は明けて百一歳になる。百歳以上の長寿が既に驚異であるが、而もかめ女は今以つて五体健全、記憶力も可成【かな】りしつかりしてゐる。
 箱根は東西交通の要地として、特に幕末兵馬忽忙【へいばさうぼう】の時代には、幾多の歴史的人物が往来し、革新日本の礎石をなす事件が屡々【しばしば】展開された興味ある地点だ。其処に百年余を住み続けたかめ女の記憶に、何か耳新しい想ひ出もがなと訪れて聴きたとこるを此の一篇に綴つた。
 勿論、誤伝誤聞が錯入【さくにふ】して事実と相違する点が有るのは免れないが、老女の想ひ出話として、それはそれとして別な興味が有ると思ひ、敢て筆者の穿鑿【せんさく】はさし挟まなかつた。(記者記)==

     お 関 所 を 通 る
 私【わたし】は天保七年〔一八三六〕四月廿日【はつか】この大平台に生れ、娘の頃暫く小田原へ行つて居たのを除いて、現在まで此処に住み続けて居ります。当時の婦人の習慣として殆ど家庭に閉ぢ籠つて他行【たぎやう】しませんので、百年間住んで居たとは云ふものゝ、余り移り変る世間のことは知りませんが、子供の頃、一度お関所を見に行つたことが有ります。
 土地の者は門鑑【もんかん】が要らないし、それに子供などは咎【とが】め立【だ】てしないと聞かされて居ましたが、お関所の番人と云へば閻魔【えんま】の庁【ちやう】の赤鬼青鬼【あかおにあをおに】の様に思はれて、黒い門の前に立つた時には怖しさに足が悚【すく】みました。私は大人の入知恵【いれぢゑ】で、箱根村へ油を買ひに行【ゆ】く風を装つて油壺を下げて居りましたので、何も云はず通して呉れましたが、六尺棒を持つた番人が五六人居たやうに思ひます。私共の間では、これを「棒突【ぼうつき】」又は「探索」と呼びならして居ました。怖いもの見たさに、お関所を駈け抜けながら左右を見ますと、路【みち】の両側に建物があつて、湖側【うみがは】はお白洲【しらす】に役宅【やくたく】らしいものが続いて居り、山側の建物は、後で聞くと牢屋だと云ふことでした。
 私共は、いつも立派なお役人がお白洲に並んで居る様に考へて居りましたが、普通の通行人は棒突が取りさばいて、棒突の一存では行【ゆ】かぬ場合だけ、お役人が奥から現れて取り調べるのさうです。私が通る時は、偉いお役人の姿は一人も見えませんでした。【以下、次回】

 若干、注釈する。「箱根温泉村」とあるのは、神奈川県足柄下郡(あしがらしもぐん)温泉村のこと。温泉村は、一八八九年(明治二二)の町村制の施行にともなって成立。一九五六年(昭和三一)に箱根町等と合併し、箱根町となった。
 鈴木かめ女が油を買いに行った「箱根村」とは、「箱根宿」のことか。箱根宿は、明治初年に「箱根駅」と改称。箱根駅は、一八九二年(明治二五)、「箱根町」と改称。

*このブログの人気記事 2022・1・27(9位になぜかカルヴィニスト)

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