礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

戦は陣取り、仕事は段取り(航空機部品の工作)

2016-11-30 07:13:13 | コラムと名言

◎戦は陣取り、仕事は段取り(航空機部品の工作)

 岡本勝治の『航空発動機主要部品工作と段取』(中央工学会、一九四四年三月)を紹介している。本日は、その「序」を紹介してみたい。

         序

 戦〈イクサ〉は陣取り、仕事は段取りといふことばがありますが、段取りがつけば仕事は半分以上もはかどつたと考へてもよいと思ひます。
 いかに優秀な工作機械をあてがつても、段取りが下手では生産能率の悪いのは勿論、精度の良いものは決して得られないものです。
 さて段取りとは広い意味では削りにかゝるまでの総ての準備、手配を云ふものと考へられますが、こゝでは正しい加工順序道具立てをいふので、一般工作機械の主要部品切削の場合とその段取りには多少の共通点もあるが、航空発動機はその構造上切削に際しては特殊な段取りを必要とするもの多く、この適否が製品の精度を決定するとゝもに、生産能率をも支配することは明瞭なことです。
 戦時下敵米国の天文学的数の航空機生産に対抗するためには工作に必要な単能機、専門機を急速に増設する事も必要なことであるが、これ等の新規増設にたのむことなく、現在の設備で生産能率を一大飛躍させるには工程と段取りの研究が大切なことゝ思はれます。
 本書は以上の主旨のもとに、工作順序と段取りを主とし、発動機の構造及び材質については説明に必要な程度にとゞめ、多少の経験者は勿論、未経験工、養成工及び転向工員の諸君にも容易に会得〈エトク〉できるやう簡単に解説したものであります。
  昭和十八年七月    著  者

 既存の設備を用い、未経験工・養成工・転向工員に頼って、いかにして、敵の「天文学的数の航空機生産」に対抗するか。この課題に対し、著者・岡本勝治が提示している対策は、「段取り」である。はなはだ心もとない対策のようだが、「神懸かり」的な言葉よりは、現実味がある。また、著者は、段取りの本質を、「加工順序」と「道具立て」として捉えているが、これは、なかなか気づかない視点である。

*このブログの人気記事 2016・11・30

 

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岡本勝治の『航空発動機主要部品工作と段取』(1944)

2016-11-29 07:16:33 | コラムと名言

◎岡本勝治の『航空発動機主要部品工作と段取』(1944)

 先日、古書展で、『航空発動機主要部品工作と段取』(中央工学会、一九四四年三月)という本を入手した。古書価三〇〇円。この本の著者は、岡本勝治〈カツジ〉だが、この名前には、聞き覚えがあった。
 岡本勝治には、『少国民と工作機械』(中央工学会、一九四三年一二月)という著書もあるが、これは国立国会図書館に架蔵されていない、そこで、『雑学の冒険――国会図書館にない100冊の本』(批評社、二〇一六年六月)なる拙著で、この本を紹介したことがあったからである。
 さて、今回、買い求めた『航空発動機主要部品工作と段取』だが、蔵印がふたつ捺してある。「国立国会図書館蔵書」という角印、および「日本労働科学研究所蔵書印」という角印である。そのほかに、「国立国会図書館 25.3.31」という丸印もあった。
 詳しい経緯はわからないが、同書は戦後、国立国会図書館から日本労働科学研究所に移管され、その後、日本労働科学研究所が、これを除籍したということではないか。
 家に帰ってから、国立国会図書館のデータを見ると、この本は、東京と関西に、少なくとも二冊、架蔵されているようだ。ということは、今回、私が入手した本は、国立国会図書館が、三冊以上架蔵していた本のうちの一冊ということになろう。
 本の内容については次回。

*このブログの人気記事 2016・11・29(6位にやや珍しいものが入っています)

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礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30

2016-11-28 09:33:56 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30

 本日は都合により、「アクセス・ランキング」のみ。

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(2016・11・28在)

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
5位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
6位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
7位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
8位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
9位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
10位 16年8月14日 明日、白雲飛行場滑走路を爆破せよ

11位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
12位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
13位 15年8月6日 「親独派」木戸幸一のナチス・ドイツ論
14位 16年8月15日 陸海軍全部隊は現時点で停戦せよ(大本営)
15位 16年1月15日 『岩波文庫分類総目録』(1938)を読む
16位 15年8月15日 捨つべき命を拾はれたといふ感じでした
17位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
18位 16年8月24日 本日は、「このブログの人気記事」のみ
19位 16年1月16日 投身から42日、藤村操の死体あがる
20位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ     

21位 16年6月7日 世界画報社の木村亨、七三一部隊の石井四郎を訪問
22位 15年11月1日 日本の新聞統制はナチ政府に指導された(鈴木東民)
23位 16年11月20日 多胡碑の文面は81文字か
24位 16年8月31日 美濃部達吉のタブーなき言説
25位 13年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード   
26位 16年2月16日 1945年2月16日、帝都にグラマン来襲
27位 16年2月14日 護衛憲兵は、なぜ教育総監を避難させなかったのか
28位 16年8月16日 論文紹介「日の丸・君が代裁判の現在によせて」
29位 16年10月10日 公布時の国家総動員法(1938年4月1日)
30位 16年5月24日 東條英機元首相の処刑と辞世

次 点 16年6月13日 マトモなことを言うとヒドイ目に遭う

*このブログの人気記事 2016・11・28(9位に珍しいものが入っています)

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農地改革で日本再建(木村小左衛門)

2016-11-27 07:33:09 | コラムと名言

◎農地改革で日本再建(木村小左衛門)

 昨日の続きである。『日本週報』の「第四十八―五十号」(一九四七年三月二三日)を紹介している。
 本日は、同号の巻頭に置かれている農林大臣・木村小左衛門による「新農村の黎明」という文章を紹介してみたい。木村小左衛門〈コザエモン〉は、第一次吉田茂内閣で農林大臣を務めた。
 ここで木村は、敗戦後の食糧対策という面から、農地改革の必要性を説いている。なお、木村自身は、島根県屈指の「豪家」に生まれたという。

  新 農 村 の 黎 明
 日本再建の為に、農村の果さねばならぬ使命は極めて重大である。農村は、戦前すでに人口の過剰に苦しめられていたが、戦後には更に多くの人口を養わなければならなくなつた。食糧は朝鮮、台湾の補給地を失つたので、国民生活の安定を期せんと欲すれば、従来よりも更に多くの食糧を国内で生産せねばならなくなつた。
 然るに、農家の約七割を占める小作農家と、耕地面積の約半ばを占める小作地とを支配する小作関係は、旧態依然たるものがあり、耕作権は不安定で、小作料は高く、しかも物納制であつた。このことは農村の封建性を依然として存続させる所以〈ユエン〉であって、このまゝに放置せんか、農村の民主化は望み難く、日本の再建は困難である。これ農地改革の必要が叫ばれるに至つた所以であつて、第一次農地改革法は早くも終戦の年たる昭和二十年〔一九四五〕暮の議会を通過したが、内容に於て尚欠くる所があつたので、翌二十一年〔一九四六〕夏の議会に第二次農地改革法が上程可決され、昨年〔一九四六〕の暮から施行されるに至つた。この内容は、複雑な我国の農村の実情からみて多岐に亘るけれども、その中心となつているのは、極めて大規模な自作農の創設を、極めて短期間に断行せんとするところにある。
 本法によれば、僅か二年間に、不在地主の小作地の全部、在村地主の小作地は―北海道で四町歩、都府県では平均一町歩―を残すのみで、その他の小作地は全部国家が買牧することになっており、自作地でも経営の適正でないものは、一定面積を超過する部分を買収し、原則として現在の小作農に売渡そうとするものである。もしこの計画が完全に遂行されゝば、小作地は総耕地面積の僅かに一割を残すに過ぎず、一町步以上の地主は我国の農村から姿を消し、殆んど大部分の農家は自作農となるであろう。
 新日本建設の為には、どうあつても、この農地改革はなさねばならない。これがため政府に於て凡ゆる努力をなすことは勿論であるが、尚その上に国民全体の一致協力がなければ、到底その成功は望み難いのである。
 もしこの農地改革が成功し、合理的な農業経営が打立てられるならば、ここに初めて新農村の建設が可能となり、新日本建設の黎明が来るであろう。                農林大臣 木村小左衛門

*このブログの人気記事 2016・11・27(9・10位にやや珍しいものが)

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農林省「新農地制度の解説」(1947年3月)

2016-11-26 05:32:05 | コラムと名言

◎農林省「新農地制度の解説」(1947年3月) 

 先月の二七日以降、『日本週報』の「第四十八―五十号」(一九四七年三月二三日)から、岩淵辰雄の「続 敗るゝ日まで 一」という文章を紹介した。
 実は、同誌同号は、「新農地制度の解説」の特集号で、そのために、第四八号・第四九号・第五〇号の合併号という変則的な形をとり、定価も「特価六円」となっていた。岩淵辰雄の文章は、この特集号においては、オマケのようなものだったのである。
 特集の内容だが、農林省による「新農地制度の解説」が、七ページから二九ページまであって、これがメインである。さらに、三〇ページから四二ページまでを使って、農地調整法(第二次改正、1946・10・21)および自作農創設特別措置法(1946・10・21)の全文が紹介されている。
 本日は、「新農地制度の解説 農林省」のリードの部分(七ページ)を紹介してみたい。本文(八~二九ページ)は、田辺勝正が執筆しているが、このリードの部分のみは、『日本週報』の編集者が執筆しているようだ(署名はなし)。

新農地制度の解説 農林省

  △農地改革法案の制定まで
 わが国農業の癌ともいふべき農業の問題が初めて法文化されたのは、昭和十三年〔一九三八〕四月第一次近衛〔文麿〕内閣(有馬〔頼寧〕農相)のときであつた。この農地調整法は、結果からみれば農地問題を根本的に解決するどころか寧ろ農民を土地に縛りつけるに役立つた。
 しかも支那事変から戦争へと発展するに伴つて、「農は納なり」とする考えが益々強くなり、戦力の母胎として精神的には尊重されながら、農民は、逆に奴隷の生活へ追詰められ、完膚ないまでに搾取された。
 しかし、敗戦によつて、長い圧政に打ち挫がれた農民が、考えもつかなかった輝かしい農地解放の光がさして来たのである。即ち、昭和二十年〔一九四五〕十二月二十八日、幣原〔喜重郎〕内閣で松村〔謙三〕農相の下に、自作農創設の強化、小作料の金納化、民主的な農地委員会の設立等が、いわゆる第一次の改革として、農地調整法の改正によつて行われた(この内容について本誌創刊号で解説した)。
 しかし、無音の革命といわれる現在の烈しい情勢を、この程度の生温い改革で喰止めることが出来ないのは当然であつた。昨年〔一九四六〕十月二十一日、吉田〔茂〕内閣、和田〔博雄〕農相の下に、農地調整法の第二次的改正が行われ、それは自作農創設特別措置法と共に、議会を通過した。
  △国民生活の大革命
 二法案は昭和二十一年〔一九四六〕十一月及び十二月からそれぞれ施行され、また中心機関となる市町村農地委員会の選挙は、昨年〔一九四六〕十二月、都道府県農地委員会の選挙は、本年二月に行われ、後は実施を待つだけとなつた。
 この改革の内容を一言にいえば、僅か二年間に、約百万戸の地主から、政府が直接約二百万町歩の小作地を買取つて、約三百万戸自作農を創設しようというものである。計画通りにゆけば一町歩以上の不耕作地主はなくなり、農民は殆ど自作農となる。一戸五人の世帯とすれば、地主家族五百万人、小作家族千五百万人合計二千万人即ち、わが国人口の三割五分が、その生活に直接大きな影響を受け、この他〈ホカ〉、間接的な影響をうけるものの数を考えると国内的な大革命といつても決して過言でない。
 本誌はこの重要性に鑑み〈カンガミ〉、両法案の生みの親ともいうべき、農林省農地部長農学博士田辺勝正氏の極めて権威ある、而も平明な解説を特輯することにした。

 このリードを読んだだけでも、戦後の農地改革が、いかに大きな改革であったかということがわかる。もしこのような農地改革が、昭和初期までに実現していたとしたら、五・一五事件や二・二六事件は起きなかったであろう。当然、その後の日本の歴史も、大きく変わったことであろう。
 なお、上記のリードにもあるが、農地改革の必要性は、戦前から叫ばれており、戦中においても、一定の動きはあった。戦後の農地改革は、そうした戦前・戦中からの流れを一挙に推し進めたものとして捉えることができる。「戦中戦後連続論」という考え方は、一九九〇年代に登場したものだが、今、その言葉が頭の中で点滅する。
 なお、四年前の当ブログの記事「昭和12年(1937)における農地法案について」(2012・12・6)を、併せて参照いただければ幸いである。

*このブログの人気記事 2016・11・26(6・7位に珍しいものが入っています)

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