礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

賜・以・者は、朝鮮由来の漢字使用法か

2023-03-31 01:27:01 | コラムと名言

◎賜・以・者は、朝鮮由来の漢字使用法か

『古事記大成 3 言語文字篇』(平凡社、一九五七)から、河野六郎の論文「古事記に於ける漢字使用」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

    六 結 論
 以上、上代日本と古代朝鮮の漢字使用を概観したが、両者とも殆ど同じ過程を経て、漢字をそれぞれの言語に適合させて行った。先ず、漢字の表語性を媒介として、漢字をその示す漢語と同義の日本語や朝鮮語に宛てたが、これらの言語の語構造は一切之を無視した。やがて、この非分析的表語に慊らず〈アキタラズ〉、語構造を示すため、語の実質的部分は漢字を表語的に用いて表わし、語の文法的構造を示す部分は漢字を表音的に用いて表わした。これは両国とも急には成就し得ず、形式的に最も必要な要素、例えば語尾とか助詞の表示から始った。それも始めは不徹底であり、表示したりしなかったりした。又、特に朝鮮の場合、送仮名〈オクリガナ〉を振る時も表音が不完全であって、しばしば暗示的に省略した。これらの不完全さはやはり表語の原理によるものであって、たとえ、構造要素を示しても、それは漢字の表語を補助するものに過ぎなかった。やがて両国はその適合の過程で袂〈タモト〉を分かつ時が来た。日本ではその適合の過程をずんずん押しつめて行った。その結果、漢字の表語性を残しつつも日本語表語、即ち訓読法を馴致し、一方漢字の表音的利用も極限にまで進めて、遂に仮名を作り出し、之を以て語構成を補助的に明示することになった。すなわち、漢字の表語性と表昔的利用によって、漢字を日本語化して了ったのである。之に対し、朝鮮では漢字の適合は或る程度まで進んだが、途中で之を阻止する要因が生じ、漢字の使用は別の方向に進んだ。朝鮮では日本より中国文化の影響がより直接的であり、漢文学が教養の源泉を殆ど専有したため、朝鮮語による文学は十分に発達し得なかった。従って漢字は漢語を表示するものとするその本来の機能を離れることが出来ず、やがて漢字の訓読の可能性を抛棄して、専ら音読する方向に進んだのである。もっとも吏読〈リトウ〉や吐〈ト〉は依然用いられたが、それも文書とか経典の読解の補助手段としてであって、諺文〈オンモン〉の発明によりこれも漸次不要とされるに至った。(実際には諺文発明以後も用いられているけれども、それは惰性以外の何ものでもない)。既に述べた如く、諺文発明以前に吏読や吐などに漢字を表音的記号に使っているものがあり、その中に単音文字的使用が見られていたが、この傾向を進めず、遂に漢字から朝鮮固有の表音文字を作り出すに至らなかったのである。諺文という文字は、音節を単位とする点では、漢字の原理を踏襲しているが、単位の音節を構成する要素文字はアルファベット文字の原理を採入れているのであって、吏読や吐の中に萌芽的に見られる単音文字を発展させたものではない。
 さて、本題を考察するに当って、日本の漢字使用は、朝鮮に於ける実験を前提とすると漠然と考えていたが、之を実証することが困難であることが判って来た。第一に資料が欠けている。両国の漢字使用を示す現存の資料を見ると、大体に於て日本の資料の方が古い。元興寺露盤銘(五九六)、同丈六釈迦仏光背銘(六〇五)、法隆寺金堂薬師光背銘(六〇七)、同釈迦仏光背銘(六二三)であり、古事記を奉ったのが七一二年である。これに対し朝鮮の資料は、南山新城碑(五九一)、甘山寺彌勒阿彌陀仏像後記(七一九)、開寧葛項寺石塔記(七五八)、壬申誓記石(七九二?)、竅興寺鐘銘(八五六)であって、南山新城碑を除く外は、皆年代的には新しい。しかも漢字適合の跡を考えるに足りるものは、新羅のものばかりであって、百済或いは任那のものは一つもない。新羅も恐らく百済を経て漢字文化を育てたのであろうから、新羅の金石文の中に百済からの伝統が引継がれていると思われる。若しこの想定が許されるならば、年代の新古に必ずしも拘束される必要はないかも知れない。それにしても、朝鮮の漢字使用がいまだ非分析的表語の段階にあった時に、漢字使用の方法が我が国に伝わったと思われる。というのは、日鮮両国の漢字適合の過程が、いずれもこの非分析的段階から始められているからである。その段階に於いて、彼地から移入された漢字使用の最も顕著な方法は、土語の構造無視と、土語のシンタックスによって語を配列する方法であろう。具体的に同じ漢字を以て同義の語又は形態に宛てる例は必ずしも多くはないが、「賜」を以て敬語法助動詞を示し、「以」を以て或る格助詞を表わし、又「者」を以て或る接続助詞を示すなどは、或いは朝鮮に於ける使用をそのまま襲って日本語に宛てたものかと思われる。日本に於いて、固有名詞や歌謡に漢字を表音的に用いる慣習があったが、この様なことは朝鮮には見当らない。上に見た様に新羅の古歌と称するものも、その漢字使用は極めて複雑であって、古事記の歌の様に漢字の整然たる表音的使用は見られないのである。
 かくの如く朝鮮での実験が、日本に移されて結実したという考えは、当初予想された様に実証することは困難でもあり、又、漢字適合の過程からいえば、初期の段階に於いて日本が朝鮮から教えられたらしいが、これらの問題についてはなお多くの吟味と考究が必要であろう。資料の扱い、論述の運びなどに極めて不正確・不適当の点が多多あるであろうが、それらについて読者諸賢の御批判と御教示を得れば幸である。 (一九五七・十一・十八)

 論文の執筆者・河野六郎について、まだ、紹介していなかった。河野六郎(こうの・ろくろう、一九一二~一九九八)は、言語学者、東京教育大学名誉教授。「朝鮮漢字音の研究」で文学博士(東京大学)。

*このブログの人気記事 2023・3・31(9位になぜか、ガイ・ハミルトン監督の映画)

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コニキシ・コキシは周書百済伝の犍吉支に当たる

2023-03-30 03:45:21 | コラムと名言

◎コニキシ・コキシは周書百済伝の犍吉支に当たる

『古事記大成 3 言語文字篇』(平凡社、一九五七)から、河野六郎の論文「古事記に於ける漢字使用」を紹介している。本日は、その四回目。
 文中、○印によって、傍点が施されているところがあったが、太字で代用した。
 
 馬韓五十余国の中の伯済は、後に百済王国に発展したが、百済はその建国伝説によって暗示せられる如く、その支配者たる王族は貊族であったらしい。少なくとも支配者と被支配者(韓族)との間に言語の差違があった事は周書百済伝の次の記事で伺える。
  王姓夫余氏、号於羅瑕、民呼為鞬吉支、夏言並王也、妻号於陸、夏言妃也
ここで興味深いのはこれらの百済語が、日本書紀の訓み方に伝えられている事である。即ち、日本書紀中、朝鮮に関係する記事の中に、「王」をコニキシ・コキシ及びオリコケと訓み、「夫人」をオルク・オリク等と読んでいる。コニキシ或いはコキシは周書の犍吉支に当り、オリコケは於羅瑕に、オルク・オリクは於陸に相当する。音韻の上からは於羅瑕=オリコケはやゝ不一致であるが、ともかく、これらの百済語が案外正しく保存せられていることは知られるであろう。
 更に日本書紀中に於いて、コニキシ・コキシとオリコケがその使用上如何なる区別があるかといえば、前者は一般に朝鮮に存した諸国の王に用いられるに対し、後者の使用はかなり限定されている。
  任那王【コキシ】(垂仁二年)、新羅国王【シラキノコニシキ】(垂仁三年)、百済王【クタラノコキシ】(神功四十九年)、高麗王【コマノコミシ】(応神三十七年)
 之に対し、オリコケの方は、
  狛王【コマノオリコケ】(欽明七年、百済本記引用文)、狛鵠香岡上【コマノコクスクス】王【コキシ/オリコケ】(欽明六年、百済本記引用文)
コニキシ・コキシはコニ又はコとキシの結合で、コニ(コ)は「大」を、キシは「君」を意味し、つまり「大君」ということである。於羅瑕【オリコケ】の於羅もやはり「大」らしく、瑕は恐らくは高句麗の官名に見える加、すなわち「君」であろう。とすれば、於羅瑕は貊語の「大君」ということになる。
 周書には「王妃」に対する人民の呼称をあげていないが、日本書紀にはオリク・オルクの外に、
  慕尼夫人【ムニハシカシ】(雄略二年)、君大夫人【コキシハシカシ】(斉明六年)
とハシカシと読んでいるものがある。ハシは不明であるが、カシは韓語で「女」又は「妻」を意味したものである。 中期朝鮮語にgas「妻」という語があるが、これはこの古語を承けついでいるのである。なお、韓族の故地である現代の南部朝鮮方言で「女ノ子」を〔kasine〕というが、これは〔kasin(女ノ)e(子)〕である。
 王・王妃の外にも二三両形を伝えるものが若干あり、これらはいずれも百済の二重言語性を物語るものであろう。しかし、百済語の記録もこれらの単語以外にはあまり多くは出ないので、この言語が実際どんな性格なものであったかは殆ど不明である。
 一方、辰韓の一国斯盧【シラ】は崛起〈クッキ〉して新羅となった。新羅はその後勢力を得て任那を併呑し、高句麗を破り、百済を亡して遂に朝鮮の統一を成就した。そして、その後、高麗・李朝と王朝の交代はあったが、この王朝交代には民族の交代は無いから、言語的には新羅語が現代朝鮮語の祖先であり、その基礎は辰韓の斯盧の言語である。しかし、斯盧から新羅へ発展し、新羅が統一する過程には韓語諸方言を吸収し、百済語の土語(これも韓語方言)及びその貊語的要素を採り入れ、更に高句麗語を借用することも考えられるから、現代朝鮮語の根幹は韓族の言語の性格を具えているであろうが、かなり異質的な要素を含んでいると思われる。
 さて本題に関していえば、上代日本に影響を与えたのは、高句麗・百済・新羅の三国であり、又我が国と密接な関係のあった任那も問題になる。任那は弁辰の発展したもので、従って民族的にはやはり韓族であった。麗済羅三国の中でも日本に最も影響したのは百済であるから、日本と交渉を最も強く持ったのは結局韓族ということになろう。しかし、百済の二重言語性を考えれば、貊族の影響も無視出来ないであろう。〈一八〇~一八二ページ〉

    五 古代朝鮮に於ける漢字使用【略】 
 
 狛鵠香岡上王の「王」のところは、右に【コキシ】、左に【オリコケ】と、左右にルビが施されている。
 河野六郎の論文「古事記に於ける漢字使用」においては、「五 古代朝鮮に於ける漢字使用」(一八二~二〇二ページ)のところが、最も興味深く、読み応えがある。ところがここは、版面が複雑な上に、特殊な文字が多用されていて、このブログでは再現が難しい。やむをえず、省略に従う。
 明日は、「六 結論」のところを紹介する。

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難隠別の難隠はナナに当る(河野六郎)

2023-03-29 01:11:09 | コラムと名言

◎難隠別の難隠はナナに当る(河野六郎)

『古事記大成 3 言語文字篇』(平凡社、一九五七)から、河野六郎の論文「古事記に於ける漢字使用」を紹介している。本日は、その三回目。
 文中、○印および△印によって傍点が施されているところがあった。これらは太字で代用した(両者の区別はしていない)。

 古代朝鮮半島に於ける倭人の痕跡については、三国史記の地理志の古地名が想起され今すでに内藤湖南・新村出〈シンムラ・イズル〉両先生によって指摘されている様に、この古地名の中に日本語の数詞に酷似したものがある。三国史記地理志の中に中国風な地名と、土語で示されたその古地名が併記されている所がある。その中に
  峴県  一云波兮
  谷郡  一云于次呑忽
  重県  一云難隠
  谷城県 一云頓忽
大体、中国風に古地名を改めた時、古地名に因んで漢字を選んでいるのが原則であるから、これらの地名も同じ原則で考えると、密波兮の波兮は他の地名にも見え、峴に相当すると考えられるので、密=三となる。これはこの外にも、玄驍県 本良火県 一云良火 の例があり、推はmir-「推ス」の訓読であるから、三をmir-或いは mir-(mid-?)を表わしている。于次呑忽を五谷郡としたのは呑が谷に当ると考えられ(日本語タニ参照)、又忽は郡県を表わす高句麗語であるので、于次が五に相当する。于は本によると与となっているものがある。どちらにしてもイツとはやゝ遠いが、関係づけられなくはない。七重県の古名難隠別は恐らく難隠と別で、難隠はナナ、別はヘに当るのではないか。十谷城県=徳頓忽の場合は、忽は上の五谷郡の場合と同じで、郡県或いは城郭を示すし、頓はやはり上の呑と同じく谷【タニ】を表わすので、十は徳となる。これはトヲと頭子昔で一致する。これらの土地は、三峴県は江原道楊口、五谷郡は黄海道〈コウカイドウ〉瑞興、十谷城県は同じく谷山、そして七重県は京畿道〈ケイキドウ〉積城にそれぞれ比定されるから、若しこれらの古土名がそこに嘗て〈カツテ〉居住した民族の言語を反映したとすれば、倭人の痕跡は南部に限らず、古くは中部にまで及んでいることになろう。これらは、考え様では倭人の北方から南下の迹〈アト〉であるかも知れない。
 それはともかくとして、魏志東夷伝には上記各民族の外に、沿海州方面に挹婁〈ユウロウ〉という恐らくは旧アジア人の民族が居り(三上次男説)、又済州島には州胡というのが居て、東夷伝によると、「言語不与韓同」とあるから、又別系統の言語を話していたらしい。かように古代の半島には漢・貊・韓・倭、其他さまざまな言語が話されていたのである。
 やがて貊族の高句麗は四周の民族を従え、楽浪郡を亡して中国の勢力を駆逐し、半島北半に一大王国を作った。しかし、高句麗ほどの文化を持ちながら、その言語の記録は官名・地名・人名など断片的なものしか判っていない。例えば、東夷伝に「溝漊者句麗名城也」の記事があり、この溝漊は三国史記の地名に忽となっているが、満洲語のgoloに音義共に近い。又地名に、
  黒郡 一云黄壤郡 本高句麗 今勿
  穀県       本高句麗 仍伐
とあって、高句麗語で「土地」のことをno (na?)といったらしい。これも満洲語naに近い。これらから或いはツングース語系の言語かとも考えられる。高句麗以後の民族状況から逆に考えても、この仮設を支持するらしいが、もとよりこれらの単語だけでは、言語の系統帰属を論断することは出来ない。〈一七八~一八〇ページ〉【以下、次回】

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古代の朝鮮半島における言語状況

2023-03-28 01:35:58 | コラムと名言

◎古代の朝鮮半島における言語状況

『古事記大成 3 言語文字篇』(平凡社、一九五七)から、河野六郎の論文「古事記に於ける漢字使用」を紹介している。本日は、その二回目。

    四 古代朝鮮半島に於ける言語状況
 朝鮮の漢字使用を論ずる前に、一往当時及びそれ以前の半島に於ける言語状況を知って置く必要があろう。というのは、従来上代の日本語に関連して朝鮮が説かれる場合、往々にして、百済も新羅も、更に高句麗も、恰も同じ言語を話していたかの如くに取扱い、甚しきは現代の朝鮮語を引用するに至る傾向があるからである。残念なことに百済にしても、高句麗にしても、その言語の性格を知るに足る資料を殆ど残していないのであって、百済語若しくは高句麗語が、今日知られているどんな言語に関係づけられるのか不明である。たゞ中国史籍の漠然たる記載と朝鮮・日本・中国の記録に見える片々たる単語によって推測し得るに留っている。
 まず、紀元三世紀頃の朝鮮半島の状況を伝えるという魏志東夷伝に、民族及びその言語に関する記述がある。もとよりこの記述では具体的には何も判らないが、当時の言語状況の輪郭を略々〈ホボ〉察することが出来るであろう。
 魏志東夷伝によると、南満洲に夫余〈フヨ〉なる民族がいたが、その南(今日の平安北道の東北部あたり)に高句麗があった。この高句麗について、
  東夷旧語以為夫余別種、言語諸事多与夫余同
といい、高句麗語と夫余語の近似性を述べている。その南の、今日でいえば江原道〈コウゲンドウ〉辺に濊〈ワイ〉なる民族が居り、
  其耆老旧自謂、与句麗同種、……言語法俗大抵与句麗同 
とある。更に現在の咸鏡道〈カンキョウドウ〉方面には東沃沮〈トウヨクソ〉というものがあって、
  其言語与句麗大同、時時小異 
と述べている。即ち、夫余・高句麗・高句混・濊及び東沃沮の言語は同系の言語であって、方言的差違を示していたらしい。いま、これらの言語を、仮に貊〈ハク〉語系の言語と名づけて置く。
 これら貊族の西には、当時、楽浪郡を中心とする漢民族の植民地があった。ここで話されていた中国語は、漢ノ楊雄〈ヨウ・ユウ〉の方言などの記述から大体河北(燕)系山東(斉)系の方言であったらしい。
 貊族の地と中国の植民地の南には韓族がいた。韓族は馬韓・辰韓及び弁辰のいわゆる三韓に分かれていた。これらはいずれも一王国を形成するに至らず、小集団の連合の形を取っていた。これら韓族の言語と貊族の言語の異同については、東夷伝の著者は一言も触れていない。恐らく両者は別のものと見ていたのであろう。馬韓諸国の中に伯済というのがあり、これが後の百済【クダラ】の基である。辰韓については次の如くに述べている。
  辰韓在馬韓之東、其耆老伝世自言、古之亡人避秦役来適韓国、馬韓割其東界地与之、有城柵、其言語不与馬韓同、名国為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼皆為徒、有似秦人、非但燕齊之名物也 
この記述はうっかり読むと、誤解し易い。そのまゝ読めば、「其言語不与馬韓同」とあるので、辰韓語は馬偉語とは別系統の言語であるかの如くである。しかし、その前後の文を併せ読めば、この記事は韓族の間に流亡して来た中国人の集団に就いての記事であることが判る。伝説的な箕子〈キシ〉朝鮮に、象徴せられる様に、太古から中国人の流民が集団をなして朝鮮半島に流れ込んで来た。この記事に見える者は秦の頃、本土に居られなくなった流民が、漂泊の旅を続けて遂に韓族の地に流れ着いたものらしく、その言語も当時の中国語と違って秦代の言語を伝えていた様である。例えば国を邦というが如きは、漢高祖劉邦の名を忌んだ以前の用法として知られている。この記事を書いた人の意見として、「有似秦人、非但燕齊之名物也」と云っているのは恐らく正しい。ここに「燕齊之名物」というのは燕すなわち河北と、齊すなわち山東の方言の謂いであって、これは楽浪郡の方言を指しているのである。かくて、この記事は辰韓に居た中国人の言語について言っているので、辰韓語プロパーの記述ではない。しからば、辰韓語はどういうものであったかといえば、それについては何も言っていない。たゞ弁辰の条に、
  弁辰与辰韓雑居、亦有域廓衣服居処与辰韓同、言語法俗相似 
と言っているが、若しこの辰韓を上記中国人と解すれば、弁辰も同じことになるけれども、それは恐らく正しい解釈ではないであろう。この辰韓は或いは韓族の辰韓であって、辰韓には韓族が原住し、その中に中国人の流民が入って来たのであろう。そして、弁辰の言語は辰韓にいた韓族の言語と近似していたのであろう。或いは辰韓に流入した中国人は、若干の語彙を留めながら辰韓語に同化して了った〈シマッタ〉のかも知れない。いずれにせよ、東夷伝の記事から同じく韓族と認められている以上、辰韓も弁辰も馬韓と同じ民族であったと思われ、従ってその言語も方言的相違を持ちつゝも同じ言語であったろうと想像される。
 東夷伝には韓について
  在帯方之南、東西以海為限、南与倭接
と言い、又弁辰の条にも、
  其瀆盧国与倭接界
とある。若しこれらを率直に読めば、倭人が半島の南端に居たことになる。更に弁辰の一国に彌烏邪馬国というのがあるが、これはどうやらミアヤマ又はミワヤマと読めそうで、少なくともその後半部は「山」であるに違いない。もし、そうだとすると、弁辰の間にも倭人の集団があったのかもしれない。〈一七五~一七八ページ〉【以下、次回】

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河野六郎「古事記に於ける漢字使用」を読む

2023-03-27 00:26:55 | コラムと名言

◎河野六郎「古事記に於ける漢字使用」を読む

 先週の土曜日、五反田の古書店に赴いた。雨のせいか、客足はそれほどでもなかった。廉価本ばかり何冊か買い求めたが、そのうちの一冊は、平凡社の『古事記大成 3 言語文字篇』であった。定価五八〇円、古書価二〇〇円。
 最初に読んだのが、河野六郎の「古事記に於ける漢字使用」であった。末尾に(一九五七・十一・十八)と記されているので、この本のために書き下ろされた文章であることがわかる。ちなみに、この本が発行されたのは、一九五七年(昭和三二)一二月二〇日である。
 本日からしばらくの間、この文章を紹介してみたい。ただし、紹介するのは、全体の五分の一程度になろう。

 古事記に於ける漢字使用   河 野 六 郎

    一 序 言【略】
    
    二 古事記に於ける漢字使用【略】
    
    三 上代日本に於ける漢字使用
【前略】
 以上、古事記・金石文及び宣命〈センミョウ〉の数例によって、我が国上代の漢字通用の跡を瞥見〈ベッケン〉したが、この僅か数例を以て漢字適用の変遷を総合することは極めて危険であるとしても、その大筋は把えられるであろう。即ち、上代に於いて漢字を導入した際、まず漢文を以て表わす方法が取られた。蓋し漢字は漢文を綴るための文字であるから、まずもって漢字をその本来の機能を果させるのが最も自然である。しかし、やがて漢字をそれと異質的な日本語に適用する必要に迫られると、いきなり日本語を表示することは不可能であるから、漢字の持つ表語性を利用することによって何とか日本語を表わそうとした。かくて日本語の構造を無視し、形式的な部分(助詞・助動詞・活用語尾)を省略した。金石文及び古事記の状況はこの段階を反映しているといえよう。しかし、一方に漢字を表音的に用いる風習もあった。これは表語的には表わし難い固有名詞の表記に用いられ、やがて歌謡にも採用されたが、この表音的使用が金石文や古事記に採用されなかったのは、やはり漢字が本来表語的な文字であるから、意味を捨象して専ら音韻を示すことを躊躇した為と思われる。かく、単語の表示は非分析的表語に留っていたが、日本語を表わすのにこの様な表示では不十分である。殊に複雑な構造を持つ用言を表わすのに、その構造を全然無視することは出来ない。補助動詞のタマフ・マス・マツル等はすでに表語されていたし、又而・者の如き虚字の使用で何とか切り抜けたものの、その程度では到底満足出来ない。そこで語尾乃至助詞、それも各用言の最終部分に当るものを仮名即ち漢字の表音的使用によって示す方法が採られるに至った。これが宣命書〈センミョウガキ〉に見られる手法である。そして、ここに漢字の表語的使用と表音的使用の融合を見、現代にまで及ぶ実質的なものと形式的なもののコントラストの基礎が置かれたのである。
 一方、シンタックスの面では、漢文体から離れるに従い、漸次日本語の語序を採るようになって行った。法隆寺の釈迦像光背銘〈コウハイメイ〉では全体的には漢文的シンタックスに従いながら、間々日本語的シンタックスを交えているが、薬師像光背銘では逆に漢文的成句を含みつつも全体的には日本語の語序に依っている。古事記の場合は個々の句では用いられる漢字が漢文で普通取る位置に拘束されているので、一見漢文的シンタックスに依っているかに見えるけれども、これらは日本語のシンタックスの線に沿って配置されるのであって、従って時々漢文的文体が日本語的に崩れる例もあるのである。しかし、この様な表記は明らかに不自然である。そこで、漢字は使いながらも全く日本語の語序によって配置する方向に向かった。宣命書のスタイルは正にそれである。
 さて、漢字の日本語への適用の過程は、日本に於いて日本人自身が試みた結果であろうか。漢字を導入した上代に於いて文筆の事に携わる者が主として朝鮮からの帰化民であった事実を鑑みる時は、漢字適用の試みが日本で始ったのではなく、朝鮮での実験が何程か日本の漢字使用に影響していると考える方がより蓋然的であろうと思われる。そこで、古代の朝鮮で漢字を如何に扱ったかを一通り見ることとする。〈一七四~一七五ページ〉【以下、次回】

*このブログの人気記事 2023・3・27(8・9位に極めて珍しいものが入っています)

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