礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト108

2017-12-31 01:02:10 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト108

 本日は、除夜の鐘にちなんで、礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト「108」を紹介してみたい。
 順位は、二〇一七年一二月三一日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった「日」の順位であって、アクセスが多かった「コラム」の順位ではない。

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
5位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
6位 17年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
7位 17年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
8位 17年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
9位 17年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)
10位 17年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない

11位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
12位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
13位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
14位 17年8月14日 耐へ難きを耐へ忍び難きを忍び一致協力
15位 17年8月17日 アメリカのどこにも、お前たちの居場所はない
16位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
17位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
18位 17年8月16日 西神田「日本書房」と四天王寺の扇面写経
19位 17年3月11日 教育者は最も陰湿なやりかたで人を殺す
20位 17年2月18日 張り切った心持は激しい憤激に一変した

21位 17年1月4日  東京憲兵隊本部特高課外事係を命ぜられる
22位 17年4月29日 明治7年(1874)の新潟県「捕亡吏心得書」
23位 16年8月14日 明日、白雲飛行場滑走路を爆破せよ
24位 17年8月20日 『市民ケーン』のオリジナル脚本を読む
25位 17年12月14日 「親族相続法」公布から一月半、満州国は滅んだ
26位 17年8月5日 ソ連は明8月9日から日本と戦争状態に入る
27位 16年12月6日 ルドルフ・ヘスの「謎の逃走」(1940)
28位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
29位 17年4月14日 吉本隆明の思想はヨーロッパ的な理性の基準からはずれている
30位 17年12月13日 満州国「親族相続法」の口語化

31位 17年7月27日 三時間以上の睡眠をとったことは稀
32位 17年2月26日 牧野伸顕・吉田茂・麻生和子・麻生太郎
33位 17年12月20日 金をもらって名前をかくすのは当然の人情(吉田茂)
34位 17年8月7日  草を食み土を齧り野に伏すとも断じて戦う(阿南惟幾)
35位 17年8月19日 「市民ケーン」(1941)は今日なお映画史上の傑作
36位 17年8月21日 転形期における智識人と文学のありかた
37位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
38位 15年8月6日 「親独派」木戸幸一のナチス・ドイツ論
39位 17年8月18日 マッカーシズムと映画『真実の瞬間』
40位 17年12月28日 「昭和」を進言したのは宮内省の吉田増蔵

41位 17年3月15日 今からできる安倍首相の危機管理
42位 16年8月15日 陸海軍全部隊は現時点で停戦せよ(大本営)
43位 17年8月11日 10日午前2時に及んだ最高戦争指導会議
44位 16年1月13日 『岩波文庫分類総目録』(1938)を読む
45位 15年8月15日 捨つべき命を拾はれたといふ感じでした
46位 17年11月12日 日産・スバル「新車無資格審査」問題のツボ
47位 17年8月9日  明治大帝の御決断にならって、かく決心した
48位 17年12月8日 青木茂雄「記憶をさかのぼる」その6
49位 17年11月13日 国家が自動車会社に初回車検を押しつけている
50位 17年11月15日 赤尾敏、「親米反共」を説く(1975)

51位 16年12月15日 イー・ザピール「フロイド主義、社会学、心理学」
52位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
53位 17年12月13日 1948年に長者番付筆頭、1949年に滞納王
54位 17年1月3日 日本は横綱か、それとも十両か
55位 17年7月16日 酒井鎬次は既に仲介案を奇麗に起草していた
56位 17年3月9日  森友学園問題から見えてきたもの
57位 17年12月26日 新年号誤報、「光文」事件とその証言
58位 17年6月30日 防空が第一、外征は第二(後宮淳)
59位 17年11月3日 誤った国の方針の下、あれまでに戦った将兵は天晴れ
60位 17年12月1日 遠藤達著『元禄事件批判』(1942)について

61位 17年3月17日 「奇想天外」は、中国語では「異想天開」
62位 17年1月2日 佐川憲兵伍長を呼び出した下士官すら特定できない
63位 16年8月24日 本日は、「このブログの人気記事」のみ
64位 17年1月6日  暗号連絡は、「明碼符」の数字を使う
65位 16年12月16日 マルクス主義の赤本、フロイド主義の赤本
66位 17年8月8日  これでは承認できない(平沼騏一郎枢密院議長)
67位 17年9月19日 第7条に戦時国政変乱殺人罪を定める
68位 17年8月23日 佐々木惣一は老顔を赤くして激怒した
69位 17年11月8日 張込中は私語・雑談せず喫煙もしないこと
70位 17年3月16日 実力のない人物が重要な地位についている

71位 17年8月22日 公爵はコスモポリタンで世界のことに明るい 
72位 16年1月16日 投身から42日、藤村操の死体あがる
73位 17年4月22日 『大字典』と栄田猛猪の「跋」
74位 17年11月22日 坂口安吾、高麗神社を訪ねる(1951)
75位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ
76位 17年8月10日 ポツダム宣言に対し政府は沈黙を守る方針でいた
77位 16年12月8日 ビルマのバー・モー博士、石打村に身を隠す
78位 17年8月12日 これには温厚な米内光政も激怒した
79位 17年7月14日 読んでいただきたかったコラム10(2017年前半)
80位 17年8月3日 日本語にはクイチエ・マヤ語が40%含まれている

81位 16年6月7日 世界画報社の木村亨、七三一部隊の石井四郎を訪問
82位 17年4月2日 真実を話さない限り自身が苦しむことになる
83位 17年11月9日 密行中は特種護身用具を露出しないこと
84位 17年5月11日 三文字正平の証言「葬られた繆斌工作」
85位 17年4月10日 「椹梨」「機織」「万木」という地名の読み方
86位 17年1月20日 重臣殺害は予想したが叛乱は予想しなかった
87位 17年8月25日 死ぬではないぞ、裁判に出て陛下を守るのだ
88位 17年11月14日 『週刊現代』の「検査不正問題」記事を読む
89位 17年5月12日 「中日全面和平案」もしくは「山県・繆斌協定」
90位 17年12月22日 万民の意にさからう権力は滅びる(森脇将光)

91位 17年4月24日 十一年間、五時に起き十時に伏す(栄田猛猪)
92位 17年4月23日 意気軒昂却つて痛快の情湧くを覚ゆ(栄田猛猪)
93位 17年3月24日 内憂外患・百鬼夜行・半信半疑・悲憤慷慨(付・証人喚問を聴いて)
94位 17年7月31日 刀江書院の『郷土教究』は方言をのせない
95位 16年12月12日 旋盤を回しながら「昭和維新の歌」を歌う
96位 17年7月20日 平塚市はこの空襲で八割を焼かれた
97位 17年12月5日 千坂兵部は元禄刃傷事件の前年に死去
98位 17年12月9日 森脇将光と映画『ゾラの生涯』
99位 17年9月21日 官公吏にして職をけがす者、跡を絶たず
100位 17年12月3日 吉良義周の死因はマラリアか

101位 17年1月7日 軍に賢い戦争指導者なく政府に力ある政治家なし
102位 17年1月25日 ヒットラーの人物は赤尾某よりも劣る(田中都吉)
103位 17年7月28日 1932年当時の方言掲載雑誌
104位 17年7月5日  しばし庭中に穴を掘りて住まはん(山路閑古)
105位 17年4月30日 拷問・断獄に近き糺問等、致すまじき事 
106位 17年7月26日 授業は18時間、他に何の校務もなし 
107位 17年11月17日 青木茂雄自伝・その1「最初の記憶」
108位 17年11月4日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト100

*このブログの人気記事 2017・12・31(10位になぜか「ぴよぴよ大学」)

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光文事件、謀略のヌシは黒田長成か

2017-12-30 05:38:18 | コラムと名言

◎光文事件、謀略のヌシは黒田長成か

 昨日の続きである。「光文事件」は一種の謀略であったという仮説を提示した。この仮説について、若干の補足をおこなう。
 この謀略の目的は、新年号に関するニセ情報を創り出し、それを意図的に漏洩させることによって、漏洩に関わった人物を特定し、かつ、その人物にダメージを与えるというものであったのだろう。
 何の準備もない中島利一郎を呼び出し、いきなり新年号案の立案を命じたのは、彼にニセ情報としての新年号案を作成させるためであった。中島は、もちろん、これが「謀略」であることは知らないし、自分の「役割」も知らない。唯一、参照しえた文献『佩文韻府』によって、中島は、「光文」ほか数案を作成した。このうち、「光文」が採用されそうだという感触を得て、彼は、期待と喜びにひたっていたことであろう。
 中島は、この謀略のために利用されただけであるから、もちろん、情報漏洩には関わっていない。
 では、黒田長成侯爵はどうか。彼は、枢密院顧問官で、枢密院の非公式委員会の段階から、新年号の制定に関与している。黒田長成が、情報漏洩の中心人物であった可能性もゼロではないが、むしろ彼は、ニセ情報を流すという謀略のヌシ(中心人物)だったのではないか。
 この謀略のヌシが誰だったかはわからないものの、この謀略が持ち上がったとき、黒田藩の藩史研究所にいた中島利一郎に白羽の矢を立てたのが、黒田長成であったことは、ほぼ間違いないのではないか。漏洩の事実が確認されたことで、中島利一郎の役目は終った。しかし、そのあと黒田は、中島に、「ああ漏洩してはどうにもならない。変更のほかに途がなかった」と言うのを忘れなかった。
 中島利一郎は、おそらく死ぬまで、自分が提示した案が、新年号として採用されるところだった、と信じていたことであろう。しかし、急遽、指名された中島が、わずかな文献に依拠して提示した案が、新年号の第一案に推されるということがありうるのかということは、中島本人が、まず疑うべきであったと思う。
 しかも、「光文」の二字は、唐代の詩人・皇甫威の「回文錦賦」という文章に出てくるという。「光文」という言葉自体は悪くないにしても、なぜ、この詩人の、この文章の、この言葉なのか。この二字が、新年号にふさわしい理由があるのか。中島利一郎は、この点を質されたら、どう説明するつもりだったのだろうか。
 さて、では、新年号についての情報(ニセ情報)を漏洩したのは、誰だったのだろうか。今となってはハッキリしたことはわからないが、枢密院の顧問官、または、その側近で、東京日日新聞の西村公明政治部長と接点があった人物であることは、ほぼ間違いない。いずれにせよ、その漏洩者は、この謀略のヌシによって、ほぼ特定されたのではないだろうか。

*このブログの人気記事 2017・12・30

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「光文」か「昭和」か、新年号をめぐる謀略

2017-12-29 03:32:49 | コラムと名言

◎「光文」か「昭和」か、新年号をめぐる謀略

 今月二六日から二八日にかけて、川辺真蔵の「〝光文〟事件の真相」という記事(一九五二)を紹介した。いわゆる「光文事件」について、これに関わった東京日日新聞関係者の回想であった。
 この「光文事件」に関しては、新年号が、「光文」に決まりかけていたとき、この情報が流出したことがわかったので、急遽、別案であった「昭和」に差し替えられたという説が、長く信じられてきた。紹介した川辺真蔵の記事なども、この「差し替え説」の成立に、一役買ったものと思われる。
 その一方、近年では、「光文」という案が存在したのは事実だが、第一案であったという事実はなく、東京日日新聞の「光文」報道は、あくまでも誤報にすぎなかったとする説が有力になっている。たとえば、インターネット上の産経ニュース【政界徒然草】二〇一七年二月二五日は、次のように述べる。

「日本年号史大辞典 普及版」(雄山閣)によれば、宮内省は図書寮編修官の吉田増蔵氏が考案した「昭和」「神化」「元化」の3つに絞り込んだ一方、当時の内閣も「大正」を考案した国府種徳〈コクブ・タネノリ〉氏に命じ、「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」の5案を作成させていた。
 こうして宮内省から3案、内閣から5案が出されて精査した結果、「光文」を含む国府案はすべて姿を消し、吉田案の3つが残った。中でも「昭和」が最有力候補として枢密院に提出され、これがそのまま決定されたという。
 こうした経緯を踏まえ、同事典は「『光文』が枢密院で内定していたけども某紙にスクープされたから再度審査して『昭和』に変更したということはありえない」としている。

『日本年号史大辞典 普及版』(二〇一七)では、「差し替え説」は、完全に否定されている。多分これが、今日における多数説ないし有力説なのだろう。
 しかし、「差し替え」がなかったとしても、枢密院の審議における情報が漏洩したことは、まぎれもない事実である。問題になった東京日日新聞号外(一九二五・一二・二五)には、次のようにあった(改行は原文のまま)。

元号制定に関しては枢密院に御諮詢あり同院において慎重審議の結果
光文』『大治』『弘文』などの諸案中左の如く決定するであらう
  『光 文』

 ここにある「光文」は、内閣から枢密院に提出された五案のうちのひとつである。枢密院の審議における情報は、あきらかに洩れている。
 さて、奇妙なのは、この号外が触れている「大治」、「弘文」という年号案である。これは、宮内省からの三案、内閣から五案のいずれにも含まれていない。いったい、この情報の出どころは、どこだったのだろうか。
 そこで想起するのが、中島利一郎の証言である。彼は、次のように述べていた(昨日のコラム参照)。

 そして「光文」にぶっつかりました。これは唐代の詩人皇甫威の「回文錦賦」に「閲披風前光文爛然、百花互進五色相宜」とあるのに基くのでありますが、そのほかにも二つ三つ選び出して、会議の室へ戻って報告すると、みな「光文」の方がよいといい、「これにしよう」といいあっているのを聞いたのでありました。

 中島利一郎は、このとき、「光文」以外に、「二つ三つ」の年号案を選んだと証言している。それが、「大治」、「弘文」だったのではないか。そして、枢密院のメンバーは、それらのうちでは、「光文」を支持したという。すなわち、漏洩したのは、「ここまでの情報」だったのではないか。その情報が、何者かを介して、東京日日新聞の西村公明政治部長に渡り、これが「号外」の文面に反映したのではなかったか。
 この推測が、まったくの見当外れではないとすると、情報を漏洩した人物として考えられるのは、以下の通りである。

一、「光文」ほかの案を提示した、中島利一郎本人。
二、枢密院の顧問官であった黒田長成侯爵、あるいは、その側近。
三、枢密院の会議で、メンバーが「光文がよい」、「光文にしよう」などと言っていたのを、直接、聞いた人物。ないし、間接的に聞いた人物。

 それにしても、新年号を決めるという重大な作業の過程で、新たに急遽、中島利一郎という人物を指名し、彼が『佩文韻府』という文献のみに依拠して提示した「光文」を、いきなり新年号の第一案に推すということがありうるだろうか。まず、ありえないと言うべきである。
 ここで、私見を提示する。光文事件は、何者かが仕組んだ「謀略」ではなかったのか。すなわち、枢密院で「光文」に決まりかけたかに見せかけ、情報漏洩の事実を確認すると同時に、情報漏洩に関わった人物を特定せんとする、一種の「謀略」(陽動作戦)ではなかったのか。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2017・12・29

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「昭和」を進言したのは宮内省の吉田増蔵

2017-12-28 06:12:10 | コラムと名言

◎「昭和」を進言したのは宮内省の吉田増蔵

『サンデー毎日臨時増刊』一九五七年(昭和三二)二月一五日号から、川辺真蔵〈カワベ・シンゾウ〉の「〝光文〟事件の真相」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
 昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。

  ――「光文」を選んだ種本――
「正直に申しますが、その時、私〔中島利一郎〕の第一に参考にしたのは有名な清朝の康煕帝が、文化事業として空前の効果をあげられたと思う大編纂「佩文韻府〈ハイブンインプ〉」でありました。これは中国歴代の古典、名著のうちにある熟語成句をことごとく網羅してあるといってもよい本でありますが」といいながら、山のように積んである本の中から幾帙〈イクチツ〉かの「佩文韻府」をひっ張り出した。
「私はその時考えたのです。今までの明治、大正時代は日本の国威が大いにあがった時代であった。それは日清、日露、または第一次世界大戦など、戦争による「武」の力の強さが原因となったのである。しかしこれからはそれではいけない、新しく来るべき新天皇の時代は「文」を主とした、すなわち文化国家であらねばならない。そうした考えから「文」を大いに宣揚する意味の文字をさがしたのです。そして「光文」にぶっつかりました。これは唐代の詩人皇甫威の「回文錦賦」に「閲披風前光文爛然、百花互進五色相宜」とあるのに基くのでありますが、そのほかにも二つ三つ選び出して、会議の室へ戻って報告すると、みな「光文」の方がよいといい、「これにしよう」といいあっているのを聞いたのでありました。
 それから幾日も経たないうちにみなさんが葉山のほうへお出かけになったようでありました。崩御の日は黒田邸へも刻々電話がありました。私はその頃、事務所でも一番若い方でありましたので、主としてその電話をきいたのであります。崩御の電話をききましてから僅か二、三〇分たっかたたぬに号外が出たのでありました。しかもそれには新しい元号が「光文」だと書いてあったのです。これはしまった! 疑いもなく漏洩したのだ! と私は直感しました。そして一体この始末がどうつくのだろうかと思い迷ったのであります。いうまでもなく、漏洩したとなると、それは独り宮内省だけの問題ではない。内閣の責任でもあり、枢密院にもそれがおよぶに相違ない。そして元号も結局外のものに変更されることになろう。そうした一連の措置をどうつけるか、これは大へんなことになって来たと私はまったく茫然としてしまいました。そのうち翌日になって〔ママ〕昭和の号外も出ましたし、また〔黒田長成〕侯爵がお帰りになって、「ああ漏洩してはどうにもならない。変更のほかに途がなかった。まさか君がもらしたのではあるまいね」といわれた時には、絶対にそれを否認したので、侯爵も「それでわたしも安心したよ」といかにも安心されたという顔でありました。中島〔利一郎〕さんは新たにその時を思い返したようにホッといきをつく。
  ――「昭和」提案の影の人――
 光文問題についての中島さんの追憶は大体以上で一応終った。そこで今度は、なぜこの三十年以前の秘密が今になって世間に公開されるに至ったかの動機について中島さんのいうところはこうだ。
 この三十年の間、中島さんはこのことについては一言も他にもらさなかった。ところが昨年(昭和三十一年)夏、NHKから一度テレビに出てもらいたいといって来た。別に身についた芸があるでなし、なんのためにテレビに出るのか、「自分にはそんな資格が全然ないよ」と一度はことわって見たが、ともかくちょっと出てくれといわれて出て見ると、この問題についての質問なのであった。今さらその当時のことを明るみに出す気もちは毛頭なかったのであるが、しかしどこから聞き出して来たのか、アナウンサー氏の質問が相当急所にふれてくる。三十年前の昔話でもあり、特に時勢もまったく一変した現在のことであるから少しぐらいはさしつかえがあるまいと思って、一部を公開したのが、前に触れた「私の秘密」なのであった。
 中島さんはそれから話を転じて「昭和」の元号をもち出した「影の人」を明るみに押し出した。
「昭和は私が考えたものではありません、同じ宮内省の図書寮(ずしょりょうと読みます)におられました吉田増蔵〈ヨシダ・マスゾウ〉さん(号は学軒)という漢詩の造詣の深い方であります。大正天皇の勅語は大がい吉田さんが書かれたのでありますが、この方がやはり「佩文韻府」によって「昭和」の元号を思いつかれ、それを当局の方に進言していられたのでありましたから、「光文」がだめになったのでそれにきまったということでありました。何しろあの問題は新聞社でも問題になったそうでありますが、実は宮内省内でも問題になったらしいのです。しかし前にも申しあげたとおり、これが何かの形でともかく責任を問われることになれば、宮内省だけでおさまりがつかない。内閣にも、枢密院にも影響がおよぶおそれがあったのですから、表面には少しも出さぬことになったということであります」
 中島さんはこうって口を閉じた。思えば三十年という長いあいだ、われわれにとって常に深い謎であった「光文事件」の裏にはこうした錯雑〈サクザツ〉したいきさつがあったのか。
  ――公式の元号制定裏ばなし――
 私はこの話を終るに当って一つ政府側のいい分、すなわち公式の元号裏ばなしをつけ加えて置く必要があると思う。それは元号制定当時の首相若槻礼次郎〈ワカツキ・レイジロウ〉氏の「古風庵回顧録」の一節である。
《昭和という年号は、政府の提案ではあったが、それは宮内省の御用掛が調べたもので、書経の「万邦協和、百姓照明」〔ママ〕からとったものであった。ところがこれに対し、倉富顧問官(勇三郎)が私案を出し、「上治」としてはどうかといい出した。それは易経の中の言葉だという。倉富のいうには「万邦協和」うんぬんの言葉は、書経中の堯典にある。堯は禅譲の天子で、位を子孫にお譲りにならないで、舜に譲り、舜は禹に譲って、今日でいう共和政治のようなものだ。だから「昭和」はいかん。それよりも「上治」のほうがいいというのであった。これは後の話だが、西園寺〔公望〕公がこのことを聞かれて、日本の元号には、今まで書経から出たものがたくさんあるじゃないか、それを今になってかれこれいうことはない。書経で宜しいといって笑われた。とにかくこの時の枢密院会議は、倉富の説が出ただけで、誰も異議なく「昭和」に決定した。あとで調べてみると、中国の五代あたりに、「上治」という年号があったことがわかり、それを採らないでよかったということになった。》
 若槻氏はこういっている。それはそのまま事実であるに相違ない。しかしその会議の開かれる以前、事態がここまでしてくる以前に中島さんのいったようないきさつが裏面において行われていたであろうとする想像も決してあり得ぬことでないことは、いうまでもない。そこに「光文」の報道が決して誤報でなく実は大きいスクープであったという論拠が成り立ち得る理由があるのである。(当時東京日日新聞整理部長、昨年〔一九五六〕十二月二十七日死亡

 文中に、「侯爵がお帰りになって、『ああ漏洩してはどうにもならない。変更のほかに途がなかった……』といわれた」とあるが、黒田長成〈クロダ・ナガシゲ〉侯爵は、枢密顧問官のひとりであり、葉山での枢密院会議に出席していた。したがって、この中島利一郎の証言が事実だとすると、当初、年号は「光文」に決まっていたことになる。
 さて、筆者の川辺真蔵によれば、宮内省の吉田増蔵は、「佩文韻府」によって「昭和」の元号を思いついたのだという。インターネット上にある『佩文韻府』検索機能を使って、「百姓昭明」を検索すると、たしかに四件ほどヒットする。川辺真蔵の言を、そのまま信じるわけではないが、記憶に留めてよい証言ではある。
 なお、筆者の川辺真蔵は、この文章を書き上げたのち、一九五六年(昭和三一)一二月二七日に亡くなっている。つまり、昨日は、その命日だったというわけである。
 以上、紹介した川辺真蔵の文章、あるいは、そこに含まれている中島利一郎の証言などを踏まえた上で、明日は、いわゆる「光文事件」の真相について、礫川の私見を述べてみたいと思う。

*このブログの人気記事 2017・12・28

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「光文」を選んだのは私です(中島利一郎)

2017-12-27 05:34:49 | コラムと名言

◎「光文」を選んだのは私です(中島利一郎)

『サンデー毎日臨時増刊』一九五七年(昭和三二)二月一五日号から、「〝光文〟事件の真相」という文章を紹介している。
 昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。

  ――思わぬ時に意外の放送――
 それから三十年の月日が流れた。昨年〔一九五六〕の十月のある日、当時の島崎〔新太郎〕副主幹に会っていると「時にあなたは中島利一郎〈ナカシマ・リイチロウ〉という人を知っていませんか」というのである。少しも心あたりがないというと、「早稲田の史学科を出たとかいう人なんですよ、中野正剛〈ナカノ・セイゴウ〉、緒方竹虎〈オガタ・タケトラ〉君などとも懇意だった人だそうです。その人がね、このあいだ、NHKのテレビで実は光文をいい出したのは私だったという放送をしたんです、「私の秘密」という時間でね。この時間はテレビでも一番おもしろいですが、私はあいにく聞きもらしたので、NHKに問い合わせましたよ。そしてそれが事実だというから、直接面会を申し込んで、話をきいて来ました。中島さんのいわれるとおりだとすると、あの時の「光文」は大スクープだったわけですね、おもしろいじゃありませんか」と至極愉快そうであるが、実をいうと私にはその当時のことはもうあまり関心に価しない話であった。だからその時はただそのまま漫然ときき流して来た。ところがそれからしばらく経って、毎日新聞の図書編集部から一度その中島氏に会って話をきいてくれといって来たのである。その要望をいれて晩秋のある曇った一日、豪徳寺に近い世田ケ谷の中島氏宅を訪れてききとったのが大要次のようなものであった。
  ――枢府の非公式委員会――
「私は本来黒田侯爵家の藩史編纂所にいました。藩祖の如水、長政父子を中心に黒田家の歴史を調べるためにはいったのであります。その関係から黒田藩出身の長老金子堅太郎子爵(後の伯爵、枢密顧問官)とは非常に懇意でありました。ところが金子子爵が宮内省の臨時帝室編集局の長官となられた。君も来てくれぬかという話がありましたが、私は前に申しあげたとおり黒田藩史のほうの仕事がありましたので、それを止めるわけにまいらず、結局宮内省と黒田家と両方かけもちのような形になっていたわけです」と中島さんは静かに語り出した。室中がギッシリ和漢の古書で積みあげられ、僅かに主客相対してすわり得る空間を残しているだけの書斎兼客間といったふうの一室である。
「大正天皇が御病気になられた折、まず問題になったのは、もし万一のことのあった場合に対する措置でありました。天皇の地位は一刻も空位を許さないのでありますから、崩御の瞬間に摂政殿下御登極〈トウキョク〉あらせられるはずであり、それと同時に、直ちに新しい元号が決定されねばならない。だからこれらのことは、実のところ、御在世中にあらかじめ準備されねばならぬはずなのですが、しかしそれを少しでも世にもらしたらそれこそ大問題になる。すべてきわめて秘密のうちにことを運ばねばならなかったのです。特に元号の制定が枢密院の議決を要するのでありましたから、その頃宮内省と政府からきわめて密々に枢密院にもち込まれたのであります。枢密院では一つの委員会を作ってその準備調査にかかったのですが、もちろん非公式のもので、委員長には黒田〔長成〕侯がなられ、金子子爵や前文部大臣の江木千之〈エギ・カズユキ〉氏などがその委員に当たられました。
 前にも申しましたとおり、これはきわめて密々のうちに準備されたのでありますが、しかし鵜の目鷹の目で見張っている新聞社の目をくらますことは容易なことでなかったのであります。それで委員会は宮内省内枢密院の事務所などで開くわけにはゆかない。主として黒田侯爵邸で開くことになっていたのであります。ところが厄介なことには、この元号はいつでも中国の古典、特に四書、五経などのうちに用いられている言葉のうちから選ばれるのが慣例となっている。それでその方面に関する調べが当然必要になってくるのであります。
 十二月の何日でありましたか、日は忘れましたが、当時黒田邸(赤坂の溜池〈タメイケ〉に近い広い一区画であった)のうちに住んでいる私に急に来てくれとのことであります。なんだろうと思って出かけていくと、侯爵専属の応接になっている西洋間に侯爵はじめ金子、江木その他二、三の顧問官が揃っていて、まず扉をよく閉めろというのです。それから「これからのことはいっさい秘密、何人〈ナンピト〉にも絶対に口外してはならないぞ」と再三、再四念をおされるのです。一体なんの必要があってこんなばか念をおすのかと不思議に思っていると、さてそれからいい出されたのが、その元号の始末で、何とか適当な言葉がないだろうかという相談であったのであります。
 私も返事に困まりました。参考の手がかりにすべきものは何一つもち合わせていません。だからちょっと宅に帰って本と相談してまいりたいといっても、それはできないという。この室から外へ出てはならない。そとの誰にも口をきいてはならないという。それでは私としてはどうにもならない。その結果、ともかく五分か十分間なら、自宅まで帰って来てもよいということになったが、しかしそのあいだ、どこへも立ちよってはならない、表(黒田家の事務所)へも寄ってはならないと堅くいいつかって自宅まで帰ったのでした」
 中島さんはこう語って、側にあった茶椀をとりあげ一口茶を味わった。それからまた続ける。【以下、次回】

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