礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

辞書界の類型を絶し、学界の欠陥を補う

2017-01-31 00:53:09 | コラムと名言

◎辞書界の類型を絶し、学界の欠陥を補う

『三省堂英和大辞典』(三省堂、一九二八)から、「巻頭の辞」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。下線は原文のまま。

 乃ち〈スナワチ〉知る、本辞典は其編纂の傍系たる「日本百科大辞典」の完成よりこれを算すれば、年を閲すること殆ど八歳、溯りて其着手の当年よりすれば、前後殆ど四十有春秋に垂んと〈ナンナント〉せるを。晩成するもの必ずしも大器にあらざるべしと雖も、少くとも我〈ワガ〉編輯所は常に巧遅を尊び敢て拙速に就かざりしは、即ち前後を一貫して毫も〈ゴウモ〉渝ら〈カワラ〉ざるの事実なりとす。唯々其方法其手段乃至之が商量検討の点に於ては、或は瑣少の過誤なきを保し難しと雖も、多年一日の如く、工夫百端、最善の上にも最善を期したる我等の至誠神に通じ、之に共鳴し之を翼賛せられたる幾多の専門学者の一語も動かすベからざる精確無比なる付訳と相待って、我辞書界に一種色彩を異にせる此辞書となりてここに江湖に見ゆることを得たるは、所期の一半を果たし得たるものとして編者の心窃かに欣快に勝へ〈タエ〉ざる所なり。
 然り。本書の内容をして如此〈カクノゴトク〉充実せしめ、如此的確ならしめ、如此信頼すべきものたらしめしは、職として是れ専門諸大家の翼賛に由ることもとより言ふ迄もなき所なるが、此機会に於て、茲に付記の念を禁ずる能はざるは、次の諸項の事実なりとす。
、専門語付訳の執筆者の多数否殆ど全部は、編者の企図に翼賛といふよりも、寧ろ今日迄訳語の不妥当・不一致を憂へ、献身的自発的に躍進して事に当られたるの概〈オモムキ〉ある事。
、其当然の結果として編者が偶々執筆者各位に対し其労を謝することあれば之を遮りて「否、我等学者の立場として自ら進んで為すべきの責務なり」と唱へられたる者さへ少なからず。其為め本辞典は世上一般の編纂物とは自ら其趣を異にし執筆者の衷心よりせる真摯の態度自ら筆墨の間に躍動せる事。
、訳語の不一致は、単に文字の当不当の吟味の深浅より来れるものも尠なからざれども、同一物にして全然其付訳を異にせるより自然に社会に行はるる物品名の区々となれる事例枚挙に遑〈イトマ〉あらず。其為め会社銀行等の用度係員が各部各課よりの請求を受け各々相異なる別種の物品たるべしと誤信し購入の後始めて異名同物たることを感知せるの悲喜劇は、断えず〈タエズ〉全国到る処に続発し、専門学者間には現に幾度も之を実見して眉を顰めらるゝ者少からず。此事実も亦諸大家が本辞典を以て訳語一定の基準たらしめんとて、喜んで執筆せらるる機縁の一にして、此点は社会一般に於ける一種の欠陥を補ひ得たるものと信ずべき事。
、前々項と同種の事由に基くものか、執筆者中の某々氏は、編者よりの特使が不幸不在の為め面会を得ず余儀なく原稿を其留守宅に留置きたる際、其都度自ら編輯所に其稿を持参せられ、又某々氏等は、官庁・会社・自宅等に於ては到底執筆の閑を得ずとて自動車内電車内或は日曜散策の際ポケットより其稿を出だし〈イダシ〉捻頭推敲快心の訳語を得喜び勇んで之を編者に送達せられたるもの二三に止まらざりし事。
、専門語は一語一票のカードとし之を執筆の諸大家に送付せるものなるが、某々氏等は余りに広く世に流布せざる語或は新語に対し其出典を編者に質されたる場合編者が専門家にして其語に親しまれざるものは或は之を省略するも可ならんと提言すること少なからざりしがかくては学者の身分として学界に申訳なしとて其典拠を十分に突き止められたる上、研鑽討究の末徐ろ〈オモムロ〉に懇ろ〈ネンゴロ〉に之に付訳せらるゝの鄭重親切を敢てし一語をも忽〈ユルガセ〉にせられざりし事。
 本辞典編纂の由来及執筆者諸大家との因縁既に斯くの如し。本辞典が今日に於て我が辞書界に殆ど類型を絶し学界多年の欠陥を裨補〈ヒホ〉し得たる所以のもの豈に〈アニ〉偶然ならん哉。編者は茲に前後四十年を俯仰〈フギョウ〉して無量の感慨に禁へ〈タエ〉ざると共に多年執筆の諸大家に対し深甚の敬意と無限の謝意とを表するものなり。
  昭和三年三月   編 者 識

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三省堂編輯所の最高馬力は一所に集注せり

2017-01-30 03:42:36 | コラムと名言

◎三省堂編輯所の最高馬力は一所に集注せり

『三省堂英和大辞典』(三省堂、一九二八)から、「巻頭の辞」を紹介している。本日は、その二回目。下線は原文のまま。

 されば、百科辞典編纂当初の企画は極めて小規模にして内容は簡結を旨とし、一冊の中に専門語と固有名詞とを網羅し尽くさんとの期待なりしも、業愈々進むに従ひ、各方面知名の碩学〈セキガク〉鴻儒挙って〈コゾッテ〉賛同し進んで執筆を快諾せらるる者益々多きを加へたるを以て、勢〈イキオイ〉其計画を拡張するの不得已〈ヤムヲエザル〉に至れり。是れ出版界の為め、学界の為め、確に〈タシカニ〉一の慶福たるを失はざれども、編者が当初之を思ひ立ちたる動機と目的とは当面の事相に対し自ら〈オノズカラ〉相背反し形勢復〈マタ〉如何ともすべからざるに至れり。是〈ココ〉に於て編者は前途に対し望洋の感を抱くと共に身を転回して今まで踏破し来れる〈キタレル〉己が〈オノガ〉背後の長亭短駅〔長い宿、短い宿〕を顧みざるを得ざるに至れり。而して低徊顧望左思右考の末、再び方針を変換して力を英和辞典の速成に集注すべき一新案を立て、敢然従来の計画を収縮して先づ単に小規模の改訂に止むることとし、百科辞書とは他日の邂逅〈カイコウ〉を期し暫く手を分ち〈ワカチ〉路を異にして相共に前途に進出することとし、拮据〈キッキョ〉経営明治四十四年〔一九一一〕漸く之を完成し、兎に角〈トニカク〉一の新英和辞典を世に公にすることを得たり。今「模範英和辞典」〔神田乃武等編『模範英和辞典』三省堂〕として世に行はるるもの即ち是れにて、今回の新版たる「三省堂英和大辞典」に対し実に暫定的中間的の地歩を占むるものなりとす。
 前記百科辞典の編纂が如何に大規模にして而して異常の難事業たりしか、将又〈ハタマ〉中道にして如何に幾多の困苦辛酸に遭逢〈ソウホウ〉したるか、学者といはず、実業家といはず、官場といはず、民間といはず、社会のあらゆる階級の同情共鳴乃至激励が、之がために如何に熾烈〈シレツ〉なりしか、而して其結果としてさしもの浩澣なる本邦なる本邦唯一の百科辞典が如何に完備に近き奏功を遂げ得たるかの諸点に就ては、編者は夙に〈ツトニ〉日本百科大辞典の巻末に於て委曲之を縷述〈ルジュツ〉し局外者たる天下諸流の之に対する感想をも亦之を併記し、既に周知の事実なれば今茲に重ねて之を絮述〔長々と述べる〕せざるべしと雖も〈イエドモ〉、「日本百科大辞典」が年を閲する〈ケミスル〉こと前後二十余歳大正八年〔一九一九〕を以て漸く完成を告げたる以上は、編者は茲に当然旧盟を尋ねて先年暫く仮りに相別れたる「改訂すベき英和辞書」と相会合し、前者の収穫を以て後者の足らざる所を補ひ以て当年の宿約を果さざるを得ざるは、固より言ふまでもあらず。唯々其機会の大に後れ〈オクレ〉たるは編者の甚だ遺憾とする所なれども、遅れたるそれだけ彼此相助くるの資料自ら増大を加へたるは、我等の心窃に〈ヒソカニ〉慶幸とする所なりき。
 事態既に如此〈カクノゴトク〉なるを以て大正八年四月以来の英和辞書の改訂事業は、最早岐路に彷徨〔さまよう〕せざるに至れり。水の分派は合流して一となり、編輯所の最高馬力は滔々汨々〈トウトウコツコツ〉として一所に集注するに至れり。而かも、爾来凡そ〈オヨソ〉八星霜、今日漸くにして之を完成するに至れるは、編者之を急がざりしに非ず、執筆者之を忽せにせられたるに非ず、周匝〈シュウソウ〉にして而して精緻、博洽〈ハッコウ〉にして而して端厳〈タンゲン〉なる此事業の性質自ら之を然らしめたるに過ぎす〔ママ〕。【以下、次回】

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『三省堂英和大辞典』と『日本百科大辞典』

2017-01-29 07:27:18 | コラムと名言

◎『三省堂英和大辞典』と『日本百科大辞典』

 今年に入ってから、斎藤精輔〈セイスケ〉著の『辞書生活五十年史』(図書出版社、一九九一)を読んだ。この本は、一九三八年(昭和一三)に出た謄写刷の私家版を復刊したものだという。
 斎藤精輔と言えば、日本で最初の本格的な百科辞典である『日本百科大辞典』全一〇巻(一九〇八~一九一九)を編集した編集者として知られる。版元の三省堂は、この百科辞典を刊行したことによって経営不振に陥り、百科辞典の完成の前に、一度、倒産している。
 しかし、同百科辞典は、「日本百科大辞典完成会」の手によって、何とか完成を見た。数年前、その最終巻に付されていた斎藤精輔の「日本百科大辞典編纂の由来及変遷」を読んだが、独特の迫力を持つ一種の名文であった。
『辞書生活五十年史』は、その斎藤精輔の自伝であって、もちろん、興味深く読んだ。ただ、文体が文語文であるのに、「現代かなづかい」に直してあり、原文の味わいは、かなり失われいるのだろう、という印象があった。
 その後、偶然、古書展で『三省堂英和大辞典』を目にし、衝動買いした。この辞書は、一九二八年(昭和三)二月の初版だが、入手したものは、同年三月の第三版である。編者は、「三省堂編輯所」、その代表者は斎藤精輔であった。
 本日は、同英和辞典の「巻頭の辞」を紹介してみよう。署名は「編者」となっているが、その文体から見て、斎藤精輔の執筆にかかるものであることは間違いない。

 巻 頭 の 辞

 三省堂英和大辞典の編纂及印刷新〈アラタ〉に完成を告げ、茲に之を世に公にするに際し、編者は其由来と経過と苦心の存する所とを略述して予め本書を繙く〈ヒモトク〉者の参照に資する所あらんとす。
 わが三省堂編輯所が、始めて英和辞書の編纂に着手し「ウェブスター新刊大辞書和訳字彙」を発行せるは実に明治廿一年〔一八八八〕九月なりき。其当時に於て辞書を刊行するは決して容易の業にあらず。就中〈ナカンズク〉至難中の至難なりしは専門語に対する妥当の付訳の点なりとす。是に於て、編者は其当時より、早晩之を改訂するの必要あるを痛感んせると同時に、専門語の付訳は之を各方面の専門諸大家の翼賛に頼らざるべからざるを確信し、先づ之を時の文部省普通学務局長服部一三〈ハットリ・イチゾウ〉氏(後の兵庫県知事/今の貴族院議員)に諮り〈ハカリ〉、同氏の深甚なる共鳴と懇到なる斡旋に依り、文学博士井上哲次郎氏・法学博士鳩山和夫氏・工学博士辰野金吾氏・工学博士真野文二氏・理学博士松村任三〈ジンゾウ〉氏・理学博士松井直吉氏・理学博士箕作佳吉〈ミツクリ・カキチ〉氏・医学博士三宅秀〈ミヤケ・ヒイズ〉氏等三十余名の諸博士より各専門語の付訳を分担せらるるの快諾を得、文学博士南條文雄氏其編輯を統轄せらるることとなりき。是れ即ち今日の「三省堂英和大辞典」の源流にして、「ウェブスター新刊大辞書和訳字彙」に対する改訂の準備と方略とは早く既に其素地を此時に形成したり。
 前期「和訳字彙」の改訂を図ると共に閑却すベからざるは之と両両相対峙すべき和英辞書の編纂にして、我が編輯所は間断なく其前者に没頭すると共に、亦其後者を忽せ〈ユルガセ〉にせざりしが、其専門語に対する付訳は、依然「和訳字彙」改訂編輯と其方針を一〈イツ〉にし、箕作佳吉博士・松村任三博士・南條文雄等諸大家之に力を添へらるることとなれり。惜い哉〈オシイカナ〉此和英辞書の原稿は英和辞書の原稿と等しく明治廿五年〔一八九二〕四月神田の大火に罹り〈カカリ〉、幾多貴重の参考書と共に一朝烏有〈ウユウ〉に帰したれども、編者は撓まず〈タワマズ〉屈せず、更に両者の稿を新にし、和英辞典に於ては更に英国人ブリンクリ〔Francis Brinkley〕氏の力を藉り〈カリ〉明治廿九年〔一八九六〕十月を以て漸く之を世に公にするを得〔エフ・ブリンクリー等編『和英大辞典』〕、爾来力を「英和字書」編纂の方に集注し得るに至れり。而して其当時に於ては、恰も〈アタカモ〉河水の次第に流下するに随ひ〈シタガイ〉衆川の之に合流する者益々其数を加ふるが如く、術語の付訳を快諾せられたる専門大家漸次増加して無慮〈ムリョ〉五拾余名の多きに上れり。
 然れども、専門の諸学者には、自ら諸大家相当の定職の在る有り、辞書の付訳のみに没頭せらるる能はざるは固より言ふ迄もなき所にして、本職の傍〈カタワラ〉、劇務の余暇、之が執筆に当らるるものなるを以て、原稿蒐集の進行編者の焦慮と相一致せず。到底予定の歳月を以て之が完成を期待する能はざること明〈アキラカ〉なるに至れり。是に於て編者は此難局を打開するため新に応急の一策を案出し、一方には専門諸大家に依頼して、徐々なれども而も堅実なる改訂の歩武〈ホブ〉を進むると共に、他方には速成的に諸般の専門語を網羅し尽くせる一〈ヒトツ〉の百科辞典を作り、かくして得たる専門語の付訳を英和辞書に移し用ゐんとの一案を立てたり。是れ明治卅一年〔一八九八〕二月の事に属し、「日本百科大辞典」編纂の事業は実に此時に濫觴〈ランショウ〉せり。【以下、次回】

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あわや、第二の「ゴーストップ事件」

2017-01-28 02:20:08 | コラムと名言

◎あわや、第二の「ゴーストップ事件」

 上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)の紹介を続けたい。本日、紹介するのは、「第二章 青雲の記」の「大阪憲兵隊大手前分隊」の節で、これは、一昨日および昨日に紹介した「憲兵学校から少尉任官まで」の節に続く節である。

『軍警の対決』として世間を風靡した、ゴーストップ事件は、私が大阪へ行く前の事件である。
 昭和八年〔一九三三〕六月天六交差点に起った一兵卒と一巡査の交通信号無視事件に端を発し、第四師団は陛下の股肱〈ココウ〉たる軍人の名誉を傷つけたと主張し、府警側も、陛下の警察官であると応酬して、双方告訴の決意で、師団長と府知事の深刻な対立を呼び、新聞も広く全国に報導〔ママ〕した事件である。
 憲兵はこの事件に、軍側に立って調停にあたったが、容易に折合がつかず、検事正や隣県知事の斡旋で五ヵ月振りに、〝府側が軍側へ譲歩〟という形で解決したものであるが、これに劣らぬ事件が、高級将校と一巡査の間に起ったのである。
 期日は明瞭に記憶していないが、大阪造兵廠の製造部長である某大佐が、私服で料亭からの帰途、長堀橋の付近で交番前に差しかかったとき、巡査から不審尋問をうけた。
「俺は、造兵廠の大佐である。お前なんかに調べられる筋合の者ではない」
「軍人なら、軍服を着て歩け、この真夜中に歩いておれば不審に思うのは当然だ」
「真夜中に通れば、犯罪人扱いをするのか?」
「時局柄、軍人がこんな遅くに、酒に酔って歩く必要があるのか?」
 と、やりとりを交すうち、大佐がむっとなって巡査の?に一発飛ばしたらしい。
 巡査も、
「公務執行妨害」
 というので、遂に取っ組み合となり、双方柔道有段者であったので、投げる、殴ぐるの大乱闘を演じたらしい。
 同僚の警察官が駈けつけて、双方を引き分け、その夜は一先ず、平牧〔ママ〕の大佐の家へ送り届けた。
 この事件が、府警から憲兵隊に知らされ、酒井〔周吉〕隊長は私を呼んで、早速大佐に面接して事情を聴取することを命ぜられた。
 私は、私服で大佐の家を訪問し、夫人の取次ぎで、大佐の枕元に坐って事情を聞いたのであるが、大佐は昨夜の格闘で、顔ははれあがり、全身打撲で身動きもとれず、今朝町医者に診断してもらったが、全治一週間は要するとのことであった。
 私はまず、
「昨夜のことで、酒井隊長から御見舞傍々事情を承って来るように命ぜられて参上いたしました」
 と、挨拶すると、大佐は寝たままで、
「それは御苦労、憲兵はこのことをどうして知ったのか?」
 というので、
「府警本部長から知らせがあって、私が参りました」
 と答え、大佐は沈黙勝ちだったので、
「大佐殿は、どんな服装だったのですか?」
 と聞くと、
「背広にオーバーを着ていた」
「昨夜はどんなご用件で歩いておられましたか?」
「道頓堀の料亭で会食があって、あとで腹も空いているので、待合にでも寄って、ブブ漬を食べようとして歩いていた」
「警官に尋ねられたとき、軍人であることをお告げになりましたか?」
「造兵廠の製造所長であると、はっきり告げた」
「先に手出しをしたのはどちらですか?」
「あまりわからぬことを言うのと、警官の態度が気に食わぬので、カッとなってやったような気もするが、どっちが先か判らぬ」
「大佐殿はこの事件を警官の暴行として、事件にするお考えがありますか?」
「いや、できるならおんびんにしてほしい。けれども昨夜の警官の態度とやり方はよくないぞ、この点憲兵の方から府警の方に強く言ってほしい」
 と言われた後で、
「この事件は造兵廠長閣下に知らせてあるか?」
「さて、その方のことは、憲兵隊長が考えておることと存じます。私は、とりあえず事情をうかがいに参ったのであります」
「できるなら内密に処理してほしい。ゴーストップ事件のようになっては困る」
「事情が判りましたので、帰って隊長に報告いたします。御大切に」
 と引返して、隊長に報告した。
 この時隊長室には、特高課長山中少佐と分隊長小笠原少佐が同席立会った。
(酒井隊長は、大木〔繁〕少将の後任として着任し、着任後間もなく少将に昇進した。和歌山藩士の出身で、形式を重んじ、細かいところに注意されるので有名であり、『酒井伍長』という仇名を奉っていた人である。わたくしが上等兵拝命当時大尉で、東京隊副官をされていたので、よく知っていてくれて、特別に打解けた取扱いをうけていたのである)
 私が、聴取して来た状況を報告し終ると、
「さて、この事件はどうするか!」
 と洩らされたので、
「この事件は時局柄大佐の意見通り、内密に処理することがよろしいかと存じます。この事を表立てれば、第二のゴーストップ事件として世間が騒ぎ、軍民離反の種を播くことになりましょう」
 と、隊長の机に手をついて、意見開陳におよんだ。
「コラ、肘をつくな、俺とお前だけならよいが、うしろに特高課長と分隊長が居るではないか、処理のことはよく考える」
「ハイ、これで報告を終ります」
 と、退室した。
 この事件は、府警の警務部長が菊地さんであって、警視庁特高課時代憲兵にも知人が多く、親交している人が多かったので、双方泣き寝入りということ(警官の負傷は大佐よりも重かったと聞く)で、外部に発表されず内密に処理されたのであるが、これが世間に伝わったとすると、ゴーストップ事件で騒いだ大阪人のこと、大波紋を起したにちがいない。【以下略】

 ここに、「大阪造兵廠」とあるのは、陸軍造兵廠大阪工廠のことで(大阪陸軍造兵廠とも呼ばれたらしい)、そこには、弾丸製造所、信管製造所、鉄材製造所、火薬製造所、火砲製造所が置かれていた。問題の「製造部長」とは、そのいずれかの製造所の所長だったと推定される(住所は、枚方〈ヒラカタ〉か)。
 なお、この事件が起きた年月日は不明だが、酒井周吉が大阪憲兵隊の隊長であったのは、一九四一年(昭和一六)三月一日から、一九四四年(昭和一九)三月一日までの期間である。
 上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)は、このあと、「第三章 戦渦」から、いくつかの節を紹介してみたいと思っている。しかし、とりあえず明日は、話題を変える。

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野戦自動車廠部隊では、隊長らが連日、花札賭博

2017-01-27 04:02:26 | コラムと名言

◎野戦自動車廠部隊では、隊長らが連日、花札賭博

 上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)の紹介を続けたい。本日、紹介するのは、「第二章 青雲の記」の「大阪憲兵隊大手前分隊」の節で、これは、一昨日および昨日に紹介した「憲兵学校から少尉任官まで」の節に続く節である。

 大阪憲兵隊大手前分隊

 私は、昭和十五年(一九四〇)九月末、新任少尉として大阪憲兵隊本部に着任し、隊長大木〔繁〕少将に申告すると、隊長は私を見るなり、
「お前のことは、麹町憲兵分隊長当時から、よく知っている。将校になって注意することは、部下はお前のような正直者ばかりと思うとあてがはずれる。特に大阪の憲兵は、東京の憲兵と異う〈チガウ〉。表裏があるから、裏面を読みとることが必要である」と、
 いわれたことをいまも覚えている。
 大阪商人という言葉は聞いていたが、大阪憲兵という言葉もあるものかと、意を改めるところがかあった。
 偕行社住宅は満員だったので、佐専道〈サセンドウ〉の軍人住宅という、造兵廠の雇員〈コイン〉や営外居住准、下士官の住居用に建てられた住宅団地に一時入った。
 そこで暫らく、家族や荷物の到着するまで、別居生活を送った。
 その別居生活中に、共同食堂で知ったことであるが、東条〔英機〕陸相の実弟が、この住宅に住んでいて、東条夫人がときどき訪れるということであった。
 私は、大手前分隊附将校を命ぜられて、小笠原少佐の下で、人事業務や警務指導にあたった。
 分隊には出口准尉が現役で、後藤、三浦の両准尉は五十才を過ぎた応召者であった。下士官、兵は現役、応召兵合せて六十名程がいた。
 後藤准尉は和歌山で、アンゴラ兎を飼育し、その飼育法を出版する程の人であり、三浦准尉は朝鮮で退役後は警察署長も勤め、応召前は仙台で司法書司〔ママ〕をしていたという人物である。この外〈ホカ〉応召者の中には、小池曹長、大島曹長(何れも准尉となる)などがおり、人生体験の多い人達がいて、得難い助言をしてくれたものである。
 分隊は、特高、司法、警務、庶務の各班に分れていたが、分隊特高班の二階には隊本部の特高課があって、山中少佐以下の錚々たる連中がいた。分隊特高業務は割合に少なく司法班は、大阪被服廠の汚職事件の捜査を終えたあとであり、逃亡兵の捜査手配に追われる程度であった。警務は大阪師団長が李王垠〈ギン〉殿下であって、その警衛や、造兵廠の警備には三浦准尉以下十数名を分駐させており、大阪駅の軍事輸送の取締や、管内の軍事施設、軍需工場の防諜取締に任じていた。
 この頃は、一般部隊にも召集兵が多く、軍紀風紀もようやく弛緩のきざしが見え始めて、軍紀風紀粛正に関する師団司令部の将校教育に講演など命ぜられたことがある。
 当時大阪所在の部隊の中には相当乱脈なものもあった。一例をあげれば、信田山〈シノダヤマ〉廠舍に編制集結中の野戦自動車廠部隊は、輪送の関係で三ヵ月余りも滞在していたのであるが、純真なる一下士官の密告によって、隊長以下幹部が連日大々的に花札賭博を開張し、兵の糧食をかすめて、毎晩のように大酒宴を行なっているのみでなく、幹部は無断外泊し、応召の曹長など一ヵ月余りも帰宅して隊に戻らないという乱脈さであるとのことであった。
 そこで私は内偵のため憲兵を変装潜入せしめて、純真な下士官兵の協力のもとに、宴会と賭博の開張中を監理指揮官の許諾のもとに検挙したことがある。
 この頃、国内では大政翼賛会が発会されたのである。
 市公会堂では、翼賛会の講演会が開催されて、全体主義の理念がはじめて講演され、ヒットラーやムッソリーニの独裁が、東洋理念、特に日本の仁俠道〈ニンキョウドウ〉にならったものであることも講述され、一億一心滅私奉公、大政翼賛などの掛け声がはなばなしく叫ばれることとなった。
 勤労新体制要綱が決定され、産業報国会が創立され、軍需産業の総動員化が着々と進められた。
 昭和十六年〔一九四一〕一月には、衆議院議員選挙法も改正されて、翼賛選挙が行なわれることになった。一方七月には、労働総同盟も解散となり、国内には労働組合は存在しなくなったのである。
 国外では、日独伊三国同盟が締結されて、独乙〈ドイツ〉はフランスを占領し、南京政府の設立も承認され、満州国皇帝の訪日などもあって、日本の大陸政策も、ようやく軌道に乗ったかの観があった。
 私が、大阪に着任して間もない頃である。
 大阪ホテルから、笹本代議士〔ママ〕が電話をくれて、私のために一席を設けたいとのことであった。
 笹本代議士は、私が麹町分隊で、特高かけ出しの頃、政治情勢など詳しく連絡してくれた人である。当時は院外団生活で、中野大和町の小さな家に住んでおられ、子供さんが多く奥様も世常〔ママ〕の若労をなさっていた頃であった。
 それから十年、氏は代識士となり、産報〔大日本産業報国会〕の幹部となっているのに、こちらはやっと憲兵少尉という対比である。
(同氏は戦後も群馬から衆議院議員に数回当選し、防衛次官をしておられた頃、代々木上原の邸宅を訪問し懐旧談をしたことがある)
 そのときは料亭つるやで会食し、最近の政界動静を語り別れたが、翌日大丸呉服店から呼出しがあって、私に柱時計と靖弘に腕時計を贈ってくれた。【以下、次回】

 文中、「笹本代議士」とあるのは、笹本一雄(一八九八~一九六四)のことであろう。ただし、笹本一雄が衆議院議員になったのは、戦前・戦中ではなく、戦後の一九五三年(昭和二八)のことであった。

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