礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

東京駅発・鳥羽駅行きの急行列車に乗り込む

2022-02-28 00:45:47 | コラムと名言

◎東京駅発・鳥羽駅行きの急行列車に乗り込む

 月刊誌『旅と伝説』(通巻四八号、一九三一年一二月)から、下村作二郎のエッセイ「汽車の旅と電車の旅」を紹介している。本日は、その二回目。

 東京―山田間
 九月の或る日曜日の夜、十時十五分東京駅発、鳥羽〈トバ〉行列車に乗る予定で、渋谷駅から東京駅へ来てみると、未だ三十分も、発車時刻に間がある、が兎に角ホームへ上つた、左側に鳥羽行と札の掛つた、列車があるが、「只今客車内は掃除中ですから、乗車はしばらくお待ち下さい」といふ意味の札が立つてゐてガランとしてゐる、が片方右側のホームには、下関行急行が、今や動き出さんとしてゐる、そこには、鳴りひゞく発車ベルと、校歌と、万歳のコーラス、窓からホームから変形タクトの交錯、涙と、水ツ洟、涎?のカクテル! この騒ぎを半分遺して、汽車は出て行つた。
 もう掃除も終つたらしい気配なので、コツソリと乗込んでみたが、だれも居ない、漸く探し当つた格好の空家=腰を下して先づ一ぷく、といつた様な気分だが、あまり落つき過ぎて、少々間が抜けてゐる、が間もなく乗込んで来た同志? 諸君に依つて都合よく座席が埋まつた。
 十時十五分=前の発車の型を踏むでホームを離れた、青い赤い灯の波を、両舷下に眺めつゝ、陸蒸気〈オカジョウキ〉は、静かに捷く、夜の海へ=夢の郷=
 騒がしい足音に、醒まされて、頭を持上げてみたら、早や静岡まで搬ばれてゐる、起き上つて、横領? してゐる座席の一部を、傍ら〈カタワラ〉に立つて居る、人のよささうな、お百姓さんらしい人に、譲つたが、朴直な親しみを有つた、目礼を浴びせられて、いさゝか恐縮した、(断るまでもないが、こゝは所謂、民衆席=三等)、東京を発つ時に、可なり自由な、行動の就れる〈トレル〉程度の座席があつたのだから、その場合、許される限り適当な、態度で、行く事は、だれも異議を、はさむものはなからう、がさてこゝで、眼を醒ましてみると、通路に立つて、右顧左眄〈ウコサベン〉、さながら哀願するが如き態度で、座席を求めて居るのは、多く純撲なるお百姓達だ、然るに、この場合尚ほ三尺の橫領ベツトの上で、狸を真似る智慧者が、そこにも、こゝにも! ハテ仮寝の場合に限つて、官能の動きが或は、狸と同じでないのかも知れないテ、然しこの狸の社中になるのも、なかなかお楽ではなかりさうだ。
 ホームの時計が、午前二時四十分を指してゐるのを後に、又暗〈ヤミ〉をついて一路、浜松へ、車中は尽く、是睡魔の郷、時々通過のポイントの上で、淡い夢を破られる、いにしへの五十三次の中でも聞えてゐる、島田、金谷〈カナヤ〉、或は、掛川、袋并などは、恰かも流星群の如く、朧眼〈ロウガン〉をかすめて、暗中に飛去り消ゆる、四時過ぎ浜松で五分間停車、ホームへ下りて、眼ざまし運動を行つてみた、もうこゝでは、その日の朝刊―弁当―お茶―納豆などの売声が右往左往してホームが活きる、生気は車中にも甦る、が黎明には少し間があるから、半ば、尚睡郷の延長!
 豊橋で一度停まつたが、五時半に近く、岡崎へ着いた頃には、東の空西の地上は,さながら大きなパレツトを、見る様に、いろんな色調が、交々並び浮んで、気持のよい朝の視覚から、より以上の快感を受ける。
 もう夜が明けきつた、今日の恵みの萌芽! 列車の内外はその香気に包まれながら、
 途中安城〈アンジョウ〉を除いた各駅に停車しつゝ名古屋へ入つたのは、午前六時過ぎ、こゝは乗降が盛んで、大部分のお客さまの新陳代謝で、顔ぶれが更る、そしてこの場合だれもが感じる事だが、この辺は車中に於ても、関東弁と関西弁の交錯地帯だ、ネー、ナモ、サカイ、ナアー、が雑駁〈ザッパク〉として、耳に入る。
 六時十七分、乗つて居た列車が逆行し始めた、何だか元の東京へ引戻されさうな気持がするが、乗つたまゝ関西線上へ乗換へてゐるのだ、蟹江、桑名、富田〈トミダ〉、四日市の他はスピートで失敬して、七時四十四分亀山へ着いた、窓を開けて首を出した鼻先へ、ウナギメシーと来た。途中で弁当を買そこなつて、些か〈イササカ〉アセリ気味の食慾が承知でない、現金取引四十銭也で、一頓のウナメシを手に入れた、少々冷つこいが、半分位まで、プロペラの様な、うなりをたて喉を通つて行つた、が俄然災変、床上浸水正に醤油の洪水だ、曰く醤油ドンブリ!
 「亀山の丼屋さんよ、醤油をもう少し節約なさい、時節柄だ、お上の御主意に副つて」
 こゝから列車は、亦もや逆行、つまり原態に復つて〈カエッテ〉、いよいよ参宮線に乗移つてゐる、これを称してピストン運転?
 「皆さんこの列車は、山田まで、一身田〈イッシンデン〉―津―松坂―相可口〈オウカグチ〉―宮川の他は停まりません!」と報らせがある、手ぬぐいマスクをした若い駅員さんが、床上清掃に乗込んで箒〈ホウキ〉をうごかすことに余念がない。
鉄道省のお役人様に、列車内ゴミ整理の迷案を言上致します!
 安値な金属製の網式の籠を、クツシヨンの下方へ取つけては如何ですか、奥のはうは蝶番ひ〈チョウツガイ〉で固着、前方(膝頭の内下方に向ふ位置)は弧形の投入口を開けて置いて、螺旋〈ネジ〉式で固定、掃除の時には、栓を引けば、バラリ!
 先づこれで、将来は極めて美しくて、そしてバナヽの皮のために背負いなげを喰ふこともなからう。
 午前九時十二分―規定の時間に一分も違はないで、神都のホームに、ピタリと停まつた。
 日本の汽車は、発着時間の正確な点で世界一の折紙をつけられてゐるさうだが、日本の人も時間観念に於て、世界一? の折紙がついてゐるさうだ、但し杜撰〈ズサン〉な点が。【以下、次回】

 この当時、東京駅発・鳥羽駅行きの急行列車があったらしい。ただし、当時の時刻表で確認したわけではない。
 このエッセイによれば、東京駅から名古屋駅までは東海道本線、名古屋駅から亀山駅までは関西本線、亀山駅から鳥羽駅までは参宮線を通ったもようである(当時の参宮線は、亀山駅・鳥羽駅間)。筆者は、山田駅で下車しているが、ここでいう山田駅とは、たぶん、今日の「伊勢市駅」のことであろう。
 文中、「一頓のウナメシ」とある。辞書を引いて、「頓(トン)」に、一回の食事の意味があることを知った。

*このブログの人気記事 2022・2・28

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新橋・東京間=乗車賃5銭+急行料75銭

2022-02-27 03:06:28 | コラムと名言

◎新橋・東京間=乗車賃5銭+急行料75銭

 下村作二郎の「汽車の旅と電車の旅」というエッセイのコピーが出てきた。『旅と伝説』(通巻四八号、一九三一年一二月)に載っていたものである。昭和初年の鉄道事情を知ることができる、貴重な文献である。
 本日以降、これを紹介してみたい。筆者の下村作二郎は、日本画家で、こけし蒐集家としても知られていたという。エッセイ中に、三葉のスケッチと一葉の写真があるが(ブログでは省略)、いずれも筆者によるものと思われる。

     汽車の旅と電車の旅    下 村 作 二 郎

 現代日本の内地旅行には、汽車、汽船、自動車、飛行機など、スピート本意の、人間運搬用機は、全く完備してゐる、が右の中で御手軽とスピート、古典的と安全率、その上にいろんな趣味性の含まれてゐて、又それを満契する上について、最も可能性を、具へてゐるものを挙げると、先づ汽車旅行!
 然し汽船の御厄介に、ならなければ、行けない所は、自然別として、その他の方面は、成る可く汽車便を、利用したいと、僕だけは思つてゐる、けれども汽車以外のものゝみに依らなければ、行けない所も、沢山にあるのだから、希望通りの乗ものゝみで目的を達するのは、不可能である事は申すまでもない。
 さてその乗物のスピート化は、旅行の目的の種類に依つては、まことに便利重宝なものだが、或目的、即ち時間を問題としない旅行の場合は、それがために、返つて自分の欲する目的も、超スピートで飛ばされて、後で悲観の浮身を、みる場合も、ないとは申されない、とは、そゝつかしい不注意の結果、失敗をした僕の告白!
 が兎に角〈トニカク〉スピートを生命と仰がない旅行の場合、汽車に乗込んで、思つた座席に、落ついて発車を待つてゐる時、重々しいシヨツクについで、徐ろ〈オモムロ〉に動き出す、その瞬間の気持は! 家を出てから、その時始めて、心気こゝに一転、晴麗〈セイレイ〉として甦る、そして車中を見渡すと、発車前に交々〈コモゴモ〉展開されてゐた、もろもろの社会相は、プラツトホームへ、忘れて来た如く、皆一様に、ノンビリとして、平和な気分が車中に、満ちて居る様にも見える、けれども多数の乗客だ、多少共に、喜怒哀楽の情塊は、お持参に及ばれてゐる筈だが、何れもドライアイスに包んで、どつかへ秘め込んで居るらしい。
 袖摺合ふのも多少の縁、例へそれが僅かの時間で、あるにしても、平和な空気に包まれながら、お互ひに大自然の懐〈フトコロ〉に、擁せられながら徐ろに旅をつゞけて行く事は、それはいくら短距離の行程でも、汽車に依つてこそ、より多く味はへることではなからうか、処で、まれにしか放程につく事の出来ない境遇にある僕は、或日電車に乗るつもりで、新橋駅へ行つた、処がホームへ入つた汽車を見て急に乗つてみたくなり、三、四分間の旅行気分を、車中に味ひながら、涼しい顔で東京駅へ下りたまではよかつたが、乗つた列車が上りの急行!
 新橋――東京駅間――乗車賃五銭+急行料七五銭=八〇銭也
の支払命令を頂戴した、お気の毒ですが規則ですから、あしからず、テナ同情のある御挨拶、何んだかホントの様な、夢の様な気持で駅を出たが、近所の簡易土産物店で、ワサビづけを買つて、夢の旅の延長を自宅まで持越した事があつた、など、こんなお芽出度い話の、安売は出来ないのだが時節がら特別に…… 
 さて電車では、前に申した如く汽車に乗つた時の様な気分の落着きは味へない、それは行程に長短の差のあるのも、原因の一つだが、例へ玄関とお勝手口程の、短距離にある、新橋東京駅間で、両者を比較してみても、大変に異ふ〈チガウ〉様だ、そして少し長距雄を走る場合、電車中で困ることの一つはWCの落つきのよろしくない事! あまり落ついてゐる場所でもないが!、幸これは、だれの目にも、つかない場所だから始末はよいが、それにしても、あの別天地で恰も〈アタカモ〉、震源地の上に居る様な、恰好をせねばならない、自分のお姿を、客観的に想つてみても、いさゝか愛想がつきさうだ。
 飛行機には、幸にして、乗つてみたことがない、空を飛んで行かねばならない程火急を要する不幸な旅に、迫られた事は、未だ嘗てなかつたから、そして僕達の乗物となるまでには、未だよほどの開きがある様だ。しかし飛行機に乗る人が強ち〈アナガチ〉不幸であるといふのではない、トンボの様に、結婚式やら、新婚旅行やらを、空中に於て、挙げさせられる、お芽出度い〈オメデタイ〉方々もあるのだから。
 さて、本誌〔一九三一年〕一月号に於て、漫感を並べ述べた、伊勢の旅へ去る九月の下旬に再び出られる機会に恵まれたので、前回の漫感を補ふ意味で、こゝに再びより以上の愚感を述べて、御叱正を希ふ次第である。【以下、次回】

 漫談調の軽薄な文体で、書き写していて、形容しがたい違和感がある。しかし当時は、こういった文章も、編集者や読者に、喜ばれていたのかもしれない。

*このブログの人気記事 2022・2・27(6位に極めて珍しいものが入っています)

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軍はついに日本の中央政府を乗り取った

2022-02-26 00:58:22 | コラムと名言

◎軍はついに日本の中央政府を乗り取った

 重光葵著『昭和の動乱』上巻(中央公論社、一九五二)から、「二・二六叛乱」の章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

     七
叛乱と外国使臣 帝国軍隊は天皇直属であつて、軍人は「朕ノ股肱ゾ」と天皇は仰せられてゐる。その軍人が、天皇の御膝下において、近衛兵まで参加して白昼反乱を起し、国家の重臣を殺害し、政府の中枢を占拠すること四日に及ぶとは、一体何たることであらうか。これが叛乱軍であるか否か、の順逆の問題すらも、容易には決しなかった。それだけでも、軍の内部の如何に乱雑であるかが、明らかに看取せられた。
 如何なる世でも、本〈モト〉を正すことが政治の根本であるとされてゐる。国家社会の秩序を雑持するために、順逆を明確にし、筋みちを立てることほど必要なことはない。日本では「其の罪を憎んで人を憎まず」と云ひ、純真なる動機を憐む〈アワレム〉のあまり、本末を顚倒して順逆を誤り、社会共同生活の組織を乱すものに対してさへ、罪を軽くしたり、また賊徒を英雄視したりしたことがある。国家が賞罰を誤ることは、同じく順逆を紊る〈ミダル〉ことである。昭和時代の変乱は、明治初年以来、幾多順逆を誤つた史実の集積ではなかったか。吾人は軍人の口から、しばしば、天皇に対する批評を聞き、二・二六叛乱の当時においては、若し天皇にして革新に反対されるならば、某宮殿下を擁して、陛下に代ふべし、といふ言説すら聴かされたことを想起せざるを得ない。所謂天皇機関説を実行してゐたのは、却つてこれを非難した軍部であつた。軍部の跋扈〈バッコ〉は、昔、武家専横の時代を回想せしめるものがある。
 叛乱が起つてから間もなく、外国使臣中に、叛乱軍の包囲哨兵線をくぐつて外務省に見舞に来るものが少くなかつた。広田外務大臣は、宮中に起居してゐるので、記者〔重光〕がこれに応待した。いづれも同情の言葉を残したが、就中〈ナカンズク〉、東洋の二つの代表者アフガン及びタイの公使は、見舞の辞を述べた後に言葉は異なつたが、東洋の先進国たる日本にこの事のあることは我々の残念で堪らぬ所であると云つて、熱涙を流して記者の手を堅く握りしめた。記者は、まことに恥かしく、ただ頭を垂れて、その好意と同情とを謝した。彼等の眼には、東洋の先覚者として頼みに思つた日本の秩序が、崩壊に瀕してゐるやうに映つて、それが残念でたまらなかつたのである。これが外国使臣の直覚であつた。世界の平和に対し、重大なる責務を有する東洋国日本は、果して今後如何なる方向に進むのであらうか。大雪に埋もれてゐる帝都は、軍隊の叛乱のために、処々に鮮血淋璃たる斑点を残し、国家の中枢たる機能を全然喪失してしまつたのである。電車の音も今日は聞えぬ。静かなる天地に独り残された記者は、外務省の応接室から友好国の代表者の後姿を送り出して、うたた感慨の無量なるものを覚えた。

     八
広田内閣の成立 広田内閣の組閣本部は、永田町総理官邸と向ひ合ってゐる外相官邸であつた。組閣は、軍部の持込む故障で容易に捗取ら〈ハカドラ〉なかつた。川島〔義之〕陸相の後任は、軍において勝手に寺内〔寿一〕大将を当ててをつた。寺内大将は、事務局の幕僚数名を従へて、組閣本部に度々乗込んで来て、種々註文をつけた。組閣参謀謀長格の吉田茂外務大臣就任には、軍が反対したため、吉田氏は組閣の仕事から手を引いた。軍の一部と連絡があると云はれた、勧業銀行馬場〔鍈一〕総裁が、その後を引き受けて組閣参謀長となつた。軍務局の武藤〔章〕中佐(後の軍務局長)等中堅将校は、また組閣本部に来て、下村宏の文相就任に反対した。組閣は一週間以上かかつて、軍部の承認を得てやうやく成立した。
 広田〔弘毅〕首相の下に、馬場氏が蔵相として副総理格となり、寺内陸相、永野〔修身〕海相の陣容で、外相には駐支大使として着任したばかりの有田〔八郎〕大使を煩はすこととなつた。記者〔重光〕は、新大臣就任後、〔外務〕次官を辞めて、堀内謙介米洲局長が後を嗣いだ。
 二・二六事件の重圧の下に出来、「庶政一新」をスローガンとした広田内閣は、結局軍の傀儡的存在であつた。満洲事変によつて、軍は完全に政府の覊絆を離れて、独立の行動を執るやうになり、二・二六の叛乱によつて、軍は、つひに、日本の中央政府を事実上乗り取つたのであつた。
 軍の首脳部は、寺内大将を陸相に有する統制派であつて、叛乱軍が皇道派を担いだ〈カツイダ〉といふので、軍部の先輩は、一律に責任を取つてこの際引退する、といふ名目で、皇道派に属する将領は悉く一掃されてしまつた。青年将校の極端論者は、多くは国外又は地方の部隊に転出せしめられた。しかし、軍中堅将校による幕僚政治は依然として続行せられ、内外に対する所謂革新政策に関する軍の考案は、「虎の巻」を基本として、彼等の手によつて政府にその実行が強要されて行つた。

「七」に、「アフガン及びタイ」の公使が外務省を訪れたとある。ここで、「アフガン」とは、アフガニスタンのことで、一九一九年にイギリスから独立し、一九二六年から、国名を「アフガニスタン王国」と称した。その後、国内で改革と内戦が続き、一九三三年には、ムハンマド・ナーディル・シャー国王が暗殺されている。
 一方、「タイ」とは、タイ王国のことで、一九一二年に、陸軍青年将校らによるクーデター計画が発覚し、一〇〇名以上が逮捕されている。一九三二年には、人民党によるクーデターが起き、これによって、絶対君主制から立憲君主制に移行した。「東洋の先進国たる日本にこの事のあることは我々の残念で堪らぬ所である」というのは、アフガニスタン公使およびタイ公使の、偽らざる気持ちだったと思われる。
「二・二六叛乱」の章は、ここまで。二・二六事件関係の記事も、ここまでとし、明日は話題を変える。

*このブログの人気記事 2022・2・26(9位になぜか山の木書店)

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国民は数日間、政府の所在すら知らなかった

2022-02-25 01:20:45 | コラムと名言

◎国民は数日間、政府の所在すら知らなかった

 重光葵著『昭和の動乱』上巻(中央公論社、一九五二)から、「二・二六叛乱」の章を紹介している。本日は、その三回目。

     五
叛徒との交渉 国家の重老臣を、おのおのその自宅において、血祭りに上げた叛乱部隊は、永田町の総理官邸に集合して本隊と合した。叛乱軍は、溜池にある山王ホテルや料亭を根城〈ネジロ〉とし、総理官邸を本拠として、これに蟠居〔蟠踞〕し、附近一帯をその警戒線に取り入れ、更に所謂自由主義者を追及検索するとともに、全国の同志に電報を発して蹶起を促した。これがために、各地方において不穏の形勢が見え、動きかけた軍隊もあつたが、遂に大勢を動かすに至らず、危く全国的叛乱となることなくして済んだ。外相官邸も、外務次官官邸も捜索を受けたが、〔広田弘毅〕大臣も〔重光葵〕次官も官邸に起居してはゐなかつた。
 叛乱勃発と共に、閣員及び他の重臣は、悉く宮中に籠つて宮内省に起居し、宮城は堅く門を鎖し、外部との交通は、平素使用されざる平河門を通ずる宮城背後の迂回路の外は、遮断されてしまつた。事件発生後、後藤〔文夫〕内相が臨時総理に任せられた。賊の占領せる総理官邸を脱出し得た岡田〔啓介〕総理は、やうやく一両日の後、隠れ家から宮中に出頭して、天機を奉伺し、同僚閣僚に合して、後藤臨時総理の職を解いた。
 国家の政治機関の中枢たる総理大臣官邸が、叛乱軍のために占領されて、総理の生死すら数日にわたつて不明であり、東京で何が起つたかも、公然とは政府より発表せられず、国民は政府の所在すら知ることが出来なかつた。これがために、流言蜚語〈リュウゲンヒゴ〉は忽ち四方に起り、日本は無政府状態に陥つたのではないかと危まれた。識者は、政府が「日本政府ここにあり」と国旗を立てて、名乗り出て来るのを期待したのであつたが、内閣諸公をはじめ、軍部指導者まで、元老重臣とともに、お堀と鉄条網とによつて、外部と遮断された宮城内に姿を匿してゐると云ふことを聞かされて、云ふべからざる失望を感じた。内閣はこの危機の最中に辞表を提出して、政府は自然消滅の姿となつて、国民の頼るべき国家の指導は、相当期間、事実存在しなかつた。
 宮中に籠つてゐた軍の大将級首脳者は、叛徒の手中にある陸相官邸に出向いて、叛徒の首領と会見して、この上砲火を見ずして事を収めようと、連日折衝努力した。その間叛乱軍は、自ら尊王軍と称し、一般には、或ひは蹶起部隊、または行動部隊とか挺身隊とかの名称で呼ばれてゐたが、川島〔義之〕陸相が、天皇陛下に拝謁の際、「未だ叛徒は鎮定せぬか」との厳しいお尋ねがあつてから、叛乱軍と呼ぶやうになつて順逆が初めて明瞭となつた。
 その間にも、当時戒厳司令部参謀であつた石原〔莞爾〕大佐等は、帝国ホテルに会合して、後継内閣の首班に、 右翼運動者山本英輔〈エイスケ〉海軍大将を推すことを協議したりした。叛乱軍の要求は、真崎大将を首班とし、軍を中心とする政権を樹立して、革新を断行することであつて、その要求が貫徹すれば、解隊して罪に服し、自決すると云ふのであつた。

     六
叛乱の鎮定 内閣の組織は大命によるのであつて、真崎大将が諾否を决すべき問題では勿論ない。荏苒〈ジンゼン〉時日の経過とともに、帝都の不安は増大し、焦躁の数日間が続いた。海軍は、陸軍が躊躇すれば海軍のみで鎮定すると云つて、海軍省の建物を武装しはじめた。叛徒鎮定のための軍隊もやうやく地方より集結し、陸軍の討伐本部が九段下の軍人会館に設置せられたが、討伐軍参謀石原大佐等は、むしろ叛徒を激励するの言辞を弄したと云ふので、討伐そのものの真意について一般に疑問が持たれた。真崎、荒木を含む陸軍大将等の数日かかつての説得の後、叛徒の首領は、一旦自決することを承認して、十八箇の棺が陸相官邸に運び込まれ、自決用のピストルや日本刀等も準備されたが、中途、北一輝の電話による自決反対、むしろ降伏して法廷戦術に出る方がよいと云ふ勧告によつて、決意は翻へされた。戒厳司令部は、叛徒に対して火蓋を切ると噂されたが、つひに隊長野中〔四郎〕は、総理官邸前庭において自らピストルを頭部に発射して死し、他のものは罪に服し、兵員は兵営に帰還した。これは二十九日のことである。
 軍法会議は非公開で開廷され、首謀者は、北一輝や西田税とともに、いづれも銃殺刑に処せられ、真崎大将は約一年拘禁せられた後、釈放された。
 岡田内閣は事件の最中総辞職を行つた。軍の叛乱に、直接の責任を有する川島陸相の辞職理由も、他の閣僚と一様であつたことは、天皇の異様に感ぜられたところであつた。西園寺〔公望〕公は直ちに近衛〔文麿〕公を後任に奏請した。近衛公が辞退したので元老は困惑したが、当時、国際関係が重要視せられ、最近、北鉄〔北満鉄道〕買収等の対ソ交渉に成功した広田外相を推して、叛乱後の政局を担当せしめることとなった。【以下、次回】

「五」に、「内閣はこの危機の最中に辞表を提出して」とあるのは、後藤文夫内閣総理大臣臨時代理が、全閣僚の辞表を取りまとめたことを指している。首相官邸を脱出し、淀橋区下落合の佐々木久二邸に潜伏していた岡田啓介首相は、二月二八日、佐々木邸にやってきた吉田茂調査局長官の勧めに従い、不本意ながらではあったが、辞表を提出している(今月五日の当ブログ参照)。
「六」に、「岡田内閣は事件の最中総辞職を行つた」とあるのは正しくない。岡田内閣の総辞職は、叛乱鎮定直後の三月九日である。

*このブログの人気記事 2022・2・25(9位の清水幾太郎、10位のルメイ将軍は久しぶり)

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「蹶起すべき時機が来た」村中、磯部等

2022-02-24 02:00:56 | コラムと名言

◎「蹶起すべき時機が来た」村中、磯部等

 重光葵著『昭和の動乱』上巻(中央公論社、一九五二)から、「二・二六叛乱」の章を紹介している。本日は、その二回目。

      三
士官学校事件 血に熱する青年将校の頭を冷やすために、軍の先輩は相当苦心した。国家を想ふ純真なる青年将校の団体は、士官学校の優秀なる生徒の全部を網羅してをつた。軍の幹部に反感を有つ彼等は、軍人としての登竜門である陸軍大学校にも、結束して入学志願をなさずして、国家改造のために犠牲となる時機を待つてゐた。
 然るに、彼等の指導者格であつた村中〔孝次〕大尉や磯部〔浅一〕主計等の人々は、つひに彼等の信頼する先輩の忠言に耳を傾け、その説得に応ずることとなつて、直接行動は思ひ止り、立派な軍人として国家に奉仕するといふことを誓約して、村中は陸軍大学校に入学し、学生として真面目に軍事の研究に専心するやうになつた。
 然し、青年将校の一般政治運動は少しも衰ふるところなく、士官学校の学生中にもこれに感染するものが少くなかつた。軍当局は、禍根を一掃する方針を立て、士官学校幹事(東條〔英機〕少将)は中隊長(辻〔政信〕大尉)の建策に基き、青年将校の一味と云はれた佐藤〔勝郎〕と云ふ生徒に旨を含めて、彼等の行動を内偵せしめた。佐藤は、村中や磯部等を歴訪して、彼等の変心を罵倒したりして真意を確めた。彼等は、いづれも時機を俟つてゐるのみで、国家の革新に対する従来の精神において、少しも変つてゐるのでない、と言明するに至つた。
 内偵報告を得た軍部は、これを理由として、関係者全部を陸軍大学校より放校し、更に軍より退役せしめた。軍の内規によれば、恩給年限に達せざる者は退役せしめぬことになつてゐたのである。士官学校生徒も多数粛清された。この事件は、士官学校事件と呼ばれるものであるが、これによって、青年将校の統制派首脳部に対する反感は極度に達し、復讐心に燃ゆる村中、磯部等は、かくなる上は蹶起すべき時機が来たと考へ、竊か〈ヒソカ〉に同志とともにその計画を練つた。その背後には、北一輝や西田税等の革新主義者がゐた。

     四
重臣の暗殺昭和十一年二月 第一師団に対し、急に満洲に派駐すべき命令が下つた。東京師団だけは他に動かさぬのが軍の内規と云はれてゐた、急にこれを動かすことになつたのは、我々青年将校の睨まれたる者を、東京より追ひ払ふ魂胆に出でたものであらうと、彼等は邪推するに至つた。事はその前に挙げさるべからず、と一決した。
 昭和十一(一九三六)年二月二十五日、大雪の夜に、第一師団の野中〔四郎〕の引率した兵隊が中心となり、近衛師団やその他の部隊が参加して旗を挙げ、手分けをして、周到なる秘密計画の下に、まづ元老、重臣の暗殺を決行した。主力部隊は、総理官邸を襲ひ、永田町、霞ケ関及び溜池の一帯の地区を占拠し、警視庁及び内務省並びに参謀本部及び陸軍省をも占領した。
 興津の西園寺〔公望〕老公は、襲はるる前に避難することが出来たが、湯河原の野村別荘に滞在中の牧野〔伸顕〕前内大臣は、家族とともに夜中襲撃を受け、護衛警官の勇敢なる殉職により、危く虎口を脱した。斎藤〔実〕内大臣、高橋〔是清〕蔵相、真崎〔甚三郎〕大将を継いだ渡辺〔錠太郎〕新教育総監は、おのおの自宅において惨殺せられ、鈴木〔貫太郎〕侍従長は官邸において瀕死の重傷を負つた。
 岡田〔啓介〕首相は、総理官邸に同居してゐた、従兄弟に当る首相に酷似せる秘書松尾〔伝蔵〕大佐が誤殺され、その人の身代によつて危く難を免れた。岡田首相は、松尾大佐の葬儀に当り、死体搬出にまぎれて叛徒に包囲せられてゐる官邸を脱出するといふ劇的場面を演じた。【以下、次回】

「四」の文中、「野村別荘」とあるのは、正しくは、「伊藤屋旅館別館光風荘」である。岡田首相脱出の箇所に、「松尾大佐の葬儀に当り、死体搬出にまぎれて」とあるのは、「弔問に訪れた老人たちにまぎれて」などと訂正されなければならない。

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