礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

折口信夫「この戦争に勝ち目があるだろうか」

2021-01-31 05:10:31 | コラムと名言

◎折口信夫「この戦争に勝ち目があるだろうか」

 年末に、片付けをしていたところ、民俗学研究所編『民俗学の話』(共同出版社、一九四九年六月)という本が出てきた。柳田國男門下の錚々たる面々が執筆しており、その掉尾を飾っているのは、折口信夫(おりくち・しのぶ)の「神道の新しい方向」というエッセイ。
 以前、このエッセイを読んだとき、折口信夫というのは、こういうわかりやすい文章も書けたのかと、妙に感心した覚えがある。
 今日、この折口のエッセイは、青空文庫に入っており、誰でも容易に閲覧することができる。念のために、青空文庫を見てみたところ、表記・表現・改行等が、『民俗学の話』所収のものとは異なっていることに気づいた。ちなみに、青空文庫「神道の新しい方向」の底本は、『日本の名随筆』別巻九八(作品社、一九九九)で、底本の親本は、『折口信夫全集』第二〇巻(中央公論社、一九九六)だという。
 このエッセイの初出は、『民俗学の話』だと考えられる。だとすれば、このエッセイを、「初出」の形で紹介しておくことも、意味あることにちがいない。そう思って、本日以降、数回に分けて、このエッセイを紹介してみることにした。なお、原文にある踊り字( \/ )は、相当する文字に直してある。【、、】は、原ルビ(傍点)を示す。また、〔、〕は引用者が読点を補ったことを示す。

  神道の新しい方向     折 口 信 夫

 昭和二十年の夏のことでした。
 まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄っていようとは考えもつきませんでしたが、そのある日、ふっとある啓示が胸に浮んで来るような気持ちがして、愕然といたしました。それは、あめりかの青年たちがひよっとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した十字軍における彼らの祖先の情熱をもって、この戦争に努力しているのではなかろうか、もしそうだったら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだろうかという、静かな反省が起って来ました。
 けれども、静かだとはいうものゝ、われわれの情熱は、まさにその時烈しく沸っておりました。しかしわれわれは、どうしても不安で不安でなりませんでした。それは、日本の国に、果してそれだけの宗教的な情熱を持った若者がいるだろうかという考えでした。
 日本の若者たちは、道徳的に優れている生活をしておるかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遥かに劣った生活をしておりました。それは歯に衣を着せず、自分を庇わなければ、まさにそういえることです。
 われわれの国は、社会的の礼譲なんていうことは、何よりも欠けておりました。
 それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことで御覧になりましてもわかりますように、世の中に、礼儀が失われているとか、礼が欠けておるところから起る不規律だとかいうようなことが、われわれの身に迫って来て、われわれを苦痛にしておるのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いておるところから出ている。宗教的な秩序ある生活をしていないから来るのだという心持ちがします。心持ちだけぢやありませぬ。事実それが原因で、こういう礼譲のない生活を続けておるわけです。これはどうしても宗教でなければ、救えませぬ。仏教徒であったわれわれの家では、ときを定めて寺へ詣る――そういう生活を繰返しておりますけれども、もうそれにはすっかり情熱がなくなっております。それからその慣例について謙譲な内容がなくなっております。
 ところが、たゞ一ついゝことは、われわれに非常に幸福な救いのときが来た、ということです。われわれにとっては、今の状態は決して幸福な状態だとはいえませぬが、その中の万分の一の幸福を求めれば、こういうところから立ち直ってこそ、本当の宗教的な礼譲のある生活に入ることが出来る。義人【、、】のいる、よい社会生活をすることができるということです。
 しかしときどきふっと考えますのに、日本には一体宗教的の生活をする土台を持っておるか〔、〕日本人自身には宗教的な情熱を持っているか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が現れて来るかということです。
 事実仏教徒の行動なんか見ますと、実際宗教的な慣例にしたがって、宗教的な行動をして、宗教的な情熱を持って来たようにも見えますけれども、それは多くやはり、慣例に過ぎなかったり、または啓蒙的な哲学を好む人たちが、享楽的に仏教思想を考え、行動しているにすぎないというような感じのすることもございます。ことに、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けているということができます。【以下、次回】

 青空文庫とちがって、促音は「っ」であらわされている。一方、「ひよっとすると」、「ぢやありませぬ」は、原文でも、こうなっている。
 文中、「沸って」の読みは、「にえたぎって」、または「わきたって」であろう。また、「詣る」の読みは、「まいる」、または「もうでる」であろう。

*このブログの人気記事 2021・1・31(9位になぜか友田吉之助)

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言論機関を味方にする必要がある(山口一太郎)

2021-01-30 04:16:07 | コラムと名言

◎言論機関を味方にする必要がある(山口一太郎)

 石橋恒喜『昭和の反乱』下巻(高木書房、一九七九年二月)から、「二十二 やった! 革命だ――」の章を紹介している。
 本日は、その三回目。

 襲撃を免れた東京日日
 やがて午前九時、東京朝日が武装部隊に襲われているとの情報が伝わってきた。私は覚悟を決めた――来るべきものが来たのだ、と。すなわち、彼ら皇道派青年将校が、東京日日、東京朝日などに憎悪の目を向けていたことは前述のとおりである。それは真崎〔甚三郎〕教育総監の罷免事件のさい、両紙のとった報道論評態度が、あまりにも〝反皇道派、親統制派〟的(反軍的であったというのではない)であるというにあったからだ。
 たちまち編集局内は騒然となった。東京朝日が襲われたからは、次は東京日日の番だ。間もなく〝来たぞ、来たぞ〟という声が聞こえてきた。編集総務の杉山幹〈カン〉が、〝しずまれ、しずまれ〟と一同を制止している。私は三階の窓辺へ駆け寄って、武装部隊の動きを見守った。先頭は一団の将校を乗せた乗用車。そのあとには機関銃と着剣の下士官兵を満載した軍用自動貨車二輌が続いている。乗用車から飛び降りたのは栗原安秀である。いよいよ乱入かな――と考えていると、庶務部長の小泉が、雪の路上へ呼び出された。栗原が何か言いながら、印刷物を小泉に手渡した。すると意外にも、彼らはあわただしく立ち去ってしまった。印刷物というのは例の「蹶起趣意書」だ。それを新聞に掲載して欲しい、というにあった。私は放心状態になって、しばらくその場に立ちつくした。ヤレヤレ、助かった、と。
 では、なぜ東京日日を襲撃しなかったのか? 私がそのわけを知ったのは、事件から七年後のことである。そのわけはこうだ。
 ――昭和十八年〔一九四三〕の晩秋、大東亜戦争勃発とともに、南方戦線にあった私は、二年ぶりで東京の土を踏んだ。ある日、読売新聞の友人、鴇沢幸治から電話があった。彼は陣軍省詰めの軍事記者を経て、当時、同社の航空部長のイスについていた。
「ワン太さん(山口一太郎)が君に会いたがっている。彼はこのほど出所し、いま萱場〈カヤバ〉製作所の技術部長として飛行機の増産に懸命となっている。これから用事があって彼のところへ出かけるが、どうだ、いっしょに行ってみないか」
 早速、鴇沢の車に同乗して、製作所を訪問した。山口は長い獄中生活の疲れを顔に浮かべていたものの、元気で製図台に向かっていた。そして、獄中では戦闘機の二〇ミリ機関砲の設計と取り組んでいたこと、私の書いた日中事変従軍記を読んでなつかしかったことなどを語って、話は尽きなかった。その時、彼は笑いながら言った。
「そうだ! 君におごってもらいたいことがある。それは二・二六事件の突発した朝のことだった。小藤連隊長〔小藤恵歩兵第一連隊長〕から臨時の連隊副官を命じられたわしは、栗原部隊の偵祭に総理大臣官邸へ車を飛ばした。官邸前へ到着すると、ちょうど栗原中尉が出動しようとしている。〝栗原! どこへ行くのか〟と呼びとめた。すると彼は〝東京朝日と東京日日に、一発お見舞いしてくるのだ〟という。驚いたことには、重機、軽機まで装備している。そこでわしは〝乱暴はよせ。昭和維新を成功させるためには、言論機関を味方にする必要がある。ことに東京日日の襲撃はやめろ〟と命令した。栗原は大きくうなずいて出て行った。どうだ、わしの一言で君の社は難をのがれたし、東京朝日も、活字ケースをひっくり返されたくらいの損害ですんだわけさ」
「そうだったのか、ありがとう」――私は彼に礼をいって、鴇沢といっしょに辞去した。

 山口一太郎が事件当時、栗原中尉に向かって、「ことに東京日日の襲撃はやめろ」と言ったかどうかは、不明である。しかし、本当に、そう言ったとしたら、それは、東京日日には石橋記者がいるから、という含みだったのであろう。
 文中、鴇沢幸治という人名が出てくる。「鴇沢」は、「ときざわ」と読むのであろう。「幸治」の読みは不明。
「二十二 やった! 革命だ――」の章は、このあとに、もう一節、「〝昭和維新の断行あるのみ〟」の節があるが、同節の紹介は割愛する。
 石橋恒喜著『昭和の反乱』の紹介は、このあとも続ける予定だが、明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2021・1・30(9位になぜか京都府立医大事件)

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わしは革命軍の捕虜になっていたのさ(中村長次郎)

2021-01-29 02:18:11 | コラムと名言

◎わしは革命軍の捕虜になっていたのさ(中村長次郎)

 石橋恒喜『昭和の反乱』下巻(高木書房、一九七九年二月)から、「二十二 やった! 革命だ――」の章を紹介している。
 本日は、その二回目で、「捕虜となった写真班」の節。

 捕虜となった写真班
 有楽町でバスから飛び降りると、一気に三階の編集局まで駆け上がった。もちろん、局内は火事場のような騒ぎである。西荻窪のような田園地帯に住んでいる社会部記者はまれなので、部員のほとんどは出勤していた。デスクの安島誉〈アジマ・シゲル〉が、私を見てホッとした顔をした。
「待っていたぞ。君は臨時デスクをやってくれ」
 私はたずねた。「いったい、何が起こったのだ。渡辺〔錠太郎〕大将邸が襲撃されたことは、特報で知っている。だが、警視庁前にいる兵隊は何かね、歩三の襟章をつけていたが……」 
 デスクは顔をこわばらせながら答えた。
「革命軍だよ、とうとう君の予言が的中した」
「えっ! 本当か?」――私は思わず飛び上がった。しかし、ぐずぐずしてはいられない。すぐデスクの隣りに陣取って、事件のあらましを聞いた。
「決起した革命軍は在京部隊らしいこと、襲撃された個所は総理大臣官邸、内大臣官邸、侍従長邸、大蔵大臣私邸、教育総監私邸、内務大臣官邸、湯河原の伊藤屋別館、警視庁などであること。岡田〔啓介〕首相、斎藤〔實〕内大臣、鈴木〔貫太郎〕侍従長、高橋〔是清〕蔵相、渡辺教育総監、牧野〔伸顕〕前内大臣らは生死不明、後藤〔文夫〕内相だけは無事であったこと、陸軍省、内務省、警視庁などが武装集団の包囲下にあるため、くわしいことはさっぱり分からないこと」
 などであった。そして、「事件の報道については、一切禁止の通達があったから注意してくれたまえ」といって、一通の書類をさし出した。
 見ると、それは内務省警保局長名による通達である。「本日、東京市その他における軍隊の不穏行動並びにこれに関連する記事は、一切これを新聞紙に掲載せざるよう通達する」とある。
 さらにデスクは、声をひそめてこうささやいた。
「実はけさ五時ごろ、首相官邸から『いま軍隊が襲ってきた』との通報があった。ただちに宿直中の写真部の中村長次郎君が飛んでいったのだが、未だに帰ってこない。間違いがないといいんだが……」
 カメラマンの中村は社内切っての名物男。陽気な楽天家だ。われわれは彼を〝ガラッパチの長次郎〟こと「ガラ長さん」と呼んでいた。まさか革命軍が〝報道陣〟に危害を加えることはあるまい、とは考えたものの、勇敢なガラ長さんのこととて、流弾にあたる可能性もある。私も腕組みして考え込んだ。
 しばらくすると、〝帰ってきた、帰ってきた〟というざわめきがする。見ると青ざめた顔をして、中村が姿を現わした。
「いやあ、えらいこっちゃ。岡田首相はやられたよ。わしはいままで革命軍の捕虜になっていたのさ」
 と、一部始終を語ってくれた。
「けさ宿直当番にあたっていた私(中村)が、ふとんに入ったばかりのとき、首相官邸から電話だという。電話は官邸の職員の松沢氏からだった。
『いま官邸に軍隊が入ってきた……私はこれから逃げます』
 といって電話は切れた。自分は自動車部へ飛んでいった。まだ五時をちょっと過ぎたばかりである。外は暗いので、車はライトをつけて走った。霞ケ関に出て、官邸の近くに立っている兵隊に〝えらい人に会わせてくれ〟というと、兵士が後から銃剣をつきつけながら案内してくれた。そこには数名の将校がいた。私はたばこを宿直室に置き忘れてきたので、〝たばこがあったらください〟とかたわらの将校にいうと、ゴールデンバットを出してくれた。チェリーが欲しいというと〝栗原〟と彼はかたわらの将校に声をかけた。そこではじめて栗原〔安秀〕中尉の名前を知ったのだが、彼はポケットにチェリーをいっぱい持っていた。将校たちとたき火にあたっていると、『これから陸相官邸へ行くから自動車を貸せ。君は助手席に乗れ』という。陸相官邸へ行くと、ちょうど射たれた将校が運び出されるところだった(注、磯部浅一に射たれた軍事課員・片倉衷)。陸相官邸から警視庁をまわって、首相官邸に帰ると、栗原中尉は『わしたち尊皇義軍は、貧乏人をすくうために決起したのだ。これがその趣意書だ』と蹶起趣意書を見せてくれた。そこで自分は、『これを新間で天下に知らせなければだめじゃないですか。これから帰って大々的に書きますから、帰してください』といったら、『それもそうだ。よしっ! 帰れ』と釈放してくれた。自分が官邸へ着いた時は襲撃直後のこととて、一時はどうなることかと思ったよ」
 彼はこう語りながら、「その蹶起趣意書はこれだ」といって、ガリ版刷りの檄文を示した。署名を見ると、「陸軍歩兵大尉野中四郎外同志一同」とある。私は首をかしげた。なぜかというのに、私は一部将校のおもだったものは、ほとんど知っていた。だが、「野中四郎」の名は、これまで耳にしたことがなかった。早速、「陸軍実役停年名簿」で調べてみたら、彼は陸士三十六期生で歩三の第七中隊長。歩一の山口〔一太郎〕からみると三期も後輩である。どうもおかしい。いったい、週番司令・山口はどうしたのだろう? 不審に思ったが、彼が決起部隊の総指揮官でないことを知って、ホッと胸をなでおろした。【以下、次回】

 首相官邸までやってきた東京日日新聞記者に対し、栗原安秀中尉は、「これから陸相官邸へ行くから自動車を貸せ。君は助手席に乗れ」と言ったという。この東京日日新聞記者は、石橋恒喜著『昭和の反乱』によれば、中村長次郎である。しかし、三浦寅吉執筆「反乱軍本拠突入記」によれば、その記者は三浦自身であるという。
『昭和の反乱』によれば、中村記者は、宿直中のところ、「松沢」という人物から電話を受け、すぐに社の自動車で出発している。一方、三浦記者は、自宅で就寝中、同じく「松沢」から電話を受け、新聞社に連絡を入れたあと、タクシーを拾って新聞社に向かった。社に着いたときには、中村記者は、すでに出発していたという。
 ということであれば、最初に首相官邸までやってきたのは、中村記者である可能性が高い。栗原中尉と一緒に陸相官邸に行ったのも、たぶん、中村記者だったと思われる。もちろん、断定はしない。
 なお、「ゴールデンバット」も「チェリー」も、専売局が販売していたタバコの名称。ともに十本入りだが、チェリーのほうが、少し高級。

*このブログの人気記事 2021・1・29(9・10位に珍しいものが入っています)

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やった!革命だ、革命だ(石橋恒喜)

2021-01-28 03:59:34 | コラムと名言

◎やった!革命だ、革命だ(石橋恒喜)

 三浦寅吉の「反乱軍本拠突入記」を紹介している間に、注文しておいた石橋恒喜著『昭和の反乱』上下巻(高木書房、一九七九年二月)が届いた。
 まだ、拾い読みをしている段階だが、類書には見られない記述があるというのが第一印象である。
 下巻の「二十二 やった! 革命だ――」の章に、「捕虜となった写真班」という節がある。読んでみると、東京日日新聞写真部の記者が、叛乱軍の将校とともに新聞社の自動車で移動したという話で、三浦寅吉の「反乱軍本拠突入記」と、その内容が酷似している。ただし、その写真部の記者というのは、三浦寅吉ではなく、中村長次郎だったという。これをどう解釈したらよいのか、いま思案しているところである。
 ともかく本日以降、数回に分けて、「二十二 やった! 革命だ――」の章を紹介してみよう。

  二十二 やった! 革命だ――

 事件と東京日日新聞
 二十六日の早朝、〝電報々々〟と、玄関の戸をたたく音に夢を破られ。「スグシユツシヤセヨ」というのだ。私が案じたとおり、何か事件が起こったらしい。朝食をそこそこに、西荻窪の駅へ駆けつけた。途中、新聞販売店の前を通りかかると、店員が、〝特報〟をはっていた。「今払暁、渡辺教育総監邸襲繫さる」とある。やはり〝第二の永田事件〟が起こったのだ。しかし、渡辺邸の襲撃なら、たいしたことはあるまい。先夜、教育総監を訪問したさい、厳しい警戒網がはられていることは目〈マ〉のあたりにしている。たとえ数名のテロ分子が襲ったとしても、武装憲兵の前には敵するはずがない。私はのんびりした気持ちで、人気〈ヒトケ〉のない省線電車の一隅に席を占めた。そして、手にした総合雑誌を読みふけった。四谷駅で下車すると、いつものとおり東京駅行の市パスを待った。ところが、待てど暮 らせどバスはやってこない。どうしたわけだろう? さすがにイライラしてきた。その時、双葉高女の方を振り返ると、武裝した近衛師団の大尉参謀が、駆け足でやってくるのが目に入った。見ると、着剣した兵一名がそのあとへ従っている。
 この瞬間、私は〝ギクリ〟とした――これは〝永田事件〟のような、単純なものではないらしい。私はタクシーをつかまえると、「三宅坂(陸軍省)までやってくれ」とたのんだ。すると運転手は、〝だめだ〟と首をふった。三宅坂付近は市街戦の演習か何かで、半蔵門で交通遮断されているという。
 あほらしい。日本の軍隊が、いくら演習だからといって、昼日中〈ヒルヒナカ〉、日本の政治の中枢部への立ち入りを禁止するはずはない。血がカッと頭へ逆流した。一目散に、四谷見附の交叉点へ向けて駆け出した。
 そこへ東京駅行の市バスが走ってきた。きょうは平常のルートを変更して、赤坂見附、虎の門経由だとのこと。満員である。私はむりやり飛び乗った。赤坂離宮(現在の迎賓館)横を経て赤坂見附を通過する時、気になるので三宅坂方面を見上げてみた。ガランとして人影は全く見えない。ただわずかに、坂の途中に伏射の姿勢をとった軽機関銃手の姿が、チラリと目をかすめただけだった。
 陸軍省に何か変事が突発したらしい。陸軍大臣でもやられたのかな? 気ばかりあせるが、バスは遅々として進まない。ようやく虎の門を左折して、海軍省(現在の農林省)前へ差しかかった。すると、着剣の兵士が、最高裁(現在の東京高裁)前から内務省(現在の人事院)前へかけて、ズラリと散兵線をしいている。ここでも軽機関銃が残雪の路上に据えられて、銃口が虎の門方向へ向けられている。軽機関銃の銃身は、空包用ではなくて実包用だ。そのかたわらには拳銃を手にした下士官が立っていて、大きく手をバスに向けて振った。〝右折して日比谷公園方向へ行け〟といっているらしい。
 バスの運転手も気が上ずってしまったのか、しばらく立往生してしまった。バスから見おろすと、早くも物見高い野次馬が、その下士官を取り囲んで、話しかけている。〝エーイ、めんどうな〟と思ったのか、いきなりその下士官は、拳銃を野次馬につきつけた。〝うるさい、どけどけ、どかないと射つぞ〟と怒鳴っているらしい。この瞬間、私のひざがしらは思わず、ガクガクした。つり革をシッカリ握っていなかったら、おそらくその場にへたり込んでしまったに違いない。〝やった! 革命だ、革命だ〟――さもないと、皇軍の下士官たるものが一般市民に拳銃を向けるはずがないからだ。 【以下、次回】

 ここまでが、「事件と東京日日新聞」の節で、このあと、「捕虜となった写真班」の節となる。

*このブログの人気記事 2021・1・28(10位に珍しいものが入っています)

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毎日新聞社ではモーニング姿の小泉庶務部長が出迎えた

2021-01-27 02:25:06 | コラムと名言

◎毎日新聞社ではモーニング姿の小泉庶務部長が出迎えた

『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、三浦寅吉執筆「反乱軍本拠突入記」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 陸相襲撃隊に出食わす
 自動車はやがて陸相官邸門前へ着いた。栗原〔安秀〕中尉を先頭にして私たちが車を降りたところへ一台のトラックが兵士を満載して驀進〈バクシン〉してきた。
 と、それが目の前へぴたりと停って、兵士を引率したらしい青年将校が颯爽として降り立った。
 見るより栗原中尉は大声で叫んだ。
「首尾はどうだ。」
「成功だ。高橋の親父をみごとにやって来た。任務は完全に果したぞ。」
「そうか。よくやった、万歳だ。」
 二人の声ははずんでいた。
「おい。この自動車はここで待っておれ。」いい残して栗原中尉たちは、足を速めて陸相官邸へはいって行った。
 動きの取れなくなった私は、もはや観念して、ここで待機するよりほかはなかったが、高橋の親父というのは蔵相高橋是清子〔子爵〕のことではないかと思うと、事の重大さが今更のように犇々〈ヒシヒシ〉と身に沁みて感ぜられた。
 二十分ばかりも経ったであろうか。勢よく出て来た栗原中尉は、振り返って命令した。
「おい。いよいよ朝日と毎日を襲撃する。直ぐにトラックを二台用意しろ。」
「よし。」
 直ちに身を飜して走り去ったのは、大尉の肩章をつけた士官であった。
 私はすでに秩序の失われていることを知った。
 上官に対して命令することは、日本陸軍において厳として有り得ない鉄則である。その秩序が破壞されている以上、新聞社の襲撃も単なる威嚇ではないと考えずにはいられなかった。
「栗原さん。この自動車は置いて行くが、僕はこれから社へ帰って、君たちを出迎えるように報告したいから、一足先へ帰してもらいたい。」
 意を決して呼びかけた私に対し、中尉も承知して、直ぐに歩哨を呼んだ。
 歩哨は命ぜられたまま、私を赤坂の電車通りまで案内してくれたので、ようやく叛乱軍の中から脱出することができたのだった。

 「毎日襲撃」を急報
 私は勇躍して本社へ帰ると、直ちに編集部へ飛び込んだ。そこには今日の事件について憂慮する岡崎編集主幹や杉山編集副主幹の顔があった。
 その前に立った私は、今朝からの逐一を報告するとともに、襲撃された場合の態勢を、今のうちに整えておかねば、新聞の発行に一大支障を来たすであろうことを力説した。
 主幹も事の緊迫していることに驚いて、さっそく編集部一部を蚕糸会館へ、一部を歌舞伎座へ臨時に移動して、万一に備えることに手筈を整え、一方小泉庶務部長は担当者の立場から、モーニングを着用におよんで、叛乱軍が到着の際は玄関へ出迎えることになった。
 はたせるかな、叛乱軍の一隊はまず朝日新聞社へ殺到した。不意に驚く幹部の対応に不満をもった兵士たちは、社内に乱入して工場の活字のケースを顛覆して、ついに当日の新聞発行を不能ならしめた。毎日新聞では、モーニング姿の小泉庶務部長の丁重な出迎えを受けて、さしもの反乱軍も蹶起の趣意書を渡したのみで、一歩も社内へはいることなく静粛に立去り、ことなきを得た。
 かくて私の懸命の脱出、報告の甲斐があり、社内全体の喜びを受けたのであった。いまから思うと、この結果を招来したのは、一に〈イツニ〉早暁第一報をもたらした松沢氏の功績であり、新聞記者の早耳が、いかに有意義に大勢を左右するかを物語るものとして、二十年を経過した今日、私は今なお、松沢氏に対する感謝の念を新しくしている。

 本日、紹介した部分のうち、「陸相襲撃隊に出食わす」という見出しは、原文のママ。ここは、「蔵相襲撃隊に出食わす」、もしくは「陸相官邸で蔵相襲撃隊に出食わす」でなくてはならない。
 なお、蔵相を襲撃したあと、陸相官邸までやってきて、トラックでから「颯爽として降り立った」青年将校というのは、たぶん、中島莞爾中尉(陸軍砲工学校在学中)のことであろう。中島中尉は、このあと、朝日新聞の襲撃にも加わっている。

*このブログの人気記事 2021・1・27

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