礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

オオイ、もう殺しちまったよ(徳冨蘆花)

2015-12-27 03:03:22 | コラムと名言

◎オオイ、もう殺しちまったよ(徳冨蘆花)

 昨日の続きである。野田宇太郎の論文「蘆花と幸徳事件」(一九五七)を紹介している。本日は、その二回目。昨日、【以下、次回】としたあと、改行して、次のように続く。

 これらの日記からも蘆花がはたして幸徳秋水一派の事件に対してどんな考へを持ってゐたかが察せられるが、尚二十四名の死刑が決定したあとの数日をその日記〔愛子夫人の日記〕によってみると、一月二十日「けふは終日かの二四人の事件につきかたりくらす。食卓の下にうづくまりおかめかきもちをやけば、吾夫も坐して卓の下にてとり給ふ。心は牢にのみゆきて。」翌二十一日「聖恩如海、一二名減刑の詔勅下る。吾夫はまだ政府を悧巧として多分残りも今数日を経て下るべし。一度に悉くゆるすは寛〈カン〉に過ぐるやう見ゆればと。されど、幸徳及菅野〔菅野スガ〈カンノ・スガ〉〕のふたりは、若しくは大石〔誠之助〕の三名だけはどふもたすかりさうにもなし。ともかく兄君へ手紙認め〈シタタメ〉、残り一二一名の為尽力したまはん事を乞ひ給ふ。高井戸の東京便にたのむ。」……とある。
 蘆花が十二名の減刑を我事のやうに無邪気によろこび、あと十二名も全部ではないがいくらかは助かるかも知れぬと楽観するやうな溶けた気持になってゐる有様も判るが、ここで注意したいのは、蘆花が桂〔太郎〕首相の側近にあった兄〔徳冨〕蘇峰〈ソホウ〉に、のこる十二名の助命のことを依頼してゐたことである。しかし蘇峰ははたして桂に伝達したのかどうか、蘆花は桂の返事に接してゐない。蘆花がいよいよ最後の手段として天皇直接に死刑中止を申し上げようと決心したのは、兄蘇峰さへも頼むに足らずと見てとると共に、事は急を要することを切実に感じはじめたときであった。
 次に〔資料一〕を裏書きする愛子夫人の一月二十五日の日記をみると「吾夫の御眠り安からず。早朝床臥に居たまふ。折からいろいろ考へ給ひ、どふしても天皇陛下に言上〈ゴンジョウ〉し奉る外はあらじ。わがいひ出でし侍従武官中村寛氏の嫁御〈ヨメゴ〉に当るわが愛する玉枝さんを説き、此言上をとりつがしめんか、と幾度か思ひしも、彼女の不幸の本となりもせば、とそれもいじらし〔かわいそうだ〕。ともかくも草し見ん、とまだうすぐらきに、書院の障子あけはなち、旭日のあたたかき光をのぞみて、氷の筆をいそいそ走らし給ふ。走らしつつも其すべを考へ給ふ。桂さんよりは書生の言を退けて一言の返事もなし。ともかく『朝日』の池辺〔三山〕氏、これも志士の後閑氏にたのみて、新聞に、陛下に言上し奉るの一文をのせてもらはん、と漸くかき終えて、一一時比〈ゴロ〉池辺氏への手紙と共に冬〔女中の名〕を高井戸に使し〔ツカワシ〕、書留にて郵送せしむ。まづはなし得るだけはしたれども、どれ一つかなへさうもなし。やきもき思へどせんすべもなし。午後三時比新聞来。オヽイもう殺しちまったよ。みんな死んだよ。と叫び給ふに、驚き怪しみ書斎にかけ入れば、已に既に昨二四日の午前八時より死刑執行!!! 何たるいそぎやうぞ。きのふの新聞に本月末か来月上旬とありしにあらずや。桂さんもおそくも二三日の晩までには手紙を見て居らるゝ筈。何故、よく熟考してみられない。『朝日』報ずる臨終の模様など、吾夫折々声をのみつつ読み給へば、きくわが胸もさけんばかり。無念の涙とどめあえず。吾夫もう泣くな泣くなととゞめ給へど、其御自身も泣き給へり。一度訪ねてよろこばせてやりたかりし。午前八時より午後三時迄、何と無惨の政府かな。体うちふるへて静かに死につく犠牲の心持ち、身にしみじみとこたへて、いかにもかなしくやるせなし。大逆徒とあざけられし彼等ゆゑ、引取人ありやなしや。とにかく出かけ見ん。もしなくばここに引取らん。松陰と遠からぬ此地に彼等を葬るも能からん〈ヨカラン〉と、身したくしたまんとしたまひしが、紙上に加藤十郎氏(〔野田〕註・時次郎か)、〔堺〕枯川氏の引取の記事ありたれば、ひかえてやめたまう。」……とありて、この二十五日の日記で〔資料一〕〔資料二〕及び〔資料三〕の蘆花の動向も大体が判る。
〔資料二〕の原稿は現在その草稿二通が蘆花公園に保管されてゐるが、やはりこの最後の清書と草稿では部分的に書きかへた点がみとめられる。もちろん〔資料二〕が唯一の正しい原稿である。【以下、次回】

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