礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

おいらの胸にゃぐっときた(進め一億火の玉だ)

2018-12-12 02:06:45 | コラムと名言

◎おいらの胸にゃぐっときた(進め一億火の玉だ)

 先日、古書展で、奥田良三・宮田東峰共編『われらの歌 国民愛唱歌集 第三巻』(新興音楽出版社、一九四二年七月)という本を入手した。「定価金五十銭」、古書価三〇〇円。
 パラパラと中味を見てみると、聞いたことがないような珍しい歌が、たくさん入っている。このあと、そうした歌の歌詞をいくつか紹介してゆきたいと思うが、本日は、とりあえず、「目次」のみを紹介してみる。

  わ れ ら の 歌
    (第 三 巻)
  ――目   次――
ア ジ ヤ の 力……………………… 4
十 億 の 進 軍……………………… 5
無敗潜水隊の歌…………………… 6
シンガポール晴の入城 ………… 7
ハ ワ イ 海 戦……………………… 8
マ レ ー 沖 海 戦 ………………… 9
海軍落下傘部隊の歌………………10
大東亜戦争陸軍の歌………………11
進め一億火の玉だ…………………12
海 の 進 軍 …………………………13
断 じ て 勝 つ ぞ…………………14
国民総出陣の歌……………………15
大東亜決戦の歌……………………16
感 激 の 合 唱………………………17
大詔奉戴日の歌……………………20
月月火水木金金……………………21
陥したぞシンガポール …………22
総進軍の鐘は鳴る…………………23
戦ひ抜かう大東亜戦 ……………26
躍進海車の歌………………………27
銃 後 の 花…………………………28
勇 士 に 捧 ぐ ……………………29
元気で行かうよ……………………30
陸上日本の歌………………………31
輝 く 軍 艦 旗 ……………………32
軍   旗…………………………33
敵 は 幾 万…………………………34
皇軍大捷の歌………………………35
桜   花…………………………38
陸軍行進曲…………………………39
若 き 妻…………………………40
船 出 の 歌…………………………41
日本婦人の歌………………………44
英 霊 讃 歌…………………………45
沈黙の凱旋に寄す ………………46
かへり道の歌………………………47
撃 滅 の 歌…………………………50
婦人愛国の歌………………………51
空 を ゆ く…………………………52
新 政 讃 頌…………………………53
少年少女愛国の歌 ………………54
みくにの子供………………………55
こどもの報告………………………56
兵隊さんよありがたう…………58
空 中 艦 隊…………………………59
少国民愛国歌………………………62
日本子守唄…………………………63
子 守 唄…………………………64
旅   愁…………………………65
母 の 背 は…………………………66
弔 魂 歌…………………………67
元   寇…………………………68
凱   旋…………………………69
国旗掲揚の歌………………………70
興亜青年行進曲 …………………71
昼    …………………………72
古戦場の秋…………………………73
花    …………………………74
蘭 花 の 頌…………………………76
国   土…………………………77
日章旗の下に………………………80
国   旗…………………………81
か も め…………………………82
秋 の 月…………………………83
若 葉 の 歌…………………………86
娘 田 草 船…………………………87
時計台の歌…………………………88
春 待 草…………………………89
戦陣訓の歌…………………………92
戦車兵の歌…………………………93
陸軍記念日を祝ふ歌 ……………94
海軍記念日の歌……………………95
健 歩 の 歌 …………………………98
国民学校の歌………………………99
四 季 の 月 ………………………100
春の草秋の草 ……………………101
寧 楽 の 都 ………………………102
軍人勅諭の歌 ……………………104
軍艦旗の歌 ………………………105
抜 刀 隊 ………………………108
日本陸軍の歌 ……………………109
雪 の 進 軍 ………………………112
敷島艦の歌 ………………………113
興 亜 の 妻 ………………………114
大 君 の ………………………115
此 の 一 戦 ………………………116
朝だ元気で ………………………118
僕等の団結 ………………………120
連 峯 雲 ………………………122

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金関丈夫「木馬と石牛」の初出は1953年8月

2018-12-11 07:35:44 | コラムと名言

◎金関丈夫「木馬と石牛」の初出は1953年8月

 大雅新書について紹介している。本日は、その三回目(最後)。本日は、大雅新書版『木馬と石牛』から、「木馬と石牛」という文章を紹介してみたい(七~一二ページ)。
 筆者の金関丈夫は、引用箇所のアタマを二字下げることによって、引用であることを明示しているが、ここでは、《 》を用いることによって、引用であることを示した。

 木馬と石牛

 ウオルト・デイズネーのカルトン〔漫画〕で、ことに近頃日本人にもなじみの深いものになつたシンデレラ物語の、最も古い文献が、既に九世紀のときに、唐の段成式の「酉陽雑爼」に収められていることを、南方熊楠翁が古く考証している(一九一一年「人類学雑誌」二六巻)。その論文の中で南方翁は、ついでを以つて、「テカメロン」中の二話と同趣の話が、「韓非子」の中に見えていることを紹介せられた。そのうちの一話が前号で私の紹介した第七日の第九話、ニコストラーツスの妻リディアの淫計の話の一部であつたのは、不思議な縁であるが、他の一話も同じく第七日の、これは第六話に関するものであつた。南方翁の右の論文は、最近に出版せられた「南方熊楠全集」の第三巻にも収められているから、ここでは贅説〈ゼイセツ〉しないことにする。
 さて、この「韓非子」の中に、南方翁の言い及ばなかつた、次のような面白い話がある。
《知伯将伐仇由、而道難不通、乃鋳大鐘、遣仇由之君、仇由之君大説、除道将内之、赤章曼枝曰、不可、此小之所以事大也、今也大以来、卒必随之、不可内、仇由君不聴、遂内之、赤章曼枝因断轂、而駆至於斉、七月而仇由亡矣。》
 つまり、春秋時代の晋の六卿の一人であつた知伯〈チハク〉が、仇由〈キュウユウ〉という国を攻めようとした。ところが離路に阻まれて、兵隊を遣る〈ヤル〉ことが出来ない。そこで一計を案じ、巨大な鐘を鋳て、これを仇由の君に贈ろうという。仇由の君は大よろこびして、道路を整備してこれを国内に入れようとした。時に赤章曼枝〈セキショウマンシ〉というものが之れを諫止して、いけません、いつたい宝物を贈るというようなことは小国から大国へこそすべきことであるのに、これは大国から小国の方へ贈ろうというのです。きつと鐘のあとから兵隊がやつてくるにちがいありません、決して入れてはなりません、という。仇由の君はこれを聴かないで、とうとう鐘を国内に入れる。赤章曼枝は、仇由の滅亡まのあたり、とばかりあわてゝ、車の轂〈コシキ〉を短くして、疾駆して斉の国へ逃れ去つた。それから七個月のうちに、仇由は知伯に亡ぼされた、という話である。
 話のうちの知伯は、前にもいう通り実在の人物である。だからこの話も、一応は実際にあつたこととも考えられよう。現に従来の史家はそう考えて、仇由がどこの国であつたかを、熱心に考証したりしている。しかし、この話が書かれたのは、知伯の亡びた時(前四三一)から、約二百年の後である。二百年という年月は、物ごとが伝説化されるには決して不足な年月ではない。これを、知伯という実在人物の名が、たまたま引きあいに出された、単なる説話と見ることも出来なくはない。いな、そのように見る方が、よりほんとうらしい感じがする。これを単なる説話だと見るときは、その説話要素は凡そ〈オヨソ〉次のように簡約することが出来るであろう。
 敵の城地へ軍隊を入れるのに、その通路に障碍のあること、その障碍を除くために、敵人の好奇心をそそり、且つ巨大なるものを先ず敵に贈り、これを迎え入れさせることによつて、敵人自身の手でその通路を整備させること、かく敵人のみずから作った通路によつて、軍隊を敵地に入れ、ついに攻略に成功すること。
 さて、このように要約すると、すぐに想い出すのは、トロヤの木馬の話である。ホメーロスによると、ギリシヤ軍は十年トロヤ城を攻めて、なおこれを陥れることが出来ない。ついに攻略を断念する風を装おい、城外に一の巨大な木馬をのこして、軍営を撤する。トロヤの人々は木馬を戦利品として、城内へ入れようとする。ネプチューンの神官ラオコーンは人々をとゞめたが、トロヤ人はこれに聴かず、ついに城門を自ら壊して、木馬を城内にひき入れる。ギリシヤ軍は潜伏していた近くの島蔭から、急に船をかえして、城内に突入する。十年不落のトロヤ城は、この奇計により、一朝にして陥落する、という話であり、その骨子においては、知伯大鐘を贈つて仇由を伐つた話と、甚だよく似ている。ここでは赤章曼枝が、とりも直さずラオコーンである。たゞ、一方は木馬であり、他は銅鐘である点が、いくらか異つている。しかし、これを相異だという人には、次の話はどうであろうか。
 三国から東晋にかけての、四川、雲南地方の歴史や地理を誌した、常璩〈ジョウキョ〉の「華陽国志」の巻三、蜀志に、
《周の顕王の世に、蜀王が北遊して秦の恵王と出会つた。恵王は黄金一箱を蜀王に贈る。蜀王お礼として宝物を返えす。ところが珍重しているうちに、宝物化して土になってしまつた。恵王大いに怒る。群臣これを賀してこれぞ天の賜物です、蜀が手に入る前兆ですという。恵主よろこび、さて、石の牛五頭を作り、毎朝その後ろに黄金を落しておく。そして、石牛が毎朝兵隊百人を養えるほどの値のある黄金の糞をする、といいふらす。蜀人これをほしがり、使をよこして石牛を貰いたいという。恵王承知する。蜀王五丁を派遣して石牛を迎え取る。ところが連れてくると、石牛一こうに金糞を産まない。怒ってこれをつきかえし、秦人を嘲けつて〈アザケッテ〉東方牧犢児(シンのうしかいこぞう)と悪口する。秦人これをきいて、牛かいは牛かいだが、今におまえの国がおれたちの牧場になるのだという。
 それから数年後、周の慎王の五年の秋に、秦は大夫の張儀や司馬錯や都尉墨などを将として、曽て石牛を迎えるために、蜀人が作つた牛道から蜀に攻め入る。蜀王葭萠で防いだが、敗け武陽にのがれ、ここで秦軍に殺される。蜀に王たること十二世、ここに開明氏は亡びたのである。(以上、意をもつて訳す)》
とある。この石牛道というのは、「大清一統志」などによると後世甚だ有名なかの剣閣道のことであるという。
 さて、この話に出る人々も、みな史上実在の人物である。しかし、話された事件の起つた時と、話者の常璩が筆録した時との間には、六百数十年の間隔がある。だいいち蜀人いかに愚なりといえど、石牛が金糞を産むことを信じたはずもないであろう。これも実在人物に名をかりた、単なる説話にすぎないことは、明白である。
 してみると、その骨子においては、この話も前二話と全く同様である。のみならず、トロヤの木馬に対して、いかにも中国らしくこれは石牛である。その間の相似は、さきの木馬と銅鐘との間のへたたりを埋め得て充分なものといえるであろう。採録された時代からいえば、銅鐘と石牛との四には、大約五百八十年の前後はあるが、伝承の形としては、石牛の方が却つて古形であつたといえなくもない。
 いずれにしても、西紀をはさんで前後約六百年の間に、山西から四川、即ち中国の西方の地において、「トロヤの木馬」とも称すべき一連の説話が伝わつていた。前漢の張騫〈チョウケン〉の西征に先だつ百年前には、民間すでにある程度の東西交通が行われていたのであろう。南方翁やアンリー・マスペロの指摘した、数個の欧亜共通説話とともに、これなども先秦時代における東西交通の痕跡を示す、一つの貴重な例ではあるまいか。(一九五三・八月「九州文学」一の二所載)
〔追記〕 恵壬が蜀王より贈られた宝物の土塊と化したのを喜んだ理由について、京大水野清一教授より、敵地の土の一部が入手したのを以つて、やがてその全土の入手すべき吉兆としたのであろう、との解釈を教えられた。神武天皇が天香山の土をひそかにぬすみとらせ、これを以つて大和の全土を手に入れるための一の呪法に使用した話も、これと同類である。水野教授の教示を感謝する。

 引用にあたって、一か所「。」を補った。「蜀に攻め入る。蜀王葭萠で防いだが」の部分である。
 また、文中、「前号」とあるのは、『九州文学』第一巻第一号(一九五三年七月)を指す。金関丈夫は、ここに、「婬樹譚」という文章を寄せている。
 なお、一昨日、昨日の記事の補足をひとつ。大雅新書版『木馬と石牛』の装幀は、画家の立石鉄臣(たていし・てつおみ)が担当している。大雅新書から「近刊」が予定されていた人物である。

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大雅新書、既刊3冊近刊1冊の内容を紹介する

2018-12-10 05:55:25 | コラムと名言

◎大雅新書、既刊3冊近刊1冊の内容を紹介する

 大雅新書について紹介しているいる。本日は、その二回目。本日は、大雅新書版『木馬と石牛』の最終ページ(二〇〇ページ)にある、大雅新書既刊三冊、近刊一冊の内容紹介を、そのまま引用してみたい。

大雅新書  新書判・カバー付美本 各冊¥150.〒20

去 年 の 雪 ―文学的自叙伝― 矢 野 峰 人著
《内容》 去年の雪・抱月と須磨子・西田幾多郞先生・菊池寛氏を懐ふ・国禁の書・「悲しき玩具」・作歌の思ひ出・愛詩帖・上田敏先生の思ひ出などの11篇。詩人で英文学者たる著者の、明治、大正、昭和3代にわたる文学的自叙伝。特に海外文学の移植について新たな分野を拓く。著者は東京都立大学教授、文博。

父親としての森鷗外   森  於 莵著
《内容》 鷗外の健康と死・観潮楼始末記・鷗?外の母・鷗外と女性・鷗外の隱し妻・父親としての鷗外など5篇。はじめて明らかにされた家庭人としての文豪の側面。鷗外文学理解の書として深き感銘を与う。口絵写真多数。著者は東邦大学医学部教授、医博。

木馬と石牛 ―民族学の周辺―   金 関 丈 夫著
《内容》 婬樹譚・木馬と石牛・ニムロッドの矢・ごましお頭の男その他・デイアポロ・百合若大臣物語・陰牙説話など11篇の説話学隨想にオナニーの文学・体臭の文学・蓮の露の3篇を加う笑いを含んだ、肩のこらない、民族学的小品集ながら、同時に豊富な資料と独自のヒラメキをもつ学術的エツセイ集としても注目されよう。著者は九州大学教授、医博。
――――――――――――――――――
    〈近刊予告
あるPTAの記録   立 石 鉄 臣著
 国画会会員である著者のPTA 会長としての2年間の記録。画家の眼で見た新教育の推移が洒脱なタツチで描かれた好著。東京戸山ハイツのある小学校のPTA の記録であると同時に、全国のPTAにも共通する幾多の話題をふくんでいる。

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大雅書店が刊行したのは大雅新書3冊のみ

2018-12-09 02:22:18 | コラムと名言

◎大雅書店が刊行したのは大雅新書3冊のみ

 金関丈夫の『木馬と石牛――民俗学の周辺』が、大雅新書の一冊として世に出たのは、一九五五年(昭和三〇)四月のことであった。
 その後、大林太良の解説が付いて、角川選書『木馬と石牛――民俗学の周辺』(一九七六)となり、また、法政大学出版局から、『木馬と石牛』が出版された(一九八二)。さらに、大林太良編で、『新編木馬と石牛』が岩波文庫に入った(一九九六)。
 このようにして、同書は、「名著」として定着したわけだが、最初に出た大雅新書版というのは、あまり紹介されることがない。そもそも、「大雅新書」という新書の存在そのものが、ほとんど紹介されることがない。
 大雅新書は、東京・渋谷区の宮益坂ビルにあった大雅書店が発行していた新書で、『木馬と石牛――民俗学の周辺』は、大雅新書の「3」にあたる。では、ほかに同新書から、どんな本が出ていたのか。調べてみると、矢野峰人『去年の雪――文学的自叙伝』(一九五五)、森於莵『父親としての森鷗外』(一九五五)の二冊のみであった。つまり、大雅新書として世に出た本は、三冊のみであった。
 では、大雅書店は、大雅新書三冊のほかに、どんな本を出だしていたのか。実は、大雅書店は、大雅新書三冊のほかには、一冊も本を出していないのである。まことに、幻のような新書であり、出版社である。しかし、大雅新書と大雅書店は、『木馬と石牛』という名著を世に送ったことにより、歴史にその名を残すことになった。
 本日は、以下に、大雅新書版『木馬と石牛』の「あとがき」を紹介しておきたい(一九七ページ)。

 あ と が き
 
 大雅書店の林宗毅君と、友人の池田敏雄君との熱心なすゝめによつて、この本が出ることになつた。両君に感謝する。たゞ、多忙のため、ゆつくりと手を入れる暇がなくて、意に満たぬものを、そのまゝ発表することになつたのは、大へん耻しい。
 本書に収めたものは、主として説話に関する雑考であるが、頁数の関係で、そうでないものを、二三加えた。いずれも多少ともに読物の含みをもって書かれた雑文であって、別に何らの発展を含むものではないが、中で、百合若大臣に関する話は、いま少し本格的に考えて見ようと思つている。こゝに発表したものは、その予報の如き意味になると思う。
 本書の編集、校正については、池田君に一任した。同君に重ねて感謝する。

  一九五五年三月五日        著  者

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根津夫人に特に揮亳をお願ひした(谷崎潤一郎)

2018-12-08 04:57:21 | コラムと名言

◎根津夫人に特に揮亳をお願ひした(谷崎潤一郎)
 
 谷崎潤一郎『盲目物語』の複刻版を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
 本日は、同書の「はしがき」と「目次」を紹介してみたい。

   は し が き

一 ここにあつめた四篇は、それぞれ独立の作品であるが、いづれも作者の国史趣味乃至和文趣味を反映してゐると云ふ点で、何処かに共通した匂ひがある。作者は今後もかう云ふものを書くかも知れないが、さしあたり、引きつづいて此の方面へ進んで行かうとば考へてゐないので、取り敢へず此れだけを一冊に纒めてみた。
一 作者が昔文壇へ出た時の処女作は、栄花物語から材を取つた「誕生」と云ふ戯曲であつた。左様に作者の国史国文趣味は古くからのことであり、処女作以後にもその傾向を代表する作品が少くない。しかし此処に集めたやうなものが出来たのは去る大正十二年以来近幾の地に移り住んで古典に由縁【ゆかり】ある風土や建築や音楽の影響を受け、容貌言語習慣等に今も往々数百年来の伝統をとどめてゐる土地の人々との接触に依つて、ひとしほ作者の持ち前の趣味が培養された結果である。さう云ふ意味で、これらの作品は関西に於けるいろいろな交友、旅行、遠足、遊宴などの思ひ出と結び着き、作者に取つてなつかしいものばかりである。就中「吉野葛」を書くに就いては、大阪の妹尾徤太郎氏、大和上市〈ヤマトカミイチ〉の樋口氏、飯貝〈イイガイ〉村の尾上氏、吉野桜花壇の辰巳氏等の好意と配慮とを煩はしたところが頗る多い。
一 此の書の装幀は作者自身の好みに成るものだが、函、表紙、見返し、扉、中扉等の紙は、悉く大和の国栖【くず】村の手ずきの紙を用ひた。此れは専ら樋口喜三氏の斡旋に依るのである。
一 口絵のコロタイプは北野恒富画伯筆「茶茶」の画面の一部である。此れは嘗て院展に出品されたことのある名高い絵で、元来縦に細長い構図であるが、此の書の形態上その全画面を載せることが出来ず、書伯の許可を得て人物の居ない上半部を切り去ることにした。今此の絵は大阪の根津清太郎氏の蔵幅になつてゐる。作者は此れが「盲目物語」の口絵として甚だ適当であることを思ひ、日頃懇意な間柄の恒富氏並びに根津氏に乞うて、幸ひに巻頭を飾ること
を得た。
一 函、表紙、扉、中扉等の題字は根津夫人の染筆である。聞くところに依ると、恒富氏は茶茶の顔を描くのに根津夫人の容貌を参考にしたと云ふ。そんな因縁があるのと、夫人の仮名書きが麗しいのとで、特に揮亳をお願ひした。
一 尚此の外に、大阪の菊原撿校高野山の梶原涼風氏等の名前も逸し難い。作者はそれらの人々の友情や刺戟のお蔭で斯う云ふ本が出来たことを深く感謝する次第である。

 昭和かのとひつじの歳十二月  倚松庵に於いて 作 者 し る す

   本 文 目 次

盲 目 物 語            一丁 
吉 野 葛          百十一丁
紀井国狐憑漆掻き語     百六十七丁
覚海上人天狗になる事    百八十一丁

   挿 絵 目 次

九里道柳子筆三絃甲所【かんどころ】の図 八十七丁
同     箏名所【などころ】の図  百五十五丁

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