礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昔は六法全書が飯を食つてゐた(山田孝雄)

2022-10-08 00:20:17 | コラムと名言

◎昔は六法全書が飯を食つてゐた(山田孝雄)

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一八回目。本日、紹介するところも、「第六 古事記序文第二段」の一部である。

 先にも申しましたやうに、日本の昔の政治といふものは支那流の文章本位の政治ではない、朝廷の御命令でも、またいろいろの国家の政治であらうと、あらゆることがみな口伝へで伝へられて来たのであります。だから推古天皇様の御代まではその帝紀、本辞といふものを口伝〈クデン〉として正しく伝へて来なければ本当の政治は出来ないのであります。言伝へ〈コトヅタエ〉が政治の根本になつてゐたといふ証拠に日本書紀の仁徳天皇様の御代をお読みになれば実例が一つある。菟道稚郎子〈ウジノワキイラツコ〉と仁徳天皇様とが三年間位をお譲り合になつたので、天下のものはどちらへ行つてお裁きを願へばよいか分らなかつた。そこでその虚に乗じて大山守皇子〈オオヤマモリノミコ〉がわが侭をせられた、その中の一つに朝廷直轄の御料地を儂〈ワシ〉の方へ寄越せといはれたことがある。そこで大和の役人がそんなことはないと大鷦鷯尊〈オオサザキノミコト〉へ訴えた、大鷦鷯尊が大和の一切の由来を知つてゐるものは誰かと尋ねたところ、倭直吾子籠〈ヤマトノアタイノアゴコ〉が知つてゐるといふので、では吾子籠を呼べと仰言つた、ところが吾子籠は百済へ使ひに行つてをります、といふのである。それでは仕方がないから呼び戻せと仰せられ、吾子籠が帰つて来た、そこで大鷦鷯尊がお尋ねになつたところ、いやあれは山守のものではない、昔から天皇の直轄の御料地でございます、とかういふことを申上げたので、それは間違ひだといふので取消されたといふことがあります。昔の政治はさふいふものであつた。今日では六法全書がありますが、昔は六法全書が飯を食つてゐたのであります。この飯を食ふ六法全書に聞かないと政治が出来ない、それが即ち語部〈カタリベ〉であります。推古天皇様の御代から書物をもつて政治をせられるやうなつたので御飯を食ふ六法全書は御用がなくなつた。そこで推古天皇様より以前の事柄に関しては言伝へがなければ本来のことがわからぬので、天武天皇様がそれを書き残しておかないとあとで大変なことが起る、なぜ書き残しておかなければ大変なことが起るか、間違があらうがなからうが、とにかく推古天皇様から天武天皇様まで六七十年、七十年も経てばもう古老は犬分減つてをります、これがもう二十年もすればみな死んでしまふ、さうなつて来ると何を聞かうにもわからない、私共は徳川時代のことを少しばがり知つてをりますが、明洽になつて生れた者ですから無論知らなかつた、ところが私の父が明治初年に丁度〈チョウド〉四十頃でした、維新時代であります、そこで私はその話を聞いておかなくちやいかぬといふので暇さへあれば昔話を聞いておきました、それで少しは知つてをるのであります、それでなければわからない。これは別に天武天皇様の真似をしたわけではない。昔の口伝へ政治といふものはさういふものでありまして、なかなか書物ではわからぬのであります。だから変なことを申して少し脱線する気味はありますが、私共は徳川時代の歴史家の書いてゐるものをみると歯掻くて〈ハガユクテ〉仕方がない、いゝ加減なものであります。大学で徳川史を講義するのに書いたものだけでするからわからぬ。私は徳川時代の色んな文献をみるけれども御老中〈ゴロウジュウ〉の辞令といふものがない。昔は大臣を任命せられるときに儀式を整へて任命せられる。辞令よりもつと重いのであります。徳川時代に辞令を貰ふのは将軍に直接ものを言へない低い人達であつて、老中を任命するのにはそんなものは不要であつた。それがわからないで徳川時代の歴史を論じてをる歴史家は困つたものであります。さういふやうなわけで、時世が変つてしまふとその時世の年寄連中がゐなくなると昔の姿がわからなくなるのは当然であります。だからいまのうちに書き残しておかないと大変なことが起る、これは私にはよくわかるのであります。〈二三六~二三八ページ〉

「昔は六法全書が飯を食つてゐた」というのは、山田独自の言い回しであって、六法全書の役割を果すような人間が国によって確保されていたという意味である。老婆心から注記しておく。

*このブログの人気記事 2022・10・8(9位のヤスオ君、10位の小阪修平は久しぶり)

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「梅尾」と書いて、昔から「トガノヲ」と読む

2022-10-07 03:36:35 | コラムと名言

◎「梅尾」と書いて、昔から「トガノヲ」と読む

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一七回目。本日、紹介するのは二か所だが、いずれも、「第六 古事記序文第二段」の一部である。

 だから私は言ふのです。大体漢文の組織、法則を知らないでは古事記の序文をあれこれと批評する権能はないはずである。太安萬侶に対しても申訳のない話であります。人が一生懸命書いた文章であることも知らないで片つ端〈カタッパシ〉から悪く言ふといふ法はない。こんなことを申すのは甚だ変な話でありますけれども、私は一年間丸切り唯奉公〈タダボウコウ〉して平家物語の語法【ゴホウ】といふものゝ印刷校正に従事してやうやう出したのであります。そして出版が出来上つた後に或る大家が言ふのに、山田君間違があるね、栂尾の栂が梅になつてゐる」、かうであります。明惠〈ミョウエ〉上人の梅尾【トガノヲ】は昔から梅といふ字が書いてあるのですが、俗な人間はそれを直して栂とするのです。だから私は一年間梅といふ字を残すために活版屋と喧嘩してまで残したものです。苦心をして残したにかゝはらず、その大家は誤植があるぢやないかと言ふ、そとで私は「これは昔から必ず梅と書いてあるもので、当り前の栂にすれば私は無学になつてしまふ、これを残すために一所懸命になつて来たのです、それを誤りだと仰言る〈オッシャル〉ならもう私も申上げる言葉はない」と言つた。〈二〇九~二一〇ページ〉

 すなはち「数之紀也」といふのはさういふ意味であります。糸を分け納めると同じやうに数を整理して行く、それから今度は紀といふ言葉が物を整理する目印のやうなものになつたのであります。即ち紀綱といふ言葉が起つたのであります。もつとも英語などは二十で区切をつける。だから英語でいへば紀は二十で区切をすることになる。これはまあ余計な話でありますが、明治時代の小学校では尋常一年生の算術は二十で区切をしてやらせた。あれは英語の数の紀なりで、英語をもつて算術を教へるときは二十で区切をするのがよいが、明治時代の教育者は盲目的に二十をもつて一年生の算術の区切にしてをつたのであります。これは如何に明治時代の教育家が日本の数の意義を知らなかつたかといふことを示してゐるか、明らかです。いまでもまだ残つてゐるのは千のところで点を打つてゐること、日本では万で区切をしなければ駄目であります。千のところで点を打つのもやはり欧米崇拝主義であります。自分の国の持つ勘定の仕方といふものを無視してをるのであります。そこで歴史の上においての区切の立て方、これがいまこゝで必要な紀であります。結び方であります。数の結び方は支那なり日本ではまづ十で結び、百で結び、千で結び、万で結ぶ。これと同じやうに歴史の上においでの紀になるもの、即ち結び方になるものは畏多いことながら、わが国においでは天皇の御代〈ミヨ〉で区切が立つのであります。〈二一九~二二〇ページ〉

 算用数字の位取りの話だが、一九四九年生まれの私の場合、小学校の三年生か四年生あたりまでは、万のところでカンマを打てと教わっていたが、その後、先生から急に、「これからは、千のところ打つことになった」と言われ、混乱した覚えがある。

*このブログの人気記事 2022・10・7(9位の明治天皇は時節柄か)

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家々に代々伝へて来るのが「モタル」であります

2022-10-06 00:04:12 | コラムと名言

◎家々に代々伝へて来るのが「モタル」であります

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)の紹介に戻る。本日は、その一六回目。本日、紹介するのも、「第六 古事記序文第二段」の一部である。

 以下は勅語になります。
 朕聞、
 諸家之所賷帝記及本辞、
 既違正実
 多加虚偽
この「賷【モタル】」といふのは妙な字が書いてありますが、齎すといふのが本当の字です。六朝〈リクチョウ〉時代には俗字がさかんに使はれました。これも一方を正しいと見るから他の方が俗字になるが、どちらが正しいか議論すれば分らぬやうになります。一つ目小僧ばかりのゐる所へ二つ目のものが行くと片輪者だとはれますが、それと同じやうなものでどちらが正しいか分らぬ。説文〈セツモン〉に「持遺ルナリ」とありまして、家々に持つてゐるものを代々伝へて来るのが「賷」であります。こちらの家から隣りの家へ持つ行くのてはない。この「諸家」といふのも普通の家ではないのでありまして、由緒ある相当の家柄を指して仰せられるのであります。前にも述べた通り、我が国では昔は血統団体をもつて統治をせられてをりましたので、それぞれの家毎に〈イエゴトニ〉皆自分の家に伝はつてゐるところの言ひ伝へがある。それを諸冢の賷る所と申したのであります。「帝紀」といふのは書物の名前であるか或ひは名前でないかといふことで色々の議論が出てをるのであります。そこでこれは古事記としては非常に重大な事柄になつてをりますが、これに似たやうなものを探して見ますと、序文八十五頁に「撰録帝記、討覈旧辞」とあり、「帝紀」は同じでありますが、次の「本辞」といふのは「旧辞」と書いてある。そこでこの「本辞」と「旧辞」は違ふものであるかどうかといふ問題が起るのであります。序文八十五頁の十一行には「帝室日継及先代旧辞」とあり、これが前に述べた帝紀、旧辞と同じものかといふ問題が起り、「帝紀」、「本辞」とはどうかといふことになる。次に序文八十六頁の十三四行には「旧辞之誤忤、先紀之誤謬」とあり、「旧辞」、「先紀」となつてゐる。この「旧辞」は序文八十五頁の「旧辞」とは同じであるが、同頁終りの「先代旧辞」とは同じかどうか、或ひは「本辞」とは同じであるか、これが問題である。またこゝでは「先紀」とあるが前は「帝紀」とある、これが又同じかどうか問題である。ところが同じ序文八十七頁に「撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞」とあり、それを書いたものが古事記だといふことになる。それで古事記といふものは帝紀といふものは入つてゐないで旧辞だけだといふ論がある。しかし私に言はすればそれは西洋かぶれした人間の論であります。さふ論法でいへばこの古事記の序文は何を言つてあるか分るものではない。最初に「帝紀及本辞」と言ひ、次に「帝紀及旧辞」と書く、さらに「帝室日継及先代旧辞」とあり、「帝紀」はどこかへ行つてしまつた。これは古事記論者の始終論じてをるところでありまして、西洋流のものゝ考へ方をして本当の意味を誤まるものがあります。東洋流のものゝ考へ方といふものが自ら〈オノズカラ〉あります。大体人の書いたものを理解するときはその人がどう考へてをるかをまづ理解してかゝらねばならぬ。我々が日常の応対の場合に於ても、向うが尊敬して言つてゐるのに、こちらが逆にとれば腹が立つて仕様がない。伊予の松山へ行けば先生に「お前」と言つてをるさうだが怪しからぬといつて腹を立てたら間違ひで、先方は尊敬しで言つてをるのであります。向ふがどういふ積りでものを言つてをるかを理解しないで、自己の考へだけで勝手に解釈して、それをよいのと悪いの言つてゐるのは怪しからぬ話であります。我々の先祖がこれを書いた時の心持といふものを考へて見る必要である。〈二〇五~二〇八ページ〉

 今回、紹介した部分で山田は、序文の字句について真剣な態度で解説している。重要なところなので(重要なところだと思ったので)、紹介しておいた。基本的に「脱線」はしていないが、最後のところで、少しだけ「脱線」が見られる。

*このブログの人気記事 2022・10・6(9位になぜか桃井銀平)

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安倍元首相は、「非業の死」を予期していたのか

2022-10-05 00:02:12 | コラムと名言

◎安倍元首相は、「非業の死」を予期していたのか

 昨日のブログで紹介したように、国語学者の山田孝雄(よしお)は、関東大震災の直前、「枯れすすき」の歌が流行ったときに、「どうもこれはいけないな」と思ったという。「果して東京市に枯すゝきの時代が来たのであります」と語っている。「流行歌といふものはどうも人心の兆〈キザシ〉を現はすのであります」ということも指摘している。
 この山田の文章を読んで、国葬の際の菅義偉前首相の弔辞を連想した。
 議員会館の安倍晋三元首相の部屋の机には、亡くなった元首相が、最後に読んでいた本が置かれていた。その本は、岡義武の『山県有朋』であった。「読みかけ」だったらしく、ここまで読んだという最後のページとところは、端が折ってあった。そして、そのページのある箇所に、マーカーペンで線が引かれていた。山県有朋が、盟友・伊藤博文が非業の死に斃れたとき、故人を偲んで詠んだ「かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」という歌だった。――
 この話が本当だとすると、安倍元首相が、読みかけた本の、そのページにあった歌に線を引いたのは、みずからの「非業の死」を予期していたことになるのか。また、盟友である菅前首相によって、その本とその歌が「発見」されることも、元首相は秘かに期待していたのではないか。そんなことを考えた。
 なお、今月一日の「本と雑誌のニュースサイト/リテラ」の記事〝菅義偉が国葬弔辞で美談に仕立てた「山縣有朋の歌」は使い回しだった!〟を読んで、いくつかの新事実を知ることができた。

・安倍氏は(当時首相)、二〇一四年一二月二七日に、葛西敬之JR東海名誉会長と会食し、その席で、岡義武の『山県有朋』を読むことを勧められたという。
・安倍氏は、岡義武の『山県有朋』を、二〇一五年一月、河口湖の別荘に滞在中に読み終えたという。
・このことから、安倍氏が読んだ『山県有朋』は、岩波新書版『山県有朋』だったことがわかる(岩波文庫版『山県有朋』の発売は、二〇一九年九月)。なお、二〇一五年一月一二日の安倍氏のFacebookには、岩波新書版『山県有朋』の写真があるという。
・本年五月二五日に、葛西敬之JR東海名誉会長が亡くなり、六月一五日に葬儀があった。このときに安倍氏は弔辞を読んだが、その中で「かたりあひて尽しし人は先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」の歌を引用しているという。
・議員会館にあった本の端が折ってあり、山県有朋の歌に線が引かれていたのは、その弔辞の準備のためだったと考えるのが妥当である。

 そうして見ると、菅前首相の弔辞の内容は、かなり「盛られている」(フィクションが加わっている)ことがわかる。この盛られた部分は、かなり熟達したスピーチライターの手によるものであろう、と私は推測した。
 ちなみに、衆議院第一議員会館→千二百十二号室→机の上→読みかけの本→端を折ったページ→線が引かれている箇所というふうに、だんだんと視野を絞ってゆくのは、文学、映画、短歌などに、よく見られる手法である(短歌では、石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」を想起されたい)。菅氏は(あるいは、そのスピーチライターは)、盟友・伊藤の非業の死を山県が悼んだ歌を引くことによって、安倍元首相の死が「非業の死」であったことを訴え、その歌が「読みかけ」の本の最後のページにあったことを述べて、安倍氏が「非業の死」を予期していたことを暗示した。さらに、その本とその歌を「発見」したのが、ほかならぬ菅氏であったことを示して、安倍氏と自分との盟友関係を、さりげなくアピールしたのであった。

*このブログの人気記事 2022・10・5(9位になぜか「村八分」)

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大正大震災の前に、甚だ面白くない歌がはやった

2022-10-04 02:28:50 | コラムと名言

◎大正大震災の前に、甚だ面白くない歌がはやった

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一五回目。本日、紹介するのは、「第六 古事記序文第二段」の一部である。

 亀田鶯谷〈カメダ・オウコク〉の古事記の序の解といふ本の中に、天智天皇十年の十二月に天皇崩御の時に童謡が三種ある、それを指すのではないか、かういふことを言つてをります。古事記は推古天皇の御代〈ミヨ〉で終りでありますから天智天皇の御代のことは書いてない。しかし古典に伝へられてをります所謂童謡といふものはたゞ子供が歌つたやうな意味でなくて、何等か暗示せられたやうな気味がある。童謡といふと子供とばかり考へますけれども、さうではないのでありまして、平家物語をお読みになつてもお分りになりますが、京都の人間はよく悪口をいふ、余計なことをべらべら喋言べる、それが色んな流言蜚語流といふものである。これは余程御注意なさらなければならぬ。余談で甚だ失礼でありますけれども、ちよつと脱線してお話して見ると、私は大正のあの大震災当時東京にをりまして出遭つたのであります。その大震災が起る一年近く前頃から甚だ面白くない流行歌が流行つた、何とか枯薄【スヽキ】といふ歌、どうもこれはいけないなと思つてをりましたが、果して東京市に枯すゝきの時代が来たのであります。我々が注意をしてをつても止まらぬかも知れないけれども、流行歌といふものはどうも人心の兆〈キザシ〉を現はすのであります。私は仙台に十何年をりましたが、当時仙台の市中をよく散歩しました。そして蓄音機屋の前を通るときどういふレコードがいま流行つてをるかと注意したものでしたが、それで大抵六ケ月後の人心の動きが分るものであります。さふいふことを言ふと何だか変なやうですが、それは決して他人には滅多に言はぬ、自分の極く親しい友達に言ふのです。非常に不景気で困る、いやまあ待つてをり給へ、六ケ月程すれば直るといふ、果して直るのであります。また非常に景気がよいとき、いや駄目だぞ、もう四、五ケ月すれば大変なことが起る。それはレコードによつて人心の動きが分るからであります。私は孔子が礼楽を以て国を治めるといつたのはかういふことだといふことを実験〔実見〕したのであります。この事は大抵間違ない。流行の音楽といふものが人心の微妙なる動きを示してをる。だから為政者はそれを抑へたり進めたりして行かなければならない。かういふ枯薄の如き歌を流行させては駄目であります。さて日本書紀などの童謡といふのは俗謡、流行歌です。流行歌が人心の機微を現はしてをることは古今を通じて変りない。私共は古典を読むと云つてもたゞ昔の事ばかり言つてをる訳ではありません。さういふ風に考へて見ますと、「聞夢歌而想纂業」と書いてあるのは決して空〈クウ〉なことを書いてあるのではない。何か歌があつたに違ひない。少くとも太安万侶が古事記のこゝを書いてゐる時には自分で知つてゐたものであらう、それでなければこんなことを書く訳はない。上表文にいふほどの著しい歌ならば古事記になくても同じ人の関係し編纂した日本書紀に漏らすことはあるまい。また日本書紀に漏らすほどのつまらぬことをこゝに書く訳がない。かやうに考へて来るとやはり序の解にいふやうに天智天皇崩御の際の三種の童謡であらうかと思ふのであります。〈一八二~一八四ページ〉

 文中、「何とか枯薄といふ歌」とあるのは、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「枯れすすき」である。一九二一年(大正一〇)に作られたが、翌年、「船頭小唄」と改題され、中山歌子が唄って大ヒットした。そして、その最中に、大正大震災(関東大震災)が起きた。
 一九七四年(昭和四九)に「さくらと一郎」が唄ってヒットした「昭和枯れすゝき」という歌がある。山田孝雄作詞、むつひろし作曲。山田孝雄(たかお)さんは作詞家で、もちろん、国語学者の山田孝雄(よしお)とは別人である。
 明日は、話が「脱線」することになろう。

*このブログの人気記事 2022・10・4(8位になぜか西部邁、10位になぜか桃井銀平)

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