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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト35(25・8・27)

2025-08-27 01:17:16 | コラムと名言
◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト35(25・8・27)

 本日は、礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト35を紹介する。
 順位は、2025年8月27日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった日の順位であって、アクセスが多かったコラムの順位ではない。

1位 2025年3月30日 河上肇『貧乏物語』と弘文堂
2位 2016年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
3位 2015年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
4位 2025年7月3日 長嶋茂雄選手と映画『眼の壁』についての補足
5位 2019年8月15日 すべての責任を東條にしょっかぶせるがよい(東久邇宮)
6位 2024年11月20日 佛、魔、塔などは、新たに作った文字
7位 2025年7月4日 加賀山之雄「下山事件の蔭に」(1955)を読む
8位 2016年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
9位 2025年7月7日 下山総裁は、なぜ三越前で車を降りたのか
10位 2025年7月6日 シャグノンは伝えられている程の大悪人でなかった

11位 2025年7月5日 加賀山之雄「実に下山氏だからこそ……」
12位 2018年9月29日 邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
13位 2025年8月24日 新聞では、なるべく小さく扱ってくれ(迫水書記官長)
14位 2024年11月21日 鉢は、梵語パトラー(Patra)の音写
15位 2016年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
16位 2023年12月14日 大江健三郎氏は「一本調子」がかなり改まっている
17位 2024年8月17日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(2024・8・17)
18位 2014年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
19位 2024年7月3日 その一瞬、全身の毛穴がそそけ立った(山田風太郎)
20位 2025年7月12日 例によって岡田嘉子の芸が冴えわたっている

21位 2021年8月12日 国内ニ動乱等ノ起ル心配アリトモ……(木戸幸一)
22位 2021年6月7日 山谷の木賃宿で杉森政之介を検挙
23位 2024年7月4日 「おばさん、日本は負けたんだ」山田風太郎
24位 2018年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5
25位 2017年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
26位 2021年3月4日 堀真清さんの『二・二六事件を読み直す』を読んだ
27位 2018年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
28位 2019年8月16日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(2019・8・16)
29位 2024年8月19日 陛下のために弁護をする余地すらない(近衛文麿)
30位 2018年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5

31位 2025年7月15日 「天高き日」(1940)は、満洲入殖の宣伝劇
32位 2025年6月3日 下山定則は自殺である『真相』1949年10月号
33位 2025年7月11日 新派五十周年の記念興行を歌舞伎座で(1937年2月)
34位 2025年7月13日 岡田嘉子と杉本良吉、樺太で国境を突破
35位 2025年7月16日 舞台「赤道」(1941)で情報局賞を受賞

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  • 『証言・私の昭和史5 終戦前後』を読む
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  • 「私の屍を越えていけ」鈴木貫太郎
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  • 『大字典』と栄田猛猪の「跋」
  • 正義に基づく行動は法律を超越する(相沢三郎)
  • ワイマール憲法、ナチス憲法に関する正誤問題



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15日の朝刊は午後から配達された(柴田敏夫)

2025-08-26 02:38:40 | コラムと名言
◎15日の朝刊は午後から配達された(柴田敏夫)

 テレビ東京編(きき手・三國一朗)『証言・私の昭和史5 終戦前後』(文春文庫、1989)から、「終戦前夜 天皇と鈴木貫太郎首相」の章を紹介している。本日はその七回目(最後)。「―― 」以下は、「きき手・三國一朗」の発言である。

―― しかし、そういうご聖断に対して、よく陸海軍は納得いたしましたですね。
池田 これは――私が御前会議を終わって、防空壕から出まして外へ出ると侍従がとんできまして、今、陛下の思し召しだと、お上が陸軍省、海軍省にいって若い将校たちにみな説明すると、私が説得するが陸海軍大臣はどうかという意見をお問いになった――そこで私はすぐ陸軍大臣にその旨を報告したら、その必要はないと、もうご聖断がくだったんだから、自分が全責任をもつからご安心を願いたいと奉答してくれと。それで海軍大臣にもそう申しましたら、陸軍と同じだと、これ以上陛下を悩まし奉っては申しわけないから、陸海軍のことはわれわれでしっかり統帥をいたしますということでした。で、陛下の終戦に関するご決意がほんとうに固かったんですね。あのラジオ放送は陛下のご発意なのです。
―― ラジオ放送のときは、柴田さん、事前にもうご詔勅の文面はわかっておりましたでしょう。
柴田 一四日の真夜中一二時過ぎ、首相官邸の地下防空壕の記者会見室で迫水〔久常〕書記官長から終戦の大詔渙発の発表があったわけです。その全文を社へ持ち帰って夜半に記事を書いたのです。
―― でも、朝刊は出ませんでしたね。
柴田 いや、この日は、一五日付の朝刊で一面全ページを通して終戦の大詔と関連記事が出たわけです。しかし、配達は正午の玉音放送があるまではまかりならぬということでした。結局、この日の朝刊は午後から夕方にかけて配達されたわけです。
―― 放送をお聞きになったときは感慨無量という……。
柴田 ところが私、夜どおし仕事をしたものですから、明方にちょっと首相官邸襲撃事件がございましたし、で、まあ社に帰ってきまして、朝日新聞の四階のベッドにもぐりこみましてね、気がついたらザワザワしているんです。なんだと思ったら放送が終わっていたわけなんです。たいへん申しわけないことをしたと思っています。のちに玉音放送については再録したものを聞く機会がありましたが……。 (昭和四〇年八月一九日放送)

 参考文献
 外務省編「日本外交年表並主要文書」下 昭和四一年 原書房
 外務省編「終戦史録」 昭和二七年 新聞月報社
 下村海南著「終戦秘史」昭和二五年 大日本雄弁会講談社
 高宮太平著「天皇陛下」昭和二六年 酣燈社
 重光葵著「昭和の動乱」昭和二七年 中央公論社
 東郷茂徳著「時代の一面」昭和二七年 改造社
 池田純久著「陸軍葬儀委員長」昭和二八年 日本出版協同
 大宅壮一編「日本のいちばん長い日」昭和四〇年 文藝春秋新社
 藤田尚徳著「侍従長の回想」昭和三六年 講談社
 読売新聞社編「昭和史の天皇」1~7 昭和四二~四四年 読売新聞社
 服部卓四郎著「大東亜戦争全史」8 昭和三一年 鱒書房
 鈴木武編著「怒濤の中の太陽」昭和四四年 鈴木貫太郎首相秘録編纂委員会
 矢部貞治編著「近衛文麿」下 昭和二七年 近衛文麿伝記編纂刊行会
 鈴木貫太郎伝記編纂委員会編「鈴木貫太郎伝」昭和三五年 鈴木貫太郎伝記編纂委員会
 中村正吾著「永田町一番地」昭和二一年 ニュース社 〈246~248ページ〉

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14日の御前会議は特別の思し召し(池田純久)

2025-08-25 00:07:21 | コラムと名言
◎14日の御前会議は特別の思し召し(池田純久)

 テレビ東京編(きき手・三國一朗)『証言・私の昭和史5 終戦前後』(文春文庫、1989)から、「終戦前夜 天皇と鈴木貫太郎首相」の章を紹介している。本日はその六回目。「―― 」以下は、「きき手・三國一朗」の発言である。

―― それが、〝政府は黙殺〟と二段見出しになったんですね。
柴田 ええ。それじゃあ、まあそういうことにしようということで……。二段一本の見出しで記事は六行かそこらですませたということに……。
―― これがリジェクトって翻訳されて向こう側に伝わったために原子爆弾になり、また、ひいてはソ連の参戦にもなったといわれておりますが、先ほどの八月一〇日の御前会議、それから再度のご聖断のくだる一四日の御前会議になるわけですが、鈴木首相のその間の苦衷はたいへんなものだったと思いますが、一四日の最後の御前会議、つまり終戦前夜の鈴木総理のことを……。
池田 第一回の御前会議は先ほどご紹介しましたが、最高戦争指導会議のメンバーだけなんです。で、第二回の一四日の日にはですね、それに閣僚を入れろ、閣僚も全部集まれっていう陛下の特別の思し召しであったのです。それで閣僚はですね、平服のままでよろしいということでした。服装がまちまちなんです。
―― この陛下の思し召しでという異例のそういう形式ですね、これについては鈴木首相のなにか演出がございましたか。
池田 そうですね、閣議でもね、数回閣議をやりまして、戦争をやるかやらんかということを論議をしつくしておったんです。それで閣議では一一対三という、つまり一一がやめるという方に賛成、三が反対という数字が出たんです。それで結局、最後は御前会議じゃあないんです。憲法上からいうと閣僚の閣議の決定なんですね、閣僚にはやっぱり意見を聞かなきゃあいかんということで、とくに閣僚を御前会議にお召しになったということです。これは陛下のお考えと鈴木総理の考えであったろうと思います。
鈴木 これはですね、六月二二日の最高戦争指導会議の構成員をお召しになったときに、やはり陛下がご意見をお述べになったんです。その日に帰ってこられた鈴木総理が、やっぱりわれわれに向かって、「今日はほんとうにありがたかった。陛下でなければ、ああいうことはできない」ということを、しみじみといわれておりました。で、この六月二二日にすでに、そういう聖断というか、そういったものについて、一つの形として鈴木総理は決意されていたんじゃないかと思います。御前会議で陛下の聖断というものでなければ、この大戦争はやめられないと、どこまでも自分は総理として輔弼【ほひつ】の任をやるけれども、やはり陛下のお力を借りなければ、この大戦争はやめられない、ということなんですね。それから連合国側も、ポツダム宣言についてずいぶんいわれているように、ドイツに対するものと日本に対するやり方は逮っているんですね。ドイツに対するのはほんとうに無条件降伏でしたが……。
―― あのポツダム宣言につきまして陛下ご自身のご判断がありますでしょう。
池田 日本は、ポツダム宣言には天皇の統治権にはふれてないから、これを変更する要求はないものと了解してポツダム宣言を受諾するっていう返事をやったんです。それに対して向こうの返事がきたんです。そうするとみなね、連合国側はうまいことをいっておるけれど、全部日本をつぶす気じゃないかという考えだったんです。ところが陛下は「そうじゃない。参謀総長や陸軍大臣が反対はしておるけれども、国体は動揺するといつておるけれども、私はそうは考えない。連合軍の回答文をみると、文面からでは連合国側に悪意があるとは考えられない」と陛下は仰せられたんです。〈244~246ページ〉【以下、次回】

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新聞では、なるべく小さく扱ってくれ(迫水書記官長)

2025-08-24 01:26:06 | コラムと名言
◎新聞では、なるべく小さく扱ってくれ(迫水書記官長)

 テレビ東京編(きき手・三國一朗)『証言・私の昭和史5 終戦前後』(文春文庫、1989)から、「終戦前夜 天皇と鈴木貫太郎首相」の章を紹介している。本日はその五回目。「―― 」以下は、「きき手・三國一朗」の発言である。

―― それからお話は変わりますが、ポツダム宣言発表に対して、最初、黙殺という新聞記事が出たんですが、これは柴田〔敏夫〕さんがお書きになったんですか。
柴田 今そういわれてみれば書いた憶えがありますね。
―― 「黙殺」という言葉がですね、これがあとでたいへん問題になりましたね。その「黙殺」って言葉は、どなたから出たんですか。
鈴木 あれはですね、たまたま七月二七日の朝、外務省の方で、ポツダム宣言が連合国の方から出たということで、それを新聞のクラブで相談しまして、総理に一ぺんインタビューをしてみたいということになったと私は記憶しております。つまりね、総理との会見ってのはね、僕の記憶ではポツダム宣言が出たからやるっていうんではなくて、一度話を聞きたいというわけで、前からその日にしていたわけです。
 それで、たまたまそのポツダム宣言の問題が出たんで、総理との会見の中でも一部は出ましたけどね。私の印象はむしろ迫水〔久常〕書記官長と記者クラブとの会見の席上で、まあ、あのころ朝一〇時と正午と午後四時と三回(今もそれやってるわけですけれども)、一〇時の会見から話は出たと思うんです。それで正午の会見のときかなんかにですね、いったい政府はどうするんだという話が出たときに、まあ迫水さんとしてはですね、これは今、日本としてはこれを受諾するとかそういう態度はとれないんだと。だから結局まあ重要視しないっていうか、ネグレクトするという方向へいくことになるだろうと。じゃあ黙殺かっていう話が出たんですね。「黙殺? ネグレクトってのは黙殺ともいえるかなあ」というようなやりとりがあったのを記憶しています。
 それからしばらくしてから、政府の態度としてやはり黙殺するという……。で、そのときにね、ただ、あのころやはり迫水書記官長ってのは若手の書記官長で、で、記者クラブも人数が少なかったですしね。で、もう鈴木老宰相の元で、いかにしてこの戦争がいい形で終わるかという感じは、みんないわず語らずもっていたわけですから……。で、迫水さんを中心にして、しょっ中いろいろな話をしてたんですが、そのときに結局その問題もですね、迫水さんから、ただしかし、大きく新聞のトップかなにかで〝ボツダム宣言黙殺!!〟っていうようには扱わんでくれ、なるべく小さく扱ってくれっていうことだったんです。〈242~244ページ〉【以下、次回】

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「私の屍を越えていけ」鈴木貫太郎

2025-08-23 17:07:13 | コラムと名言
◎「私の屍を越えていけ」鈴木貫太郎

 テレビ東京編(きき手・三國一朗)『証言・私の昭和史5 終戦前後』(文春文庫、1989)から、「終戦前夜 天皇と鈴木貫太郎首相」の章を紹介している。本日はその四回目。「―― 」以下は、「きき手・三國一朗」の発言である。

―― 言葉は適当でないかもしれませんが、こうしてみると、終戦は天皇と鈴木首相の合作であったということもいえるんではないかと思うんですが、鈴木〔武〕さんは、鈴木首相のおそばにいらして天皇と首相との以心伝心という点を、どうご覧になりましたか。
鈴木 鈴木総理は、前に侍従長を八年間おやりになりました。それで二・二六にぶつかりまして、その二・二六のときにお暇をいただくということで、二・二六が原因で侍従長をおやめになって、その後は枢密院にはいられ、枢密院議長にもなられておったわけなんです。あのときに小磯内閣のあと大命降下いたしまして、まあ政治家でない大将がこれをお引き受けしなければならなくなられて、困った困ったということはいっておられました。しかし、とにかく組閣のときから、ほんとうに肚を決めてですね、そしてこの戦争に対して、自分が先頭に立って総理としての采配を振るうと、こういう気持ちでおられたと思うんです。
―― そうすると、戦争終結については天皇と全くお気持ちが一致してたということがいえるわけですね。
鈴木 今の藤田〔尚徳〕さんのお話どおり、やはり非常に君臣一如のお気持ちがはっきり出たんじゃあないかというふうに、私はそばにおりまして感じたんでございます。
―― 柴田〔敏夫〕さんは、小磯内閣当時から官邸詰めの記者でいらしたわけですが、鈴木総理の登場を当時、どうご覧になりましたか。
柴田 われわれは、これは終戦内閣だなという感じをもったですね。それは要するに、小磯さんまでは、東条首相にしても現役の陸軍大将がですね、総理大臣として政治をやったわけですね。ところが小磯内閣はレイテ決戦を〝天王山〟と呼号して態勢をとり直そうとしたが、結局、結果は敗北だった。そのあとにですね、まあ鈴木さんが出てこられたんだが、あのときは陸軍の方では、たしかね、畑俊六元帥を唯そうという意見があったはずです。で、まあ、どちらになりかとわれわれは思っていたんですけれども鈴木貫太郎さんになられたんですね。ということは、これはもう海軍の軍人であられたけれども、とっくに現役から退かれた方だし、お年ももちろん八〇歳を越していられるわけですから、おそらくここでひとつの大きな転換がくるんじゃあないかという判断をわれわれはもちました。ですから「終戦処理内閣の出現」という印象をもったのを今も憶えています。
 ただ、まあ最初の総理大臣の談話が、私の屍〈シカバネ〉を越えていけと、あくまで戦い抜くんだという総理の談話であったんです。けれども、やはりなんとなく、ここで大きく日本の運命っていいますか、その戦局の現状からみても、日本の姿っていうものは大きく転換するんじゃないかっていう感じを、やはり強くもちましたね。
―― 池田〔純久〕さんは、その陛下と鈴木さんとの、この内面的な交流、そういうものをやっぱりお感じになりましたか。
池田 ええ。あまりいいたくないんですけれども、総理はですね、三国干渉のときと同じく臥薪嘗胆〈ガシンショウタン〉すべきときだってことを閣議でいいました。陛下もまた、この言葉を御前会議で同じようにいわれたんですね。ああ、これは陛下と総理とはもう一体だという感じをもちました。〈240~242ページ〉【以下、次回】

*このブログの人気記事 2025・78・23(9位になぜか村八分、8・10位に極めて珍しいものが)
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