礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

占領部隊は武士のなさけを知らない(迫水久常)

2020-01-31 00:41:48 | コラムと名言

◎占領部隊は武士のなさけを知らない(迫水久常)

 迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)を紹介している。本日は、「戒厳令発令」の章を紹介する。

  戒 厳 令 発 令

 午後四時すぎ、そろそろくらくなるころ、筆頭閣僚たる後藤〔文夫〕内相が参内して、正式に閣議が開かれた。閣僚の間には内相の参内の遅延をせめる声がきかれた。まもなく予定のとおり、後藤内相に対し、「内閣総理大臣臨時代理被仰付〈オオセツケラル〉」という辞令がでた。私はほっと安心した。閣僚のだれもこの異式な辞令に気がついたものはなかったようだ。そして直ちに、後藤臨時首相の手によって、内閣の総辞職の辞表が捧呈された。私はここで、一たん官舎に帰えろうと思い、宮内省の自動車を拝借して、永田町に向ったが、官邸の周辺の道路のどの入口 でも、警戒に立っている反乱軍の兵隊に阻止され、なんとも仕方なく、再び宮内省にとってかえして、福田〔耕〕秘書官にその旨電話した。そのとき、福田秘書官は、きこえるかきこえないかほどの低声で「会ったよ」「もうしばらくがまんしてくださいといってきた」という。私はうれしいのか、親父がかわいそうだという心持かいまもわからないが、涙がでて困った。宮中はすっかり夜のとばりに包まれ、あまり明るくない電燈の下で閣僚たちは、三々五々、ひそひそ話をしている。私は大声で助けを求めたいという衝動をおさえかねた。そしてその夜半、とうとう私のもっとも信頼している司法大臣小原直〈オハラ・ナオシ〉氏と、総理とはもっとも親しい鉄道大臣内田信也氏の二人だけに、総理は生存していて官邸内の一室にかくれていることを打明けて、なんとかよい智恵をだしてくださいと懇願した。またこれからの閣議などそのつもりで指導してくださいとたのんだ。そして辞令の形式についても話した。二人ともことの意外に一瞬呆然とされた。「たいへんなことになったなあ」「しかしなんとか脱出せしめなくては」といわれるものの、私たちと同様に、よい案はない。内田さんはしばらくして、「大角〔海相〕に話したか」といわれるので、私は、実はしかじかとお話をした。内田さんは「大角もたよりにならんな」と感無量気〈カンムリョウゲ〉につぶやかれた。
 私は約一時間おきに一晩中、福田秘書官に電話連絡した。福田秘書官がそのたびに「官邸のほうでは物音一つしないから異変はないと思う」というのをきいてまず一安心というわけである。やがて電話が安全であるということがわかったので、二人は少し大胆になり意見を交換した。なにしろ官邸のなかは、軍人ばかりで背広をきているものは一人もいない。他に頼ることができなければ、私たちだけの力で救出しなければならないのだが、それには官邸のなかに背広を着た人が相当数はいることができれば、それにまぎれて総理をだすことができるのではないかという話になった。そして、翌二十七日の早朝から、できるだけ多くの弔問客が官邸に出入ができるように取計ろうでは ないかということになった。私はそこで早速、陸軍大臣秘書官小松〔光彦〕中佐を探しだして、偽りをいって悪いとは思いながら、次のようなことを声をはげましていってみた。
「なにしろ、占領部隊は、武士のなさけを知らない。われわれは、事件後いっさい官邸にはいることをゆるされず、死体に対して、香華〈コウゲ〉を供えることができないばかりでなく、対面さえゆるされていない。死体がどうなっているのかもわからない、まして総理は海軍ではあるが軍人である。多くの友人や、遺族、親族もある、なんとか占領部隊に対して、武士のなさけとして、せめてもっとも親しい人たちだけでも官邸に弔問にゆけるように話をつけてくれないか」【以下、次回】

 陸軍大臣秘書官小松中佐とあるが、原文のまま。ウィキペディア「小松光彦」の項によれば、小松光彦は、二・二六事件当時、歩兵少佐、陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官。一九三六年(昭和一一)八月に、歩兵中佐に昇進したという。

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この話はきかなかったことにしておく(大角海相)

2020-01-30 05:15:51 | コラムと名言

◎この話はきかなかったことにしておく(大角海相)

 迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)から、「一刻も早く安全地域へ」の章を紹介している。本日は、その三回目。

 私は杉山〔元〕大将は常識派であることを知っていたので、冗談のように「そのうち閣下のところにもやってきますよ」というと、大将は「僕は悪いことをしてないから大丈夫だよ」といわれた。この言葉は私にはちょっとひっかかったので、私はいささか気色〈ケシキ〉ばんで「それなら岡田〔啓介〕は悪いことをしたというわけですか」というと、大将は「いやそんな意味ではない」といわれた。私はちょっと悪いことをいったなと思ったことを覚えている。ここで私ははじめて蜂起部隊の「蹶起趣意書」というものを読んだ。軍人の多くは、この趣意書に同感の心持をもっていることも判った。なかには、なんとかしてこの連中の意志を達成せしめたいということを露骨に話すものもいる。川島〔義之〕陸軍大臣は困りきつた顔付で、なんとも決断ができない様子であり、まったくたよりにならない形だし、古荘〔幹郎〕次官は脳溢血の予後を無理してでておられたが、これまたたよりなげであった。山下奉文、石原莞爾といった実力者が、でたりはいったり大声で議論をしている。真崎〔甚三郎〕大将など、同情論者から、つき上げられてはいるけれども、さりとて、これを是認するというわけにもゆかないといったあんばいで、困りきっていられたようだった。私はこの有様をみて、国軍の幹部のたよりなさをまざまざと感じるとともに、しらずしらずの間に、ひそかに頭のなかで、各将軍や、幹部の色別けをし、その評価をしていたのだが、具体的にいうことは、差しさわりがあるといけないから、ここではふれない。私は最近、テレビで二・二六事件を取り扱った映画をみたが、そのなかで磯部〔浅一〕主計が、処刑されるところで、大きな声で、「国民よ、軍部にだまされるな」と叫ぶ場面をみて、そぞろにこのときの光景を思いだして感慨無量なものがあった。
 私は閣僚の集っているところにいってみた。まだ後藤〔文夫〕内相がきていられないので、正式の閣議はひらかれていないが、たれもが私に官邸の様子をきかれる。私は、ここでもまたうかつなことはいえないと思って、適当にうけこたえをしていたが、そこに、海軍大臣大角〔岑生〕大将がこられた。私はいろいろと考えたが、大角海相に対して「海軍の先輩である総理大臣の遺骸を引取りたいと思いますので、海軍陸戦隊を官邸にいれて警戒していただきたいと思いますが」と、申入れてみた。すると海相は「とんでもない。そんなことをして、陸海軍の戦争になったらどうする」といわれるので、私は決心して、「では、これから重大なことを申し上げますが、もしこのことをご承知くださらない場合は、私の申し上げたことは全部きかなかったものとして忘れていただきたいがよろしいですか」と予め念をおしてから、岡田の生存を知らせその救出のため、陸戦隊の出動をお願いすると、海相は非常に当惑された顔で「君、僕はこの話はきかなかったことにしておくよ」と向うへいってしまわれた。
 私のそのときの心持はいま思いだしても、自然と眼頭〈メガシラ〉があつくなる。たよりにするもの、すがるものは何もない。私の頭のなかには、とじこめられたなかから脱出した歴史上の事実や、物語りなどが、走馬燈のように点滅した。普仏戦争のとき、フランス大統領ガンベッタが風船にのってパリを脱出したという話があるが、それに似せてなにか方法はないものだろうかなどと昔の話や、読んだ書物のなかからいろいろと思い浮べてみるが、どうもみな現実には不可能なことばかりである。松尾〔伝蔵〕大佐の遺骸を棺にいれて持ちだすとき、岡田をいっしょにいれてだす方法。これはできるので はないかと思ったが、しかしよく考えてみると、二人はいれるような大きな棺を作ることも疑われるし、納棺となれば軍隊も立会うであろうから、結局できない相談である。時間ばかりが刻々とすぎ、いつ岡田が発見され、殺されてしまうかもしれない。殺されてしまえばむしろよいが、もし死にまさるはずかしめをうけたらと考えると、いてもたってもいられない焦慮である。ほんとうに私は、あせりにあせった。

 ここまでが、「一刻も早く安全地域へ」の章である。明日は、これに続く「戒厳令発令」の章を紹介する。

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将軍たちはどちらをむいているのかわからない(湯浅倉平)

2020-01-29 02:46:59 | コラムと名言

◎将軍たちはどちらをむいているのかわからない(湯浅倉平)

 迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)から、「一刻も早く安全地域へ」の章を紹介している。本日は、その二回目。

 内聞官房では、各大臣に対して至急参内するように要請していたので、私が宮内省にはいったときには、既に、数人の閣僚がきていた。軍のほうでも軍事参議官などの長老を召集したとみえて、真崎〔甚三郎〕大将、荒木〔貞夫〕大将などの顔も見えていた。東溜の間〈ヒガシタマリノマ〉などにそれぞれ参集していた、私はそのなかに、近衛師団長橋本〔虎之助〕中将の顔をみいだした。とたんに私は、中将が以前陸軍次官であってよく存じ上げているし、正義感の強い、誠実な人であることを知っていたので、この橋本中将に事実をうちあけて、総理の遺骸をひきとることについて、警衛するという名目で、官邸の日本間のほう、すなわち、総理のかくれているほうに近衛師団の兵力をいれてもらい、うまく総理を救いだす方法はないものかと考えたので、そのことを湯浅〔倉平〕宮相にお話してみた。しかし、宮相は沈痛な面もちで、「近衛師団長も独断では、措置がとれないでしょう。きっと上のほうに指揮を求めると思うが、あすこにいる将軍たち(と将軍たちの集っている部屋の方を指さして)はいったい、どちらをむいているのかわからないから非常に危険ではないだろうか」といわれた。そういわれてみれば、そのとおりで、私はいまさらのように、軍部内に蜂起部隊に対する同情的な考え方をするものが多いということについて認識をあらたにし、うかつなことはできないと戒心したのであった。
 私は、そこで、福田〔耕〕秘書官に電話して、しばらく宮中にとどまって様子をみることを告げた。閣僚もだんだんと集ってきたが、肝心の内務大臣後藤文夫氏の姿がみえない。内閣書記官長の白根竹介氏も、首相官邸の裏門前の官舎にいるはずであるが、事件発生後、まったく連絡がつかない。参集者殊に軍人の人数は、どんどんとふえる。なるほど、陸軍省も参謀本部も、部隊によって占領されているので、軍部の首脳部は、みなここに集ってきている。宮中の二、三の部隊は、まったく陸軍の本部となったようである。私はこの軍人のところに顔をだすと、多くの人は総理の悔みをいうが、なかには大きな声で、「岡田首相が軍のいうとおりにしないから、こういうことがおこるのだ、けしからんのは岡田首相だ」という者もある。杉山元〈ゲン〉大将が私に丁重にあいさつされた。【以下、次回】

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岡田を一刻も早く安全地域に救いだすように(昭和天皇)

2020-01-28 00:40:47 | コラムと名言

◎岡田を一刻も早く安全地域に救いだすように(昭和天皇)

 迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)を紹介している。本日は、「一刻も早く安全地域へ」の章を紹介する。

  一刻も早く安全地域へ

 栗原〔安秀〕中尉は結局許可をだした。そして中尉は静かに「総理は武人として立派なご最期でした。自分らは私怨があってこんなことをしたのではなく、国家のためやむを得ないことでしたと遺族の方に伝えてください」と丁重にあいさつし、下士官にこの方にだれかをつけて警成線をだして上げるようにと命じた。一人の新兵らしい兵隊をつけてくれたので、私はその兵隊とならんで警戒線をなんなくとおり、官邸わきの坂道をおりて溜池〈タメイケ〉の電車どおりにでた。そこから兵隊は敬礼をして帰っていった。私はその道々、その兵隊にはなしかけた。いつ入営したか、どこの隊かときくと、昨年〔一九三五〕十二月に入営した近衛第二連隊という。君たちは今朝なにをしたか知っているかときくと、若い兵隊は、今日は実弾をもった演習をするというので、初めての経験なので張りきっていますと答える。私は「君たちは今朝、岡田〔啓介〕総理大臣を殺したんだよ」というと、彼は顔色をかえて、何度も何度もほんとですか、ほんとですかと問いかえした。私は、かわいそうな気がしたのをいま思いだす。(私が宮内省にはいってからこの話をすると、陸軍の人たちは、近衛連隊は、この行動にははいっていないはずだと強弁していたことを思いだす。そのときはそれほど混乱していたのであった)
 送ってきた兵隊とわかれ、私は、虎の門附近まで歩いて、尾行されているかどうかをたしかめてからタクシ—を拾い、宮城へ向った。その車のなかで私は敵中の総理はいまも無事だろうか、無事でいてほしいと神々に念じ、どうして総理を救出するかということばかり考えた。ずいぶん苦しかった。坂下門からはいろうとしてお濠〈ホリ〉ばたで、警戒の警察官に、氏名をなのったところ、丁重に、今日は平河門だけが開いておりますからそちらへどうそというので、平河門外で車を捨てて、深い雪をふみしめて宮内省に向った。門に立っていた皇宮警手は顔みしりであったからすぐに通してくれた。さすがに雪はふまれていない。たいした距離ではないのだが、ずいぶん長いように感じられた。
 私は宮内大臣の応接室にはいってほっとした。宮内大臣湯浅倉平さんはすぐにでてこられて、丁重に悔みをのべられた。私はそれをさえぎって、実情をつぶさに報告した。宮内大臣は非常に驚かれた様子であった。私の記憶ではそのとき宮相は何か手にもっておられたものをおとされたような気がするので、あるものに宮相は手にもった煙草をおとされたと書いたところ、人から湯浅さんは煙草をのまれなかったといわれたので、それは私の記憶のあやまりと思う。しかし、たいへんよろこばれて、すぐに上奏するといわれて、ご殿の方へ走るようにしてでてゆかれた。まもなく引きかえしてこられて、「岡田総理が生存している由を陛下に申し上げたら、陛下はそれはよかったと非常におよろこびになって、岡田を一刻も早く安全地域に救いだすようにと仰せられた」と、謹厳な口調で伝えられた。私は陛下のお言葉をありがたく承ったが、その一面こうなっては必ず無事に救出しなければならないと強い責任を感じて身のふるえる思いであった。私はこのまましばらく宮内大臣室にとどまり、湯浅宮相とお話した。宮相もたいへん心配されて救出についてなにかよい方法はないかといわれるので、私は「一刻も早くと思いながらまったく考えあぐんでおります。実はこうしております間にも、官邸のほうでなにか異変がおこってはいないかと気が気ではありません」と申し上げ、宮内大臣の机の上の電話を拝借して、福田〔耕〕秘書官に連絡してみた。盗聴されていることを考えながら、上奏がすんだことを暗号的ないい方で報告し、そちらの状況はどうかときくと、福田秘書官も、暗号的なはなし振りであったが、その後官邸のほうにはかわった様子はないから、まず総理もあのままの状態でいるのだろうということがわかった。福田秘書官は、女中が空腹だろうから、まもなく弁当をもっていってやろうと思うというので、私は官邸へいって様子をたしかめてくるつもりだなあと判断した。【以下、次回】

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一人の中尉が立ってきて栗原中尉だと名のった

2020-01-27 02:47:30 | コラムと名言

◎一人の中尉が立ってきて栗原中尉だと名のった

 迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)から、「防弾チョッキを着こんで」という章を紹介している。本日は、その後半。

 私は、モーニングにきかえて参内の準備をした。チョッキの下に防弾チョッキを着こんだ。この時間ははっきり覚えていないがもう十時すぎ〔二六日午前一〇時すぎ〕であったろう。外套をきて、傘をさし、官邸正門の方にまわって門前の番兵に名刺をわたして指揮官にあいたいと申しいれた。しばらく門前に待っていると、門内に案内され正玄関〈ショウゲンカン〉に向って歩いた。正玄関の車寄せのところにどこからはこんだものか大火鉢にまっかに火かおこっており、そのまわりに椅子をもちだしてきて、数人の将校がすわっていた。不思議なことには、そのなかに一人背広服を着た人がいる。私はだれかと思ったが知らない人である。年のかっこうからみて北一輝とか西田税〈ミツギ〉というような札つき民間人ではない。きっと十一月事件〔一九三四〕のとき処分を受けて免官となっている村中〔孝次〕大尉か磯部〔浅一〕主計かと思った。あとで判ったのであるが、その人は日本経済新聞(その当時は、中外商業新報)の記者和田日出吉さん(女優木暮実千代の夫君)であった。和田さんは事件がおこると、早々に部隊の将校のなかの友人から誘われて 官邸にはいったらしい。私たちが死体の検分にはいる前のことである。和田さんのあとの話では、そのときは総理が揮毫したものが散乱していたというが、私たちのはいったときには、そんなものはみあたらなかったから兵隊たちが記念に持って行ったのかもしれない。私は左手に傘をさし、右手を外套のポケットに突こんだまま立っていると、一人の中尉が立ってきて、栗原〔安秀〕中尉だと名のった。みるからに颯爽とした青年将校で、まさに美少年のおもかげがある。私はこんな立派な軍人がどうしてこんな大それたまちがいをしでかしたのかと嘆くような心持であった。
 私は「首相の葬式について打合せをしたいので、総理の私邸にゆきたいから、安全に包囲圏の外にだしてほしい」と申しいれた。
 中尉は、そのことは電話ではできないのかとか、いまいそぐことはないのではないかなどなかなか承諾をしない。私は、この中尉はなにかを感ずいているのではないかと、ひやひやしながら、どうしても婿〈ムコ〉の自分がいって、段取をつけてきたいと食いさがった。ふと気がつくと、いつのまにか、 中尉のそばに下士官が立っていて、しかも拳銃を私に擬しているではないか、私はハッとしたが、不思議に恐怖は感じなかった。この拳銃が火をふいても、下にきこんでいる防弾チョッキで防げるかしらなどと、ちょっと他人ごとのような心持であって、自分の生死に直接関係があるという実感はなかった。私はこのとき身に寸鉄も帯びてなかった。ただ、高橋〔是清〕蔵相の秘書官をしていた日本銀行の岡野清豪〈キヨヒデ〉氏(終戦後衆議院議員となり通商産業大臣になった人)から贈られた鉄扇を腰のポケットにさしていた。それはステンレススチールで骨ができており、長さ十五センチたらずのもので、成田山新勝寺の住職の揮毫になる字が書いてあった。私はフト気がついて、右手をポケットからだして下にさげた。
 下士官は拳銃をしまった。アメリカのギャング映画でよくみるように右手をポケットにいれているのは、そこに凶器があるという意味だったなと気がついた。拳銃をつきつけられている間、私はやはり気になったのか、何度も銃口をみた。小さい穴だなあと思ったとたんにまるで大砲の口のように大きくみえたこともある。いま考えて私は徴苦笑を禁じ得ない。

 ここまでが、「防弾チョッキを着こんで」の章である。明日は、これに続く「一刻も早く安全地域へ」の章を紹介する。

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