あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、感情に動かされて生きているが、感情を生み出すことはできない。(自我から自己へ24)

2024-07-26 15:52:08 | 思想
人間は感情の動物である。人間は、感情に動かされて生きている。しかし、感情を生み出すことはできない。換言すれば、人間は、感情に振り回されて生きているが、感情をどうすることもできない。この人間のあり方には、自我が深くかかわっている。自我は、全てのの感情の基点であるだけでなく、全ての欲望、全ての行動の基点なのである。人間は、常に、構造体に所属し、他人を意識しつつ、他者と関わりながら、自我として生きている。構造体とは、人間の組織・集合体である。他人とは構造体外の人々である。他者とは構造体内の人々である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、夫婦、家族、学校、会社、国、店、電車、仲間、カップルなどがあり、それに応じて自我がある。夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では担任教諭。生徒という自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。だから、ある人は、男女という構造体に所属している時は男性という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は教諭という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有して活動しているのである。だから、小学生は彼を先生と呼ぶが、それは、小学校という構造体においての彼の自我にしか過ぎないのである。また、息子や娘は彼をお父さんと呼ぶが、家族という構造体においての彼の自我にしか過ぎないのである。だから、彼の本当の姿など存在せず、構造体によって、異なった自我を所有しているだけなのである。しかも、人間は自ら意識して自我として行動していないのである。人間の自らを意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は表層心理で思考して自我として行動していないのである。深層心理が、自我を主体に立てて、心境の下で、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは無意識の精神活動である。無意識の思考が人間を動かしているのである。つまり、人間は自我として生きているが、その自我を自ら動かしていず、深層心理に動かされているのである。人間は、表層心理で思考して意志によって行動しようとしても、深層心理が得心しなければ行動できないのである。なぜならば、深層心理は感情を生み出すことができるが、表層心理の思考では感情を生み出すことができないからである。だから、表層心理での思考による結論は行動の指令にならないのである。深層心理が、表層心理での思考による結論を得心して、感情と行動の指令という自我の欲望として生み出した時、人間は、初めて、行動できるのである。つまり、表層心理での思考だけでは行動できないのである。確かに、人間は、表層心理で思考して、すなわち、自らが自ら意識して思考して、自我の欲望を生み出していない。深層心理が思考して自我の要望を生み出している。しかし、表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。なぜならば、人間は自我の欲望に動かされて生きているからである。感情が動力となり、行動の指令通りに人間を動かそうとするのである。自我の欲望は、自我を主体にした欲望であるから、自我となっている人間を動かすことができるのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思っているのである。すなわち、ほとんどの人は、表層心理で思考して、自らの意志によって行動していると思い込んでいるのである。それは、自我の欲望は自我を主体にした欲望であるからである。人間の意識的な思考を理性と言う。つまり、ほとんどの人は自らをは理性的な人間だと思い込んでいるのである。フランスの心理学者のラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。つまり、ラカンは、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、欲動に基づいて言語を使って論理的に思考して自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。人間が毎日同じようなことを繰り返すというルーティンの生活を送ることができるのも、深層心理が欲動の保身欲に基づいて思考して生み出した自我の欲望に従って行動しているからである。さて、深層心理は心境の下で思考するが、心境とは何か。心境とは、感情と共に、深層心理の情態である。心境は、気分とも表現される。深層心理は、常に、心境の下にある。心境はルーティンの生活を維持しようとし、感情はそれを打ち破ろうとする。深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せば、すなわち、心に感情が湧き上がれば、心境は後に退く。心境と感情は並び立たないのである。心境は、爽快、陰鬱など、深層心理に長期に持続する情態であり、感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。感情は、深層心理の思考によって、行動の指令と同時に生み出されて自我の欲望になり、人間を深層心理の行動の指令通りに動かす動力になる。爽快な心境にある時は、現状に充実感を抱いているという情態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さない。自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。陰鬱な心境にある時は、現状に不満を抱き続けているという情態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しいという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しいという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態に覆われているからこそ、人間は自分の存在を意識する時は、常に、自我の状況を意識すると同時に、心境や感情という情態にある自我を意識するのである。人間にとって、現在の自我の状況が良いか悪いかの判断は、常に、心境や感情という情態の状態によるのである。心境や感情という情態が良い時、自我の状況が良いように思えてくるのである。すなわち、人間にとって、自我の状況が良いのである。深層心理は、ほとんどの時間、心境の情態の下にあり、時に、感情という情態の下にある。深層心理は、ほとんどの時間、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出す。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理は、ほとんどの時間、心境という情態に覆われていて、時として、心境を打ち破り感情という情態を生み出し、行動の指令によって、ルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理は、常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自分を意識する時は、常に、自我の状況とともに、ある心境の情態にある自我やある感情の情態にある自我を意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理にあるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自我やある感情の情態にある自我を意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自我やある感情の情態にある自我に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、心境や感情が、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、一人でいてふとした時、他者や他人に面した時、他者や他人を意識した時、他者や他人の視線にあったり他者や他人の視線を感じた時、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとしている時などに、何かを考えている自我、何かをしている自我、何かの状態にある自我を意識するのである。そして、同時に、自我の心を覆っている心境や心に起こっている感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が、深層心理に、すなわち、心に存在するのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在まで、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、これらの存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、これらの存在は疑わしいという結論が出たとしても、これらの存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。また、人間は、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時だけでなく、平穏な日常生活を送っている時にも、突然、自我を意識し、表層心理で思考する時がある。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自我の心境とともに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識して、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の心境とととに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威であり、自我の存在を危うくさせる可能性があるからである。人間は、常に、他者に対して、警戒心を怠らないのである。人間は、一人でいても、無我夢中で行動していても、突然、自分の存在、すなわち、自我の心境、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することもあるのも、それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自分の存在に危うさを感じたからである。しかし、人間は、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境も感情も変えることはできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇にあるからである。心境は深層心理に過去から流れているものであり、感情は深層心理が現在生み出したものである。だから、人間は、表層心理で、心境も感情も変えることはできないのである。つまり、人間は自らの意志で心境も感情も変えることはできないのである。しかし、心境が変わる時はある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が自然と変化するのである。だから、原因もわからず、爽快から陰鬱へ、陰鬱から爽快へ変わることがあるのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で意志によって心境を変えたのではなく、その人の深層心理が自らの心境に飽きやすいから、心境が自然と変化するのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の情態は感情に覆われ、心境が感じられなくなる。その後、心境は回復するが、その時、心境は、以前のものとは異なったものになっている。人間は、表層心理で意志によって陰鬱な心境を変えることができないから、何かをすることによって変えようとするのである。それが、気分転換である。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。人間にとって、これほどまでに、感情や心境などの情態が決定的な意味を持っているのである。だから、オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言うのである。苦しんでいる人間にとって、苦しみから逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみから逃れるために、表層心理で。苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。だから、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、解決する途上であっても、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、人間は、誰も、考えることは無いのである。苦痛が無い思考とは思うことである。思いとは、楽しいことを思い浮かべることである。過去の楽しかったことなどを思うのである。さて、欲動であるが、深層心理は自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。人間の快楽を得ることを主として思考し行動するあり方を、フロイトは、快感原則と呼んだ。もちろん、逆に、深層心理は、不快や苦痛を逃れようと思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かそうともする。つまり、快楽、快感、不快、苦痛などの感情が、深層心理を、すなわち、人間を、動かしているのである。人間は表層心理で思考して、意志によって、快楽、快感という感情を生み出すことができないのである。自我の状態が欲動にかなったものになれば、深層心理に、すなわち、人間の心に、快楽、快感が生まれてくるのである。逆に、自我の状態が欲動を阻害したものであれば、深層心理に、すなわち、人間の心に、不快、苦痛が生まれてくるのである。そこで、深層心理は、欲動に基づいて思考して、もしくは、欲動に背かないように思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間が、毎日、同じ構造体で、同じ他者に会い、同じ自我を持って、同じようなことをして、ルーティーンの生活をしていけるのは、深層心理が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られそうになる時がある。それは、往々にして、他者から、侮辱されたりなどして、自我が他者に認められたいという承認欲が阻害されたからである。そのような時、深層心理は、怒りの感情と相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、暴力などの過激な行動を行わせ、承認欲を阻害した相手をおとしめることによって、自らの自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、怒りの感情を抑圧し、殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。深層心理には、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した超自我という機能が存在するのである。超自我は、人間が毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、自らの状態を意識して、深層心理が生み出したも感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。すなわち、表層心理で思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。それを、フロイトは現実原則と呼んだ。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。侮辱された人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、侮辱した相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した殴れの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強い場合、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できず、侮辱した相手を殴ってしまうのである。さらに、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎる、超自我は機能せず、表層心理での思考が行われないままに侮辱した相手を殴ってしまうのである。これが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。それほどまでに、感情の力が大きいのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そこから、鬱病などが発するのである。精神疾患は、深層心理が現実から逃れるために自らにもたらしたのである。これほどまでに、感情、心境という情態が、深層心理に対して、すなわち、人間に対して、大きな力を持っているのである。また、高校生・会社員が嫌々ながらも高校・会社という構造体に通学・通勤するのは、生徒・会社員という自我を失えば不安に追いいると思うからである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失い不安に陥っているったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのも、裁判官という自我を守りさらに上級裁判所の裁判官になりたいという保身欲からである。学校でいじめ自殺事件があると、教育委員会、校長、担任教諭は自殺した生徒よりも自分たちの自我を守ろうという保身欲だけでなく、非難されることが辛いという承認欲が阻害されることから来る感情が原因で、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親も親という自我を守ろうという保身欲だけでなく、非難されることが辛いという承認欲が阻害されることから来る感情が原因で、自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲からいじめの事実を隠し続け自殺にまで追い詰められたのである。さらに、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心は、国民という自我に対する保身欲からきているのである。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。自国選手や自国チームが勝利すれば楽しいという感情が得られるのである。逆に、自国選手や自国チームが敗北すれば悔しいという感情が得られるのである。同じ国に住んでいるということだけで、オリンピックやワールドカップの結果に一喜一憂するのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという承認欲から来る自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。さて、人間は、常に、他者の思いを推し量りながら生きている。それは、深層心理に欲動から発した他者に自我を認めてもらいたいという承認欲があるからである。承認欲が満たされれば、深層心理が、すなわち、人間が、快楽が得られるのである。快楽という感情が、深層心理を、すなわち、人間を動かしているのである。だから、人間は、他者から褒められたい、好かれたい、存在を認められたいという思いで生き、行動しているのである。他者に認められる行動をするのは当然のように思っている人が多いが、欲動に承認欲があるからであり、それが無ければ、他者に対する思いなど存在しないだろう。欲動に承認欲があるから、深層心理は、すなわち、人間は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。フランスの心理学者のラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、承認欲の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、承認欲の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理に内在する欲動から発した承認欲の作用によって起こるのである。例えば、中学生・高校生はは、学校のクラブという構造体に所属して、部員という自我を持っていて暮らしている。彼らの深層心理は、監督や他の部員という他者から、好評価・高評価を得たいという欲望を持っている。しかし、連日、彼らから馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、傷心という感情と退部という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。しかし、中学生・高校生の超自我はルーティーンの生活を維持させようとして、退部を思いとどまらせる。しかし、傷心の思いが強ければ、超自我の機能では防ぎきれず、表層心理に上ってくる。中学生・高校生は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した傷心という感情の下で、深層心理が生み出した退部しろというが行動の指令について思考し、退部を思いとどまらせる。それは、部に残った方が周囲からの評価が高く、退部した後のことが考えられないからである。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が強すぎる場合、部に行けないのである。その後、人間は、表層心理で、傷心の下で、退部を指示した深層心理を説得するために、部に行く理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、自殺する者も現れるのである。つまり、承認欲が満たされないことが苦悩の原因でなのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという承認欲を満足させるためである。次に、欲動の支配欲であるが、それは、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。まず、他者という対象に対する支配欲であるが、それは、自我が他者を支配したい、他者のリーダーになりたいという欲望である。この欲望から、人間は、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。国会議員が総理大臣になろうとするのは、深層心理が、日本という構造体の中で、国民という他者を総理大臣という自我で支配したいからである。教諭が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望からである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために物を利用することである。山の樹木を伐採すること、物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば満足感が得られるのである。さらに、対象の支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在している時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しない時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在しているように思い込むことである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。有の無化、無の有化によって、深層心理は、自我を正当化し、心に安定感を得ようとしているのである。最後に、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合えば快楽が得られるので、自我の状態をそのようになるようにする。自我と他者が共感化できれば、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにすることができるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだしつつ、相手の愛を独占することを許し合うことである。恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、恋人という自我が相手に認めてもらいたいという承認欲が阻害されたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、未練が残る。カップルという構造体が壊れ、恋人いう自我を失うのが辛いのである。保身欲から起こる現象である。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理が失恋者にストーカーになることを指示したのは、カップルという構造体が壊れ、恋人いう自我を失うのが辛からである。もちろん、表層心理で現実原則に基づいて思考し、ストーカー行為を抑圧しようとするが、屈辱感が強過ぎると、抑圧できないのである。つまり、ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が阻害されたことの辛さだけでなく、恋人という自我を相手に認めてもらえないという承認欲が阻害された辛さ、相手の愛情を支配したいという支配欲が阻害された辛さ、愛し合うというという共感欲が阻害された辛さがるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者の共感欲が生まれ、そこに、連帯感の喜びを感じるからのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感欲が生み出したものである。仲の悪い二人も、共通の敵が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうことである。共感欲が満たされ、快楽が得られるのである。自民党議員は、中国・ロシア・北朝鮮を共通の敵国とすることで、共感欲を懐かせ、国民から支持を受けているのである。そして、そのような政治姿勢で、国民をコントロールし、支配欲を満足させ、満足感という快楽を得ているのである。このように、人間は、感情に動かされて生きている。しかし、感情を生み出すこともできず、感情に直接t的に働きかけることも、感情を変えることもできない。しかし、感情は行動の動力になっている。感情の圧倒的な力の中で、人間の自らを意識した思考、すなわち、表層心理での思考の力が試されているのである。表層心理での思考の力を高めない限り、人間は自我の欲望の餌食になり、人間世界から、戦争、殺人は消滅することは無いのである。