あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間はなぜ死を恐れ、なぜ殺人を犯すのか。(自我から自己へ23)

2024-07-19 01:07:10 | 思想
人間はなぜ死を恐れるのか。誰一人として、死を恐れようと思って恐れているのではない。死に対する恐怖は心の底から湧き上がってくるのである。つまり、深層心理が死を恐れているから人間は死を恐れているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。だから、人間は、我知らず、死を恐れのである。それゆえ、全ての人間に死の恐怖があるのである。しかし、誰も死を知らない。もちろん、深層心理も死を知らない。それなのに、なぜ死を恐れるのか。ギリシアの快楽主義の始祖エピクロスは「死は、諸々の悪の中でも最も恐ろしいものとされているけれども、それは我々にとって何ものでもないのである。なぜなら、我々が存在しているときには、死は我々のもとにはないし、他方、死が傍らにきているときには、我々はもう存在しないからだ。」と言う。つまり、エピクロスは死を恐れることは無意味だと言うのである。確かに、エピクロスの言うように、死を知らないのに死を恐れることは無意味かも知れない。しかし、エピクロスの分析は表層心理で行ったものである。表層心理とは人間の自らを意識しての精神活動である。人間は表層心理で思考して死を恐れることは無意味だと結論を出しても、それが深層心理に届かないのである。やはり、深層心理は死を恐れるのである。だから、人間は死は恐れる必要のない出来事だと考えようとしても、やはり、死を恐れてしまうのである。死に対する恐怖は消えないからである。そこで、人間は死んでも生きていると思うことによって死の恐怖から逃れようとし、死後の世界の存在を案出したのである。死の恐怖が強ければそれが気になり日常生活を落ち着いて営めないから当然の結果である。死後の世界がさまざまあるのは、人間が表層心理で思考して生み出したからである。宗教がそれを担ったのである。だから、宗教によって異なった死後の世界が存在するのである。しかし、人間は、来世を想定することによって死の恐怖から逃れようとするばかりでなく、現世では、死の恐怖の根源を突き止めることによって死の恐怖から逃れようとする。そして、死の恐怖は肉体の喪失に対する恐怖、肉体の苦痛に対する恐怖、全ての自我を失うことから来る恐怖であることを突き止めたのである。肉体の喪失に対する恐怖は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒において顕著である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、肉体が残っていなければ、死後、復活できないからである。火あぶりの刑を受けた者には死後の世界が存在しないのである。だから、火あぶりの刑は、肉体的に苦痛を与えるだけでなく、精神的にも苦痛を与えるから、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒に対して有効な刑罰になっているのである。火あぶりの刑は、肉体の喪失に対する恐怖、肉体の苦痛に対する恐怖、精神的な恐怖を与えるのである。ドストエフスキーは「どれだけ死を覚悟した者でも、大きな岩石に押しつぶされて死ぬことには耐えられないだろう。」と言う。肉体の苦痛に対する恐怖だけでなく肉体の喪失に対する恐怖があるからである。人間が癌を恐れるのは、癌は死に直接的につながり、苦しみながら死ぬと思っているからである。肉体の苦痛に対する恐怖である。しかし、その考えは、医師から吹き込まれた嘘である。癌の侵攻は人々が想像する以上に遅く、手術などの治療をしなければ、最期を苦しまずに迎えられるのである。医師は癌に対する恐怖を煽ることで、癌患者を手術などの治療に向かわせ、実験台として自らの技術を磨き、受診代、手術代、入院費、薬代などで済的な利益を得ようとしているのである。医師の患者に対する支配欲による自我の欲望がなせる業である。癌患者が手術などの治療を受けても生きながらえば、医師の手柄になる。医師としての承認欲が満たされるのである。癌患者が手術などの治療を受けて亡くなれば、医師は手遅れの状態だった言う。医師としての保身欲が阻害されないようにするためである。病室という密室がなせる業である、しかし、医師だけが支配欲、承認欲、保身欲に動かされた自我の欲望てよって非人間的な行為を行うのではない。政治家、官僚、警察官、教師など全ての人が、密室においては、支配欲、承認欲、保身欲に動かされた自我の欲望てよって非人間的な行為を行うのである。密室においては、非人間的な行為こそ人間的な行為なのである。なぜならば、人間は自我の欲望に動かされて行動する動物だからである。人間は自我の欲望に動かされて行動する動物だから、殺人まで犯す人が存在するのである。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりつつ、他人を意識しながら行動している。他者とは、構造体内の人々である。他人とは、構造体外の人々である。構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、高校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、病院という構造体には病院長・医師・看護師・患者などの自我があり、コンビニという構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属し、自我を持して、他者との関わりを想定しつつ、他人を意識しながら暮らしている。人間が社会的な存在であるとは、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持して、他者と関わつつ、他人を意識しながら暮らしていることを意味しているのである。さて、デカルトは「我思う、故に、我あり。」と言ったが、「我」の定義をしなかった。しかし、人間が、自分の存在を意識するのは、普遍的な自分としてでは無く、個別的な自我なのである。つまり、ある人は、日本という国の構造体では国民という自我であり、家族という構造体では父という自我であり、会社という構造体で課長という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我である。また、別のある人は、日本という国の構造体では国民という自我であり、家族という構造体では娘という自我であり、学校という構造体では生徒という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我であり、仲間という構造体では友人という自我であり、カップルという構造体では恋人という自我であるつまり、人間は構造体ごとに異なった自我を得て暮らしているのである。だから、人間は自らを指して自分と言うが、自分の姿は自我として刻々と変化しているのである。だから、自我の存在は確信できても、どこにも、普遍的な自分は存在しないのである。死の恐怖とは、これらの自我を一挙に失う恐怖なのである。それは、死後、人々から自分の存在が忘れ去られる恐怖なのである。人間は常に自我として生きているから、自我を失えば、自分の存在が雲散霧消化するのである。特に、家族という構造体での父・母・息子・娘などの自我を心の拠り所にしている人が多いから、死者も残された家族も残された家族による葬儀を望むのである。それは、死後も残された家族の心の中では死者の自我が残っていることを意味するからである。人間は死ねば肉体は朽ちていくのを知っている。だから、人間は関係性を拠り所にしているのである。関係性と、構造体における自我と自我のつながりである。家族という構造体を拠り所にするのは、自我と自我が最も強いと思っているからである。しかし、家族という構造体の中に自我といえども、深層心理が欲動に基づいて思考して生み出した感情と行動という自我の欲望が動かされているのである。そもそも、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりつつ、他人を意識しながら行動しているが、表層心理で思考して行動しているのではないのである。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは深層心理の思考である。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、「言語によって構造化されている」のである。つまり、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理は、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。欲動が深層心理を動かしているのである。深層心理は、自我の状態を欲動の四つの欲望のいずれかに叶えたものにすれば、快楽が得られるので、欲動に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。フロイトは、深層心理の快楽を求め不快から逃れようと思考するあり方を快感原則と呼んだ。さて、欲動の第一の欲望が保身欲であるが、それは、構造体にしがみつき、自我という地位、位置を守りたいという欲望である。深層心理は、常に、自我を保身化してこの欲望を満たそうとしている。ほとんどの人の日常生活が無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の保身欲、すなわち、自我の保身化の作用によって思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は無意識にそれに従って行動しているからである。日常生活が毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が保身欲によって思考して生み出した自我の欲望に従って行動しているからである。すなわち、ルーティーンの生活は、表層心理で思考することなく、無意識のままに行動しているから可能なのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ルーティンの生活は、ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想に合致しているのである。しかし、人間の生活は、必ずしも、毎日が、平穏ではない。嫌なことが起こる。それは、たいていの場合、承認欲が阻害されたことである。高校のクラスという構造体でいじめにあい、同級生として認めてほしいという承認欲が阻害される。会社という構造体で上司に営業成績が悪いと罵倒され、社員として認めてほしいという承認欲が阻害される。それでも、高校、会社に行く。それは、深層心理に保身欲から発した超自我という機能があり、ルーティーンの生活を守ろうとするからである。だから、承認欲を阻害された深層心理が傷心の感情と高校、会社に行くのをやめろという行動の指令の自我の欲望を生み出し、高校生、会社員を欠席、欠勤に持っていこうとしても、超自我という機能がそれを抑圧し、登校、出勤させるのである。さらに、もしも、深層心理の超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で思考して、自我の欲望を抑圧し、そして、明日も、また、高校や会社へ行き、ルーティーンの生活を続けようとするのである。また、深層心理は、日常生活において、道徳観や社会的規約に縛られることなく、その時その場で快楽を求め苦痛から逃れようと瞬間的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。欲動に、道徳観や社会的規約を守るという欲望が存在しないからである。異常なことが起こると、深層心理は、その時その場で苦痛から逃れようと瞬間的に思考して、平常と異なった感情とルーティンから外れた行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。すなわち、高校生、会社員の深層心理は、傷心の感情と高校、会社に行くのをやめろという行動の指令の自我の欲望を生み出し、欠席、欠勤させようとする。深層心理によっては、怒りの感情と殴れという行動の指令の自我の欲望を生み出して、高校生、会社員に暴力を指示することもある。そのような場合、いずれも、深層心理に内在する超自我がこの自我の欲望を抑えて、高校生、会社員という自我を保身させ、ルーティンの生活を守ろうとする。しかし、感情が強い場合、超自我が自我の欲望を抑えきれない時があるのである。超自我が自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した強い感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。現実的な利得を求める欲望とは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。これは、フロイトは現実原則と呼んでいる。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし不利益を被らないないような視点から、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考し、異常な行動の指令を抑圧しようとするのである。抑圧が成功すれば、ルーティーンの生活が続くのである。しかし、感情が過いと、表層心理で思考して、意志によっても、過激な行動の指令を抑圧できず、そのまま行動してしまうのである。さらに、感情が強過ぎる場合、超自我も機能せず、表層心理での思考も行われないままに、深層心理が思考して生み出した行動の指令に従って、人間は行動するのである。そして、悲劇、惨劇を生むのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が思考して生み出した行動の指令を拒否することを決め、意志によって、深層心理が出した行動の指令を抑圧できたとしても、次に、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、深層心理には、まだ、深層心理が生み出した傷心の感情や怒りの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。強い傷心の感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体の政治権力者同士の争いになれば、戦争になるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。また、多くの人が家族という構造体を拠り所にするのは、血縁幻想があるからである。血がつながっているから、親子、兄弟姉妹の自我の結び付き強いと思っているからである。だから、人間にとって最も強い保身欲は、家族という構造体と祖母・祖父・父・母・息子・娘などの自我に対してである。次に、欲動の第二の欲望の自我が他者に認められたいという承認欲であるが、簡単に言えば、人間は、常に、好かれたい・評価されたいという欲望である。深層心理は、常に、自我を対他化してこの欲望を満たそうとしている。自我の対他化とは、他者から自我を評価されたいと思いつつ、他者から自我がどのように思われているか探ることである。深層心理は、自我が他者に認められ、承認欲が満たされて楽が得られるので、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。内縁の夫が子供も殺すのは子供たちが自分になじまないからである。子供たちにとって内縁の夫は異物なのである。家族という構造体にの中に異物が入ってきたから、子供たちは拒否するのである。母親と愛し合っているから子供たちも自分を父親と慕うだろうと内縁の夫は勘違いしているのである。しかし、子供たちにはこれまでの家族という構造体の中での子という自我に対する保身欲が強く、内縁の夫という他人が拒否するのである。無知な内縁の夫が父親として無理に承認されようとして心を傷つけられ怒りの感情が生み出され、時には子供たちを殺すことまであるのである。内縁の夫の父という自我に対する承認欲が子供たちを地獄に突き落とすのである。次に、欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲であるが、それは、対象を、自我の思い通りにしたいという欲望である。深層心理は、常に、自らの志向性で自我・他者・物・現象という対象を支配することによって、すなわち、対自化することによって、快感や満足感などの快楽を得ようとしている。自らの志向性で自我・他者・物・現象という対象を捉えることを対自化と言う。志向性とは、対象を捉える方向性である。端的に言えば、観点・視点である。人間は、表層心理で、対象を捉えているのではなく、深層心理が、人間の無意識のうちに、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、志向性で、他者という対象を支配しようとし、物という対象をで利用しようとし、現象という対象を捉えているのである。深層心理は、志向性で、対象を対自化して、支配欲を満たして、快感や満足感を得ているのである。さて、まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、深層心理が、すなわち、人間が、快感や満足感が得られれるのである。会社という構造体で社員という自我の者がが社長という自我になりたいと思い、学校という構造体で教諭という自我の者がが校長という自我になりたいと思うことのは支配欲を満たしたいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快感や満足感が得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れなのである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、ウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による無差別の殺戮は、支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという満足感が得られるのである。しかし、現在、世界中に、自然を収奪するだけの自我の欲望を満たすあり方を反省し、自然と共生するあり方へと転換の運動が起こっている。しかし、自然と共生するあり方と言っても、志向性が変化しただけであり、志向性自体は残り、支配欲を満たすことは変わらないのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快感や満足感が得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していれば、深層心理が、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むことである。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安心感を得ようとするのである。さて、明治時代に制定された民法では、「一家の首長で、家族を統括しこれを扶養する者」として、戸主が存在していた。この戸主こそ支配欲の権化である。誰にも支配欲があるが、戦前において、政府は、父を戸主として、家族の支配を認めたのである。それは、天皇が国民を臣民として支配したのと同じである。戦前は、公は、支配被支配の関係で成り立っていたのである。天皇が国民を支配して支配欲を満足させ、父親が家族を支配して支配欲を満足させたのである。政治家になろうとするのは国民の上に立ちたいからであり、総理大臣になろうとするのは国民を支配したいからである。政治家になってより支配欲を満足させたいから、総理大臣になろうとするのである。しかし、支配欲を満たした瞬間から、人間の堕落が始まるのである。なぜならば、深層心理は保身欲に振り回されるからである。深層心理は、自我の保身化だけに自我の欲望を生み出し、人間を手練手管を駆使させ、なりふり構わず行動させるからである。最後に、欲動の第四の欲望が共感欲であるが、それは、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。わかりやすく言えば、他者と理解し合いたい、愛し合いたい、仲良くしたいという欲望である。深層心理は、常に、趣向性によって、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとしている。趣向性とは、わかりやすく言えば、好みである。趣向性は、深層心理に属しているので、人間は、意志では変えられないのである。趣向性に変化があったとすれば、変えたのではなく、変わったのである。深層心理は、自我が趣向性が合った他者と愛し合ったり友情を育んだり協力し合ったりして心の交流ができれば快楽を得られるのである。共感化とは、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を支配するという対象の対自化でもなく、、互いに、理解し、愛し、協力することなのである。人間は、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心の交流を図ろうとするのである。それがかなえば、快感や満足感だけでなく、安心感も得られるのである。カップルという構造体は、恋人という二人の自我によって成り立っている。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人として自我を認め合うことができれば、自らの存在を実感でき、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係になり、カップルという構造体を構築し、恋人言う自我を得ても、相手から別れを告げられることがある。失恋した人は、誰しも、一時的にしろ相当の時間にしろ、ストーカー的な心情に陥る。誰しも、すぐには失恋を認めることができない。相手から別れを告げられた時、誰一人として、「これまで交際してくれてありがとう。」とは言えない。失恋を認めることは、あまりに苦しいからである。相手を恨むことがあっても、これまで交際してくれたことに対して礼など言う気には決してならない。失恋を認めること、相手の自分に対する愛が消滅したこと、二人の恋愛関係が瓦解したことを認めることはあまりに苦しいからである。相手から、自分に対する愛が消滅したからと言われて、別れを告げられても、自分の心には、恋愛関係に執着し、相手への愛がまだ残っている。しかし、相手との恋愛関係にはもう戻れない。このまま恋愛関係に執着するということは、敗者の位置に居続けることになる。失恋したということは、敗者になり、プライドが傷付けられ、下位に落とされたということを意味するのである。ずたずたにされたプライドを癒し、心を立て直すには、自分で自分を上位に置くしか無い。そのために、失恋した人は、いろいろな方法を考え出す。第一の方法は、すぐには、自分を上位に置くことはできないので、相手を元カレ、元カノと呼び、友人のように扱うことで、失恋から友人関係へと軟着陸させ、もう、相手を恋愛対象者としてみなさないようにすることである。これは、相手との決定的な別離を避けることができるので、失恋という大きな痛手を被らないで済むのである。第二の方法は、相手を徹底的に憎悪し、軽蔑し、相手を人間以下に見なし、自分が上位に立つことで、ずたずたにされた自分のプライドを癒すのである。これは、女性が多く用いる方法である。第三の方法は、すぐに、別の人と、恋愛関係に入ることである。新しい恋人は、別れた人よりも、社会的な地位が高く、容貌が良い人である方が、より早く失恋の傷は癒やされる。しかし、失恋の傷が深く、失恋の傷を癒やす方法を考えることができない人も存在する。それは、相手に別れを告げられ、相手が自分に対する愛を失っても、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないようにすることができない人である。そのような人の中で、相手につきまとう人が出てくる。それがストーカーと呼ばれる人である。ストーカーは、男性が圧倒的に多い。彼は、失恋を認めることがあまりに苦しく、相手を忘れる方法が考えることさえできず、相手から離れることができずに、いつまでも付きまとってしまうのである。中には、相手がどうしても自分の気持ちを受け入れてくれないので、あまりに苦しくなり、その苦悩から解放されようとして、相手を殺す人までいる。確かに、ストーカーの最大の被害者は、ストーカーに付きまとわれている人である。しかし、ストーカーも、また、深層心理が愛という自我の欲望に取り憑かれた被害者なのである。人間は、誰しも、失恋すると、ストーカーの感情に陥るが、多くの人は、何らかの方法を使って、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないことに成功したから、ストーカーにならないだけなのである。カップルという恋愛関係の構造体は、恋人という自我があり、恋愛感情という愛があるから、相思相愛の時は、「あなたのためなら何でもできる。」と言いながら、相手が別れを告げると、相手のことが忘れられず、誰しも、ストーカー心情に陥り、時には、実際に、ストーカーになる人が現れるのである。それは、相思相愛で、カップルという恋愛関係の構造体を形成している時は、あまりに大きな快楽を得ていたから、カップルという恋愛関係の構造体が破壊された上に、相手が、別の人とカップルという恋愛関係の構造体を形成し、その人と快楽を得ること想像すると、嫉妬心で堪えられないからである。相手がこの世から消えない限りこの辛さから逃れられないと思うから殺人まで犯すのである。また、仲間という構造体は、友人という自我によって成り立っている。友情という現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。人間が友人を作ろうとするのは、仲間という構造体を形成し、友人という自我を認め合うことができれば、そこに安心感が生じるからである。友人いう自我と友人いう自我が共感すれば、そこに、信頼感が生じ、一人の自我で受ける孤独感から解放され、力がみなぎって来るのである。しかし、人間、誰しも、誰を恋人にするか、誰を友人にするかは、表層心理で、自らを意識して思考して決めているわけではない。深層心理が、趣向性によって、選んでいるのでいる。趣向性とは、好みであり、共感性という感性である。人間は、意識して好み、感性に入ることはできないのである。好み、感性は、深層心理の範疇に属しているからである。また、共通の敵がいたならば仲が悪い者同士も仲良くする呉越同舟という現象も共感化によって起きるのである。二人の仲が悪かったのは二人の趣向性が異なっているからである。互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから、いがみ合いの現象が起きるのである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、共通の敵に立ち向かうために、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞くのである。チームが試合で一つになるということも、共感化の現象である。相手チームという共通の対自化した敵がいるからである。しかし、高校の球技大会や体育祭で、クラスがまとまるのも呉越同舟の現象である。しかし、球技大会や体育祭が終わると、共通の対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化で自我の力が発揮しようと思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る、すなわち、自我を主張するようになるのである。また、小学校、中学校、高校のクラス、クラブという構造体では、趣向性が合わないために、いじめという現象が起こるのである。いじめの原因は、毎日、閉ざされ、固定されたクラス、クラブという構造体で、クラスメート、部員という自我で暮らしていることである。毎日、同じクラスメート、部員と暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくる。好きな部員、友人ばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの感情は、自ら意識して、自らの意志で、生み出しているわけではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、好きなクラスメート、部員と嫌いなクラスメート、部員を峻別しているわけでは無い。深層心理がの趣向性がそれを出現させるのである。しかし、小学生、中学生、高校生には、クラス、クラブに嫌いなクラスメート、部員がいても、それを理由にして、自分が別のクラス、クラブに移ることは許されない。わがままだと非難されるだけである。だから、現在の構造体で生きていくしか無いのである。しかし、クラス、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、嫌いな人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵になってしまう。共感欲を阻害された深層心理は、自我の欲望として、憎悪の感情といじめの行動の指令を生み出し、その嫌いなクラスメート、部員に対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。そこで、共感化してい仲間に加勢を頼むのである。彼らも仲間という構造体から放逐され友人という自我を失うのが辛いから、保身欲によっていじめに加担するのであ。そして、担任の教師はいじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラスという構造体の運営が難しくなるので、保身欲から、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。このように、深層心理は、欲動の四つの欲望、すなわち、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲という四つの欲望のいずれかに基づいて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているから、人間世界から犯罪は絶えることは無く、それが殺人や戦争にまで及ぶのである。人間は自我を傷つけられると、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとするからである。自我を傷つけられた政治権力者の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた政治権力者を倒せという自我の欲望を生み出して、戦争へと駆り立てるのである。人間は、自己として生きない限り、自我の欲望に従って生きるしかないのである。自己として生きるということは正義に基づいて行動することである。しかし、正義に基づいて行動するとは自我の欲望にとらわれないことを意味するから、それは至難の業である。なぜならば、人間は自我として生き、常に、自我の欲望に動かされて生きているからである。しかし、自己に目覚めない限り、人間は深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて他者を殺すことすらあるのである。しかし、確かに、自己として生きている人間は他者を殺すことは無い。しかし、自我の欲望に駆られた他者に自我を奪われるばかりか殺されることがあるのである。