あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理の圧倒的な力を前にして人間は何ができるか。(自我から自己へ22)

2024-07-08 08:13:40 | 思想
街には、多くの人が歩いている。誰かに会うために、何かをするために、どこかに行くために歩いている。しかし、自分の意志で会う人を決めていない。自分の意志ですることを決めていない。自分で意志で行く場所を決めていない。そして、自分の意志で歩いていない。確かに、人間は、自分が誰に会うかを意識し、自分が何をするかを意識し、自分がどこに向かっているかを意識することはある、そして、自分が歩いていることを意識することはある。しかし、人間は、初めから、意識してこれらのことを行っていない。初めに自我の欲望があるのである。自我の欲望が街を歩かせているのである。つまり、人間は、自我の欲望に動かされて行動しているのである。深層心理が思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。つまり、無意識の思考が自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。人間の自らを意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は表層心理で思考して意志によって動いているわけではないのである。人に会う時もそうである。深層心理が思考して自我の欲望を生み出して会うように仕向けているのである。しかし、深層心理は突拍子もないことを自我の欲望として生み出さない。深層心理には保身欲があり状況に応じて会う人を決めているのである。また、深層心理には承認欲があり、会った時には、嫌われないような態度をとるのである。礼儀正しく接するのはそれである。中にも、横暴な態度で接する人がいるが、支配欲が強いからである。深層心理には、支配欲もあるのである。友人に会う時には、心が躍る。友人とは、互いに趣向性が合ったがなるからである。深層心理には共感欲があり、友人はそれを満たしてくれるのである。このように、人間は人に会う時も、深層心理が、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲によって態度を着決めているのである。つまり、深層心理は恣意的に思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているわけではないのである。深層心理は、自我を主体に立てて、他人を意識しつつ他者と関わりながら、快感原則によって、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。他人とは構造外の人々である。他者とは構造内の人々である。自我とは、構造体の中で、ポジションを得て、それを自分だとして行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、構造体に所属して、自我を持って、初めて、人間として行動できるのである。自我を持たない人間は、抽象的な存在であり、人間として暮らしていけないのである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、他人を意識しつつ他者と関わりながら、行動しているのである。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがあるが、それに伴って、次のような自我がある。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、暮らしている。人間は、引きこもりの生活をしている人や服役している人などの人以外は、一日のうちでも、複数の構造体に所属し、複数の自我を持って行動する。しかし、同時に、複数の構造体に所属することも、複数の自我を持つことはできない。例えば、街中を仲間と連れだって友人という自我を持って歩いている男子高校生は、偶然、母親に出会うと、仲間には、友人という自我で母親を紹介し、母親には、息子という自我で仲間を紹介する。友人という自我と息子という自我を同時に持つことはできない。コンビニという構造体に入れば、高校生という自我ははぎ取られ、一人の客という自我で行動することになる。つまり、人間は、常に、一つの構造体に限定されて所属させられ、一つの自我を限定されて持たせられて、暮らしているのである。快感原則とは、ひたすらその場での快楽を求め不快を忌避する志向性である。これはフロイトの用語である。深層心理は、自我の状態を欲動にかなえたものにすれば快楽が得られ、自我の状態を欲動に背いたものにすれば不快感がもたらされるので、欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が深層心理を動かし、深層心理が人間を動かしているのである。欲動とは、四つの欲望から成り立っている欲望の集合体である。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、第二の欲望として自我が他者に認められたいという承認欲、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。人間は、自らは意識していないが、深層心理は、常に、この四つの欲望を基にして、自我の状況を洞察して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。道徳観や社会規約を守ろうという志向性は、表層心理での思考に存在するのである。人間は、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、道徳観や社会規約に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令の認否を思考する時があるのである。道徳観や社会規約を無視した行動は周囲の人々の承認が得られず、自我が批判されるからである。さて、ほとんどの人は毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活をしている。それは、保身欲にかなっているからである。ルーティーンの生活をしている限り、自我は安泰だからである。つまり、ルーティーンの生活が続くのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲によって思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。だから、ほとんどの人は、自らの状況を意識して思考することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、無意識に行動しているのである。だから、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのである。つまり、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活は、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンの生活になるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという永劫回帰の思想は、人間の生活にも当てはまるのである。高校生・会社員が、毎日、嫌々ながらも高校・会社という構造体に行くのも、高校生・会社員は自我を失いたくないという保身欲からである。だから、高校生・会社員は、退学者・失業者という高校生・会社員という自我を失った状態を恐れるのである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我を維持することが大切だという深層心理の保身欲からである。裁判官・高級官僚はは保身欲によって悪事を犯した政治権力者をかばい、自らも悪人になるのである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするという深層心理の保身欲から、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るという保身欲のために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。校長、担任教諭、いじめた子の親の保身欲から非人間的な行為を行うのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲から、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、カップルという構造体が消滅し、恋人という自我を失うのが辛いという保身欲から、相手に付きまとい、構造体を維持しようとする行為である。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、カップルという構造体の修復不可能、恋人という自我の喪失だと悟り、その苦しみか一挙に逃れようとして、相手を殺してしまうこともあるのである。相手を殺してしまえば、自分を苦しめるものが消滅するからである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した恋人という自我を失うことが苦しいという保身欲から発した感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできないのである。さらに、恋人という自我を失うことの苦しい感情が強過ぎる場合、超自我や表層心理は、ストーカー行為を抑圧しようとする機能も思考も働かないのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。しかし、時には、自我が傷つけられ、自ら、ルーティーンの生活が破りそうになる時がある。例えば、高校という構造体では同級生という他者から馬鹿にされたり、会社という構造体では上司からという他者から侮辱されたりなどした時、高校生・会社員の深層心理は、自我が他者に認められたいという承認欲が阻害され、苦痛を覚える。その苦痛から逃れるために、深層心理は、怒りの感情と同級生・上司を殴れなどの過激な行動の指令を、自我の欲望として生み出し、高校生・会社員という自我を持つ人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で高校生・会社員を人間を動かし、暴力などの過激な行動を行わせるのである。自我をおとしめた同級生・上司の他者の自我を逆におとしめることによって、自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンの生活を守るために、怒りの感情を抑圧し、殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に存在している、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の保身欲から発生した機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする機能も存在するのである。さらに、もしも、超自我の機能が、感情が強くて、過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。人間は、表層心理で、現実原則に従って、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するかを審議する。現実原則とは、フロイトの用語である。現実的な利得を求めることを何よりも優先させ、深層心理が生み出した行動の指令に従って行動したならば、自我の立場がどのようになるかを考慮するのである。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、現実原則とは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望だからある。つまり、高校生・会社員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に従って、同級生・上司という他者を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者や他人の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。表層心理の結論が意志である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強い場合、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。これが、、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないからである。しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦痛の中での思考がが続くのである。しかも、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、超自我や表層心理は、殴る行為を抑圧しようとする機能も思考も働かないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、自我が他者に認めてもらえば快楽が得られるので、自我をそのような状態にしようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。ラカンに「人は他者の欲望を欲望する。」という言葉がある。「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。端的に、承認欲を説明している。人間は誰しも自我に対する他者の視線を気にしているが、それは、深層心理にある欲動の承認欲によるものなのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて思考しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間が苦痛を覚えることの原因の多くは、自我が他者に認められないことなのである。受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという承認欲を満足させるためである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心とはこの国の国民という自我を失いたくないという保身欲とこの国を他国の人々に認めてほしいという承認欲から発しているのである。愛国心に承認欲があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心に承認欲があるからこそ、オリンピックやワールドカップでの自国選手や自国チームの結果が気になるのである。しかし、自国チームや自国選手が勝利すると喜び、敗北すると悲しむのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、保身欲と承認欲から発した自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、真実は、国民という自我を失いたくないという保身欲、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという承認欲から発している自我の欲望である。人間は、すなわち、深層心理は、愛国心という自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。愛国心という自我の欲望が満たされない時には、苦痛を覚えるのである。そして、苦痛から逃れるために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。つまり、苦痛を消滅させるために、戦争を起こすのである。しかし、愛国心という自我の欲望は、人間が自ら意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が思考して生み出しているから、人間世界には常に戦争が勃発する可能性があるのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した愛国心という自我の欲望に動かされて生きているから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、戦争が無くなることはないのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理は、これら志向性で捉えて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。志向性とは、観点、視点などの思考の方向性を表している。しかし、人間は表層心理で志向性を意識することはあるが、変えることはできない。志向性は深層心理に存在するからである。志向性は変わるのである。さて、他者という対象の支配欲であるが、それは、自我が他者たちを支配しよう、他者たちのリーダーとなりたいという欲望である。これが実現すれば、満足感、充実感という快楽が得られるからである。深層心理は、常に、自我の力を発揮して他者たちを支配したい、他者たちを支配して自我の力を発揮したいという欲望を秘めながら、他者のたちを観察しているのである。深層心理は、自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。教諭が校長になろうとするのは、深層心理に、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者たちを校長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、社長になって、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配したいという支配欲からである。自分の思い通りに会社を運営できれば快楽が得られるのである。だから、自分の言うこと聞かない教諭・会社員がいれば、支配欲が阻害されるので、パワハラで、校外や社外に追放するのである。さらに、また、わがままと言われる行動も支配欲からであり、わがままを通すことができれば快楽を得られるからである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。そこには、物を対象として利用しようという志向性があるのである。次に、現象という対象の支配欲であるが、それは、自我の志向性で事を現象を捉えることである。志向性とは思想である。他者、他人、時にも自分自身という人間を対象として捉えること、世界情勢を対象として捉えること、日本の政治の動向を対象として捉えることなどは、いずれも支配欲による。深層心理の中にある思想という志向性で、現象を捉えることができれば満足感、充実感が得られるのである。さらに、支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、この世に存在していないように思い込んでしまうことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込んでしまうのである。無の有化とは、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、この世に存在しているように創造することである。自我の存在の保証に神が必要だから、深層心理は、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめの加害者である子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめの被害者の子やその家族に求めるのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、趣向性によって、相手を決める。その相手と、理解し合う・愛し合う・協力し合うような状態を作り、快楽を得ようとする。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、相手と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手の心を支配し自分の心を支配される許し合うことによって快楽を得るのである。恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに快楽が生じるからである。恋人という自我とと恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという快楽が生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手が嫌になり別れを告げたり、相手から嫌われて別れを告げられることがある。なぜ、嫌になったのかはわからない。なぜ好きになったのかがわからないのと同様である。趣向性という感性は、深層心理の範疇に属するから、表層心理で思考してもわからないのである。推測するしかないのである。別れを告げられた者は、誰しも、突然、奈落の底に突き落とされる。恋人という自我の保有欲が阻害され、相手に恋人して認められていた承認欲が阻害され、相手の愛情を独占していたという支配欲が阻害され、愛し合っているという共感欲が阻害されるので、奈落の底に突き落とされ、深層心理は、すなわち、人間はどうして良いかわからず、苦悩するのである。誰しも、相手に未練が出てきて、よりを戻したくて、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないる。深層心理の中には、カップルいう構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、ストレスから逃れるために、ストーカーになることを行動の指令として生み出す者もいるる。もちろん、深層心理に内在するルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考は、これを抑圧しようとする。しかし、苦悩が強過ぎる場合、超自我や表層心理の思考では抑圧できず、、深層心理が生み出した行動の指令のままにストーカーになってしまうのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感欲を満たし、そこに、快楽を覚えるからである。さらに、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲を受けての行動である。仲の悪い二人でも、共通の敵が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会でクラスが一つになるというのも、「呉越同舟」の現象である。他クラスという共通の敵が現れたから、クラスが一つにまとまるのである。クラスがまとまるのは、他クラスを倒して皆で快楽を得たいからである。しかし、大会が終わると、承認欲、支配欲に基づく、人間闘争が始まるのである。戦前の軍人、政治家は、国民を「呉越同舟」状態にして、アメリカを日本共通の敵として、戦ったのである。それが、戦後になると、アメリカの代わりに、中国、北朝鮮、韓国、ロシアが成ったのである。このように、人間は、日常生活の全ての場面において、最初に、深層心理が動く。深層心理は、瞬間的に、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲に基づいて、快楽を求め、不快感から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理が思考して生み出した行動の指令がルーティーンの生活から逸脱する場合、深層心理の中に存在する超自我が、人間の無意識の中で、まず、抑圧しようとする。超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、時間を掛けて、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらせようという志向性の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかを決める。受け入れると決めた場合、意志によって行動の指令を実行し、拒否すると決めた場合、意志によって行動の指令を抑圧しようとする。しかし、感情が強い場合、超自我で抑圧しようとしても、表層心理での思考によって意志で抑圧しようとしても、抑圧できず、行動の指令のままに実行してしまうのである。感情が強すぎる場合、最初から、超自我は機能せず、表層心理で思考することなく、行動の指令のままに実行してしまうのである。人間は、このような圧倒的な深層心理の思考を前にして、表層心理で思考して、何ができるか、どこまでできるか、どのようにできるか。