あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

誰も自らの意志で生きていない。(人間の心理構造その8)

2023-01-22 16:24:56 | 思想
誰も自らの意志で生きていない。誰も自らの意志で動いていない。恋愛も自分の意志ではない。ストーカー行為も自らの意志ではない。オリンピックやワールドカップで自国チーム、自国選手を応援するのも自分の意志ではない。殺人も自らの意志ではない。戦争も自らの意志ではない。自殺すらも自らの意志ではない。人間は無意識によって生かされ、動かされているのである。無意識の肉体の活動が人間を生かし、無意識の精神の活動が人間を動かしているのである。無意識の肉体の活動を深層肉体と言い、無意識の精神の活動を深層心理と言う。すなわち、深層肉体の意志が人間を生かし、深層心理の意志が人間を動かしているのである。まず、深層肉体であるが、深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、深層心理独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされている。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。そのの典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。それは、深層肉体の意志によって動かされているからである。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。かつて、テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して、自分の意志によって息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まるはずである。確かに、深呼吸という自らの意志による意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、息を吸うという行為自体は自らの意志によって行われていない。常時の呼吸は無意識の行為、すなわち、深層肉体の意志による行為である。呼吸は、誕生とともに、深層肉体に備わっているあるから、人間は、無意識に呼吸して生きていけるのである。心臓もまた、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞のような異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体の意志として、既に動いているのである。深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする意志を捨てることは無い。だから、自殺は深層心理の意志によるものであり、どのような自殺行為にも苦痛が伴うのである。肉体の苦悩は、常に、深層肉体の意志に背いていることが起こっているからである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。次に、深層心理であるが、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは、消極的な存在ではない。深層心理は思考するのである。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。「言語によって構造化されている」と言うように、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。ラカンが言うように、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。人間は無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を得ようと論理的に思考して、感情と行動の指令と言う自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があり、男女関係という構造体には男性・女性という自我がある。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしているのである。そして、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある自我を主体に立て、欲動に基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令と言う自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動にかなった行動をすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考するのである。すなわち、欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるから、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。欲動の四つの欲望の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。深層心理は、自我を保身化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。欲動の第二の欲望が、自我を他者に認めてほしいという承認欲である。深層心理は、自我を対他化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。深層心理は、対象を対自化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我と他者を共感化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。しかし、欲動に、道徳観や社会規約を守ろうという欲望が存在しないのである。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求め、不快を避けようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。そこに、人間の悲劇があるのである。さて、まず、欲動の第一の欲望である保身欲であるが、この欲望が日常生活を毎日同じこと繰り返すというルーティンにしているのである。人間は、大きな異常事が起きない限り、ルーティンの生活を望むのである。言い換えれば、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味するのである。それが無意識の行動である。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。ほとんどの人の日常生活が無意識の行動によって成り立っているのは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。だから、ニーチェの「永劫回帰」という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、ルーティーンの生活が破られそうになることがある。たとえば、高校生が同級生から馬鹿にされ、自我が傷つけられたならば、深層心理は、怒りの感情とともに相手を殴れ、時には、殺せなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出す。同級生から馬鹿にされるということは、欲動の第二の欲望である承認欲が妨げられたことを意味するのである。深層心理は、こちらの自我を馬鹿にして上位に立った相手を殴ることによって、時には、殺すことによって、自らの自我を上位に立たせようとするのである。深層心理は、怒りの感情によって、人間を動かし、暴力や殺人という過激な行動を行わせ、承認欲を妨害した相手をおとしめ、傷付いた自我を回復させようとするのである。しかし、暴力をふるえば、学校という構造体から謹慎の処分を受け、高校生という自我が傷つけられるとともにルーティーンの生活が破られる。殺人を犯せば、学校という構造体から追放され高校生という自我を失うだけにとどまらず、犯罪者という自我が与えられることになる。だから、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、殴れ、殺せという過激な行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在し、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望である保身欲から発している機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能も存在するのである。超自我は、これまでの構造体の中でこれまでの自我を持して暮らしたいという欲動の第一の欲望である保身欲から発した作用から発し、毎日これまでと同じように暮らしたいというルーティーン通りの行動を自我に守らせようとするのである。もしも、超自我の機能が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、自らを意識しての思考をすることになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、馬鹿にした相手を殴っり殺したりしたたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考えるという現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した相手を殴れ、殺せなどという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ったり殺したりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、ほとんどの人の日常生活は、超自我や表層心理の抑圧に背くことなく、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲によって、深層心理は自我の欲望を生み出し、ルーティンが維持される。高校生・会社員は嫌々ながらも、生徒・会社員という自我を失いたくないから、高校・会社に行く。高校・会社という構造体から追放され、高校生・会社員という自我を失い、退学者・失業者が苦悩することを避けたいからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。もちろん、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではない。無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。次に、欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲であるが、深層心理は、自我を対他化することによって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考することである。それは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとして行っているのである。他者がそばにいたり他者に会ったりして他者の視線を感じると、深層心理は、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、怒りの感情とともに相手を傷つける行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとすることもあるが、傷心という感情と不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとすることがある。深層心理が不登校・不出勤という行動の指令を生み出したのは、これ以上傷つきたくないからである。しかし、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとする。それは、登校・出勤した方が、生徒や会社員という自我を存続でき、現実的な利得を得られるからである。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。その後、人間は、表層心理で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚・上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の原因であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するためにあるのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという承認欲を満足させるためである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で。他者・物・現象を捉えることである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとし、物という対象を自我の志向性で利用しようとし、現象という対象を自我の志向性で捉えているということである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。有の無化は、「人は自己の欲望を心象化する」という一文で言い表すことができる。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。自己正当化は、自我に安定感を得ようとするために行われるのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者を共感化させることによって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理がストーカーになることを指示したのは屈辱感を払うという理由である。それを、深層心理のルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考で抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされてしまうのである。次に、表層肉体であるが、表層肉体とは、表層心理によって動く肉体を意味する。すなわち、表層肉体とは、人間の意識しての肉体の活動、人間の意志による肉体の活動である。表層肉体は、深呼吸する、挙手をする、速く走る、体操するなど、人間の表層心理による意識しての意志による肉体の活動である。スポーツという日常生活には存在しないことができるのは、自ら意識して、自らの意志によって表層肉体の同じ活動を繰り返したからである。表層肉体の同じ活動の繰り返しが深層肉体としてに定着し、無意識のうちに体が動き、スポーツができるようになるのである。しかし、表層肉体の活動は、肉体の活動の一部しか過ぎないのである。肉体の活動のほとんどを深層肉体に負っているのである。確かに、人間の人間たる所以の一つは、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、行動することにある。それが、表層肉体の行為である。しかし、表層肉体の行為と言えども、表層心理の意識や意志が関わるのは、動作の初発のほんの一部にしか過ぎないのである。例えば、歩くという表層肉体の動作がある。確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間は、深層肉体によって生かされ、深層心理によって動かされているのである。




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