あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

怒りの感情について(人間の心理構造その4)

2023-01-10 16:20:19 | 思想
人間の感情には感動、感激、喜びなどの快いもの、怒り、嫉妬心、悲しみなどの不快なものがある。しかし、人間は自らの意志でそれらを生み出すことも止めることもできない。なぜならば、深層心理が感情を生み出しているからである。深層心理とは人間の無意識の精神活動であるから、人間は自らの意志で感情を生み出すことも止めることもできないのである。人間の意志は表層心理の範疇にあるのである。表層真理とは人間の自らを意識しての精神活動である。さて、人間は、快い感情の時はそれを味わうが、不快な感情の時には、深層心理がそこから脱出する方法を考え出して、それを行動の指令として人間に与える。人間は、表層心理で自らを意識してそこから脱出する方法を思考する前に、無意識のうちに、深層心理がそこから脱出する方法を思考しているのである。人間は、常に、表層心理で思考する前に、深層心理が思考しているのである。表層心理での思考は、常に、深層心理の思考の結果を受けて始まるのである。深層心理が不快な感情から脱出するために醜い手段を考え出すから、醜い感情となるのである。全ての犯罪は、深層心理が不快な感情から脱出するしようと思考して生み出した行動の指令によって引き起こされるのである。全ての犯罪は、深層心理が不快な感情から脱出するしようと思考して生み出した行動の指令を、人間が表層心理の意志によって抑圧できなかった時に起こるのである。しかし、深層心理は、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、自我を主体にして、欲動に基づいて、自我に快い感情をもたらし不快な感情から抜け出そうとして、論理的に思考しているのである。自我とは、人間が、構造体に所属し、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きていく、自らのあり方である。他者とは、同じ構造体内の人々である。他人とは、別の構造体の人々である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係は、具体的には、次のようになる。夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には運転手・車掌・客などの自我があり、日本という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある。人間は、いついかなる時でも、ある構造体の中にいて、ある自我を持して生きているのである。欲動とは深層心理に内在している四つの欲望である。欲動が深層心理を動かしているのである。すなわち、欲動が深層心理を動かし、深層心理が自我を使って人間を動かしているのである。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、第二の欲望として自我が他者に認められたいという承認欲、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、第四の欲望として自我が他者と心の交流を図りたいという共感欲がある。深層心理は、自我が欲動の四つの欲望のいずれかに叶う状態であれば、快い感情を得ることができるのである。それが、感動、感激、喜びなどの感情である。そして、人間はそれに浸るのである。逆に、深層心理は、自我が欲動の四つの欲望のいずれかを阻止されれば、不快な感情に覆われるのである。それが、怒り、嫉妬心、悲しみなどの感情である。そして、深層心理は、そこから脱出する方法を考え出し、行動の指令としてそれを人間に与えるのである。さらに、深層心理は、常に、自我が現在どのような状態にあるかを認識しているだけでなく、自我を欲動の四つの欲望のいずれかに叶った状態にして快い感情を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間を動かそうとしているのである。さて、人間の感情を最も大きく左右しているのが、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、それが満たされれば、欲動によって快い感情を得ることができるが、それが傷つけられると、欲動によって不快な感情が与えられ、そこから脱出する方法を考え出し、行動の指令として人間に与えるのである。それが、犯罪につながることがあるのである。さて、人間の日々の生活において、深層心理は、常に、自我の対他化の作用によって、承認欲を満たそうとしている。自我の対他化とは、自我が他者に認めてもらいたいと欲望しつつ、自我がが他者にどのようにみられているか探ることである。深層心理は、常に、自我が他者からどのように見られているか意識して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かしているのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の自我の対他化の現象を表している。すなわち、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められないと、欲動によって、深層心理は、すなわち、人間は不快な感情に陥るのである。人間が、朝起きると、学校・職場に行くことを考えて不快になるのも、学校・職場という構造体で、同級生、教師・上司、同僚などの他者から評価されていないからである。それでも、学校・職場に行くのは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発する超自我の作用が深層心理に存在するからである。深層心理に超自我の作用があるのは、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。また、ほとんどの人の日常生活が無意識の行動によって成り立っているのも、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で思考することが起こっていないからである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。それは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、不快な気持ちを取り除こうとして、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出しがちである。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、超自我によって、過激な自我の欲望を抑圧しようとするのである。言い換えれば、超自我とは、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用である。しかし、日常生活において、あまりに異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。その時、人間は、表層心理で、自らを意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考して、意志によって、それを抑圧しようとするのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。過激な感情は、時には、他者に向かうことがある。それが、暴力、稀には、殺人という犯罪を引き起こすこともある。それは、他者から、侮辱などによって、自我が傷つけられ、自我が下位に落とされたから、その自我を復活させようとして、他者を攻撃することによって、他者を下位に落とし、自我が上位に立とうという目的で起こした、深層心理は生み出した自我の欲望によるものである。つまり、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。だからこそ、人間は、表層心理で思考しなければならないのである。深層心理が思考して生み出した圧倒的な自我の欲望の力の中で、表層心理で、思考し続けなければならないのである。表層心理に存在する、現実的な自我の利得を求める欲望は、道徳観や社会的規約を考慮し、後に、自我に利益をもたらし不利益を避けるという、長期的な展望に立つ欲望である。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。この行動が、自己判断による行動である。しかし、ほとんどの人間は、過激な感情の中では、自己判断では無く、自我判断によって行動してしまうのである。さて、人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理が怒りの感情を生み出し、自我である人間を、深層心理の行動の指令通りに最も強く動かそうとするのである。人間は、激しい怒りの感情を抱くと、超自我や表層心理で抑圧しようとしてもできずに、他者を侮辱しろ、他者を殴れ、他者を殺せなどの深層心理の指令通りに、過激な行動を起こしてしまい、犯罪を生むことがあるのである。さて、それでは、なぜ、深層心理が怒りの感情を生み出したのか。それは、自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどして、人間として下位に落とされたからである。自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどすることは、自我が他者によって下位に落とされたことを意味するのである。深層心理は、欲動の承認欲によって、常に、自我を他者に認めてもらうことによって、快い感情を得ようとしているから、自我が他者によって下位に落とされたので、怒りの感情を生み出したのである。つまり、プライドが傷付けられたから、怒ったのである。深層心理は、常に、自我が他者に認められたいという欲望を持っているから、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、傷付き、その傷心から立ち上がろうとして、プライドを傷つけた他者に対して、怒りの感情と侮辱しろ、殴れ、殺せなどの過激な行動の指令を自我の欲望として生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、深層心理は、他者によって自我が下位に落とされたから、その他者に対して、怒りの感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、過激な行動の指令通りに自我を動かし、その他者を下位に落として、自我を上位に立たせようとするのである。