あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きるしかないのか。(自我から自己へ10)

2022-02-09 13:31:45 | 思想
人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きている。深層心理とは人間の無意識の精神の活動である。すなわち、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して、自らの感情をコントロールしながら、自らの意志で行動していると思っている。すなわち、主体的に思考して行動していると思っている。そこに、大きな誤りがある。人間の自らを意識しての精神の活動を表層心理と言う。つまり、ほとんどの人は、表層心理で、自ら意識して思考して、自らの感情をコントロールしながら、自らの意志で行動していると思っている。それが大きな誤りなのである。なぜならば、深層心理が、常に、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているからである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。人間は、孤独であっても、常に、構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりながら、行動している。しかし、表層心理で、自我を意識して思考して、主体的に行動しているのではなく、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。人間の行動は、全て、深層心理が生み出した自我の欲望の現象(現れ)なのである。もちろん、人間は、表層心理で思考する時がある。しかし、人間は、表層心理での思考では、感情を生み出すことができないのである。だから、人間は、表層心理での思考で、行動の指針を生み出しても、感情を生み出すことができないから、深層心理が納得しない限り、表層心理で思考して生み出した行動の指針通りに行動できないのである。つまり、表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で、自らを意識して、思考する時は、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについての審議なのである。人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに、行動することが多いのである。すなわち、人間は、無意識に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。日常生活が、ルーティーンという同じようなことを繰り返す行動になるのは、無意識の行動だから可能なのである。深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識すること無く、行動しているから、毎日、同じような行動ができるのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考して人間を動かしていると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に捕らわれて生きているのである。自我の欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。さて、欲望とは、ほしがることである。それでは、自我は何を欲しがっているか。言うまでも無く、快楽である。つまり、自我の欲望とは、自我が快楽を求めているということなのである。しかし、自我が快楽を求めて主体的に思考して行動しているのではない。深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。深層心理は、欲動に求めた行動を自我にさせれば快楽が得られるので、思考して、欲動に迎合した行動を生み出すのである。欲動とは、深層心理に内在している欲望の集団である。欲動が、深層心理を内部から突き動かし、それによって、深層心理は快楽を求めて思考するのである。つまり、深層心理が、常に、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、自我である人間を動かしているのである。欲動は四つの欲望によって成り立っている。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理の自我の保身化という作用となって現れる。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理の自我の対他化という作用となって現れる。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望である。深層心理の対象の対自化の作用となって現れる。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理の自我の他者への共感化という作用となって現れる。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望であるが、ほとんどの人の日常生活は、この欲望にかなっているから、同じことを繰り返すルーティーンになっているのである。ルーティーンの生活になっているということは、深層心理が自我の保身化という作用によって生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味するのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社という構造体に行くのは、生徒・会社員という自我を失うのが恐いからである。夫婦が互いに嫌いながら離婚しないのは、家族という構造体が消滅し、夫・父、妻・母という自我を失うのが恐いからである。官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合した、立身出世という自我を発展させるためである。しかし、日常生活において、異常なことが起こることもある。それは、長年勤めた会社をいきなり馘首される。家庭で、子が親に成績のことで叱られる。学校で、同級生たちから嫌われ無視される。学校の職員会議で、教諭たちの意見を聞かず、校長が独断で何事も決める。会社で、社員が業績が上げられず上司に叱られる。恋人から別れを切り出される。妻から離婚してほしいと言われる。そのような時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を傷付けよという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促し、復讐の行動によって傷付いた心を回復させようとする。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を傷付けよという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果、すなわち、理性による思考の結果が意志である。現実的な利得を求めての思考とは、自我が不利益を被らないように、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を傷付けたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を傷付けよという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を傷付けよという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を傷付けしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それが、時には、精神疾患を招き、時には、自殺を招くのである。次に、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望であるが、それは、深層心理の自我の対他化という作用となって現れる。深層心理は、自我に他者に認められるような行動をことによって、自我に喜び・満足感という快楽をもたらそうとすることである。すなわち、深層心理が喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。人間は、すなわち、深層心理は、常に、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探っているのである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探っているのである。言うまでもなく、自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるからである。人間は、自我を持つやいなや、深層心理に、他の欲望と同じく、この欲望が生じるのである。中学生や高校生が勉強するのは、テストで良い成績を取り、教師や同級生や親から褒められたいからである。自我の対他化は、ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言う。それは、「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。また、人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の作用から起こっている。すなわち、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしているが、同級生・教師や同僚や上司という他者から悪評価・低評価を受けたからである。そのような時、深層心理が傷心し、怒りの感情と悪評価・低評価をた相手を傷付けよという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手に復讐することよって傷付いた心を回復させようとする。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。表層心理で、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考するのである。そうして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を傷付けよという行動の指令を抑圧するのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。次に、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲動の第三の欲望であるが、それは、深層心理の対象の対自化の作用となって現れる。深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。つまり、対象の対自化とは、「人は自己の欲望を対象に投影する」ことなのである。それは、「人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。」という意味である。他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。物の対自化とは、自分の目的のために、対象を物として利用することである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。さらに、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望が高じると、深層心理には、無の有化、有の無化という機能が生じる。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や自我の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むということである。深層心理は、すなわち、人間は、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。有の無化とは、深層心理は、この世に自我に不都合な他者・物・現象という対象が存在していると、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むということである。犯罪者の深層心理は、自らの罪に悩まされるから、いつの間にか、無意識のうちに、自分は犯罪を行っていないと思い込んでしまうのである。また、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望を徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者であるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。また、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の視線だ。対他化とは、見られるということであり、敗者の視線だ。見られる視線は、見る視線に変えなければならない。」と言い、死ぬまで、政治権力者や大衆と戦った。しかし、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、それを貫こうとすると、往々にして、孤立するからである。次に、自我と他者の心の交流を図りたいという欲動の第四の欲望であるが、それは、深層心理の自我の他者への共感化という作用となって現れる。深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとするのである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。しかし、年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。さて、人間は、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を得ようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、自我である人間を動かそうとしているが、深層心理の思考の後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考して、行動する場合がある。前者の場合が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。後者の場合、人間は、深層心理が生み出した感情の中で、表層心理で、現実的な利得を求める欲望によって、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとして、深層心理が出した行動の指令について審議する。表層心理で思考して、深層心理が生み出した行動の指令を許諾する結論に達すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。表層心理で思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論に達すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理での思考は、長時間を要する。人間が、表層心理で思考するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、安定したルーティンの生活が破られた時である。その時、深層心理は、傷心・怒りなどの感情とを相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとする。しかし、人間は、表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧しようとする。しかし、人間は、表層心理による意志で、深層心理による行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。所謂、感情的な行動であり、犯罪に繋がることが多いのである。深層心理が生み出した怒りなどの感情が強い場合、人間は、表層心理による意志で、深層心理による行動の指令を抑圧できないのである。また、人間は、表層心理による意志で、深層心理による行動の指令を抑圧できたとしても、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、深層心理が納得するような、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。自殺する人も存在する。このように、人間は、本質的に、深層心理が欲動によって快楽を求めて思考して生み出した自我の欲望に動かされているのである。しかし、ほとんどの人は、主体的に、自ら意識して思考して、自らの感情をコントロールしながら、自らの意志で行動していると思っているから、自我の欲望に対して一歩も踏み込めないのである。