あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人生に、意味は無く、自我の欲望だけが蠢いている。(自我から自己へ11)

2022-02-27 11:38:24 | 思想
中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴は、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いている部分がある。まさしく、人間は、押し付けられた命を自らのものとして生きていくしか無いのである。人間は、誰しも、意志をもって生まれていないからである。気が付いたら、そこに存在しているのである。つまり、生まれる必然性が無く、偶然に誕生したのである。だから、ひたすら快楽を求めて思考して生きるという押し付けられた生き方から逃れることはできないのである。つまり、人間が誰しもひたすら快楽を求めて思考して生きようとするのは、そのような意志が先天的に人間に備わっているからである。もちろん、しかし、その意志は、自らが生み出したものではない。誕生以来、人間は誰しも持たされているのである。ニーチェが言うように、「意志は意志できない」のである。だから、人間は、誰しも、自ら意識して思考しなくても、無意識のうちに、ひたすら快楽を求めて思考して生きているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、人間は自らは気付いていないが、深層心理が思考して人間を動かしているのである。さて、ほとんどの人の日常生活が毎日同じことを繰り返すというルーティーンになっているのは、無意識の行動だからである。ニーチェに、「森羅万象は永遠に同じこと繰り返す」という「永劫回帰」の思想があるが、それは人間の日常生活にも当てはまるのである。もちろん、無意識の行動と言っても、人間は思考せずに行動しているわけでは無い。人間は、自ら意識していないが、深層心理が思考しているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味するのである。すなわち、深層心理が、思考して、人間を動かしているのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。人間は、深層心理の思考活動をに気付いていないが、無意識のうちに、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に従って行動しているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、生きているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子や娘が母、父だと思っている人は、家族という構造体では母、父という自我を所有しているが、他の構造体では、日本国民、妻、夫、教諭、人事課長客、乗客、妻などの自我を所有して行動しているのである。しかし、息子や娘は母、父という一つの自我しか知ることができないのである。人間は、その構造体における他者の自我しか理解できないのである。他者の一つの自我しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。しかし、人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、その時、所属している構造体に応じて、自我を答えるしかないが、他の構造体では、異なった自我を所有しているのである。人間は、誰しも、異なった構造体に所属し異なった自我を所有し、各構造体は独立していているから、その人の一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属して、ある一つの自我として生きていて、他の構造体では、他の自我を有しているから、自分というあり方は固定していないのである。しかし、ほとんどの人は、自らは自分として固定して存在しているように思っているのである。しかし、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、人間は、欲動に応じた行動を行えば、快楽が得られるのである。そこで、深層心理は、欲動に従って思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。すなわち、欲動が深層心理を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たしそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。しかし、欲動の四つの欲望のいずれかでも阻害する他者が現れ、自我が傷つけられたならば、深層心理は、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、欲動の欲望を阻害した他者に復讐するように、人間を動かそうとする。復讐することによって、傷付いた自我を癒やそうとするのである。さて、人間は、誰しも、平穏な生活を望んでいるが、日常生活が毎日同じことを繰り返すというルーティーンになるのは、構造体にも自我にも異常が無く、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で思考することが起こっていないことを意味するのである。表層心理とは人間の意識しての精神活動を意味する。人間は、自らを意識して思考すること、すなわち、表層心理で思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンの生活が壊れそうになることがある。それは、他者から侮辱されたりなどして、自我が他者に認められたいという欲動の第二欲望が阻害され時である。そのような時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、侮辱した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、人間は、自らの状態を意識して、怒りの感情の下で、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、相手の行動や周囲の者たちの評価を気にして、侮辱した相手を殴れという行動の指令について、許諾るか拒否するか、思考するのである。つまり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、自らを意識して(自らの状態を意識して)、深層心理が生み出した過激な感情の下で、深層心理が生み出した過激な行動の指令について、将来の現実的な利得を考慮して、許諾するか拒否するか、思考するのである。人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮して思考するのも、他者の評価が気になるからである。つまり、人間は、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。この場合、多くの人は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるだろう。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我の抑圧も、表層心理での思考の結論を遂行しようとする意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。また、人間は、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激であった場合、自らの存在を意識する(自らの状態を意識する)が、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時にも、自らの存在を意識するのである。つまり、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理理での思考である。それでは、なぜ、人間は、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激であった時、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自らの行動や思考を意識するのか。それは、自らの存在に危うさを感じ、他者の存在に脅威を感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実的な利得を求めて、思考するのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が必ず始まるのである。さて、人間は、自らを意識する時は、自らの状態を意識する(自らの行動や思考を意識する)だけでなく、自らの情態も意識するのである。情態とは、心境や感情などの心の状態である。情態が、自分の外の状況を知らしめ、自分の体内の状態を知らしめるとともに、自らの存在を認識させるのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり」(私は全ての存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは自分が存在しているからである。だから、自分は確かに存在しているのである。)という論理で、自分の存在を確証したが、そのような回りくどい論理を使用せずとも、人間は自らの情態で自分がこの世に存在していることを感じ取っているのである。さて、人間は、一般に、何らかの心境という情態の下にある。深層心理は、一般に、心境の下にある。深層心理が、人間の無意識のうちに、ある心境の下で、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。心境は、爽快、陰鬱など、長期に持続する情態である。心境は、気分とも表現される。感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。深層心理は、感情を生み出す時は、行動の指令を伴って、自我の欲望として生み出し、人間を動かしている。感情が、自我に、すなわち、人間に、行動の指令を実行させる動力になるのである。感情が湧き上がれば、その時は、心境が消える。心境と感情は並び立たないのである。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、積極的に、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しみという感情とともに生み出した行動の指令は、積極的に、現状を向上させようとするものになる。さて、人間は、自らの意志で、すなわち、表層心理で、心境や感情などの情態をも変えることができない。それは、深層心理は、常に、心境という情態に覆われ、深層心理が感情という情態を生み出しているからである。情態は深層心理の範疇にあるから、人間は、表層心理で、情態を変えることができないのである。しかし、心境が変わる時がある。まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境は消滅する。そして、その後、心境は回復するが、その時、心境は、変化している。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。しかし、そのようなことをすることによってしか、心境を変えることができないのである。だから、自分なりに、心境を変える方法を見つけ出さなければならないのである。さて、「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。」とオーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは言う。苦しんでいる人間は、苦しみの心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみの心境から逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。それでは、なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛という心境が消滅すれば、思考も停止するのである。それほど心境という情態が、感情という情態と共に、人間の存在を決定づけているのである。人間は、情態によって、自分の存在を自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある情態にある自分として意識するのである。人間は情態を意識しようと思って意識するのでは無く、ある心境が深層心理を覆っているから、ある感情に動かされているるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある情態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、情態の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する情態が存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。



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