あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は自我として生きるしかないのか。(自我から自己へ9)

2022-02-08 14:14:17 | 思想
人間には、自我しか存在しない。人間には、確固とした自分は存在しない。人間には、特定の自分は存在しない。すなわち、人間には、自分は存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎない。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。人間は、自我として生きているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、生きている。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子が母だと思っている人は、彼女は家族という構造体では母という自我を所有しているが、他の構造体では、妻、教諭、客、乗客、妻などの自我を所有して行動しているのである。息子は彼女の全体像がわからないのである。人間は自らのみならず他者の全体像がわからないのである。人間は、その構造体における自らの自我と他者の自我しか理解できないのである。特に、他者に対しては、他者の一部しか知ることができないのに、そこから全体像だと推し量り、それを全体像だと思い込んでいるのである。人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、所属している構造体ごとに、自我の答え方が異なるからである。なぜならば、人間は、構造体によって、異なった自我を所有しているからである。人間は、誰しも、異なった構造体に所属し異なった自我を所有し、各構造体は独立していているから、一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。数年前、ストーカー殺人事件の犯人として、男性が逮捕された。逮捕されたと言っても、逃げていたわけではない。犯行現場に、呆然と立ち尽くしていたところを、連行されたのである。彼らは三年間交際し、彼が結婚を申し込もうと思っていた矢先、彼女から、「好きな人ができたから、別れてほしい。」と言われた。彼は、怒ったり、哀願したりしたが、彼女の気持ちは変わらなかった。それでも諦められない彼は、彼女が勤務している会社の前で待ち伏せしたり、彼女のアパートの部屋を監視したりした。彼女は、身の危険を感じ、警察に相談した。警察は、彼を呼び、注意した、彼が謝罪し、納得したようなので、警察はそれ以上踏み込もうとしなかった。その三日後、会社帰りの彼女が、近所のスーパーで買い物し、アパートに入ろうとしているところを、彼が、包丁で、背後から襲い、刺殺した。マスコミは、この事件を追った。特に、この手の事件を扱うことを特徴としているバラエティー番組が、執拗に、この事件を追い、連日、放送した。レポーターは、遠慮会釈無く、いろいろな人にインタビューした。まず、彼の実家を訪ねた。父親がインタビューに応じた。父親は、「家では、穏やかで、こんなことをするとは信じられない。」と答えた。これが真実で無かろうと、父親は自らの自我を守るために、そして、息子の自我を少しでも自我を守るために、このように答えざるを得なかったのである。レポーターは、「このような精神の異常者に育てたことに責任を感じませんか。」と、親の責任を問うた。「申し訳ありません。」と、記者に対してにとも、世間に対してにとも、被害者に対してにとも、被害者家族に対してにとも明らかにせずに、深々と頭を下げた。しかし、ストーカー殺人の責任は、一に、息子の責任であり、父親には、全く、責任は無い。息子は、恋人の彼女から別れを告げられ、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことに耐えられなかったので、殺人にまで至ったのである。彼の深層心理が彼に殺害を命じ、彼はそれに抗することができなかったのである。また、彼は、精神の異常者ではない。彼に限らず、誰しも、失恋すると、ストーカー的な心情に陥るのである。一般に、女性の方が、相手の男性を嫌悪し、軽蔑することによって、上位に立ち、失恋の苦悩から立ち直るのが速いのである。男性の方も、相手の女性を嫌悪し、軽蔑することによって、上位に立ち、失恋の苦悩から立ち直ろうとするが、その気分転換が女性より下手で、時間が掛かる。中には、彼のように、全く気分転換が図れず、全く立ち直れない人がいるのである。その中に、凶行に及ぶ者が存在するのである。さらに、レポーターは、「被害者の親御さんに対して、何か、言葉はありませんか。」と尋ねた。父親は、「息子が大切な娘さんの命を奪ってしまって、本当に、すみません。」と、涙声で、深々と頭を下げた。これでは、まるで、拷問である。確かに、凶悪な犯罪である。しかし、父親に何の落ち度があると言うのだろうか。しかも、レポーターは、このような追及の仕方をすると、視聴率が上がり、レポーターという自我の欲望も満足できるので、何の反省もなく、行うのである。大衆は、犯人一人を責めるだけでは、怒りが収まらないので、彼の近親者を探し求め、責任を追及するのである。レポーターを含めてバラエティー制作関係者は、それを利用し、視聴率を上げ、自我を満足させるのである。さらに、レポーターは、近所に行き、彼の人間性について、尋ね回る。しかし、近所の人は、異口同音に、「きちんと挨拶し、物腰が柔らかで、このような事件を起こすとは考えられません。」と答える。彼の、近所という構造体での近所の人という自我、近隣関係は、すこぶる評判が良いのである。さらに、レポーターは、彼が勤務している会社へ行き、上司や同僚に、彼の人間性について、尋ねる。彼らも、異口同音に、「勤務態度はまじめで、仕事ができ、こんな事件を起こすとは、想像できない。」と答える。彼の、会社という構造体での社員という自我も、評価が高いのである。さらに、レポーターは、彼の高校時代の同級生にインタビューし、「あいつは、かっとすると、何をするかわからないところがあった。」という言葉を引き出し、ようやく、満足できるのである。「やはり、犯人には、裏の顔がありました。犯人は異常な精神の持ち主です。これが、真実の顔です。」と言い、自分のインタビューの成果を誇るのである。レポーターを含めてバラエティー制作関係者は、最初から、「罪を犯す人には、必ず、常任とは異なる、異常心理がある。どんなに穏やかな顔をしていても、それに、騙されてはいけない。」という結論を持っているのである。さらに、被害者の両親にインタビューを試みたようだが、それは断られたようである。それは当然である。彼らは、突然、娘がこの世から消え、家族という構造体が傷付けられた痛みから立ち直っていないからである。何を語れば良いのか。語るとは、訴えることである。訴えることは、ただ一つ、娘を返してほしいということである。しかし、そう訴えたところで、何になろう。誰が叶えてくれるというのか。より虚しさが増すだけである。レポーターは、その代わり、被害者の叔父から、「犯人を死刑にしてほしい。」という言葉を引き出し、最後に、大衆とともに歩む番組の姿勢を示し、視聴者にアピールでき、満足げであった。しかし、レポーターが言うように、犯人は精神の異常者なのだろうか。異常な心理があるから、犯罪を犯すのだろうか。そうではなく、深層心理が生み出した自我の欲望が強いから、犯罪だとわかっていても、それを行ってしまうのではないか。深層心理、自我、自我の欲望を徹底的に分析しない限り、犯罪の真相に迫れないのである。また、レポーターは、かっとすると何をするかわからないところが彼の真実の顔だとし、彼の嘘の顔が多くのの高評価・好評価を生み出していると言っている。つまり、高校時代の同級生を除いて、皆、騙されているというわけである。しかし、人間は、皆、いろいろな構造体に属し、いろいろなポジションを自我として持って暮らしている。この自我の他者からの評価が顔である。自我の他者からの評価が高ければ、良い顔になり、自我の他者からの評価が低ければ、悪い顔になる。だから、顔は、良い顔にもり、悪い顔にもなり、一つに定まらないのである。構造体によって評価が異なるからである。彼は、家族という構造体では、息子という自我は他者からの評価が高く、近所という構造体では、近所に住んでいる人という自我は他者からの評価が高く、会社という構造体では、社員という自我は他者からの評価が高かったが、たった一つ、高校という構造体では、同級生という自我が他者からの評価が低かったのである。人間とは、こういうものである。自我の他者からの評価、つまり、顔は一つに定まらないのである。犯罪者だからと言って、全ての構造体での、自我の他者からの評価が低いわけではないのである。人間は、幾つもの自我、幾つもの顔を持っているからである。人間の自我は、その人が所属している構造体の数だけ存在し、その数だけ、顔があるのである。ほとんどの人は、この世に、自分として存在していると思っているが、人間には、自らが決める自分という独自のあり方は存在しない。人間は、構造体の中で他者から与えられた自我を自分だと思い込んで存在しているのである。人間は他者から与えられた自我を主体に立てて、それを自分だと思い込んで生きているのである。しかし、人間は、生きるためには、他者から与えられたとは言え、自我が必要なのである.。なぜならば、人間とは社会的な存在者であり、社会生活を営むために構造体とは自我が不可欠だからである。人間は、他者との関係性との中で何者かになり、人間として存在することができるのである。他者との関係性を絶って、一人で生きることはできないのである。また、人間は、自我に執着して生きているが、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではなく、深層心理が、人間を自我に執着させているのである。深層心理とは、人間の無無識の精神活動である。だから、人間は、自ら意識せず、自ら意志しなくても、深層心理によって、自我に執着して生きているのである。だから、人間は自己としても存在できないのである。自己とは、人間が表層心理で思考して行動するあり方である。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。つまり、自己とは、人間が、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。だから、人間が、表層心理で思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していると言えないのである。人間は、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。人間は、無識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされているから、自我の欲望から逃れることはできないのである。自我の欲望は、人間の行動の源であるが、それは、深層心理が生み出しているのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。だから、深層心理は常に自我を意識して思考しているのである。しかし、深層心理の動きだから、ほとんどの人はこのことに気付いていない。それでも、人間は、時には、表層心理で、自我を意識する時がある。人間は、他者や他人の視線を感じた時や他者や他人の視線を受ける可能性がある時には、必ず、自我を意識する。なぜ、人間は、他者や他人の存在を感じた時、自らの存在を意識し、現在の自我の行動や思考を意識するのか。それは、他者や他人が、自我にとって、脅威の存在だからである。また、人間には、無我夢中という、自我を意識せずに、対象に専心して、思考していたり行動していたりする状態の時がある。その状態の時でも、、突然、自我を意識する時がある。すなわち、自我の行動や思考を意識する時がある。なぜ、人間には、無我夢中で思考している時や行動していている時でも、突然、自我を意識することもあるがあるのか。それは、自らが気付かないうちに、他者や他人に襲われる可能性があるからである。他者や他人は、自らにとって、脅威の存在なのである。このように、人間は、他者や他人の存在によってしか、自らを意識することができないのである。すなわち、他者や他人の介在が無くては、人間は、表層心理で、自我が意識することは無いのである。つまり、人間は、表層心理で、自我が主体に成って考えることができず、行動できないのである。だから、人間は、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。それでありながら、人間は、主体的なあり方をしていて、主体性を有していると思い込み、自らに過度に期待するから、何かに失敗すると、自らを責め、後悔し、絶望するのである。そもそも、人間は、構造体に所属し、自我を有して、初めて、人間としての思考が生まれ、人間として行動できるようになるのであるから、自我に縛られ、主体的なあり方ができないのである。それでも、ほとんどの人は、自らは、主体的に考え、行動していると思い込んでいる。しかし、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである。それでは、人間は、表層心理で、自我をどのように意識するのか。それは、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分に意識する心境や感情が存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分、他者、物、現象などがそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分の存在、他者、物、現象などの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分、他者、物、現象などの存在が証明できるから、自分、他者、物、現象などが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらのもの存在を前提にして、思考し、活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分、他者、物、現象などの存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。確信があるから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分、他者、物、現象などの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。もちろん、この自分とは、真実は、自我である。