あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自我の欲望を、いつも、美しく着飾らせて生きている。(自我その359)

2020-05-29 10:50:10 | 思想
人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在する。深層心理の思考とは、人間の無意識の思考である。表層心理での思考とは、人間の意識しながらの思考である。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていない。無意識の行動というような、例外的な行動にしか、深層心理を認めていない。それは、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか存在しないと思っていからである。だから、ほとんどの人は、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らすことができると思っている。そこに、大きな誤解があるのである。人間は、常に、深層心理が思考して、行動しているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に捕らわれて生きているのである。自我の欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。人間は、日常生活において、異常なことが起こらなければ、自ら、意識しながら思考すること、すなわち、表層心理で思考することはは無いのである。しかし、人間は、毎日、特に異常なことが起こらないので、何も考えずに、習慣的な行動を繰り返して生きているように見えても、常に、深層心理が思考して、行動しているのである。人間は、起きている時はもちろん、寝ている時も、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。手を洗うこと、歯を磨くこと、読書すること、音楽を聴くこと、ぼんやり物思いにふけりながら座っていること、友人と会話すること、家族と談笑すること、学校に行くこと、会社に行くこと、コンビニに行くこと、好きな人とデートしている場面を空想すること、好きな人とセックスしている場面を妄想すること、嫌な上司を殴っているのを夢で見ることなど、人間の生活は行動の連続である。もちろん、空想、妄想、夢は、実際には体を動かしていず、イメージでしかない。しかし、イメージにしろ、行動が形作られ、それによって、快楽や満足感が得られたり、気持ちを収めることができるので、行動である。実際に体を動かしてする行動と同等である。なぜならば、実際に体を動かしてする行動も、快楽や満足感が得ること、気持ちを収めることに目的があるからである。それでは、なぜ、行動をイメージするだけで満足し、実際に体を動かして行動しないのか。それは、実際に行動するが不可能であったり、実際に行動することで、対象の他者や周囲の他者から顰蹙を買い、自我に不利益が生じるからである。深層心理は、その点を考慮して、行動の指令を出さず。イメージだけにとどめているのである。もちろん、イメージだけの行動で満足する行動は、全ての行動ではない。それは、イメージを形作るだけで、十分に、快楽や満足感が得、気持ちを収めることができるものだけである。それだけで、快感原則を満たすことができるからである。さて、人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動するのであるが、まず、自我とは、何であろうか。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我の人が存在し、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我の人が存在し、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我の人が存在し、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我の人が存在し、仲間という構造体では、友人という自我の人が存在し、カップルという構造体では恋人という自我の人が存在するのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、構造体が存在し、他者が存在し、自我が存在するのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしているのである。人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現象(現れ)なのである。さて、それでは、自我を主体に立てるとはどういうことか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。しかし、人間は、表層心理で、自我が主体的に自らの行動を思考するということはできない。それには、二つの理由がある。一つは、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して。思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてのことだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。次に、快感原則とは、何か。快感原則とは、スイスが活躍した心理学者のフロイトの定義であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理の心理を動かすものであり、四つの欲望から成り立っている。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。さて、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動する場合がある。前者の場合が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる、決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。次に。後者の場合、すなわち、表層心理で行動の指令について審議した後で行動する場合であるが、この時の表層心理での審議は広義の理性の思考と言われている。広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。また、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多いのである。さて、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望、すなわち、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望に動かされて生きているのであるが、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、人間は、美しく着飾らせるのである。それは、自己正当化であるが、人間は、自己を正当化をしなければ、すなわち、自己を肯定できなければ生きていけない動物だからである。人間は、自我に捕らわれて、一生を送る。すなわち、自我のために生き、そして、死ぬのである。次に、愛について述べようと思う。愛は、美しく着飾せられた自我の欲望の現象(現れ)である。人間には、愛という感情、そして、それに対する感情として、憎しみがある。しかし、他の感情と同じく、愛も憎しみも、人間は、自らの意志や意識で生み出すことができない。つまり、表層心理で、生み出すことができない。愛も憎しみも、人間の無意識のうちに、心に生まれてくる。つまり、深層心理が、生み出しているのである。しかしながら、世間には、愛を崇高なものと見る風潮がある。映画やテレビドラマでも、愛が題材として描かれることが多い。それは、愛するもののために自らを犠牲にするからである。恋愛は愛する人のために、家族愛は愛する家族のために、愛国心は愛する国のために、母性愛は愛する子のために自らを犠牲にするのである。イスラム教、キリスト教、仏教という宗教でも、愛に対する考え方は異なるが、いずれも愛が絡んでいる。イスラム教は、愛を説かないが、神に対する愛が基本である。キリスト教は、神に対する愛と人間に対する愛(隣人愛)を説く。仏教は、愛を煩悩だとして否定するが、教祖に対する愛、信者同士の愛がある。信者同士の愛といっても、イスラム教、キリスト教、仏教ともに、同一宗教というだけでは、愛は成立しがたく、同一宗派になって、初めて強い愛が生まれる。だから、イスラム教徒は、他の宗教の信者を殺戮するだけで無く、スンニー派とシーア派同士でも殺し合っている。キリスト教徒も、かつて、他の宗教を軽蔑するだけで無く、幾度となく、カソリックとプロテスタントの間で激しい戦争があった。日本の仏教でも、かつて、宗派同士の激しい戦闘があった。だから、愛とは、愛する人のために、愛する家族のために、愛する国のために、愛する子のために、愛する神のために、愛する教祖・信者のために存在するだけであり、普遍的な人類愛に繋がらないのである。愛する人がいる人は憎む人が存在し、愛する家族がいる人は他の家族を憎み、愛する国がある人は他の国を憎み、愛する子がいる人は他の家族の子を憎み、愛する神がいる人は他の宗教・他の宗派の神を憎み、愛する教祖・信者がいる人は他の宗派の教祖・信者を憎むのである。だから、決して、愛とは崇高なものではないのである。愛とは、愛の対象者だけが、利益を受ける仕組みである。しかし、愛の対象者が、愛を受けることを拒むと、ストーカーの被害者になったり、家庭内虐待の被害者になることもある。それは、愛とは、愛の対象者への愛と見せかけながら、真実は、自我愛だからである。言い換えれば、人間は自分しか愛せないのである。人間は、自我、そして、自我を保証する構造体しか愛せないのである。それは、欲動にの第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望、そして、自我を存続・発展させるために、構造体を存続・発展させたいという欲望から来ているのである。すなわち、自我の保身化の欲望から来ているのである。だから、カップルという構造体を破壊した恋人に対して、ストーカーとなって復讐するのである。家族という構造体で、自分を父として尊敬しない息子・娘に対して、虐待するのである。だから、愛は崇高な感情では無い。愛するものために自らを犠牲にするという行為も、愛する構造体が傷付けられ・破壊されるのを見るのが辛いからである。愛する構造体が傷付けられ・破壊されることは、自我が傷付けられ・破壊されることを意味するからである。確かに、自分の命が失われることを省みずに、我が子を救うために、燃え盛る家の中に飛び込んでいく母親は偉大である。母性愛の為せる業である。しかし、どの母親も、我が子がいじめ自殺事件の加害者になると、自殺の原因を、被害者自身の性格・被害者の家族の問題に求めるのである。これも、また、母性愛の為せる業である。しかし、自我にこだわり、構造体にこだわり、愛や憎しみを生み出すのは、深層心理の為せる業であり、表層心理の所為ではない。人間は、表層心理で(意識して、自ら意志して)、愛も憎しみも生み出せず、もちろん、自我愛も構造体愛も生み出せないからである。深層心理が(人間の無意識のままに)、愛も憎しみも、もちろん、自我愛も構造体愛も生み出しているからである。これが、深層心理が生み出した自我の欲望である。だから、愛する構造体を傷付け・破壊した者に対する復讐の行為も愛する者のために自らを犠牲にするという行為も、(深層心理が生み出した)自我の欲望から発しているのである。確かに、表層心理は、自我の欲望を生み出していないから、復讐の行為も犠牲の行為も自らの意志ではない。しかし、深層心理も表層心理も同じ肉体に宿り、同じ心の中にある。だから、表層心理は、深層心理の欲望の思いが強くてそこから発する行為が過激な場合は、必ず、意識するはずである。そして、その過激な行為が行われた後のことを考慮し、自らの肉体を抑圧し、その行為を行わないようにしなければならないのである。「子供は正直だ」とよく言われるが、それは、子供は自我の欲望に正直に行動するということである。それが許されるのは、子供の思考力や力が乏しいから、自我の欲望に正直に行動しても、大した被害をもたらさないからである。しかし、大人が自我の欲望に正直になると、どうなるか。2005年4月、中国人が、日本の自民党小泉政権の歴史教科書問題や国連安保常任国問題に端を発して、暴徒化し、「愛国無罪」の掛け声の下で、日系スーパーなどが襲撃した。日本人が日本の都合の良いように近代の中国侵略を糊塗するのも、中国人が日系スーパーを襲撃したのも、両者とも、愛国心という自我の欲望に正直だったからである。そして、自国に対する愛国心が強ければ強いだけ、他国に対する憎しみを増長するのである。日本人は、戦前、戦中、ナチス以上に、中国、朝鮮において、残虐なことを行ったのである。大日本帝国の軍人たちは、中国を侵略し、十五年戦争(1931年~1945年)において、侵略した村々において、全食糧を奪い、抵抗した男性は試し斬り、若しくは、軍用犬に食わせ、女性は六歳の幼児から七十歳以上の老女まで全てレイプし、妊婦を殺して胎児を取り出し、無抵抗になった村人を赤ん坊や幼児や老人を含めて一カ所に集めて、銃で皆殺しにしてきたのである。この世で考えられる残虐な行為を、大日本帝国の軍人たち、いや、日本人が中国において行ってきたのである。その残虐ぶりは南京事件が有名であるが、南京事件は氷山の一角である。全ての村々において、南京事件と同様に、いや、それ以上に、残虐な殺戮を行ったのである。日本は、朝鮮を植民地として統治してきた期間(1910年~1945年)、朝鮮を日本に同化させようとし、食糧・原料供給地とし、一切の言論・集会・結社の自由を奪い、農民に飢餓輸出を強い、創氏改名させ、労働者として日本に強制連行し、若い女性を慰安婦にし、21万の青年を戦場に送っているのである。人間の欲望とは、こういうものである。この時代だけが、大日本帝国の軍人・日本人に、異常な欲望が湧いてきたのではない。いつの時代でも、人間には、異常な欲望が湧いてくる。しかし、この時代だけが、異常な欲望を持った大日本帝国軍人・日本人の行為を、大日本帝国軍人・日本人の他者が非難しなかったり、止めなかったりしなかったのである。なぜならば、この時代において、ほとんどの大日本帝国軍人・日本人が、異常な欲望を持っていたからである。さらに、戦争末期になり、戦況の不利を悟り、戦闘機・戦艦・武器などが少なくなると、若い兵士や学徒出陣の学生・生徒たちに強要し、「自分も後に続くから。」と言って、六千人以上を特攻という苦悶の死を与えたが、ほとんどの上官は後に続かなかった。そして、戦後、彼らは、特攻の責任を、自決した大西瀧次郎海軍中将などに押しつけ、「特攻を希望した若者たちは立派だった。彼らの名誉ある死があるから、現在の日本の繁栄があるのだ。」と言って、自らの責任を回避した。だから、大西瀧次郎は、責任を取って、自決したのである。特攻によって命を散らされた若者が生きていたならば、日本は現在もっと繁栄しているだろう。彼らは、行動が詐欺師であるばかりでなく、言動まで詐欺師である。特攻のほとんどは、希望ではなく、軍部の上官による強要である。軍部の上官たちは、欲動の第一の欲望である自らの保身のために、若者たちを犠牲にし、若者たちは、欲動のの第二の欲望である自我の対他化のために、すなわち、臆病者だと言われたくないために、特攻死したのである。現代においても、愛国心が日本と中国が尖閣諸島という無人の島々の領有権を、日本と韓国が竹島という無人島の領有権を戦争も辞さない態度で臨んでいるのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。無人島の尖閣諸島や竹島を巡る攻防など、まるで子供の喧嘩である。また、従軍慰安婦も問題になっているが、従軍慰安婦は、軍隊が直接に関与したかどうかが問題ではない。日本が、朝鮮半島を占領し、そこの住民が日本軍の慰安婦として行ったことが問題なのである。些事に拘泥せず、きちんと、謝罪すべきである。南京大虐殺も、殺された人数が問題ではない。無抵抗の民間人がレイプされ、虐殺されているのは事実なのだから、きちんと、謝罪すべきなのである。特に、中国においては、ハルビンで、731部隊が、中国人・ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って、三千人以上の人体実験を行っていたのも事実であるから、言い訳は許されないのである。さて、日本の安倍政府が、韓国に対して、徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制したのも、韓国民が、日本製品の不買運動を起こしたのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない限り、このような子供じみた正直さが行動となって現れるのである。日本でも、韓国でも、中国でも、愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない人が多数を占めるようになったのである。それは、アメリカも、ロシアも、ヨーロッパも、同じ傾向にあるのである。このまま、各国民が愛国心という自我の欲望に正直に突き進めば、第三次世界大戦になるだろう。そして、最後には、核戦争になるから、人類は、必ず、滅びるだろう。核抑止力という言葉があるが、深層心理から湧き上がる憎しみが強ければ、核を使うことをを厭わないのである。